大手マスコミの「演出」による
著作者バッシングが増長し過ぎの感があるので
ここで著作者と版元の友人として、もう少し踏み込んで(あえて感情的に)意見を述べる。
第一に、実際に本を読まないで批判していると思しき者が少なくない。
映画でいえば、一昨年に話題を集めた
中国人ドキュメンタリー監督の「靖国-YASUKUNI-」の現象と似ている。
あのときも、是非を表明している者の多くが「実はまだ観てないのだが」と平然といってのけていた。
「読む気すらない」のは勝手だが、それでいて邪推で文句をつけているなら
批判ではなく野次かヒステリーかだ。
私は子の親でもあるから、
死刑制度廃止という観点とは別次元に、福田は死刑でも当然だという立場だ。
それは現在の日本での極刑が死刑であるからで
生き地獄を死ぬまで科する終身刑がないからだ。
それでも、私は同著の読後に
実名であることのスキャンダリズムや不必要性を感じなかった。
友人だからという理由ではない。
私などは友人であるほど偽善には厳しいほうだ。
「仮名でも書けたはずだ」という批判や指摘は
物書きとして、まったく的外れな見解である。
正しくは「自分が書くなら仮名にした」というだけのことで
それぞれの物書きは、それぞれのテーマや理念をもって書いているわけで
仮にもプロの文筆家が「仮名でも書けた」というなら、自分が同じテーマを著し反証すべきである。
もうひとついえば、「仮名でも書けたはず」派や「書く力」派の御仁の論は、
逆説的に「本当はできれば実名で書きたいけれども、誰もが直球ではない勝負をしているのに
おまえは、平然と直球なのかよ」という本音を反映させている。
どこのジャーナリストに「実名で書かないことが本懐だ」というやつがいるんだよ?
そんなやつがいるなら、ジャーナリストではなく、それこそフィクション作家か、売文家だ。
「事実」をそのまま書くということは
単純に思われながら、最も覚悟のいることで、増田美智子にも覚悟がある。
それを自身ではできない者たちが、年若い女がデビュー作として書いた本を
必死で村八分にしようとしているとしか思えない・・・というより、そうだろうがよ?
また本件をして「売名行為」だの「商業目的」だのというのも
見当違いである。
このようなアホな「批判」をする連中は、仮に増田がペンネームを使っていたら
「責任を回避するため筆名を使っている」などと言うのだ。
商業主義と生活権では意味が違う。
ルポライターだろうがドキュメンタリー作家であろうが、
それを職業化することは職業選択の自由で、
また、職種の如何を問わず成果に対する対価が生じることなど常識だ。
題名にも実名を表したことが売文目的というのは
作家のスタンスそれ自体を否定するものだ。
だいたい、裁判ってもの自体、すべて「カネ」で解決するってことなんだから
事実の評価や紛争が無償なわけがないだろうが。
わからない人は「懲役」という意味を調べてね。
先頃の酒井法子の逮捕劇を報じたメディアが、
公益性のために番組を組んだと思うのか?
視聴率が取れない題材は、どれほど社会性や公益性がある問題でも
簡単にはテレビ番組にはならない。
私自身、昔は報道番組の企画にも関わったので断言するが
テレビ局は「意義はわかったけど、数字は取れないよな」としか反応しない。
本件の著者を売名ライターというならば
世のほとんどすべての「メディア」とやらが商業目的ということになる・・・実際、そうだし。
独立資本の出版と違って、放送キー局は、スポンサーがつくから番組ができる。
画面に出ている司会者やコメンテーターも報酬を得ている。
光市母子殺害事件の報道番組で、無報酬の番組があったなら教えて欲しいね。
著者・増田美智子がおとなしそうな女性のフリーランス作家だから
好き放題に「批判めいたバッシング」をする風潮は、いかにも日本的なメンタリティだ。
特にメディアやプロたる作家たちは、本当は「叩きたい」だけだ。
自分が不安になるからな。
それら作家だの有識者だのが叩くわりには
本が売れている事実が、庶民感情を代弁している。
たとえば、グルメ評論家が「不味いよ」と採点した店には客は来ない。
大衆が訴求するものを書いて批判されるなら、プロの作家は売れてはいけないことになるな。
ついでに疑問があるのだが、
これまで誰か、犠牲者(私は被害者という言葉を使わない)や遺族の本村さんについて
仮名にすべきだと主張したかね?
それは当然だとでも言う気か?なんで?
法的には付言するまでもなく、道義的にも常識的にも
いったいどっちの「不利益」だった出来事だと思っているのか。
そのうえで増田は「福田君に死んで欲しくない」という立場で本を書いている。
私は間違っても死んで欲しくはないと思わないから、
本来なら同著を批判的に読む態度である。
それでも、本を読めば増田の「愚直」な試みは評価に値する。
圧巻は、犠牲者遺族たる本村さんの言葉を得ているところだ。
増田が「一方の当事者である本村さんのお話を聞かずには書けません」というインタビューの申し込みに
本村さんも直球を返す・・・「一方の当事者ではなく、当事者とはこちらのことなのだ」と。
これは、当該事件で誰も聞き出すことができなかった
まさに真実の叫びだ。
本村さんは増田の取材要請を断るのだが、実際には断る理由の中で
本音を語っている・・・しかも、電話で。
やや、オカルト的にいえば、電話で初めての相手に本音を語るなどというのは
本村さんが、増田に対して、
なにかしら「偽りがない」気配のようなものを感じ取ったからではないのか。
私は増田本人にも本の感想を送った。
確かに、作家としての筆力はまだ拙い。
実名うんぬん以前に表題も単純すぎるし(そのわりに「陥穽(かんせい)」なんて難しい言葉を使う。おれも読めなかったよ。落とし穴とかって意味なんだよな)。
だが、判例、慣例、前例に準じることで「職業物書き」でいようとするやつらよりも
根性は感じた。
「カネ」は、おまえらのほうじゃねえのか?