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(無題)

 投稿者:疑問  投稿日:2009年 9月19日(土)23時14分24秒
返信・引用
  キリスト者が政治問題を考えて何が問題なのか?
社会で起きている問題を無視して信仰が成り立つというのか?
 

hi

 投稿者:彦左衛門  投稿日:2009年 9月19日(土)22時26分54秒
返信・引用
  僕は嘗て若い頃、社会主義者だった。頭でっかち、観念だけの夢想だったんだが。しかし真剣だったことは確か。

 それは戦後でなくて、戦時中のことだ、そしてマルクス、エンゲルス、レーニン、のものは手に入る限りみな読んでいて、また右翼社会主義のナチの、例えばローゼンベルクの『二十世紀の神話』だとか、そうそう、『わが闘争』まで目を通していた。

 僕は頭は悪いが、今から考えて政治的には極めて早熟だったことは確か。そして、満州帝国成立までは、ロシヤ、ソ連のアジア侵略、南下政策に対抗する必要上、日露戦争以後の経緯もあり、日本国家のシナ大陸での一定のヘゲモニーは容認せざるを得ないと考えていた。

 しかし、昭和12年(1937年)、盧溝橋事変以後の日本軍による、シナ本土での軍事行動は、大義なき、侵略以外の何物でもなく、既に泥沼化していた戦争の解決は、即時、無条件、全面撤退以外にありえないと思っていた。

 (そしてこの全面撤退以後の、兵、労、農合作による社会主義的革命が日本の新しい未来となると考えていた。全くの空想だったことは確かだが。)


 しかし全面撤退そのものは、戦後のベトナム戦争、アルジェリア紛争、そしてソ連のアフガン介入などで、実証された解決だったことを思えば、僅か17歳の少年の考えていたことしては実際今でも驚いている。

 昭和16年(1941年)に始まった日米間の戦争は、当時社会主義者の僕にとっては、シナ市場をめぐる日米資本主義の帝国主義的相克、衝突以外のものではなかった。

 しかし社会主義であると同時に民族主義でもあった僕は、アメリカか日本かという選択では、この戦争で日本のために闘って兵士として死ぬことがあっても仕方ないと考えていた。

 しかしもしシナ大陸へ、兵隊として引っ張られたら、機を見て脱走、
蒋介石軍か、共産軍に投降、それ以後はシナ事変解決のための情報作戦に従事する積りだった。これも空想ではあったが。

 いずれにせよ、こういう政治的イデオロギーと、その実践では、人間の真の実存的問題は解決せず、自分と、自分にとって大切な人々の救いと幸福は実現すべくもないという、新しい自覚が、戦後僕をカトリックに向かわしめたのだ。

 ところが、現在、わが日本のカトリック聖職の多くは、逆の方向を追い求めている。彼らには、政治がよくなければ、人間の救いもへったくれもないのだ。そして、本来の使命を離れ、多かれ少なかれ危うい政治的言動に狂奔している。

 僕はそれが教会を駄目にする悪魔の姦計が奏効している状況としか思えない。
 

9月23日の東京カテドラル

 投稿者:サボテン  投稿日:2009年 9月19日(土)18時41分36秒
返信・引用 編集済
   カテドラルに入りきれないくらいの人数のカトリック信者以外の人が、聖堂に押し寄せるのでしょうか?

 大会前後、大聖堂の静寂な雰囲気は維持できるのでしょうか?

 大連休で東京旅行に来られたカトリック信者が聖堂に立ち寄り、そっと聖体訪問したいと思っても、入れていただけるのでしょうか?

 聖公会本部の意向は、できるだけ大勢の人を聖堂内に入れたいとのことですが、主祭壇左脇、聖櫃周辺での不敬行為は絶対ないと言えるでしょうか?

http://www.nskk.org/province/
【礼拝時の、会衆席の改善策を練っています。別室にモニターを設けることになりましたが、出来るだけ同じ空間で共にお祈りを捧げたいとも考えています。】

 彦左衛門さん、日本聖公会東京教区にも「正義と平和協議会」という、全く同じ名称の組織が存在するようですね。なんだか、気持ち悪いくらい奇妙な一致です。

http://www.nskk.org/tokyo/event/2009/0711-2/0711-2.htm

 その組織の主催イヴェントで、2009年7月11日、OFM司祭本田哲郎神父様が講演なさったようです。
 

大連休

 投稿者:彦左衛門  投稿日:2009年 9月19日(土)14時58分4秒
返信・引用
    秋です。そして大連休。しかし彦左衛門、どこににも出かけず、家でのんびり。

  そして川柳三句。

  9条を守り抜いたが国亡び

  イエスより9条お好きの正平狂

  9条護持北さんカトに感謝状


  サボテンさん、聖公会の本部のサイトを見て、驚きました。彼らの政治的偏向と逸脱、正平協とそっくり。いやそれ以上。なるほどそれなら、わがカトリックの指導層、聖公会に同調、無原則なエキュメニズムに雪崩れ込んいる理由も分ろうと言うものですね。

 彼らはカトリックの独自性を遠の昔に放棄、時代の風潮の中でも、もっとも無責任なものに身を任し、それに同調していながら、それでいて預言者的使命の遂行だなどと、踏ん反り返っているのです。

 悪魔の姦計は着々として奏効しているという感じです。

 カトリックが時代に迎合し、その頑なな独自性を安売りし、放棄してしまえば、地の塩として効き目を失い、捨てられ、踏まれてしまうということがわかっていない。
 

聖公会2009.9.23.の宣教150周年記念礼拝は東京・香蘭女学校で行われる予定だというポスター(2008.9.)

 投稿者:サボテン  投稿日:2009年 9月18日(金)21時36分51秒
返信・引用 編集済
   日本聖公会のHPでは、間近に迫る東京カテドラルでの記念礼拝では多数の方が参列されるので、別室でモニターを使用する予定だと書かれています。
http://www.nskk.org/province/

【礼拝時の会衆席の改善策を練っています。別室にモニターを設けることになりましたが、出来るだけ同じ空間で共にお祈りを捧げたいとも考えています。】

 自分の教会でも撮影機器やマイク設備でガタガタするのは聖堂にはふさわしくないと感じますが、一体他教派の大聖堂にそのような機器を持ちこもうとされる神経が私には理解できません。

 この点は、東京大司教様に心からご同情申し上げます。私が聖公会の礼拝のために御奉仕した時もそうですが、彼らはカトリック教会の聖堂を借りることができると分かった後で、さまざまな要求を持ち出され、私が何回も何時間も準備のために教会に呼び出されたのは、彼らの付加的なお願いに誠心誠意お応えしたためでした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 それから、このようなポスターも同じHPにありました。
http://www.nskk.org/province//others/150th_0809.pdf

 <ちょうど1年前、2008年9月の記事です。>以下引用

● 宣教150周年はいつですか?
  2009年、来年です。

● 記念礼拝はいつ行われるのですか?
  2009年9月23日(水・秋分の日)に
  東京・香蘭女学校で行われます。

● 募金目標額はいくらですか?
   1,000万円です。

●募金は主に何に使われるのですか?
 遠隔地からの参加者交通費補助、
  海外からの来賓招待費用、
  日本聖公会150年小冊子刊行費用などなどに用いられます。

<補足>
1000万円募金はすでに達成されたそうです。これもHPにありました。
http://nskkiinkai.blog116.fc2.com/blog-entry-88.html

実行委員会は、当初は東京カテドラルではなくて、
東京・香蘭女学校を考えられていたことになります。

これなら、まっとうですね。
 

ありがたし

 投稿者:彦左衛門  投稿日:2009年 9月18日(金)09時00分3秒
返信・引用
  よはね さん、

 ご了解くださって、ありがたし。
 

(無題)

 投稿者:よはね  投稿日:2009年 9月18日(金)03時01分1秒
返信・引用
  彦左衛門さま

OKです。(もちろん)
 

 よはね さんへ

 投稿者:彦左衛門  投稿日:2009年 9月18日(金)00時34分33秒
返信・引用
   彦左衛門です。

 よはね さん、9月13日の貴投稿、 貴重なご意見だと思いますので、他のブログ、掲示板などで引用したいと思っています。差し支えないと存じていますが。
 

Star Blazerさん。そして、Star Fishさん。

 投稿者:解説委員A  投稿日:2009年 9月18日(金)00時14分7秒
返信・引用 編集済
  > No.3892[元記事へ]

Star Blazerさん。そして、Star Fishさん。

あなた方が言及しているヨゼフ・ジェンマさんの発言とは何を指すのか、
ここで事実確認をしておきましょう。
それは、次のページにある「聖ジェンマなんか、その所有するところの
手に持つ十字架についてさえ(ほんの小さな物だよ)、それに執着して
いると言って主に咎められてやんの」という箇所ですか?
http://gokyo.ganriki.net/diary2009/d-2009-08-23.html

そうなのだろうと思いますが、私は思います、あなた方は日本人なのだろうか、と。
日本語を理解する日本人なのか、と。
日本人なら、文章の全体を読む、ということができる筈です。

文章の全体を読むなら、この部分は、聖人にまつわる事柄への言及としては、
その「言い方」が多少軽々しいところがあるとしても、しかし本来の固有の
「意味」としては、決して「聖ジェンマその人」を「嘲弄(悪口)」する表現
ではないと思います。彼は「執着」ということに関して天主様が人間にお求めに
なるところの御要求の厳しさを嘆いている(愚痴っている?)のでしょう。
それは聖人のことをちょっとした話の種にしながらも、彼がそこに見ているだろう
「天主様の厳しさ」という事柄に向かっているのでしょう。「人」に向かって
いるのはなく「事柄」に。
もしあえて「人(人格的存在)」に向かっているものとして読んだ場合でも、
それは「聖ジェンマ」に向かっているのではなく「天主」に向かっている
と読むのがむしろ自然であるでしょう。つまり、下手をすれば天主様に対して
「もんく」か「泣き言」かを-----「厳し過ぎます、天主様(泣)」と-----
言いかねないような、そのような方向を持ったものとして。

しかし、私は思います、日本人に対して本当にこのような説明・解説が必要ですか?
 

岡田師へのメール

 投稿者:彦左衛門  投稿日:2009年 9月17日(木)23時28分29秒
返信・引用
   皆様、彦左衛門次のようなメールを私信として岡田師へ送りました。

 ............

  東京大司教

  岡田師へ。

  主の平安

 あきる野の彦左衛門です。

 漸く残暑も過ぎ、お元気にて聖務にご精進のことと拝察いたします。

 さて来る23日、聖公会宣教150年祝祭のために、東京カテドラルが丸ごと貸し出されるという報せを受けて、信徒の間には、疑問と当惑と、批判と憂慮と、牧者たる人々への不信と、怒りさえ広がっています。

 どうか、貴師においても、この深刻な状況を充分お考えの上、牧者としてのご自分の責任に思いを致していただきたいと存じます。

 以下は、某掲示板に投稿された、批判、憂慮の一つです。どうか真剣にお読みください。

 なおこの後も幾つか信徒の意見をお届けします。

   In   communione precum.
,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,

  聖堂を貸す事を認めている文書があるということですが、世界中の様々な状況を想定して、本当にそうせざるを得ない状況が生じた時は、やむを得ないということではないのでしょうか?

 司祭不在の集会祭儀においても、カトリック教会はカトリック信者で叙階の秘跡を受けていない者を、主の祭壇前に長時間立たせることを許しません。カトリック教会の叙階を受けている人にしか許されないことを、改宗式すら済ませていない人たちに積極的に奨励するとは、考えられません。

 たとえば、戦争で多くの聖堂が壊滅的に破壊された地域で、あるいは外国の広大な範囲にわたって著しく過疎化の進んだ地域で、キリスト教信者のきわめて少ない地域で、そうせざるを得ない状況がある場合と、今回のケースは全く異なります。

(ドイツだったか過疎化の進んだ地域で、一つの聖堂をカトリックと諸教派が時間決めで使用されている例を聞いたことがあります。信者が少ないので、管理費の負担の軽減になるそうです。これは「貸す」こととは違います。共同管理です。相互負担。共同責任。)

 特殊な場合許されるからと言って、聖公会が頼んできたときは必ず貸しださなければならないということはありません。時と場合によって、カトリック信者の信仰のつまずきになると判断すれば、東京大司教が使用許可を出すべきではないでしょう。カテドラルの使用許可を出さない権限が大司教にはあります。

 今回の場合は、聖公会指導者の甘えと、東京大司教の判断の誤りがあると思います。今回のこの状況で、東京大司教は聖公会に貸し出す判断を出すべきではなかったと思います。


 逆に、カトリック教会が聖公会の聖堂を丸ごと貸してもらったことはあるのでしょうか?

 エキュメニカルな礼拝ではなく、カトリック教会の典礼そのものを行うために、たとえば立教女学院のマーガレット礼拝堂を借りたことがあるのでしょうか?

 聖公会の方には、私たちの気持ちは理解できないかもしれません。無理もありません。彼らはカトリック要理を認められないのですから。ただ、本当にお互いが良い交流をしようと思うのであれば、カトリックの聖域に侵入することは、謙虚に控えていただきたいと思います。東京大司教に抗議するより、聖公会の指導者に私たちの気持ちを伝えるほうが、ストレートに伝わるかもしれませんね。

 おそらく、「どうぞ、どうぞ」なのでしょう。ご自由にお使いください、と。

 こういう前例があると、地方で同じことを考える聖公会指導者が現れることが心配です。彼らは直接小教区に貸し出しを依頼しません。カトリックの組織を熟知していますから、教区司教の許可を得てから依頼してきます。断われないような形で依頼してきます。一度貸し出すと分かりますが、振り回されるのは私たちです。東京カテドラルにはシスターもおられ、信者の負担は少ないかもしれません。しかし、地方では信者が対応に追われます。準備のために何日何時間かり出されたか、当日も、また後始末…。借りるほうにはこちらの犠牲は分からないでしょう。

 私たちは誠意をつくして聖公会のために御奉仕しました。これだけは胸を張って申し上げられます。
 

痛嘆に耐えないこと

 投稿者:彦左衛門  投稿日:2009年 9月17日(木)23時11分49秒
返信・引用 編集済
   マリア大聖堂貸し出しを決めた東京大司教岡田師、人間としては信仰、人格共に立派な事を疑うものではありませんが、残念ながら、他の司教さんともども日本教会を侵している病理から、免れていないのです。痛嘆に耐えません。

 エキュメニズムの価値を、カトトリックの独自性の上に置く思考様式。これエーズのようなものです。
 

Star Blazerさんへ

 投稿者:Star Fish  投稿日:2009年 9月17日(木)21時55分25秒
返信・引用
  たしかにヨゼフ・ジェンマ氏が自分の霊名の由来の悪口を書いていることは、よくありません。このことは反省すべきでしょう。

ですが、わたしは彼やサボテンさんの聖公会の記念礼拝についての抗議は正しいと思います。このことまでなぜ欺瞞だというのかが分りません。あなたは、抗議すべきだとは思わ
ないのですか。

わたしは、これは日本のカトリック教会の危機であり、抗議しなければならないことだと
思います。ぜひ、あなたも参加してくださるようお願い申し上げます。
 

サボテンさん

 投稿者:Star Blazer  投稿日:2009年 9月17日(木)18時10分24秒
返信・引用
  あなたが持ち上げてやまないJGさんは、先日自分の日記で、自分の霊名の由来である聖ジェンマを嘲弄していました。これこそ汚聖でなくて何ですか。いったいどんな聖伝が、自分の霊名の聖人を嘲弄してよいなどと教えているのですか。サボテンさん答えて下さい。JGさんやサボテンさんの姿勢は欺瞞的だし、あなたたちに伝統擁護を口にする資格はありません。  

聖公会の宗教儀式のためにカテドラルを貸し出すこと

 投稿者:サボテン  投稿日:2009年 9月17日(木)17時48分0秒
返信・引用 編集済
   先日、東京教区の何人かの信者さんに出会ったのですが、そのような貸し出しをされることをご存じなかったです。驚かれていました。そのうちの一人は関口教会の方です。

 既成事実を作って、翌週のカトリック新聞に、堂々とのせるのでしょうね。いつものパターン。そして、そういうことが、いつの間にか、知らず知らずのうちに、当たり前のことのように慣らされてしまうのです。おそろしいことです。
 

ご寛恕を請う

 投稿者:彦左衛門  投稿日:2009年 9月17日(木)17時04分27秒
返信・引用
    来る23日、東京教区大聖堂が聖公会の祝典に丸ごと貸し出されることになっています。

 彦左衛門この暴挙に対し、自ら抗議行動にでる旨、過日このBBSで決意表明をしました。
 しかし近日腰痛を発し、長時間の外出が困難になってしまいましたので、残念ながら、
今回抗議行動を見送らざるを得なくなった事、お詫びかたがた、此処にお報せ申します。

  請うご寛恕。
 

J.G.さん作製の画像

 投稿者:サボテン  投稿日:2009年 9月14日(月)08時43分52秒
返信・引用 編集済
   私も、あははと笑いつつ、けだし絶佳と拍手を送っていました。

 最初に発見した時には、カテドラルに仲良く二人で入って行こうとする後ろ姿の背広の男性像がありましたね。そして英語が、God bless our  love.(ごめんなさい、不確かな記憶で…)あのままでもよかったのに…。タイトルも、強調されるべきところは、赤色だったかな?

 決して下品な表現ではなかったですよ。

 実際、そのようなことが水面下で着々とすすめられようとしているのですし…。
 

Re: キューポラ 投稿者:藤波 さん

 投稿者:彦左衛門  投稿日:2009年 9月13日(日)20時41分41秒
返信・引用
  さとしさん、

 情報ありがたし、しかしJGさんの言うて居られる『聖マリア大汚聖堂』なる発言、必ずしも誇張ではないと彦は考えます。

 カトリックの聖堂は、単なる集会所、公会堂ではありません。そこは、主イエス・キリストが、時空を超えて臨在されている聖なる場です。

 それをエキュメニズムのためとはいえ、主の臨在を認めない他宗派の集会に丸ごと貸し出すのは、許されません。それは汚聖ではないでしょうか。
 

Re: キューポラ 投稿者:藤波 さん

 投稿者:さとし  投稿日:2009年 9月13日(日)18時07分58秒
返信・引用 編集済
  > No.3886[元記事へ]

彦左衛門さんへのお返事です。

> > お前はJGだろ(笑)
>
> 彦左衛門:JG て何ですか?


ヨゼフ・ジェンマ氏のことですよ。

ヨゼフ・ジェンマ氏といえば、
最近またこんな馬鹿な画像をアップしています(^_^;;

「東京カテドラルは『聖マリア大汚聖堂』になるのか」
http://gokyo.ganriki.net/diary2009/d-2009-09-12.html
 

Re:キューポラ 投稿者:藤波 さん

 投稿者:彦左衛門  投稿日:2009年 9月13日(日)13時10分7秒
返信・引用
  > お前はJGだろ(笑)

彦左衛門:JG て何ですか?
 

Re: >キューポラ

 投稿者:コロ  投稿日:2009年 9月13日(日)13時02分6秒
返信・引用
  > No.3883[元記事へ]

藤波さんへのお返事です。

> お前はJGだろ(笑)

それは言わない(暗黙の)約束では(^-^;
 

Re 聖職者の政治活動について

 投稿者:彦左衛門  投稿日:2009年 9月13日(日)06時54分42秒
返信・引用
    よはねさんのおっしゃってっていることに全面的に同感、賛成!  

>キューポラ

 投稿者:藤波  投稿日:2009年 9月13日(日)03時42分27秒
返信・引用
  お前はJGだろ(笑)  

聖職者の政治活動について

 投稿者:よはね  投稿日:2009年 9月13日(日)03時39分59秒
返信・引用
  ある司祭に教えてもらったのは、おおよそ次のような考え方でした。
「聖職者が政治に関して関与できるのは、政治が、我々の倫理に関して
大きな問題を含む場合である。
それ以外の場合には司祭は(少なくともカトリックは)、政治には関与しない。
なぜなら、より良い政治を行うための方法は、複数ある可能性があり、
それを宗教の立場でどれが良いか、悪いかを判断することは適当ではないからである。
信者どうしであっても、考え方が異なることは十分あるはずである。」

以上の考え方に基づけば、「司祭は政治に口出しするな」という言い方はできない
と思います。我々にとって、宗教的に大きな意味がある課題については、司祭の意見も
いってもらいたいと思います。

 しかし、例えば憲法9条を変えるか変えないか等の問題は、宗教的な倫理に
関係することではありませんし、信者として自由に議論してもよいはずです。
 そのような、どのような方法がよいのか議論がわかれる課題について、
司祭が発言して、片一方の意見を押さえ込むようなことは、司牧する司祭に
とって、適切ではないと考えます。
 

Re: まっちさんのメッセージ

 投稿者:キューポラ  投稿日:2009年 9月12日(土)19時22分39秒
返信・引用
  > No.3880[元記事へ]

まっちさんへのお返事です。

まっちさん。

>それは、政治大会や社会正義の高尚なスローガンをとなえる事に比べたら、
>地道な「草の根運動」かもしれません。

しかし、そう言われれば彼らは、「別に高尚かどうかではない」と言うでしょう。

また、こう言うでしょう。
「草の根? いや、私達のやっていることこそ、それではないか。
私達は民衆と親しく話し、民衆と共に街頭に立ち、プラカードを掲げ、
ある者は労働者の街に自ら身を投じ、またある者はホームレスの人々のための
炊き出しに自ら身をもって協力などしている。
しかもそれは決して『上から目線』でなくである。『助けている』などといった
『自分』の残った視点は一切排除しながらである」と。

確かに「高尚かどうか」ではないのだと思います。
テツガクの問題、世界の捉え方の問題なのだと思います。
しかし、まさにそれが、カトリック司祭としての彼らにおいて崩れてしまっている。
それが問題なのだと思います。

>しかし、私はイエス・キリストもマザー・テレサも、その地道な
>「草の根運動」の大切さの模範を示されたのだと思います。
>彼らは人を、集団・組織というくくりではなく、あくまで人を
>個人として接し尊重されたのだと思います。

しかし、考えてもみて下さい。教会に固有の霊的な救いの問題でさえ、
今や「個人としての救われ」よりも圧倒的に「共同体としての救われ」の時代なのです。
まして、地上的な事柄においておや、であります。

一言で言って、「信仰」が崩れているのですよ。


(それから、おっしゃりたいことはわかりますが、それでも、「草の根」っていう
言葉はどうかと思います。
それはもともと社会主義的な運動の世界から出て来た言葉ではないですか?
いや、おっしゃりたいことはわかるけれども・・・)
 

Re: まっちさんのメッセージ

 投稿者:まっち  投稿日:2009年 9月12日(土)15時47分41秒
返信・引用
  > No.3879[元記事へ]

異邦人ヨハネさんへのお返事です。

> まっちさんのメッセージを次のように理解しましたが、
> 間違っていますか?
>
> カトリックの聖職者の第一の務めは信者の司牧です。
> 第二は、カトリックに導かれてきた人の受け入れです(教理を教えるなど)。
> 第三は、一般社会にカトリックの精神を広めることと弱者の支援です。
> このどれも地味な活動ですが、神の目から価値のあることです。
>
> 政治活動は、カトリックの聖職者の仕事ではありません。

はい、その通りです。(言葉足らずですいません。文才が無いもので・・・)
たとえば、神父さんが一日8時間働くとします。
その神父さんが4時間、政治活動などをするとします。
そうなると、異邦人ヨハネさんがおっしゃるように、聖職者本来の仕事がおろそかになってしまいます。それは当然の事だと思います。
もしも、その政治活動に要する時間や精神力を、教会の本来の役割のために使えば、多くの信徒さんや新しく来られた方が助かりますし、教会内の問題解決もできると思います。
それは、政治大会や社会正義の高尚なスローガンをとなえる事に比べたら、地道な「草の根運動」かもしれません。
しかし、私はイエス・キリストもマザー・テレサも、その地道な「草の根運動」の大切さの模範を示されたのだと思います。彼らは人を、集団・組織というくくりではなく、あくまで人を個人として接し尊重されたのだと思います。
個々人の人格を尊重し、悩み・苦しみを理解し共感して助けようと祈り努力すると・・・それは一見地味ですが、もっとも神の御心にかなった良い実を結び、成功することだと思っています。
 

まっちさんのメッセージ

 投稿者:異邦人ヨハネ  投稿日:2009年 9月12日(土)12時18分4秒
返信・引用
  まっちさんのメッセージを次のように理解しましたが、
間違っていますか?

カトリックの聖職者の第一の務めは信者の司牧です。
第二は、カトリックに導かれてきた人の受け入れです(教理を教えるなど)。
第三は、一般社会にカトリックの精神を広めることと弱者の支援です。
このどれも地味な活動ですが、神の目から価値のあることです。

政治活動は、カトリックの聖職者の仕事ではありません。
 

誤解されたらごめんなさい

 投稿者:まっち  投稿日:2009年 9月12日(土)10時06分6秒
返信・引用
  >彦左衛門 さん
ご返答、ありがとうございます。わたしも聖職者が道をそれてしまっているのを悲しみます。

>キューポラ さん
いろいろと批判的なことを書きましたが、誤解しないでいただきたいのは、私はカトリック教会がすべての人にとって安らぎの港のような場所であって欲しいと心から望んでいます。この殺伐とした社会において、教会が愛による助け合いのとりでになって欲しいのです。きっと、神さまもそう望んでおられると思います。
日本では年間、約3万人の自殺者がいます。一日に約80人くらいの人が亡くなっているのです。
今の時代ほど、教会の存在意義を試されている時代は無いと思います。人は愛し愛されることによって生きます。けっして上からの政治や正義によって生かされるのではないのです。
政治や社会問題のことも大切かもしれません。しかし、もっと大切なのは身近な兄弟姉妹である教会員であり、主の教会なのです。また、新しく教会に来られた重荷を背負った人なのです。
 

Re: 彼らの傲慢さを悲しみます

 投稿者:キューポラ  投稿日:2009年 9月12日(土)07時09分7秒
返信・引用
  > No.3875[元記事へ]

まっちさんへのお返事です。

まっちさん。

このようなことを言うと、周りの人から「言葉尻を捕らえるな」と怒られ
そうな気がするけれど、しかし、私達がものを正しく考えるためには、
ある程度は言葉にも注意しなければならないと思うんだ。

>なぜ華やかな(正義による)活動で、自己正当化を求めるのか?

しかし、こう言われれば彼らは、「別に華やかかどうかが問題ではない」と言うだろう。
「自己正当化? いや、私達はそれを芯から信じているんだ。それのみだ」
と答えるだろう。

>また自らの「正義」を確信している人たちは、悲しいことですが、とても傲慢です。

おお、これは彼らに限って言っていることなの?
そうならいいけど、もし一般的に言っているなら、私は違うと思うな。
だって、もしそれが本当なら、「人は謙遜であるためには、自分について、
また真理の認識において、自信のない状態でいなければならない」という
何だか変なことになってしまうもの。

主イエズスは真理について権威をもってお語りになった。
「確信を持って」以上のことだ。

「イエズス様は天主様だから別」と言うのかい? では、使徒は?
彼らは真理に関して「確信を持った言い方」をしなかったか?
確信なげな言い方をしたか? もちろんそうではなかった筈だ。

だから、結論として私があなたに言いたいのは、
「あなたにとって教師となる人は、必ず真理に関し確信を持って話す人だろう」
ということだ。だから、「何だか自信満々ね」という印象だけでは、
誰をも退けないで欲しい、ということだ。
私達には人から「先生」と呼ばれて鼻を高くする人は必要ないが、
しかし必ず正しい「教師」、導き手が必要だからだ。

確信を持って語るが、同時にまったく謙遜な人というのも、居るもんだよ。

わかってるって?
ああ、ならいいんだ。
(ほとんど独り言でした。)
 

Re:彼らの傲慢さを悲しみます

 投稿者:彦左衛門  投稿日:2009年 9月11日(金)19時27分5秒
返信・引用
  まっちさんのおっしゃるとおりですね。左翼・政治・社会活動に、いそしむ神父・信徒は
教会の外で、それをやってもらいたい。

 そして勿論、神父なら、又司教なら、いったん聖職位をバティカンに返上し、一介の市民として政治運動をすべきだ。

 彼らがそうしないで、教会内で、教会の権威を利用、悪用し、畢竟、自分たち個人の意見に過ぎないものをあたかも教会のあるべき立ち場でもあるかのように振舞っていること、まことに許しがたいことだ。

 それもその言動、世界最悪の反人権、教会迫害国家、北朝鮮に連動するものにおいておや。

 世間の言葉では立派な犯罪、そして横領罪だ。

  こういう聖職には、聖職一般に当然払わるべき尊敬は妥当しない。

 彼等敢えて言わせて貰えば、犯罪的なことをしながら、それに気がついていない。それでありながら、自分たちは信徒を指導できると思っているのだから、恐れ入る。

 本来なら、こういう連中は教会から叩き出すべきだ。教会に大害を及ぼしているからだ。

 しかし、彼らに対する懲らしめは、主が遣わす懲罰の天使にお任せしよう。

  我らは、彼等罪人と雖も、なお大切な兄弟であることを思い、彼らの改心、立ち直りを
主に祈ろう。
 

彼らの傲慢さを悲しみます

 投稿者:まっち  投稿日:2009年 9月11日(金)05時55分5秒
返信・引用
  どうして、左翼・政治・社会活動に、いそしむ神父・信徒は、自分の教会に目を向けないのでしょうか?たくさんの、助けを必要としてる人が居ると思います。それは地味で、けっして華やかな活動ではないのかも知れません。
なぜ華やかな(正義による)活動で、自己正当化を求めるのか?
わたしは、華やかな活動を否定する気はありません。
しかし、何が主で、何が従なのか彼らは見失っているような気がします。
わたしの経験ですが、彼らの心は石のように頑固で冷たい。また自らの「正義」を確信している人たちは、悲しいことですが、とても傲慢です。

ルカ 10〜
10 「二人の人が祈りをするため神殿に上りました。一人はパリサイ人,他の一人は収税人でした。 11 パリサイ人は立って,これらのことを自分の中で祈りはじめました。『神よ,わたしは,自分がほかの人々,ゆすり取る者,不義な者,姦淫をする者などのようでなく,またこの収税人のようですらないことを感謝します。 12 わたしは週に二回断食をし,自分が得るすべての物の十分の一を納めています』。 13 一方,収税人は離れたところに立って,目を天のほうに上げようともせず,胸をたたきながら,『神よ,罪人のわたしに慈悲をお示しください』と言いました。 14 あなた方に言いますが,この人は,先の人より義にかなった者であることを示して家に帰って行きました。自分を高める者はみな辱められますが,自分を低くする者は高められるのです」。
 

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