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皆様、彦左衛門次のようなメールを私信として岡田師へ送りました。
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東京大司教
岡田師へ。
主の平安
あきる野の彦左衛門です。
漸く残暑も過ぎ、お元気にて聖務にご精進のことと拝察いたします。
さて来る23日、聖公会宣教150年祝祭のために、東京カテドラルが丸ごと貸し出されるという報せを受けて、信徒の間には、疑問と当惑と、批判と憂慮と、牧者たる人々への不信と、怒りさえ広がっています。
どうか、貴師においても、この深刻な状況を充分お考えの上、牧者としてのご自分の責任に思いを致していただきたいと存じます。
以下は、某掲示板に投稿された、批判、憂慮の一つです。どうか真剣にお読みください。
なおこの後も幾つか信徒の意見をお届けします。
In communione precum.
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聖堂を貸す事を認めている文書があるということですが、世界中の様々な状況を想定して、本当にそうせざるを得ない状況が生じた時は、やむを得ないということではないのでしょうか?
司祭不在の集会祭儀においても、カトリック教会はカトリック信者で叙階の秘跡を受けていない者を、主の祭壇前に長時間立たせることを許しません。カトリック教会の叙階を受けている人にしか許されないことを、改宗式すら済ませていない人たちに積極的に奨励するとは、考えられません。
たとえば、戦争で多くの聖堂が壊滅的に破壊された地域で、あるいは外国の広大な範囲にわたって著しく過疎化の進んだ地域で、キリスト教信者のきわめて少ない地域で、そうせざるを得ない状況がある場合と、今回のケースは全く異なります。
(ドイツだったか過疎化の進んだ地域で、一つの聖堂をカトリックと諸教派が時間決めで使用されている例を聞いたことがあります。信者が少ないので、管理費の負担の軽減になるそうです。これは「貸す」こととは違います。共同管理です。相互負担。共同責任。)
特殊な場合許されるからと言って、聖公会が頼んできたときは必ず貸しださなければならないということはありません。時と場合によって、カトリック信者の信仰のつまずきになると判断すれば、東京大司教が使用許可を出すべきではないでしょう。カテドラルの使用許可を出さない権限が大司教にはあります。
今回の場合は、聖公会指導者の甘えと、東京大司教の判断の誤りがあると思います。今回のこの状況で、東京大司教は聖公会に貸し出す判断を出すべきではなかったと思います。
逆に、カトリック教会が聖公会の聖堂を丸ごと貸してもらったことはあるのでしょうか?
エキュメニカルな礼拝ではなく、カトリック教会の典礼そのものを行うために、たとえば立教女学院のマーガレット礼拝堂を借りたことがあるのでしょうか?
聖公会の方には、私たちの気持ちは理解できないかもしれません。無理もありません。彼らはカトリック要理を認められないのですから。ただ、本当にお互いが良い交流をしようと思うのであれば、カトリックの聖域に侵入することは、謙虚に控えていただきたいと思います。東京大司教に抗議するより、聖公会の指導者に私たちの気持ちを伝えるほうが、ストレートに伝わるかもしれませんね。
おそらく、「どうぞ、どうぞ」なのでしょう。ご自由にお使いください、と。
こういう前例があると、地方で同じことを考える聖公会指導者が現れることが心配です。彼らは直接小教区に貸し出しを依頼しません。カトリックの組織を熟知していますから、教区司教の許可を得てから依頼してきます。断われないような形で依頼してきます。一度貸し出すと分かりますが、振り回されるのは私たちです。東京カテドラルにはシスターもおられ、信者の負担は少ないかもしれません。しかし、地方では信者が対応に追われます。準備のために何日何時間かり出されたか、当日も、また後始末…。借りるほうにはこちらの犠牲は分からないでしょう。
私たちは誠意をつくして聖公会のために御奉仕しました。これだけは胸を張って申し上げられます。
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