上祐史浩氏(撮影:及川健二)。
オカルト雑誌を読んでオウムと出会う
――そもそも上祐さんがオウム真理教(現アーレフ)に入信したキッカケは何でしたか?
上祐:大学生の頃から超能力やUFOなど超常現象が好きで、『ムー』とか『トワイライトゾーン』といったオカルト雑誌を読んでいました。『ムー』に麻原彰晃・元代表の記事が載っていて興味を覚え、1986年8月に教団に足を踏み入れました。元代表は自分が抱いていた修行者のイメージに合致し、「まとも」に見えた。87年に大学院の修士論文を終えると、教団の修行に没頭するようになりました。宇宙開発事業団に87年4月に就職したのですが、1ヶ月で退職し、5月に教団に出家します。
――教団にハマッた理由はなんですか?
上祐:修行を通して内的神秘体験があったことと、元代表が来るべきハルマゲドンを見据えて唱えた救済思想に共鳴したからです。私が好きだったアニメ「宇宙戦艦ヤマト」と地球の破滅を救うという点で救済思想は合致していました。
――元代表に次ぐ正大師につかれたのはいつですか。
上祐:1993年のことですね。私は13番目の出家者と早かったです。古株ということもあり、修行も評価されて正大師に就きました。
今だから言えるロシア進出の真相
――ロシアにオウムが何故、進出したのですか。
上祐:92年から色々な海外の仏教国に行って、仏教の権威と会ったりして、それを教団の宣伝に使いました。ダライ=ラマ法王やスリランカのラオ、ブータンの高僧に会いました。海外の権威から評価されて、それを国内の布教に使うという戦略を教団はとったのです。
政治家との交流も始まり、ロシア関係者が自分のコネを使えば、モスクワ大学で講演をして名を上げられるという話を持ってきたのですよ。ロシアに行き、政治関係者と交流していくと、「エリツィン大統領(当時)に会わせてあげよう」という話が出ました。大統領には会えませんでしたが、ルツコイ副大統領やハズブラートフ国会議長(いずれも当時)という国家ナンバー2の2人に会い、各大臣とも会いました。
ロシアではテレビ局のある時間帯を買い取って、自主制作の番組を放送するということができるんですね。ロシア国営放送のトップと会談して、オウムの番組を放送することが決まりました。
そして、1992年に当初は小さなものでしたが、ロシアに支部を作ります。初めはそれほど普及するとは誰も思いもしませんでした。しかし、共産主義が崩壊し、ロシアは思想的真空状態に陥っていましたので、オウムはウケて、信者は爆発的に増えました。オウムも93年9月にはロシアが重要な布教の地だという認識を持つようになりました。93年秋に私がロシアの責任者として赴任します。ソ連崩壊で心の支えを失った人が信者になっていくのを目の当たりにしました。
――ロシアでオウムが軍事演習をやったという話もありますね。
上祐:ロシアの国軍が金さえ払えば軍事演習をさせてくれるんですね。そこで、94年にはオウム信者が射撃の訓練を受けます。ロシア軍からヘリコプターを買って、日本に持っていったけど、動かなかったということもありました。
――ダライ=ラマ法王には何故、会えたのですか?
上祐:元代表(麻原)は法皇に1986年に最初に会ってから、たびたび謁見しています。背景には膨大なお布施があります。法皇側に1億円くらいお布施したといいます。
地下鉄サリン事件の1ヶ月後に麻原が関与を明言
――1994年に日本に一時帰国した時に、元代表から薬物イニシエーションを受けられ、帰依を深められたそうですね。
上祐:自分の肉体の感覚がなくなってしまい、広大な空間にとけ込んじゃったような体験でした。至高体験ですね。不思議な世界をいくつも見ることができました。超常体験をして、導いてくれた元代表への信仰心はいっそう深まりました。
――地下鉄サリン事件が起きた時に上祐さんはロシアにいましたが、元代表から電話で呼び戻されましたね。
上祐:電話では「広報活動を行って欲しい」という要件だけが伝えられました。当時、オウムは電話が盗聴されていると思っていたので、それ以上は言わなかったのですね。帰国して直接、話した時、強制捜査に備えて隠れ家を作っていて元代表はそこにいました。壁を通して「いま俺は隠れているから、広報関係をやってくれ」といいました。
サリン事件を教団がやったと私が知ったのは、帰国して1ヶ月後です。(オウム幹部の)村井秀夫氏が刺殺され、元代表が「サリン事件は教団が悪いことをやった。今回は社会が悪いことをやった」といったのです。ただ、それまでに教団の関与を疑えるような話が周りにありました。事件後すぐに教団施設内から、サリン散布に使われたのと同種のビニール袋が警察に押収されました。(オウム幹部の)早川紀代秀氏が村井氏を「きちんと片付けていなかったのではないか」と叱り、村井氏は「片付けたはずだ」と答えました。
――教団はどの時点で武装化を計画したのですか。
上祐:88年末に「ヨハネ黙示録」を解読した終末思想にまつわる「滅亡の日」という本を元代表は出しました。予言の中で「武力を通して良い社会をつくる」という解釈がなされました。原点はここにあります。
ただ、1990年総選挙に出馬して落選し、1991年に国土法違反で強制捜査されるなどして、武装化の話どころではなくなります。93年に入ると武装化が再開します。同年初めには炭疽菌の製造が研究され、11月にはサリン生成にも成功します。そして、1994年6月に松本サリン事件を起こすのです。
新教団「ひかりの輪」の行方
――ひかりの輪は一連の事件被害者への賠償をどのように進めていきますか。
上祐:ひかりの輪は今年通算で600万円賠償し、10月までにはその額は800万円になる予定です。賠償は今後も続けていくつもりです。
――新団体をつくるにあたって、「悪かった人間も変わるんだということを皆に示して、その罪滅ぼしをしなければならない」とおっしゃっていましたが、現時点での状態はどうですか?
上祐:人格改革、自己改革中というところです。隅から隅まで染み渡っているものを一つずつ変えていく過程なので、容易ではありません。オウム時代の教材の破棄や教えの転換ということは出家スタッフがすべてやれていますが、在家信徒にも旧教材の破棄を勧めています。
――信者の教団や元代表への依存症をどう克服していきますか?
上祐:元代表から率先して精神的な自立をしていると私が手本を示しているので、それに下もついてきている感じです。上が絶対でなく、下の人間も自分で考えて行動するように指導しています。何もかも上意下達ではオウムと変わりませんからね。
――現アーレフをどう見ていますか?
上祐:混迷していると思います。私も含め、今年になって最高幹部が2人辞めました。信者の数は減り、昨年は500名いた信徒は、現在は300名くらいです。中高年齢層の信者がいるので、脱会できずにいる人もいます。最高幹部が3名、残っていますが、その中に2人、辞めるかもしれないひとがいます。ここ数年で、かなりの混乱があるのではないかと予想しています。
――公安調査庁が「ひかりの輪」を破壊活動防止法での観察対象としているのをどう見ていますか?
上祐:「私たちは弾圧されている」と被害妄想に陥ることなく、自分たちがよりいっそう良くなるための「愛の鞭」だと思っています。私たちがいっそう自己改革していく中で、世間からは段々と理解されると思います。私たちは元代表に依存して甘えていたと思うんですね。何かに甘えることなく、淡々と自分たちの信ずることを実行して、理解されるのを期待します。
――大阪市西成区にある「ひかりの輪」の大阪支部前で8月11日、周辺住民でつくる「オウム真理教対策市民の会」のメンバーらが退去を求めて抗議行動をしましたね。世田谷でも住民が「ひかりの輪」にも立ち退きを求めています。大阪では抗議文を受け取ったそうですが、こういった住民による抗議活動について上祐さんはどういうお考えですか?
上祐:過去の残存で批判されるのは仕方ないと思います。「裏表があるんじゃないか?」とか疑いが残っていると思うんですね。なす事を淡々となして、状況が徐々に変化するのを待っています。
(つづく)