南京大虐殺

南京大虐殺なんきんだいぎゃくさつ社会

1937年12月から1938年初頭にかけて、日中戦争南京占領時に、中国の「南京市」ほぼ全域(北は燕子磯から南は中華門外まで)で日本軍が起こした一連の虐殺事件のこと。その被害者数については、日本側では10万人前後中国中華人民共和国)側では20万人から30万人と言う説が中心。

国際的には実在を疑うことのできない事件として認識されているが、日本国内においては、早くから、中国側の捏造である、もしくは殺害行為は正当な戦闘行為であったとする否定派が論陣を張っており、教科書の記載などをめぐって、しばしば社会的に注目を浴びている。

否定派は、警察署長認識と、安全区の国際委の資料、及び、日本軍の良民証の発行数がほぼ一致しており、人口が20〜25万人であったことを根拠としては十分であり、また、肯定派の笠原十九司教授でさえ「中国軍南京城塞の周囲1〜2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある村落と民家を強制的に焼き払った」としていることから、南京市周辺にはほぼ市民がおらず、肯定派の意見には根拠がないとしている。)

これに対し肯定派は、「警察署長認識」は37年11月時点のもので事件直前の人口動態が反映されておらず、「安全区国際委」の認識は安全区以外は無人であったという誤った認識に基づくもので精度が高いといえず、日本軍の良民証の発行は大規模な殺害が終わった後の時期に行われたもので「生き残った人口」を示すものにすぎず、総じて否定派の意見は「1937年12月11日」という「時期」と、「南京市全域」という「空間範囲」を無視して人口20万説を強弁しているにすぎないと批判している。

また安全区以外の城内、また城外に住民や避難途中の民間人が残っていたことを示す多くの史料や証言があり、海軍の土井中佐も城外・宝塔橋街に南京陥落直後の時点で6千〜7千規模の難民が残っていたという証言を残しており(否定派の代表的存在の田中正明氏の著作では、同地区に数千〜2万規模の住民が居たという記述がある)、安全区以外の南京市がほとんど無人だったという説は根拠がないとしている。


日本国内では肯定派と否定派が存在し、肯定派の主張に対して否定派がいろいろな「傍証」を出して存在しなかったという反論を行い、それに肯定派が再反論するかたちで論争が継続している。歴史認識が絡む問題であり、何かと問題になる事件の一つである。

現在では、中間派の多くは一万人前後の不法殺害があったことは認めた(否定派の多くはもちろんその説も認めていない)うえで、十万人以上の大規模な虐殺や、政治宣伝としての「大虐殺」というイメージを批判している。同様に肯定派においても三十万人以上の民間人違法かつ残虐な殺害という主張を全面的に認める者は少なく、肯定派のうちで多数派となっているのは十数万人規模という見積もりである。

関連 論争の現状、論点についてはこちらを参照のこと。

wikipedia:南京大虐殺論争

  • 名称について

この事件は南京事件とも呼ばれている

関連キーワード南京事件

ブリタニカ百科事典の記述

also called Rape Of Nanking (December 1937–January 1938), mass killing and ravaging of Chinese citizens and capitulated soldiers by soldiers of the Japanese Imperial Army after its seizure of Nanking, China, on Dec. 13, 1937, during the Sino-Japanese War that preceded World War II. The number of Chinese killed in the massacre has been subject to much debate, with most estimates ranging from 100,000 to more than 300,000.

http://www.britannica.com/eb/article?tocId=9054784&query=nanking&ct=



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