| Everlasting2 | ||
松本に着いたのは、まだ夜が明けてすぐの頃だった。 明け方、流れてゆく窓の向こうから、濃紺の空が徐々に明るいコバルトブルーに変わり、やがて真っ白な光が地平線を染めて昇ってゆく様を、ずっと見ていた。 駅のホームに降り立って、直江は朝の清々しい空気を胸一杯に吸い込んだ。 ふるさとのにおいだ、と。そう思った。 懐かしいにおいだった。 構内には小さなプランターが所々に並んで置かれ、スミレが青い花弁をちょこんと覗かせていた。 見下ろして、直江はふっと笑った。こんなところがやはり、彼の故郷なのだと思った。 桜を見に行こうと歩き出した足は、何かに導かれるように住宅街の中へと進んでいき、目の前に小さな公園が見えたところで、足は自然と立ち止まった。 ブランコと滑り台と砂場しかない、家々の中に溶け込むささやかな公園だったが、目にした瞬間に直江は酷く懐かしい思いに駆られた。幼い頃によくここで二人して遊んだ思い出の公園なのだと、直江にはすぐにわかった。 それは確かに彼の記憶だったが、同時に直江の脳裏にも鮮明に浮かび上がる光景でもあった。屈託無く笑い、走り回って仲良く遊ぶ小さな兄妹の姿が、懐かしい思いと共に胸に浮かび上がってくる。 直江には実際にそんな二人を見た記憶はない。だがその光景は自然と胸に浮かんだ。彼の記憶が、そのまま直江の思い出となった。 公園の隅にたんぽぽが群れになって咲いている。その上を、小さなモンシロチョウがひらひらと羽を広げて舞っていた。 ブランコに歩み寄ると、直江はその内の一つに静かに腰掛けた。足を伸ばしてみると、キィ、と錆びて軋んだ音がした。 直江はくすりと笑って、それからここで遊んだ楽しい思い出を一つ一つ思い出すように、目を閉じて浮かんでくる光景に身を委ねた。 口元は笑ったまま。直江はいつしか、小さく歌を歌いだした。 懐かしい、歌だった。 取りとめも無く口ずさんでいた歌が不意に途切れたのは、入り口にかすかな足音を感じたからだった。 目を開け、立ち上がり様に振り向くと、瞳をいっぱいに見開いた少女と目が合った。 驚いて直江が彼女の名を呼ぶ間もなく、 「……おにいちゃん!」 叫んで、美弥は駆け寄ってくるなり抱きついた。 「お兄ちゃん。お兄ちゃん!」 「美弥さん」 見下ろす直江に縋りつくように、美弥は泣いた。 「おにいちゃん、あのね。美弥、おにいちゃんからもらった手紙、ずっと大事に持ってるんだよ。もう何度も読んだの。何度も何度も読んだよ。手紙ありがとうね。嬉しかった」 直江の言葉を遮るように、美弥は一息に告げた。 涙を流しながらも、その口元は嬉しそうに笑っていた。 見下ろす直江の瞳が、変わった。 ゆっくりと、柔らかな色を灯していく。 直江は肩の力を抜いて、そっと手を上げた。 その手が、美弥の肩をゆっくりと抱き寄せた。 顔を上げかけた美弥に、直江は静かに呼びかけた。 「……美弥」 噛み締めるようなその響きを胸に留めて、美弥はぎゅっと目を瞑った。 見上げて、美弥は微笑みかけた。 「……直江さん」 目の端にたまった涙を指で拭って、美弥は直江の胸に手を当てた。 「ありがとう。おにいちゃんを連れてきてくれて」 「わかるんですか?」 幾許かの驚きを持って、直江は尋ねた。美弥には霊感は一切なかったはずだ。だが美弥は、直江の姿を見るなり「おにいちゃん」と呼んで駆け寄ってきた。視えるはずはない。だが彼女にはわかったのか。 美弥は当然のように答えた。 「わかるよ。おにいちゃんだもん」 どこか誇らしげに答えるその表情を見つめて、直江も同じように微笑んだ。 美弥は少し、照れたように笑った。 「あのね、今朝夢を見たの。小さな頃おにいちゃんといっぱい遊んだこの公園で、お兄ちゃんが嬉しそうに笑ってる夢だった。明るいお日様の下でね、おにいちゃんが笑っていたの」 目が覚めて、一番にこの公園にやってきたのだと言う。そういえば美弥の髪はまだ整っておらず、普段着でいかにも起きたてといった風情だった。だが、とてもいい表情をしていた。 美弥は歌うように呟いた。 「おにいちゃん、ここにいたんだね」 ありがとう、ともう一度直江を見上げて笑う。 「良かった、おにいちゃんが直江さんの中にいてくれて。お兄ちゃん、直江さんのことがほんとにほんとに大好きだったから、今すごく幸せだと思うの。……ありがとう、直江さん」 心からの言葉を、美弥は直江に伝える。 「美弥ね、直江さんがいてくれたから、おにいちゃんに会えたんだよ」 にっこりと笑いかけ、美弥はゆっくりと身体を離した。 それじゃ、と踵を返しかける。もういいのかと目で問う直江に、いいのと美弥は笑って見せた。 「おにいちゃんがいなくなったら、寂しくて耐えられないと思ってた。でも違ったの。あのね、心で思えばおにいちゃんに届くんだよ」 美弥は、何かをふっきれたような明るい表情をしていた。 これまでに、美弥に何があったかはわからない。綾子や千秋にもそれぞれに受け止めてきた新たな思いがあったように、美弥もまた、彼の死に直面してたくさんのことを乗り越え、想いを受け止めてきたのだろう。 高耶の肉親である美弥は、いかに周りの大人たちが彼女を匿ってはいても、近所の目もあるし、何もかもから逃れられたとは思えない。恐らく辛い経験もたくさんしてきたのだろう美弥は、だが久しぶりに見る直江の目にはとても明るく、強くなったように見えた。 きっとこれまでの日々が、彼女を強くしたのだろう。 彼が妹に宛てた最後の手紙が、よほどしっかりと彼女を根底から支えてくれたに違いない。胸の中に色褪せない強い信念があれば、どんなことでも受け止め乗り越えていけるのだと、きっと彼女も学んだのだ。 兄との思い出を積み重ねてきた日々との、対話の中で。 「いろんなことが不安だったり、怖かったりしたときもあったの。でもね、そんなときはいつもお兄ちゃんに語りかけてた。心の中で話し掛けたんだよ。そしたらね、いつも必ず答えが返って来た。それはきっと美弥の中で、『お兄ちゃんならこう答えてくれるだろう』っていう想像でしかないのかもしれないけど、でもおにいちゃんは美弥が自分の中から答えを見つけるのを、一緒に見守ってくれてるんだよ。それでいいんだって、お兄ちゃんが笑って頷いてくれてるのがわかるの」 だからね、と美弥は片目を瞑って見せた。 「お兄ちゃんが目の前にいなくても、美弥はこれからもずっとおにいちゃんとお話できるんだよ。色んな事を思うたびに、いつもお兄ちゃんの言葉を思い出すの。今なら、どうしてお兄ちゃんがそう言っていたかがわかる。それがそのまま今の私の答えになるの。まるで手紙のやりとりするみたいに、心の中でお兄ちゃんに話し掛けたら、お兄ちゃんがゆっくりゆっくり答えてくれるんだよ」 それは擦り切れた思い出などではなく。これからも美弥が成長し大人になっていく過程で、彼の言葉が思い出されるたびにいつも少しずつ、そこから新たな想いや意味を見出すことができる。思い出の中の彼の言葉も、美弥と一緒に成長し、ずっと生きていくのだ。 これからも彼女は、兄の心に支えられながら歩んでいくのだろう。 「だから平気。お兄ちゃんが直江さんと一緒で幸せだってわかったから、もう充分だよ」 美弥は幼い頃この公園でそうして遊んでいたように、片足でとんとんと砂地を跳ねるように進み、それからもう一度くるりと振り返った。 公園に佇む直江の姿を瞳に焼き付けようとするかのように、最後に美弥はじっと見つめてきた。 見つめ返す直江の瞳が、愛しげに見守るように細められる。 口元の微笑が、僅かに変わった。親しみと親愛を込めた、噛み締めるような微笑みだった。 「……元気で」 一言、そう告げると、美弥は笑顔で大きく頷いた。 「うん。ありがとう、またね」 再びその頬に伝った涙を拭いもせずに、美弥は手を挙げて大きく左右に振った。 直江も、同じように手を挙げて応えた。 満足そうに去っていくその背中を、視界から消えていくまでずっと見守っていた。 (……あなたが呼んだのですか?) 胸の内に、直江は静かに語りかけた。 実際に思念を飛ばしたのは直江の力だったのだろう。だが、美弥をここへと引き合わせたのは間違いなく彼の想いだった。 直江の脳裏に、いつか美弥が兄に宛てて送った手紙が、思い出された。 高耶のことが、まだニュースで悪し様に吹聴されていたときのことだ。彼女にしてみれば、不安の絶頂にあった頃に違いない。自分の兄は一体何者かと、信じていたはずの兄は本当は『上杉景虎』という見知らぬ他人であったのかと、裏切られたような辛い思いを抱えていたはず。 だが美弥は、兄を信じた。幼い頃からずっとその背中で自分を護ってくれていた、優しい兄の姿を信じたのだ。 直江の元へ向かうという一蔵に、慌てて託した短い手紙から、そのことは痛いほど伝わって来ていた。 “元気で松本に帰って来てください”と、たった一言したためられた手紙。 美弥がどれほど兄に逢いたがっているか、そこには隠すことのない素直な気持ちがぎゅっと凝縮して込められていた。 そうか、と直江は胸元を見下ろして微笑する。 きっと、美弥はずっと待っていたのだ。高耶がいつか、松本に帰って来てくれる日を。
―――帰って来たよ、美弥
直江の胸の中で、彼の想いが波紋のように広がった。 そして同時に、先ほどの美弥の言葉も。
“美弥ね、直江さんがいてくれたから、おにいちゃんに会えたんだよ”
直江は、二人の想いを噛み締めながら、そっと公園を後にした。
そして直江は今、女鳥羽川沿いにいる。 これまでの日々を思い返しながら直江はゆっくりと目を伏せ、川面を見つめていた。 女鳥羽川沿いは、高耶がよく歩いていた場所だった。一人夜に家を飛び出して、行く当ても無いまま川沿いをずっと歩いていたこともよくあったと、高耶から聞いていた。 静かな水音と、穏やかな流れが作る素朴な風景は、見ている者を落ち着かせる効果がある。これもまた高耶が好きだった光景の一つなのだと、直江は水面を見つめているだけで癒される気がした。 川沿いの桜は満開だった。穏やかな陽光が当たると透き通るように輝くその見事な桜木を、通りかかる誰もが幸福そうに目を細めて見上げていた。 川沿いに並んだ桜は、日本全国どこででも見られる、ありふれた風景なのかもしれない。だが直江には、高耶がこの桜を見たがった理由も、そして直江に見せたいと願ったわけも、この桜を目にしてわかった。 遠くから、チャイムの音が聞こえていた。少し向こうに小学校があるのだ。グラウンドで遊ぶ子どもたちの声も、時折風に乗って響いていた。 この道を行く人たちは、ここでは誰もが歩調を緩める。その間を、桜の淡いピンクの花弁が、人々を労り励ますようにひらひらと風に舞って流れていた。 穏やかで、優しい光景だった。見ているだけで幸福になれるような、そんな愛しさがこの景色にはあった。 (あなたもここが、好きだったのでしょう……?) 語りかけると同時に、胸の中で頷く彼の笑顔が、鮮明なビジョンとなって直江の脳裏に浮かび上がった。 だからおまえに見せたかったんだよ……と。 直江はそっと、笑った。
彼がここで眠ることを知る誰もが、直江に彼のことを聞きたがった。彼はいまも、そこに生きているのかと。 綾子のように、千秋のように、美弥のように、直江の中に高耶を見る人々の想いはそれぞれであったが―――真実は、直江の胸の中にあった。
―――誓いを交わしたのは、あの夜のことだった。
おはらい町の、小さな部屋で時を過ごした。布都御魂が、高耶を拒んだと聞いた夜のことだった。 すぐに戻ると言った高耶は、だが本陣には戻れなかった。静寂をかき消す電話が鳴り、嶺次郎が今夜は戻って来るなと告げたのだ。 『一晩そこにいろ。おんしゃあ布都御魂の術を行った直後で疲れちょる。まだ本調子じゃないおんしに本陣に戻られても、寧ろ迷惑じゃ』 高耶は耳を疑った。しかし、と食い下がろうとする高耶に嶺次郎は覆い被せるように、 『おんしゃあわしを見くびっちゅうか?作戦は大方準備完了しちょる。おんしがおらんでも一晩くらい本陣を守りきってみせる。それともおんしは信用しちょらんがか』 「そんなことは……」 言い淀むと、嶺次郎は電話の向こうでニヤリと笑い、 『なら今夜は少し休め。仰木』 労りを声に滲ませて、そう告げてきた。暫し黙った後、高耶はぽつりと告げた。 「……すまない、嶺次郎。……ありがとう」 よせ、と嶺次郎は照れたように声を上げる。 『勘違いするな。橘がまだ危険なのはおんしも重々わかっちょるはずだ。もしなにかあったら、おんし以外に止められる奴がおらんと思うから、監視役に付けただけじゃ』 ほんの少しだけ、高耶は笑った。電話が切れると、高耶はもう何も言わず黙って直江の胸にもたれかかった。 その身体を柔らかく抱きしめ、静かな霧の流れる部屋で二人、横になったまま眠るでもなく寄り添っていた。 「静かだな」と、直江の胸の中で高耶が呟いた。 「……霧が出ていますから」 直江が囁くと、高耶は目だけを上げて窓の外を見た。 枕元には、白い折鶴がいくつも散らばっている。 窓から差し込んだ青白い霧が、この部屋と二人の身体を包み込むようだった。 高耶は、月光のような淡い光に照らされた、直江の顔を見つめた。 「……まるであの山荘のようだ」 ごく小さな声で、高耶が呟く。衣擦れの音がして、高耶が腕を伸ばして直江の首を抱き寄せた。 「直江……」 肩口に顔を埋め、高耶は静かに名を呼んだ。 闇の中に溶けていきそうな程、静かに。 「……直江」 直江は、高耶の肩を抱いていた手を上らせていき、高耶の頭の後ろに手をやった。そのまま、そっと髪を撫で続けた。 「もう、眠った方がいい。高耶さん」 直江の肩口で、高耶が首を振った気配が感じられた。 「眠るのはいやだ。眠ると、おまえの夢を見る」 震えて、縋りつくように直江の首にぎゅっと手を回し、高耶は耳元に唇を寄せる。 「オレを探して彷徨う、おまえの夢だ。オレはもういないのに、おまえはひとりでずっと……オレの名を、呼んで……」 肩と共に、その声も震えていた。直江は痛ましげに眉根を寄せて、高耶の肩を更に強く抱き寄せた。 時折、高耶にはこんな風にして直江の前でだけ、弱さを見せることがあった。 誰の前でも強くあろうとして、その強靭な精神力と判断力で鬼神の如く戦い抜いて、だが高耶がそんな風に近寄り難いほど強ければ強いほど、直江と二人きりになった夜に見せる、張り詰めきった糸が切れたかのような弱さは、昔から変わらなかった。 ましてや今夜は、あんなことがあった後だ。高耶の不安も恐怖も、そしてそれを直江に訴えずにはいられない胸の内も、直江には痛いほどよくわかった。 「こわい……直江」 直江は震える高耶の身体を抱きしめ、冷たくなった肩を何度もさすった。 「怖くはありません。どこへ行こうとも、あなたの傍らには私がいます」 高耶は顔を埋めたまま首を振る。さっきよりも強く。 「怖いんだ。オレは、このままおまえを置いて……っ」 その先は口にできずに、高耶は声を詰まらせ肩を揺らした。 直江の肩口が、静かに濡れていく。 「おまえと……ふたりで暮らせるんだと、思っていた。力なんてなくていい、永遠の命なんてなくていいんだ。ただそこに、おまえの姿があればそれだけで良かった……」 「ええ……」 「何もかも終わったら、静かな家で一緒に……もう何も邪魔されることなく、ただ毎日おまえのことだけを考えて、生きていけるんだと思っていた」 僅かに顔を上げた高耶の頬を、透明な涙が滑り落ちていく。 直江はそっと、その瞳を覗き込んだ。 「おまえが、どれだけの思いと覚悟で、この剣を信長から奪い返そうとしたか、オレは……誰よりもわかっていたはずなのに」 頬を包み込んだ直江の手に、高耶の涙が伝った。 「あなたのせいではありません。私もあなたも、自らの極限を見据えつづけながら互いの真実に従って戦った。後悔はありません。もし今、あの時に戻れるとしても私は、同じ道を選びます」 あなたのせいではない、と直江はもう一度囁いた。堪らなくなったように、高耶が直江の胸に顔を埋めた。 「おまえは、オレの手を取ってくれたのに……!オレがこの道を選んだから、おまえは……っ」 「いいえ、景虎様。あなたがこの道を選ぶと言ったからこそ、私もここまで歩いてくることができたんです。私は妥協したのでも道を譲ったのでもない。あなたの望みの傍らで私も共に歩くことこそが、私の望みだったから、あなたの手を取ったのです」 それに、と直江は目を閉じる。 「布都御魂を手に入れるため私が信長に降ることを、あなたは剣を呑む思いで呑んでくれた」 それは、と高耶が驚いたように顔を上げる。 「それがおまえの選んだ道だったからだ。おまえがそれほどの覚悟でこの道を往くというのなら、オレも共に在りたいと願った。だからそれを呑むことがオレの望みで―――」 言いかけて、高耶ははっと目を見開いた。 見つめて、直江はかすかに微笑した。 「ほら……高耶さん。私たちに悔いは無い。互いの歩む道に寄り添っていられることが互いの望みなら、この先も共に戦いつづけるだけです。そうしてあなたの傍らで歩きつづけられるなら、私にとってこれ以上の喜びは無い」 高耶は数瞬黙って直江を見つめ、それからゆっくりと目を伏せた。 「だけどおまえは……オレがいなくなってもずっと、オレの名を呼びつづけるんだろう?」 「高耶さん……」 「おまえはオレを想って……その時を止めてしまうことすらできない男だから」 高耶の睫を透明な雫が濡らしていく。 高耶にはわかっている。直江が、破魂の手形に背を向け、布都御魂を手に入れるために信長と対峙したその瞬間から―――直江は、全てを受け入れて生きていくことを、呑んだのだ。 高耶を喪うことになっても、最後までこの道を歩きつづける覚悟を。高耶に永劫の愛を証明するために、どんな結末にたどり着こうともその先を歩いていく決意をしたのだ。 共に逝くことはできない、と。もう二人ともわかってしまっている。だが直江にその道を選ばせたのは誰だ。直江の愛が失われることを恐れ、直江を残して一人逝かねばならない恐怖を薄れさせる為に、自分は死出の道連れに直江にとんでもない重責を背負わせてしまったんじゃないのか。 直江の中から自分が消えていくのが怖くて。 直江の永遠の愛を信じていると言いながら、本当は。 直江の永劫の孤独と引き換えに、確約を手に入れたかっただけなんじゃないのか。 「オレは、自分のエゴのために、おまえを犠牲にしたんだ」 「それは違う。高耶さん」 いいや、と高耶は激しく首を振った。 「オレは、知っていたのに。おまえがいない世界を一人で生きていくことが、どれだけ……っ」 哀しくて哀しくて。泣いて泣いて泣きつづけても涙は一向に止まらず、名を呼んでも応えてくれる声もなく、どんなに触れたいと願ってももう二度と触れられない。 耐え切れなかった。魂の半身を無理矢理もぎ取られて、叫んでも叫び尽くせないほどの孤独と寂しさで張り裂けそうな胸の痛みを抱えて、おまえがいないと生きていけないのだと、どうしようもなく思い知らされただけだった。 耐え切れずに自分はあの苦しさから逃げたのだ。永劫の孤独を背負うことができなくて逃げたのだ。直江に逢いたくて逢いたくて、死にそうな心は幻を生み出した。 その、孤独を。あの時と同じ弱さで今度は、直江に押し付けようとしている自分がいる。 「そんなに自分を責めないで」 耳元に優しい囁きが聞こえ、高耶は顔を上げた。 微笑したまま高耶を見下ろしている直江は、後から後から溢れ出てくる高耶の涙を、何度も指で拭ってくれた。 「あなたが私に永遠の愛を求めたのは、あなたの心が弱かったからじゃない」 「直江……」 「あなたは真に私との最上を目指してくれたからこそ、私を更なる高みへと導いてくれたんです」 目を瞠る高耶に、直江はその顔を覗き込むようにして微笑してみせた。 「私の中の最も克服できなかった恐怖をも、あなたは消し去ってくれたんです」 「オレ……が?」 眩しそうに瞬く高耶に、直江はそっと頷いた。 「『あなたを喪う』という恐怖から、永遠に解放される方法を」 高耶は一瞬、息を止めて直江を見た。驚きの表情が、ややして諦めの顔へと変わっていく。 「……そんな方法、あるわけない!気休めはよしてくれ。おまえを残していくオレの恐怖を取り除こうとしてるんだったら、オレは……っ」 「目を閉じて。高耶さん」 不意に、直江の指先が唇に触れ、高耶は言葉を封じられた。 直江が何を伝えようとしているのかわからぬまま、だが高耶は直江の瞳を見つめ、その想いを受け止めようと言われるままに瞳を閉じた。 すると直江は、静かに高耶から身体を離した。自分を包んでいたぬくもりが不意に離れていき、目を閉じた闇の中に取り残されそうになって高耶は不安を覚えて名を呼んだ。 「直江……?」 「もしも私が、あなたの前からこうして消えてしまったら」 囁く声は低くて、高耶はドキリとして瞼を揺らした。だが決して目は開けずに、直江の次の言葉を待った。 「もうその身体には触れられなくて、顔も見れなくて、声も聞けないのだとしたら。……あなたの中から、私は消えてしまいますか?」 高耶は目を閉じたまま、違うと首を振った。 「たとえおまえが目の前から消えてしまったとしても。オレの中から、おまえは消えたりしない」 「そう、消えはしない。もしもあなたではなく私が、この世を去らねばならなかったのだとしても。あなたを一人にはしないし、あなたを孤独にはさせない。あなたの中には、私の魂が在る」 そっと、直江は高耶の左胸に触れた。高耶はぴくんと肩を揺らし、目を閉じたまま切なげに眉を寄せた。 「おまえの魂が、オレの中に……?」 闇の中、間近に聞こえる直江の声と、触れられた胸元のあたたかさだけが確かだった。高耶の心臓の鼓動が、トクントクンと早くなっていく。 「あの頃とは違う。その姿が消えても、たとえ目には見えなくなってしまっても、私たちの身体には確かに互いの魂が刻まれているのだと、こんなにも強く信じることができる。……私たちはそれだけの道のりを、ふたりで歩いて来たんです」 高耶の胸が震えた。触れられた手の下が汗ばむほどに熱くなってきて、高耶は今目の前に直江がいるにも関わらず、本当に直江の魂が自分の中に存在している感覚に捕らわれた。 それは不思議な感覚だった。高耶の中で、“直江”は他の何よりも強く、確かに、存在していた。どんな不安や恐怖に晒されても、直江の声を聞くだけでそれまでの恐慌が嘘のように心が落ち着いていくように、自らの中に在る直江の魂を確かめた途端、高耶の心は言い様の無い安堵感に包まれた。 この先どこへ行くにも、心は決して直江から離れることは無い。どれほど歩きつづけても、どんな時も必ず、自分の中には直江がいるのだ、と。 高耶は泣きたいほどの安心を覚えて、ゆっくりと目を開けた。 間近で見つめる、直江の瞳がそこにあった。 「あなたが、どんな時も決して諦めず、いつも私の手を取って高みへ高みへと導いてくれたからです。どちらかが愛惜や痛みに負けて道を譲ってしまっていたならば、これほどの確かさは得られなかった。あなたが道を貫く勇気と強さを持って共に立ち向かってくれたからこそ、私は困難と戦い抜いた果てに真実を掴むことができたのです」 ゆっくりと愛しげに高耶の頬を包み込む直江の目にも、涙が浮かんでいた。 「あなたが……おまえと一緒ならたどりつけると、どんな時も私を信じてくれたから―――」 涙の溢れ出した瞳で、直江は微笑した。 探り出すように高耶の手を取って、互いの胸前でしっかりと固く握り締めた。 「この手はもう、決して離れはしない。あなたの身体がいつか消えてしまっても、ぬくもりは私の中に残りつづける」 「直江……」 「その声も、瞳も、抱きしめてくれる腕も、言葉も、あなたの想いのすべても。私の中で、何一つ消えることは無い。すべてが私の中で生きつづけるんです」 高耶の手が、痛いくらいに強く、直江の手を握り返した。固く目を閉じ、高耶は涙を絞り落とす。 「あなたは私を残して逝くのではなく、これからも私の中で生きていくんです。……あなたと生きていきたいからこそ、私はこの先も生きつづけます。ずっと、あなたを愛しつづけながら―――」 高耶を抱き寄せ、微笑した直江はその耳元に囁いた。 「永劫の孤独を、余りある幸福に塗り替えて、あなたと共に生きていく」 泣きながら名を呼んで、高耶は直江の背中を抱き寄せた。ぎゅっと、強く。胸の中の愛しさと、同じくらいの強さで。 「直江」 限りない愛しさを込めて、その名を呼んだ。顔を上げた高耶は、涙に濡れた頬のまま、直江の顔を覗き込んで微笑した。 「オレの想いも、この先永劫変わりはしない」 滑り落ちた涙が、直江の頬を濡らす。その頬を両手で包み込んで、高耶は心から幸福そうに微笑った。 「……愛してる、直江」 互いを引き寄せるように唇を重ねて、長く、深い接吻けを交わした。 固く繋いだ指先はもう、決して離れることはなかった。
あのとき繋いだ指先のぬくもりは今も、直江の手の中にある。 彼の手が今この瞬間も、しっかりとこの手を強く握ってくれていることを。直江は痛いほどに感じていた。 彼の安堵と幸福が、打ち寄せる波のように直江の心に響き渡る。 彼が今ここで、限りない安らかさをまとって眠りについてくれているのも、彼が逝った後の直江の幸福を―――この胸の中にあなたの魂が存在しているという確かさを、信じてくれたからだ。 眠りについたその先も、変わらず直江と歩いていけることを、信じてくれたから。 最期の、その瞬間まで。 微笑みながら最後に瞼を閉じるまで、高耶はずっと一つのことだけを繰り返し繰り返し直江に伝えて来た。 愛してる……と。 (高耶さん……) 静かに川面を見つめる直江の伏せた瞳から、一粒の涙が滑り落ち、幸福そうに微笑む口端を伝って、ゆっくりと地に落ちた。 あの夜のように。直江はその手を胸に当て、そっと目を閉じた。 呼応するように、その下の心臓がとくんと震えた。 (あなたの魂は、今も。この胸の中に存在している) 彼の魂がこの胸の中に在るということの本当の意味を、彼をこの身体の中に宿して初めて、直江は知ったのだ。 それは文字通り、彼の全てをこの身の中に受け入れるということだった。 彼の魂が入ってきた瞬間、彼の幸福がそのまま胸の中に溢れるほどに入ってきて、直江は眩暈を覚えたようにその場に立ち竦んだ。 これほどの想いだったのか、と。直江は息も苦しくなるくらいに、強く。彼の想いを感じ取ったのだ。 彼がどれだけ自分を愛してくれているかは、もう充分、わかっていたはずの直江だった。彼はいつも言葉だけでなく全身で、その言動や真っ直ぐに見つめてくる瞳の全てで、直江への愛を伝えてくれたから。 だが、彼の魂がこの身に入ってきた瞬間感じた想いは、それまでとは比にならないほどだった。それは本当に泣きたくなるくらいの愛しさで、彼はいつもこんな想いを根底に溜めて自分を見つめていたのかと、高耶の眼差しを思い返して直江は、ただ、ぎゅっと、彼の魂を抱きしめた。 不思議だった。彼の身体はもうここにはないのに、彼を抱きしめたときと同じ充足感とあたたかさが、直江の腕には確かに感じられた。そして同時に。彼の腕もまた、直江を抱きしめてくれていることを。直江はその先もずっと、強く感じていた。 直江自身、この胸の幸福を、今もここに高耶がいるという実感を、どう伝えればよいのかわからなかった。 千秋に聞かれても、答えられない。いや、自分以外に今のこの感覚を、理解できるとも思えない。 高耶の魂がこの身体の中に入ってきてから、直江の瞳に映る世界は全て色を変えたのだ。 それは高耶の目から見たこの世界の姿だった。世界の全ては鮮やかな色を湛えてそこに存在し、そしてそのどれもが抱きしめたいほどの愛しさに満ちていた。 (あなたの目には、こんな風に世界が映っていたのか……) なんてことはない風景の中の、木々も、小さな花も、空も、そこに佇む家々も、すべてが。 新たな感動を持って直江の胸に迫り、直江はそこに高耶の息吹を感じ取って、自然と微笑まずにはいられなかった。 流れ込んできたのは高耶の想いばかりではない。彼の四百年分の膨大な記憶もまた、全てが直江のものとなった。 無論その中には、直江との思い出もたくさんたくさん詰まっていた。それらを思い返すたび直江は、そのときの景虎の姿を思い出すと同時に、彼の目から見た自分の姿もが鮮明に甦ってきて、自分がそこに在りながらも同時に景虎の気持ちで自分を見ているような、妙にリアルな感覚に捕らわれた。 なるほど、これは……と、直江は少し笑った。 記憶というものは、必ずそのときの感情とセットになって甦ってくるものだ。時には自分が何気なく放った一言が強く景虎の印象に残っていたり、またその時々の直江の横顔を見ながら景虎が何を考え、想っていたのかも手に取るようにわかって、直江はしまいにくすくす笑ってしまった。 これでは隠し事はできませんね、と胸の内に語りかけると、高耶は赤くなりながら直江を睨み上げてきた。 そういうおまえの考えてることだって全部わかるぞ、と。 楽しげに笑いながら直江は、ゆっくりと目を閉じた。 そう、つまりはそういうことなのだ。 高耶の魂は確かに、千秋の言う通りもうほとんど消えかけていて、そう遠くない内に直江の中で消滅してしまうはずだった。 なのに。 直江の中で高耶は、日を追うごとに鮮明に、より強い存在感を放っていく。 その声も、眼差しも、想いも、言葉も、そしてずっと直江に差し伸べられつづけられているあたたかな腕も。全てが直江の中に確かに存在していた。 彼の想いがそのまま直江の想いとなったから、彼と絆を結んだ人たちに出会えば言葉は自然とその口から出てきた。 それは記憶を再生させた言葉だけではなく。例えばそう、高耶の身体がそこにあって、見つめ合えば言葉を交わさずとも互いの想いがはっきりと伝わったように。胸の内に語りかければいつも、高耶の声が、言葉が、直江に答えてくれるのがわかった。彼らしい表情を伴って、直江を見つめながら。 朝目が覚めるときも、夜眠りに就くときも。いつも彼の眼差しと微笑みが、そこにあった。限りない愛しさが、直江を包んでいた。 ただ空が晴れたというだけで、こんなにも嬉しくなるのは。懐かしい街を歩くだけで、満ちたりた幸福が胸の中に広がっていくのは。 (……今も、あなたがこの胸の中で、生きているから) もっとたくさんの風景を高耶と見たくなって、直江はこうして彼と巡ったたくさんの地を今また、辿る旅に出ている。 そこには数え切れないほどの思い出と共に、新しい感動がたくさん、詰まっているに違いない。 この胸の中にいる彼と、歩きつづける限り。 (いつか、あなたが教えてくれた……)
それは、四国にいた時のことだった。 海を見に行こう、と珍しく高耶から誘いに来た。あの頃はまだ直江とのつながりを周囲に悟られてはいけない時だったが、早朝の海には誰の姿もなく、朝の光を受けて輝く真っ青な海を、岬の突端から二人寄り添い合って眺めた。 心が洗われて行くようなその光景を見つめて、海風に前髪を煽られながら高耶が、綺麗だな、と飾ることの無い言葉と笑顔で直江に告げた。 早朝から空はよく晴れていて、雲ひとつ無い抜けるような青空だった。海鳥が鳴き交わす声が遠く聞こえ、襟元を翻していく爽やかな風が肌に心地良かった。 直江の肩に軽く頭を凭せかけながら、高耶は穏やかな口調で呟いた。 「海っておまえに似てるって……ずっと思っていた」 その肩を抱き寄せて、直江は囁いた。 「……私は、空はあなたのようだと、ずっと思っていました」 そうか、と答えて高耶は少し笑う。 まどろむような眼差しで、自分の髪をかき上げて高耶は小さく口を開いた。 「……どこまで行けるんだろうな」 僅かに揺れる瞳で見上げてきた高耶を見下ろして、直江はそっと微笑した。 「どこまでも。……あの海の果てまで」 すると高耶は、視線を返し海を見つめると、すっと海上を指差して、凛とした声で告げた。 「見ろ、直江。あの果てで、空と海がひとつになっている」 真っ直ぐに伸ばした高耶の指の向こうに、果てのない水平線が広がっていた。 丸く掠れて消えてゆくそれは、空と海との境界線でもあり、同時に空の青さと海の青さが、溶けてひとつになっているところでもあった。 見つめていても、もうどこまでが海でどこからが空なのかわからない。ただそこに青は青として鮮やかに存在していて、海は空であり空は海であった。 溶け合ってひとつになりながら、それぞれが互いを包み込むようにして寄り添い合って立っていた。 果てのない空と海を見つめながら、高耶は静かに微笑った。 「直江」 高耶は、秘密を打ち明けるように密やかに名を呼んだ。 「いつか、あんな風になれるといいな。おまえと」 その、透き通るような眼差しを持った横顔を。見つめて、直江は愛しさを噛み締めるように高耶を抱き寄せた。 眩い朝の光に包まれながら。互いの心の中にその想いを誓い合うように、ふたりは静かに抱き合い続けた。
……あの時の風景が、直江の胸に鮮やかに甦る。 今。あの時の誓いはここに実を結んだのだと思った。 最上を目指して歩きつづけた、日々の果てに。 私たちは漸く、あの海の彼方へとたどり着いたのだ。 (あなたを……愛している) 目を閉じ、いつでもそこにいる高耶の笑顔に微笑みかけて。直江は胸の中に広がった想いを、包み込むように抱きしめた。 “アイシテル”という想いが、湧き出る泉のように胸の底に染み込み、全身に広がっていく。 それは直江の想いでもあり、同時に高耶の想いであった。 高耶の魂は、消えたのではない。直江の魂と結びついて、溶けてひとつになったのだ。 消えはしない。この先永劫、どこまで行こうとも――― (あなたの魂は、私と共に歩きつづける) あなたの想いは私の想いとなり、私の想いがあなたの想いとなる。 この腕があなたの腕となって、この足であなたは大地を踏みしめ、この身体であなたは生きていく。 そういう生き方を、私たちは選んだのだ。 (この先もずっと、歩きつづける。あなたと二人で) この手を包む高耶の手のぬくもりを握り締め、幸福そうに微笑みながら。ひらひらと桜の舞う穏やかな風景の中を、直江は再び歩き出した。 ―――次の一歩を、あなたと踏み出すために。
FIN. 初稿:2005.03 |
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