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在日コリアン女性の軌跡つづる本完成/川崎

2009年10月13日

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思いの詰まった一冊を手にする金さん(右)と卞さん=川崎市川崎区桜本

思いの詰まった一冊を手にする金さん(右)と卞さん=川崎市川崎区桜本

 川崎市に住む在日1世の女性の“声”をつづった一冊「在日コリアン女性20人の軌跡」(明石書店)が完成した。窮乏や差別にあえぎながらも、時に笑いに変え必死に生きてきたハルモニ(おばあちゃん)たち。貴重な証言を次世代へ伝えようと有志が11年がかりでまとめた。韓国併合に始まる日本の朝鮮半島植民地化から来年で100年。多くが労働力として送り込まれ、創氏改名や日本語教育の強要など厳しい差別の中で生きてきた歴史の重みが伝わってくる。

 手には、深いしわが幾重と刻まれていた。男性に交ざり炭坑で汗を流した日もあれば、赤子を背負いどぶろくを売った日もある。証言者の一人、78歳になった金芳子(キムパンジャ)さんはつぶやいた。「夢中の人生だった」

 炭坑で働く父を追って5歳で渡日。小学2年のとき父親が大けがを負い、7人きょうだいの長女である金さんが母親の代わりを務めた。炊事に洗濯、育児…。押し寄せる家事に「勉強したいという思いすら浮かばなかった」。12歳から、年を偽って炭坑で働いた。

 誰もが苦しかった時代。だが、韓国・朝鮮人への風当たりはさらに厳しかった。終戦後、働いていた土木、軍需工場などすべての職場から追われ、日本人の引き揚げ者が増えたこともあり、大半の韓国・朝鮮人が職を失ったという。金さんもその一人だった。

 選択肢はなかった。建築現場、焼き肉店の皿洗い、雑居ビルの掃除。何でもやった。「朝鮮人ができる仕事は限られていた」。当たり前のように存在した差別。胸の内に、とどめてきた思いは少なくない。金さんは言う。「きっと生まれてくるのが早すぎたんだね」

 1歳のとき、日本に来た卞乙順(ピョンウルスン)さん(83)も厳しい差別にあった。額には小学生時代に同級生から石をぶつけられた傷あとが今も残る。「『朝鮮人はニンニクくさい』って、毎日石を投げられた」

 卞さんには韓国での記憶はない。「物心がついたときには日本にいた。最初はなぜいじめられるか分からなかった」。家庭以外は通り名で生きてきた。それは日本で周囲との摩擦を極力減らす方法ともいえたという。いま、周囲で本名を知る人は少ない。「韓国に帰ると、向こうの人は『日本人』って言うんですよ。日本で暮らすと『朝鮮人』って言われるんです」

 日本の植民地支配の歴史に翻弄(ほんろう)され、故郷を捨てざるを得なくなり、それでも日本という土地でたくましく生きてきたハルモニたち。いま、彼女たちの言葉はこの100年の意味を訴えかける。卞さんは言う。「つらいことはたくさんあったけれど、この本は昔の自分を思い出し、生きてきた道を証明してくれた。うれしい」

 本に関する問い合わせは「在日高齢者と結ぶ2000人ネットワーク」電話044(288)2997。


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