佐々木到一少将私記 ささき とういち=歩兵第30旅団長(佐々木支隊隊長)・陸軍少将
十二月十三日
(略)
前述する如く午前十時我支隊の軽装甲車が最初に下関に進出して完全に敵の背後を絶ち又我歩兵は北面 の城門全部を占領封鎖して敵を袋の鼠とし、少し遅れて第六師団の一部が南方より江岸に進出し、海軍第十一戦隊が遡江して流下する敵の舟筏を掃射しつつ午後二時下関に到着し、国崎支隊は午後四時対岸浦口に来着した。其他の城壁に向かつた部隊は城内を掃蕩しつつある。実に理想的の包囲殲滅戦を演じてゐるのであつた。
此日我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したもの並各部隊の俘虜を合算すれば我支隊のみにて二万以上の敵は解決されてゐる筈である。
午後二時頃概して掃蕩を終わつて背後を安全にし、部隊を纒めつつ前進和平門に至る。
その後捕虜続々投降し来り数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば兵ならずとも「皆やつてしまへ」と云ひ度くなる。
白米は最早一粒もなし、城内には有るだらうが、俘虜に食はせるものの持合せなんか我軍には無い筈だった。
和平門の城壁に登つて大元帥閣下の万歳を三唱し奉る。此日天気快晴、金陵城頭到る処旭日旗のへんぼんたるを見て自然に眼頭が熱くなった。
中央門外に舎営、美しき寝台あれど寝具なし、南京米を捜し出してくる。(今夜はゆつくり睡られるぞ)
(略)
十二月十六日
命に依り紫金山北側一帯を掃蕩す、獲物少しとは云へ両聯隊共に数百の敗兵を引摺り出して処分した。
市民ぽつぽつ街上に現はる。
(略)
十二月廿六日
宣撫工作委員長命ぜらる、城内の粛清は土民に混ぜる敗兵を摘出して不穏分子の陰謀を封殺するに在ると共に我軍の軍紀風紀を粛清し民心を安んじ速に秩序と安寧を恢復するに在つた。予は峻烈なる統制と監督警防とに依つて概ね廿日間に所期の目的を達することができたのである。
一月五日
査問会打切、此日迄に城内より摘出せし敗兵約二千、旧外交部に収容、外国宣教師の手中に在りし支那傷病兵を俘虜として収容。
城外近郊に在つて不逞行為を続けつつある敗残兵も逐次捕縛、下関に於いて処分せるもの数千に達す。
南京攻略戦に於ける敵の損害は推定約七万にして、落城当日迄に守備に任ぜし敵兵力は約十万と推算せらる。
『南京戦史資料集1』P270-276
沢田正久氏 証言 証言による南京戦史(5)
第16師団 佐々木支隊所属 独立攻城重砲兵第2大隊 第1中隊 観測班長 砲兵中尉
中隊主力は12日、仙鶴門鎮北方約二キロの墓地に陣地進入して放列を敷きましたが、その横の道路を佐々木支隊が前進して行くのを目撃しました。私は観測隊長として、墓地北々西約一キロ、高さ約五〇メートルの揚山に観測所を設け、観測任務につきました。
(中略)
〔14日〕午前8時頃、衛兵所に行ってみると、驚くなかれ、揚山に向かって西方から続々と敵の大部隊が登ってきます。中隊長に報告すると、中隊長は”友軍ではないか”と疑ったほどでした。
(中略)
われわれは墓地を利用して、接近する一部の敵と相対しました。やがて友軍増援部隊が到達し、敵は力尽き、白旗を揚げて正午頃投降してきました。その行動は極めて整然としたもので、既に戦意は全くなく、取りあえず道路の下の田圃に集結させて、武装解除しました。多くの敵兵は胸に「首都防衛決死隊」の布片を縫いつけていました。俘虜の数は約一万(戦場のことですから、正確に数えておりませんが、約八千以上おったと記憶します)でしたが、早速、軍司令部に報告したところ、”直ちに銃殺せよ”と言ってきたので拒否しましたら、”では中山門まで連れて来い”と命令されました。”それも不可能”と断ったら、やっと、”歩兵四こ中隊を増援するから、一緒に中山門まで来い”と言うことになり、私も中山門近くまで同行しました。
(中略)
仙鶴門鎮には集成騎兵隊(三コ師団の騎兵隊を集めた)が居り、戦闘の主役はこの集成騎兵隊で前哨中隊長は陸士45期前後の方だったと思います。また、この投降俘虜を引き渡した歩兵部隊名は思い出せませんが、麒麟門付近に待機していた軍か師団の予備隊(歩兵第三十八連隊第十中隊か----洞富雄注)から派遣されたものと思います。
『南京大虐殺の証明』P298-299
西田優上等兵 陣中日記
第16師団 第30旅団 歩兵第33連隊
12月14日
十一時三十分入城、広場において我小隊は敗残兵三七〇名、兵器多数監視、敗残兵を身体検査して後手とし道路に坐らす。我は敗残兵中よりジャケツを取って着る。面
白いことこのうへなし、自動車、オートバイ等も多数捕獲す。各自乗りまはせり、八時頃小銃中隊に申し送り、昨夜の宿に帰る。敗残兵は皆手榴弾にて一室に入れ殺す
秦郁彦『南京事件』P120-121
第16師団 歩兵第30旅団
歩兵第33連隊戦闘詳報 第三号附表
自昭和十二年十二月十日
至昭和十二年十二月十四日
[俘虜] 将校14、准士官・下士官兵3、082、馬匹52
[備考] 1、俘虜は処断す
2、兵器は集積せしも運搬し得す
3、敵の遺棄死体
一二月 十日 二二〇
一二月十一日 三七〇
一二月十二日 七四〇
一二月十三日 五、五〇〇
以上四日計 六、八三〇
『南京戦史資料集1』P499
児玉義雄氏証言 証言による南京戦史(5)
第16師団 歩兵第30旅団 歩兵第38連隊 副官
連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」と電話で伝えられた。私はこれはとんでもないことだと、大きなショックを受けた。
師団長・中島今朝吾将軍は豪快な将軍で好ましい御人柄と思っておりますが、この命令だけは何としても納得できないと思っております。参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず、その責任は私にもあると存じます。
部隊としては実に驚き、困却しましたが、命令やむを得ず、各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告はありませんでした。激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。
『南京大虐殺の証明』P307
原田兵次郎編『誉れの郷土部隊』(大和旭新聞社 P191〜194より)
助川部隊は、紫金山の北方へ遠く迂回して、鎮江から逃げる敵と南京城北方へなだれ出した七,八万の敵を追撃、大殲滅戦を敢行し、紫金山北麓から下関にかけての揚子江岸で凡四万の敵を掃蕩して、揚子江の流れを血に染めたと云ふから物凄い戦闘であった。助川部隊は南京で約七千の捕虜を擁して、その処置には流石に悩まされたのである。十四日は引続き残敵掃蕩が行はれたが、助川部隊と海軍で掃蕩した敗敵の死体は、町から揚子江岸下流へ二,三里も続き、その数三万と報告される多数に上り、残敵掃蕩後、南京総攻撃開始以来の敵の死体計算が行はれた結果
、大体城外攻撃三日間に倒した数は七万、城内掃蕩で一万五千、ほかに生捕りにしてあるのが各部隊合わして一万二千と判明したのである。分捕兵器は小銃十五、六万挺で数へ切れず、軍用自動車四十台、オートバイ七十台、軍用機四,大小大砲三十余門、弾丸は無数で、此の戦果
は如何に偉大であったかが窺はれる。
『南京大虐殺の証明』P134-135
志水一枝軍曹 陣中日記
第16師団 第30旅団歩兵第38連隊 第3中隊
12月14日
右掃蕩隊として南京北部城内の徹底掃蕩に任ず。〇八〇〇より・・・・城壁を撃ちて城内に進入し、同開門を施す傍ら横行せる敗残兵を補足殲滅す。一部降りて和する者ありしが行動不穏の為九二名を刺殺せり・・・・城内に潜伏或いは横行せる敗残兵無数にて其の醜状其際達しあり。勇躍せる中隊は尚一部抵抗の意志ある敗残兵を随所に殲滅しつつ城内粛正に一段の光彩
を放ちたり
秦郁彦『南京事件』P121
第16師団 歩兵第30旅団
歩兵第38連隊戦闘詳報 第12号附表
昭和十二年十二月十四日
[俘虜] 将校70、准士官・下士官7130
[備考] 俘虜7、200名は第十中隊堯化門附近を守備すへき命を受け同地に在りしが十四日午前八時三十分頃数千名の敵白旗を揚げて前進し来り午後一時武装を解除し南京に護送せしものを示す
『南京戦史資料集1』P488
沢田正久氏 証言 証言による南京戦史(5)
第16師団 佐々木支隊所属 独立攻城重砲兵第2大隊 第1中隊 観測班長 砲兵中尉
(14日)
正午頃投降してきました。その行動は極めて整然としたもので、既に戦意は全くなく、取りあえず道路の下の田圃に集結させて、武装解除しました。多くの敵兵は胸に「首都防衛決死隊」の布片を縫いつけていました
秦郁彦『南京事件』P123
※ 38連隊戦闘詳報12月14日の捕虜と思われる(秦郁彦)
『小戦例集』 昭和14年刊行
十四日八時堯化門南方の揚坊山、新庄(攻城重砲兵第1中隊主力)に約二、三千の敵が来襲、十二時頃約七千名が堯化門付近において投降せり
秦郁彦『南京事件』P123
※38連隊戦闘詳報12月14日の捕虜と思われる(秦郁彦)
佐々木元勝『野戦郵便旗』
(十七日の項) 夕靄に烟る頃、中山門を入る前、また武装解除された支那兵の大群に遇う。乞食の大行列である。誰一人可憐なのは居ない。七千二百名とか
(引率の将校の話) 一挙に殺す名案を考究中・・・・船に乗せ片付けようと思うのだが、船がない。暫らく警察署に留置し、餓死さすのだとか・・・・
秦郁彦『南京事件』P124
※38連隊戦闘詳報12月14日の捕虜と思われる(秦郁彦)
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