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正義のかたち:重い選択・日米の現場から/1(その2止) 「人生を狂わせた」

 <1面からつづく>

 ◇1審「誤判」裁判官、裁判員の「死刑」を懸念

 仙台地裁古川支部の中庭で、職員らがテニスラケットを振り、歓声を上げていた。1957年10月29日。いつもの昼休みの光景だった。数時間前、「松山事件」で強盗殺人罪などに問われた斎藤幸夫さん=06年7月に75歳で死去=に、死刑が言い渡された。テニスコートには右陪席裁判官の姿もあった。直後に、中年の女性が、書記官室に怒鳴り込んだ。

 「息子を死刑にして、うれしいのか」

 斎藤さんの無実を信じ、判決公判を傍聴した母ヒデさん=08年12月に101歳で死去=だった。斎藤さんが再審で冤罪(えんざい)を晴らすのは、それから27年後だ。

    ■

 「人生を狂わせてしまった。誤判の責任をどう取るべきか」。左陪席裁判官だった萩原金美(かねよし)さん(78)=神奈川大名誉教授=は苦悩し続けてきた。死刑を言い渡した当時は26歳の駆け出し判事補だった。

 有罪なら死刑は免れない事件。真実の発見に躍起になった。斎藤さんが事件後に使ったとされる掛け布団の襟あての血痕を鑑定してもらうため、書記官と一緒に布団を抱えて上京し「権威」といわれた法医学者を訪ねた。

 斎藤さんを取り調べた警察官への証人尋問で、聴取した時間や方法などを繰り返し尋ねると、隣に座る裁判長に法服の右袖を引っ張られ、制止された。

 閉廷後、「刑事裁判は一を聞いて十を察する余韻があるべきというもの。あんな尋問は裁判の品位を汚す」とたしなめられたが「死刑かどうかの事件で、品位も何もありますか」と食ってかかった。

 「権威」による鑑定の結果、襟あてに付着した血痕は被害者と同じA型。斎藤さんの家にA型の人はいない。萩原さんを含め裁判官3人は誰も、有罪に疑問をはさまなかった。萩原さんは約2週間、毎晩仏壇に火をともし、一滴も酒を飲まずに机に向かい、判決文を起案した。

 死刑を言い渡した後も眠れない夜は何度もあった。事件記録が頭の中を駆け巡ったが、最後は、法医学者の鑑定で<間違いないんだ>と自分に言い聞かせた。だが、再審請求後に明らかにされた証拠や証言で、県警が掛け布団を押収した後に血痕が付着した疑いが出てきた。84年の再審無罪の判決文は「あまりにも不自然、不合理な付着状況が認められる」と捜査側の証拠捏造(ねつぞう)を示唆した。

 萩原さんは、既に大学教授になっていた。誤判にかかわった自責の念から大学を辞めようか悩んだが、学生に止められ踏みとどまった。「裁判官だって死刑事件を担当したくないと思っている人はたくさんいる。こんな負担を、たまたま選ばれた裁判員に負わせるのは、どうかとも思う」

    ■

 仙台地裁で斎藤さんに再審無罪を言い渡した小島建彦さん(75)は70年代、一般には公開されていない刑場に、視察で入ったことがある。絞首刑になる死刑囚が立つ踏み板を見つめ、人の命を奪う重さと向き合った。

 小島さんは刑事裁判に国民の視点が入る裁判員制度を評価する。しかし、もし死刑を言い渡すなら、裁判員も責任を持つべきだと思う。「裁判員も刑場を見た方がいい。極刑がどんなものか、知っておくべきです」【松本光央】

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 〒100-8051(住所不要)毎日新聞社会部「裁判員取材班」係。メールt.shakaibu@mainichi.co.jpまたは、ファクス03・3212・0635。

毎日新聞 2009年10月11日 東京朝刊

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