各地で始まった裁判員裁判。これまでは事実関係に争いのない事件が多いが、今後は検察側が死刑を求刑したり、被告が無罪を主張するケースも予想され、国民から選ばれた裁判員は、より重い決断に直面する。先進国の中で死刑制度を維持する日本と米国で、難しい判断を迫られてきた人たちを訪ねた。【松本光央】
1984年7月。「松山事件」のやり直し裁判(再審)で、死刑囚の斎藤幸夫さんは冤罪(えんざい)を晴らし、29年ぶりに自由を手にした。仙台地裁の裁判長として無罪を言い渡した小島(おじま)建彦弁護士(75)はその数カ月後、仙台市内の居酒屋で偶然、斎藤さんと出会った。
「元気ですか?」
「はい」
死のふちから生還した斎藤さんの元気そうな姿が、うれしかった。だが、長年拘置された斎藤さんは国民年金に入れず、晩年は無年金で生活保護に頼った。望んだ結婚もかなわず06年7月、75歳で死去した。斎藤さんと「同い年」になった小島さんは、事件について初めて取材に答えた。
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裁判の焦点の一つは斎藤さんの「自白」だった。小島さんは時系列表を作り、表の上段に供述内容、下段に捜査の進展状況を書き込んで検証した。捜査官が新たな情報を入手するたび供述が変遷する様子が手に取るように分かった。犯人しか知りえない「秘密の暴露」も全くない。自白は信用できないと確信し、無罪を言い渡した。
ただ「もし自分が1審の裁判官だったら、無罪を言うのは難しかったかもしれない」とも語る。有力な物証とされた血痕の証拠価値を疑問視する新証拠は当時なかった。「裁判官だってミスジャッジすることはあるんです」
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52年前の10月29日、仙台地裁古川支部。職員らが中庭でテニスラケットを振り、歓声を上げていた。数時間前、斎藤さんに死刑が言い渡されたばかり。中年の女性が、書記官室に怒鳴り込んだ。「息子を死刑にして、うれしいのか」。斎藤さんの無実を信じ、判決公判を傍聴した母ヒデさん=08年12月に101歳で死去=だった。
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「人生を狂わせてしまった。誤判の責任をどう取るべきか」。左陪席裁判官だった萩原金美(かねよし)さん(78)=神奈川大名誉教授=は苦しみ続けてきた。死刑を言い渡した当時は、26歳の駆け出し判事補だった。
有罪なら死刑は免れない事件。真実の発見に躍起になった。斎藤さんが事件後に使ったとされる掛け布団の襟あての血痕を鑑定してもらうため、書記官と布団を抱えて上京し、「権威」といわれた法医学者を訪ねた。
鑑定の結果、血痕は被害者と同じA型。斎藤さんの家にA型の人はいない。裁判官3人は誰も、有罪に疑問をはさまなかった。萩原さんは約2週間、毎晩仏壇に火をともして判決文を起案した。
だが、再審請求後に明らかにされた証拠や証言で、県警が掛け布団を押収した後に血痕が付着した疑いが出てきた。84年の再審無罪の判決文は「あまりにも不自然、不合理な付着状況が認められる」と捜査側の証拠捏造(ねつぞう)を示唆した。
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晩年の斎藤さんは、夕方になるとほぼ毎日、鮮魚店を営む幼なじみの男性(78)の家を訪ねた。大好きな酒を飲み、笑い、男性の孫を可愛がった。だが、時に見せる影。「(拘置中は)看守の靴音を聞くと、自分の前で止まるんじゃないかと怖かった」。執行におびえた日々を吐露した。
「裁判員も刑場を見た方がいい。極刑がどんなものか、知っておくべきです」。斎藤さんに再審無罪を言い渡した小島さんの言葉だ。=つづく
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■ことば
宮城県松山町(現大崎市)で1955年、一家4人が惨殺、放火された事件。逮捕・起訴された斎藤幸夫さんは公判で無罪を主張したが、60年に死刑判決が確定した。その後、有力物証とされた血痕の鑑定を巡って新たな証言や記録が明らかになり、仙台地裁が79年に再審開始を決定。戦後の日本で死刑確定後に再審無罪となったのは、ほかに免田、財田川、島田の3事件がある。
毎日新聞 2009年10月11日 西部朝刊