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正義のかたち:重い選択・日米の現場から/1(その1) 難しい「自白」の判断

 各地で始まった裁判員裁判。今後は検察側が死刑を求刑したり、被告が無罪を主張するケースも予想され、国民から選ばれた裁判員は、より重い決断に直面する。先進国の中で死刑制度を維持する日本と米国で、難しい判断を迫られてきた人たちを訪ねた。

 ◇「再審無罪」の裁判長「ミスジャッジある」

 1984年7月。「松山事件」のやり直し裁判(再審)で、死刑囚の斎藤幸夫さんは冤罪(えんざい)を晴らし、29年ぶりに自由を手にした。仙台地裁の裁判長として無罪を言い渡した小島(おじま)建彦弁護士(75)はその数カ月後、仙台市内の居酒屋で偶然、斎藤さんと出会った。

 「元気ですか?」

 「はい」

 死のふちから生還した斎藤さんの元気そうな姿を見て、うれしさが込み上げた。短いやり取りだったが、その笑顔は小島さんの記憶の中に残る。

 だが、長年拘置されていた斎藤さんは国民年金に入れず、晩年は無年金で生活保護に頼った。望んだ結婚もかなわず06年7月、75歳で死去した。斎藤さんと「同い年」になった小島さんは、事件について初めて取材に答えた。

 裁判の焦点の一つは、斎藤さんの「自白」だった。小島さんは時系列表を作り、表の上段に供述内容、下段に捜査の進展状況を書き込んで検証した。捜査官が新たな情報を入手するたびに供述が変遷していく様子が手に取るように分かった。犯人しか知りえない「秘密の暴露」も全くない。

 自白は信用できないと確信し、無罪を言い渡したものの、真犯人は分からないまま。「犯人をなぜ出すんだ」。投書が地裁に届いた。92年に退官した後、法曹関係者からも「実際はどうだったんだ」とよく聞かれた。そのたびに「彼は無罪、無実、冤罪だったと思う」と繰り返してきた。

 だが「もし自分が1審の裁判官だったら、無罪を言うのは難しかったかもしれない」とも語る。有力な物証とされた血痕の証拠価値を疑問視する新証拠は当時なかった。「裁判官だってミスジャッジすることはあるんです」

 晩年の斎藤さんは、夕方になるとほぼ毎日、鮮魚店を営む幼なじみの男性(78)の家を訪ねた。大好きな酒を飲み、笑い、男性の孫を可愛がった。だが、時に見せる影。「(拘置中は)看守の靴音を聞くと、自分の前で止まるんじゃないかと怖かった」。執行におびえた日々を吐露した。「ミスジャッジ」の死刑が執行されれば取り返しはつかない。【松本光央】

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 ■ことば

 ◇松山事件

 宮城県松山町(現大崎市)で1955年、一家4人が惨殺、放火された事件。逮捕・起訴された斎藤幸夫さんは公判で無罪を主張したが、60年に死刑判決が確定。その後、有力物証とされた血痕の鑑定を巡って新たな証言が明らかになり、仙台地裁が79年再審開始を決定。戦後の日本で死刑確定後に再審無罪となったのは、ほかに免田、財田川、島田の3事件がある。

毎日新聞 2009年10月11日 東京朝刊

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