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近隣友好即排外主義 [2009-09-26 00:00 by kollwitz2000]
外務省時代の佐藤優に関する民主党当選議員の証言 [2009-09-21 00:00 by kollwitz2000] 鈴木宗男の衆院外務委員長就任と「東アジア共同体」 [2009-09-20 00:00 by kollwitz2000] 『金曜日』主催イベントに城内実が登場 [2009-09-19 00:00 by kollwitz2000] 姜尚中はどこへ向かっているのか――在日朝鮮人の集団転向現象 14 [2009-09-15 00:00 by kollwitz2000] 姜尚中はどこへ向かっているのか――在日朝鮮人の集団転向現象 13 [2009-09-14 00:00 by kollwitz2000] 姜尚中はどこへ向かっているのか――在日朝鮮人の集団転向現象 12 [2009-09-12 00:00 by kollwitz2000] 姜尚中はどこへ向かっているのか――在日朝鮮人の集団転向現象 11 [2009-09-08 00:00 by kollwitz2000] 姜尚中はどこへ向かっているのか――在日朝鮮人の集団転向現象 10 [2009-09-06 00:00 by kollwitz2000] 姜尚中はどこへ向かっているのか――在日朝鮮人の集団転向現象 9 [2009-09-05 00:00 by kollwitz2000] 姜尚中はどこへ向かっているのか――在日朝鮮人の集団転向現象 8 [2009-09-04 00:00 by kollwitz2000] 姜尚中はどこへ向かっているのか――在日朝鮮人の集団転向現象 7 [2009-09-03 00:00 by kollwitz2000] 第1回口頭弁論期日報告 [2009-09-02 00:00 by kollwitz2000] 衆議院選挙結果についての雑感 [2009-09-01 00:00 by kollwitz2000] mdebugger 氏が、このたび国家公安委員長・拉致問題担当大臣に就任した、中井洽の発言を取り上げている。詳しくはそちらを見ていただきたいが、ここで挙がっている中井の発言を読む限り、中井は、朝鮮籍の在日朝鮮人に対し、少なくとも北朝鮮への渡航禁止措置の厳密適用と、朝鮮総連そのものか朝鮮総連系と見なす団体の資産凍結を意図している、と見てよいだろう。
私はかつて、「朝鮮総連の資産凍結について」で、麻生政権による「朝鮮総連の財産の凍結処分」案を取り上げた際に、当時の民主党の北朝鮮制裁案をも取り上げ、「麻生政権が倒れ、民主党(主導の)政権への「政権交代」が実現しても、こうした在日朝鮮人への迫害はなくならないどころか、むしろより一層激しくなる恐れすらある」と書いたが、どうやらその予想は的中しそうである。 民主党は、日韓の「和解」路線、日朝国交正常化、「二島返還」による北方領土問題の解決、「戦略的互恵」としての日中友好といった、日本の保守派・右派からの反発を買うであろう外交政策を展開していくであろう。特に、2010年の「韓国併合100年」には、日韓間の「和解」の物語が山のように演出されると思われる。和田春樹が提唱しているような、「鳩山談話」や天皇訪韓も実現する可能性が高いのではないか。 そして、だからこそ民主党は、<右>の姿勢を強調しなければならないのであって、そのための格好の材料が、在日朝鮮人なのである。民主党は、周辺諸国に対して「友好」的姿勢で臨むからこそ、日本国内においては在日朝鮮人(団体)への嫌がらせ・弾圧をより激しく行っていく、と思われる(注)。中井の言うように、まさに、国家公安委員長と拉致問題担当大臣の「兼務という形に、鳩山内閣の意思が表れている」のである。 この構造は、実は、安倍政権の頃と全く変わっていない。私が、このブログの第1回目に書いた記事「朝鮮総連弾圧を批判する」から引用しておこう。 「左派の一部に「安倍は首相になって穏健になった」という認識があるようだが誤りだ。中韓への譲歩と総連弾圧は表裏一体である。今回の総連弾圧が、対北朝鮮制裁上の有効性すら疑わしい「いじめ」でしかないのも、これが対内的ナショナリズムの高揚の必要上から執られた措置であることを示している。そしてこの動きはますます酷くなるだろう。」 なお、こうした嫌がらせや弾圧は、「日朝国交正常化」と何ら矛盾しない。日朝平壌宣言に基づいた日朝国交正常化運動がその典型だが、植民地支配責任や日本国内の排外主義を問わない「日朝国交正常化」は、日本国内の「北の手先」または「親北勢力」を徹底的に弾圧するか「親日」的なものに転向させるかした上でのみ、政治的には可能となる。和田春樹が佐藤優と提携しているのも、そのことを強く示唆している。 ただ、上で述べたようなことは、少し考えれば自明であるから、民主党支持のリベラル・左派もそのことには気づいていると思われる。むしろ、このところのリベラル・左派の言説を見る限り、今後、民主党主導政権によって行われるであろう、在日朝鮮人(団体)への嫌がらせ・弾圧時に観察されると思われるのは、そうした嫌がらせ・弾圧を必要悪と見なす言説ではないか。民主党は、右の姿勢を打ち出す「ポーズ」をとらなければならないから、それは仕方がない、と。民主党の排外主義は、「ネタ」であって「ベタ」ではない、とかな。ちょうどそれは、雨宮処凛や萱野稔人が、ネット右翼の「嫌韓」が、自分たちの「仲間」であるネット右翼にとっての生きがいであるから一概に否定してはならない、と言うのに似ている。実際に、そうした言説が出だした場合(そもそも、嫌がらせ・弾圧が黙認されている時点でそうだが)、それは、ここ数年間の<佐藤優現象>による教育的結果だと言えると思う。 (注)念のために書いておくが、「佐高ファンさんの疑問に答える1 朝鮮総連を支持するかしないかは関係ない」で詳しく述べたように、弾圧を問題にするにあたって、朝鮮総連を支持するかどうかは関係がない。私は朝鮮総連を支持していないが、外交関係上の「国益」の観点という理由で、多数の構成員を持つ民族団体に対して、政府が意のままに強制捜査をしたり資産凍結したりが大っぴらにできるということならば、在日朝鮮人は日本国民と同等の基本的人権は享受できない、と言っているに等しいから、韓国国籍の在日朝鮮人の日本での生活も、「権利」ではなく、日本国家(日本人)が与える「恩恵」に過ぎないものということになってしまう。 前回、鈴木宗男の衆議院外務委員長について述べたが、民主党と言えば、このたび衆議院議員に初当選した、元外務官僚である緒方林太郎議員のブログ(なかなか興味深い)に、面白い記述がある。
ここで緒方は、佐藤の著作や能力を評価しつつも、佐藤について、以下のように証言している。もちろんここでの「某国会議員」とは鈴木宗男のことである(以下、強調は引用者)。 「同氏は非常に巧みなやり方で外務省批判をしています。ポイントは2つです。 ● 自分に都合の悪いことは隠す。 ● 日本外交において本来秘密に当たるような部分を自分に都合の良いかたちで公開している。 非常に上手く世論誘導をやっているなと思います。同氏は「日本外交の秘密に当たる部分に触れても絶対に役所が反論してくることはない」とタカを括っているわけです。それは読みとしては正しいのです。同氏があれこれと秘密を暴いていることに反論すると同じ土俵に乗って議論しなくてはなりません。そうすると、秘密に相当する部分の真贋にまで立ち入らなくてはならなくなる、その議論に乗ってはいけないという判断を外務省側がすることを知っているのです。かつて、西山事件という事件がありました。某新聞の記者が外務省幹部の秘書と情を通じて(←渋い表現です)、沖縄返還交渉に関する秘密情報を取ったことが問題にされたケースです。その秘書は国家公務員法で起訴されました。この時は当時の佐藤栄作政権の不退転の決意があったから、国家公務員法による秘密漏洩というかたちでの起訴まで持ち込まれましたが、佐藤氏については、日露交渉の秘密や外務省の秘密を少々バラしたところでそこまでは行かないことと踏んで、現在、あれこれと著作を書いているわけです。 ただ、彼が外務省で何をやっていたかということを思い直すと、彼の著作の出来や世論誘導が白々しく見えるのも事実です。こういうことは現役の外務官僚は絶対に書かないので、こっそりと部分的に書き残しておこうと思います。 ● 外務省内に恐怖政治を敷いた。 某国会議員と密接につながり、某国会議員にすべての情報を流し、気に入らない相手は某国会議員が介入してくるシステムを作っていました。佐藤氏全盛期の時代、彼は自分のスクールを作り、どんどんお仲間を増やし、そのお仲間が省内をゲシュタポのように闊歩していました。ロシア外交に関わる人たちの間では疑心暗鬼が増大し、その圧力に耐え兼ねて多くの有為な外務省員が辞めていきました。その損失は大きいです。私自身、ある案件で某国会議員に説明に行ったら、同氏が横に聳えていて強権的にご託宣を垂れていたのを思い出します。「おい、おまえ外務省のお役人じゃないのかよ?」と思ったのが懐かしいです。 ● 相当程度、ロシア外交を私物化した。 まあ、これはちょっと書きにくいですんですけどね。ただ、両国で作った「支援委員会」という国際機関に溜まったお金をあれこれと変なことに使っていたのは事実です。よく変な出張をしていました(目的地、同伴者等が変だった)。お金の使途に少しでもストップがかかると、佐藤氏ルートですぐに某国会議員(当時、官房副長官だった)に伝わり、内閣総理大臣官邸に呼びつけられ怒鳴られるという構図が相当罷り通っていました。まあ、あれを私物化と言わなければ、私物化という言葉が死語になってしまうくらい私物化していました。 そんなこんなで某国会議員と共に失脚してしまったのです。」 http://ameblo.jp/rintaro-o/entry-10027020425.html それにしても、民主党議員の緒方ですらこれだけ言っているのに、佐藤優に関する一連の汚職疑惑まで全面擁護しようとするリベラル・左派というのは一体何なのだろうか。ここまでくると滑稽とすら言える。 7月に佐藤の有罪判決が確定した際にも、『金曜日』は、「検察の捻り出した虚構に付き従うことしかできない司法の砦=最高裁の滑稽な佇まいには、徹底的に唾を吐きかけておきたいと思う」などという青木理の一文を掲載しており(2009年7月10日号)、『世界』も佐藤を相変わらず誌面に登場させている。 electric heel氏は、前回挙げた記事で、鈴木が「最高裁判断により実刑確定で収監されたとしても、リベラル・左派が「国策捜査」と念仏を唱えて悲劇のヒーロー化するんだろう」と述べているが、佐藤へのリベラル・左派の扱いを見る限り、そう思わざるを得ないだろう。実際に、『世界』は、2006年2月号に鈴木と山口二郎の対談(鈴木宗男×山口二郎「敗者復活の政治を!」)を掲載しているから、護憲派ジャーナリズムは鈴木に関しても佐藤と同様の擁護論を展開する、と思われる。 仮に、electric heel氏が最新記事で推測するように、 「この二人を動かしている大きな組織がある」のだとすれば、もはや護憲派ジャーナリズムはそうした組織のプロパガンダの道具に成り下がっているのかもしれない。 electric heel氏が、鈴木宗男衆議院議員の衆議院外務委員長就任について触れている。
「”疑惑の総合商社”鈴木宗男リターンズ」 http://electric-heel.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-3d0a.html electric heel氏が挙げているように、民主党が、かつて批判対象にした、また当然反対が予想される鈴木をあえて持ってきたということは、民主党とロシアの間で、北方領土の「二島返還」で手打ちが済んでいる、ということを意味していると考えるのが自然だろう。 日露の「和解」は、「東アジア共同体」(東北アジア共同体)の実現にとって不可欠である。東アジア共同体論の代表的論者である和田春樹が、<佐藤優現象>を推進するのも、以前挙げた理由のほか、この辺がからんでいるのだろう。和田の東アジア共同体(「東北アジア共同の家」)論でも姜のそれでも、東アジア共同体の構成国には一貫してアメリカとロシアが含まれている。 いまだに「東アジア共同体」が平和主義的な何かだと勘違いしている人を見かけるが、東アジア共同体とは、アメリカの軍事負担を肩代わりする、「対テロ戦争」を円滑に遂行する軍事同盟である。もちろん、NATOがそうであるように、それはアメリカの紐付きである。東アジア共同体論を提唱する和田や姜が、主観的には平和主義的な願望を持っていようが、確信犯であろうが、それはどちらでもよい。「東アジア共同体」論において、和田や姜は、「国民基金」における和田の役割を反復している。 和田や姜は、「東アジア共同体」を平和主義的な構想だと宣伝しており、そのように理解している人間も多いようだが、そんなわけはない。むしろ、「東アジア共同体」が成立すれば、「対テロ戦争」へのアメリカの諸負担は格段に減るから、かえって一層、先進国による中東やアフリカ等への軍事介入は増えるだろう。もちろん、東アジアにおいても、である。 『金曜日』はすごいなあ。もう何も言うことないよ。言ってるけど。最新号(2009年9月18日号)の巻末広告より。
城内実が登場。 城内については、kojitaken氏が精力的に取り上げておられる。例えば、下の記事を参照のこと。 http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20090907 なお、佐藤優は、以前『ZAITEN』の連載で、城内とは城内の外務官僚時代から付き合いがあったことを明かした上で、城内を賞賛する旨の一文を書いていた。 『金曜日』の現在と将来(予想)については、「論評:佐高信「佐藤優という思想」③ ブラック・ジャーナリズム化する左派メディア」で論じたので繰り返さないが、佐藤のための『金曜日』読者向けのアリバイ用対談(田中優子との)も今号は載っているし、もう完全に「ブラック・ジャーナリズム」化してしまったようである。 城内の『金曜日』イベントの登場は、『金曜日』の<佐藤優現象>の論理的帰結である。いや、帰結どころではなくてその次もあるだろう。城内以上のタマって誰だ? 4-7.挫折と転向(下)
5. その飛躍の証が、『愛国の作法』(2006年10月)だと思われる。ここで、この企画の経緯について語った、編集者の証言を見ておこう。 「 「愛国心について書いてみたいんです」 編集長と私のほうを見据えて、姜尚中さんが静かに言いました。神田のホテルのロビーで、朝日新書の最初の打ち合わせをしたときのことでした。 テレビでおなじみの姜さんは、朝日カルチャーセンターで不定期の講座を持っています。いつも満員の盛況で、老若男女の幅広い層の方たちが熱心に聴いています。朝日新書もそうした広範な読者を獲得したいと思い、姜さんに執筆をお願いしたのでした。でも、まさか「愛国の作法」というタイトルを、ほかならぬ姜さんから提示されるとは思いもよりませんでした。 その当時、新書業界では藤原正彦さんの「国家の品格」がベストセラーを独走中でした。 (中略) 執筆中に、北朝鮮のミサイル発射、首相の靖国神社参拝などのできごとがあり、テレビに生出演している姜さんを見ながら「原稿は……」と気をもんだこともありました。脱稿の直前には、五輪招致活動で福岡市の応援演説をした姜さんのことを石原都知事が「怪しげな外国人」と発言し、急遽、あとがきに加筆してもらいました。」(「朝日新書創刊/編集者から――姜尚中『愛国の作法』」『一冊の本』2006年10月号) 藤原正彦『国家の品格』(新潮新書)の刊行日は2005年11月20日であるから、「最初の打ち合わせ」の時期は、2005年末から2006年前半と考えてよいだろう。上記の「靖国とヒロシマ」で示したような、絶望的認識の下で、姜は新たな立場(または模索期の「国益」論の発展的主張)を打ち出そうとしたように思われる(注16) 『愛国の作法』以降の姜は、「普通の国」化への拒否感といった残滓は消え去っている。また、その主張は、自民党の支持層を奪回するという政治構想に則ったものとなっており、そのためのイデオロギー次元の再編も行っている。模索期のように、単に自分の主張の方が「国益」的には合理的だと主張し、それがどれほど説得的に提示されたとしても、支持層の奪回は不可能である。したがって、そうした構想の下では、情動を動員しうる形でのイデオロギー次元の再編が不可欠となる。それが、『愛国の作法』での、日本人戦死者追悼論(以前は批判対象だった、加藤典洋『敗戦後論』とほぼ同趣旨)、(小林よしのりすら怯むほどの)愛郷心の擁護であり、『日本――根拠地からの問い』(2008年2月)以降の天皇制の擁護である。すなわち、姜の主張は、敵と同等もしくはそれ以上に「靖国的なもの」に親和的なものにならざるを得ない。その上で、東北アジア共同体の実現の邪魔になる、首相の靖国神社参拝や「従軍慰安婦」問題など、周辺諸国と軋轢になっている点のみを「解決」するという戦略となるだろう。 実際に、姜は「語り下ろし 『愛国の作法』をめぐって」と題された佐高信との対談(佐高信・姜尚中『日本論 増補版』(角川文庫、2007年2月刊)所収。対談の日付は2006年12月8日)で、以下のように述べている。 「姜 (中略)どういうわけか昨年(2005年)から、全国町村議会議長会という全国組織に何回か呼ばれて話をしているんです。先日は、吉野川が流れる川上村に行ってお話を聞いたんだけれども、村の人たちが言うには、「もうこの村はなくなるかもしれない」と。これまでは自民党のグラスルーツだったような村ですよね。でも、それが確実に変わってきている。だから安倍政権に対しても、「我々はよく監視しなければならない」とはっきり村長さんが言うんです。その話を聞いても、リベラル、保守ということだけではなく、保守というものをもう一回掘り起こさなければならないんじゃないかなと思いました。川上村の人たちが、ほんとうに国というものと向き合おうとしたときこそ力に繋がるんじゃないかと。都市のぽっと出のインテリに比べて、彼らはしたたかだし、性根も据わっている。そういう実感が背景にあって、『愛国の作法』を書いたというところもあるんです。」(同書、23~24頁) 「姜 (中略)我々は新しい文法を作らなければと思います。それをパトリアに通じる話で言えば、たとえば地方を回っていると、これまで保守と思っていた人も、ものすごく芯に何か持っているんですよね。パトリアに届く文法を使えば、意外と、今の自民党政権がひっくり返る可能性はあるんじゃないかと。」(同書、29~30頁) 姜のこの「戦略」は、自民党政権を「ひっくり返」すという目的からすれば、かなりの妥当性を持ったものである。そして、この度の「政権交代」も、これと同様の民主党の「戦略」に則って実現したように思われる。姜が民主党にどの程度影響力を持っているかは知らないが、鳩山由紀夫の「私の政治哲学」(『Voice』2009年9月号)における地域共同体の擁護、東アジア共同体の創造といった主張が、現在の姜の中心的主張とほぼ一致していることは留意されるべきだろう。 (注16)ただ、姜が飛躍の必要性を感じていたことは確実だと思うが、実際に出版された『愛国の作法』に見られるような規模での転向は、2006年7月4日の「北朝鮮のミサイル発射」がなければ生じていなかったかもしれない(この辺は跡付けのしようがないので推測にとどまるが)。『愛国の作法』における姜の転向の特徴のいくつかは、南原繁の評価の際に表れてくるが、姜の南原への高評価は、管見の範囲では、2006年8月15日である。この日に東京大学で開かれた「八月十五日と南原繁を語る会」で、姜は南原繁の顕彰講演を行っており、単行本に収録された文章(姜尚中「南原繁と憲法九条」立花隆編『南原繁の言葉――8月15日・憲法・学問の自由』東京大学出版会、2007年2月刊。同書3頁によれば、「本書はその会の配布資料も含めたほぼ忠実な全記録」とのことである)を読む限り、内容的に『愛国の作法』での南原評価と強い連続性を持っている。 既に見たように、姜は、2005年前半の「反日運動」への日本のメディア、特にリベラル・左派メディアの対応に接して、新しい言説状況に即応するために、「国益」論的立場を打ち出すようになったと思われる。私は、あの2006年7月の朝鮮民主主義人民共和国のミサイル実験後の、日本のメディアにおける強硬論の過熱状況において、姜が何らかの対応の必要性を考えなかった、とは考えにくいと思う。ミサイル実験が核実験まで行き着くであろうことは、姜なら容易に推測し得たと思われるし、そうなれば、それまでのスタンスでは姜がメディアで活躍し得なくなるであろうことも、容易に予測し得たと思われるからである。 ただし、仮に北朝鮮のミサイル実験やその後の核実験がなかったとしても、どこかの時点で『愛国の作法』で見られたような規模での転向は行われただろう。 6. 私はこの章の冒頭で、2006年夏より前の約1年間における模索の挫折によって、または帰結として生じたものだと述べた。 この模索期における「国益」論的立場への移行を、日本の右傾化への対抗上、という点に重きを置いて位置づければ、転向は「模索の挫折」ということになるし、姜自身の右傾化、という点に重きを置けば、転向は模索期の延長上で、その「帰結」と認識されることになる。 私は、この模索期の姜の言動には、この両方の見方が同時に成り立つと思う。このように把握することで初めて、「姜さんは戦略的に後退しているだけなのだから、大目に見てあげるべきだ」といった類の議論を無効化できると思う。確かに姜の主観では戦略的に後退しているだけなのかもしれない。だが、これまでの記述で示したように、2005年夏頃以降の姜の基本的な立場は日本の「普通の国」化を前提としたものであるから、日本の「普通の国」化に反対する立場からすれば、そうした「戦略」自体が無意味なのである。特に、2006年夏前後以降の転向においては、前述のように、基本的スタンスは自民党支持層と同等もしくはそれ以上に「靖国的なもの」に親和的なものにならざるを得ない(現になっているし、今後、一層そうなるだろう)のだから、「戦略」云々で姜の発言を弁明しようという試みは、端的に有害であると言わねばなるまい。 『愛国の作法』以降の姜が、その旺盛な発言や執筆、メディアへの登場だけでなく、発言内容から見ても、極めてポジティブであり、希望に溢れているように見える。「何やらわたしはいま、第二の青春を生きているような気がしているのです」とまで言っている(姜尚中『姜尚中の青春読書ノート』朝日新書、2008年4月)。もはや前述の「靖国とヒロシマ」に見られたような絶望感は欠片も見られない。 だがこれは、安倍政権が崩壊するなどして、政治的危機が去ったからではない。姜にとって、日本が「第三次国民国家」に、「普通の国」になるのは既定方針であって(もちろん民主党主導政権もこれである)、姜にとってはそうしたゲームはとっくに終わっているのである。後はその既定方針の上で、自分がどれだけ権力を勝ち取り、「東北アジア共同体」をいかに実現するかが問題であって、どのみち「普通の国」になるのだから、姜が権力を持っているほうが大衆にとってもよいはずだ、と考えているのだと思われる。だから、姜を、日本の「普通の国」化に抗している批判的知識人だと考えているファンやシンパは、現在のゲームにおける姜の優位性を高めるための持ち駒でしかないのであって、姜自身もそう考えていると思う。 (つづく) 4-7.挫折と転向(中)
4. これまで、模索期の姜が、状況がかなり絶望的であると認識していること、そして、右傾化への対抗策として、戦後の平和主義を対置しようとしてみたが、それにも成功していないことを見てきた。 姜は恐らく、自らの八方塞がりの状況に気づいていたはずである。そのことを示していると思われるのが、管見の範囲では2005年後半の姜の文章から表れ始める、「第三次国民国家」なる概念である。以下、使用例を見てみよう。 「姜 (中略)現在は、言ってみれば、(注・政教分離原則を放棄して)神聖国家になろうとしているわけでしょ。一言で言ってみれば、森が言った神の国ですよ。神の国にいる日本人は神の民なんだというね。僕は最初これを聞いたとき、本当にバカバカしいと思ったけれど、ただ笑い飛ばすだけではすまなくなりつつある。 戦前までを第一次国民国家体制だとすると、戦後は第二次国民国家体制、60年経って第三次国民国家体制へ。そこで日本が考えたカードというか、やっぱりお里が知れているようなところに戻ったとしか思えないんですよ。」(姜尚中・丸川哲史「改憲阻止の新たな戦術」) 「 振り返ってみると、日本の近代国家の成立とその変化が、ちょうど70年ほどの間隔で起こったことに気づきます。 まずは、1860年代から70年代にかけて、明治国家が形成されます。その体制は、1930年代から40年代、いわゆる15年戦争の時期に、ついに破綻します。そして現在、私たちが生きる時代は、そこで形成された第二次国民国家が終焉を迎え、次の、第三次国民国家が立ち上がってくる過渡期の段階なのかもしれません。 「戦後60年」という言い方はされますが、10年後、「戦後70年」という言い方はなくなっているでしょう。おそらく今が、戦後という時代区分の最後の時なのではないでしょうか。 巨視的に眺めれば、その底流には、70年周期で繰り返される国家形成にまつわる反復のリズムが存在するのかもしれません。第二次世界大戦後の戦後国家が、終焉に至ることを予見しているわけでは決してありませんが、一連の改憲論議を、「第三次国民国家の再定義」と捉える視点も可能であるように考えます。」(姜尚中『姜尚中の政治学入門』集英社新書、2006年2月、97頁) では、この「第三次国民国家」という言葉で、姜は何を言わんとしているのだろうか。それについて、実は姜は、前述の「靖国とヒロシマ」で雄弁に語っているのである。見てみよう。 「 今、日本の戦後を作り上げてきた土台とも言うべき経済や社会の仕組みが大きく変わろうとしている。 (中略) このように、戦後を支えていたものが一つ一つ覆されていっている。覆されるだけでなく、違うものになっていっている。それを私は「戦後の終焉」と呼んでいる。これは長い目で見ると日本が第三次国民国家――第一次は明治維新の期の明治国家である。第二次は戦後8月15日から始まった――に移ろうとしているということではないか。それがどんなものになるのか、はっきりした輪郭はまだ見えてきていないが、ただ、戦後の否定の上に成り立っているのは間違いない。 国民と国家の関係、国家と社会の関係が大きく変わっていく。だから憲法も当然変わっていく。そして、国民意識の問題として教育基本法も変わらざるをえない。戦後民主主義国家の中で当然と考えてきた原理原則、価値というものが大きく変わっていくのではないか。憲法の一部が変わるとか教育基本法の一部が変わるとか、部分的な変革だけではなく、国民国家のあり方それ自体が変わっていくのではないか、と私はとらえている。 例えば靖国問題に代表されるような自民党の新憲法草案は、政教分離を事実上否定していると言ってもいい。(中略) しかし、第三次国民国家は戦前の日本への復帰ではない。そうとらえることは問題を単純化しすぎることになる。今、例えばイギリスなどが海外に出てイラクで戦争しているが、だからといってイギリスが反動的な国だとは言われない。日本の場合も、普通の国になるということだから、ある人はこれを正常化だととらえるだろう。もちろんそれは戦後民主主義の否定だととらえる人もいるだろう。いずれにせよ、これまで60年間経験しなかったようなことがノーマルになる――いい意味でも悪い意味でも。そういう国と国民との関係になっていくだろう。 海外において戦争をすれば、当然、戦没者も出る。その戦没者をどこかに祀ることになる。一番想定されるのは靖国だ。しかし、それができないということになれば、無宗教の施設を作ることになる。それは構造としては、戦前を知らない新しい靖国になる。そこには過去の靖国に飛び回る亡霊のような歴史的な負の遺産はいっさいない。しかし、国家と犠牲という観点からは、同じような構造が出てくるだろう。とはいえ、それは天皇の軍隊ではなく、国家を守るために命をなくす英霊として祀られることになる。 あるいは、ネオ靖国を否定して、靖国をそのまま延長していく――補助線を引いて。そういう考え方の人もいると思う。だからこそこれまで以上に強く靖国参拝を進めていこうという人たちである。 どちらになるにせよ、日本は普通の国家への道を進んでいくのではないか。 10年後、現行憲法が存続しているとは考えられない。存続していたとしても内実は変わっているだろう。 10年後、たぶん、日本は海外で戦争しているだろう。集団的自衛権か、あるいは多国籍軍か。単なる後方支援ではとどまりえないだろう。 日本国内では、この流れを食い止めようという動きは、野党の政治勢力を含めて非常に微弱だ。戦後、これほど微弱になったのは初めてだ。残念ながら、直近で社会運動など新しい動きが出てくるとは思えない。 戦後の第二次国民国家では、戦前と断絶したまったく新しい土台の上に社会や国家が成り立ち、同時に国民の意識がドラスティックに変わったと思う。にもかかわらず、やはり連続している部分がある。靖国はその連続面でもっとも象徴的な聖地であって、第三次国民国家に移っていけば、今までの歴史の問題だけにとどまらず、未来形として靖国が意味を持ってしまう。あるいは「靖国的」なものと言ったほうがいいかもしれない。靖国神社というのは固有名詞だが、「靖国的なもの」が問われているのだ。 靖国神社が抱えている問題は、われわれが考えている以上に深く、広いだろう。どうしても限られた切り口から議論されてしまうが、「靖国的なるもの」は国家と犠牲の問題、国家と戦争の問題、国家と国民との関係等々まで波及していく。対外的には日中関係、日韓関係として話題になったが、第三次国民国家に向けて変革期にある日本のシンボリックな問題だととらえたほうがいい。」 この一節は、現在の姜について考える際に不可欠な、重要な箇所だと思うのだが、管見の範囲では言及されたことがない。 ここでの姜によれば、「第三次国民国家」とは、対外戦争のできる「普通の国」ということである。そして、姜は、日本がその道を避ける可能性はないことを明言している。 そして、姜はここで、戦没者追悼の「無宗教の施設」を、「戦前を知らない新しい靖国」であり、「国家と犠牲という観点からは、同じような構造」になると言っているのだが、「4-3.国立戦没者追悼施設の擁護」で見たように、姜自身が、無宗教の戦没者追悼施設を容認しているのである。 また、「10年後、現行憲法が存続しているとは考えられない。存続していたとしても内実は変わっているだろう」と述べているが、「4-2.護憲的解釈改憲論への移行」で見たように、姜自身が、憲法9条が「存続していたとしても内実は変わっている」状態である、護憲的解釈改憲論の立場を容認している。 ということは、この章で見てきた、模索期における姜の「国益」論的な諸言説が、日本が対外戦争を行う「普通の国」になることを前提としたものだった、ということを意味している、と解釈できよう。 したがって、上の一節を虚心坦懐に読む限り、ここで姜は、来たるべき「第三次国民国家」にとって、「靖国的なもの」のような戦前との連続性を示すものはなくしておくべきだ、と言っていると解釈するのが正しいと思われる。 恐らく、当時の姜の大多数の読者たちは、姜が、日本の「普通の国」化に反対していると認識していただろう(これは現在もだが)。姜は、「憲法行脚の会」その他の市民団体で頻繁に講演したりしているから、尚更である。そうした読者は、仮に姜の無宗教戦没者追悼施設への容認論を読んでも、「姜さんは、「普通の国」として対外戦争を行えるような国にしようという主張に対抗するために、戦略的に後退しているんだ」と考えるだろう。 確かに姜にとっては、それは「戦略的な後退」なのかもしれない。だが、それを「戦略」かどうかと考えること自体が無意味なのである。姜はこの段階で、既に日本が「普通の国」になることを既定路線として認め、自らもその枠組みでの発言を行っているのだから。 では、日本がどのみち「普通の国」になってしまうのならば、姜は、なぜ「靖国的なもの」にこだわるのか、という問題が当然生じよう。姜はその理由を明言していないが、恐らくそれは、「第三次国民国家」における「靖国的なもの」の残存が、姜が提唱する東北アジア共同体の実現にとって邪魔だからだと思われる。逆に言うと、模索期の姜による日本政治・日本社会批判は、基本的に、東北アジア共同体の実現にとって(例えば、首相の靖国神社参拝が)有害だ、という観点からなされていたと言うことができるだろう。言うまでもないが、東北アジア共同体の実現には、日本の「普通の国」化が大前提である。 このように考えれば、上の一節も整合的に解釈できるととりあえずは思えるのだが、ひっかからざるを得ないのは、姜の絶望的な口ぶりである。「残念ながら、直近で社会運動など新しい動きが出てくるとは思えない」などと、「残念」とも言っている。これは奇妙であり、「普通の国」化を実質的に容認し、推進すらしている模索期の言動と矛盾している。仮に、姜が既に無宗教の戦没者追悼施設や護憲的解釈改憲論を容認していることを知らなければ、この文章は、日本の「普通の国」化に抵抗する批判的知識人の絶望の表白、と受け取られるかもしれない。多分、シンポジウムではそのように受け留められたであろう。また、姜が日本の「普通の国」化を全面的に容認してしまっているとするならば、この節の「1」で見たような絶望ぶりも奇妙ではある。 模索期における姜には、日本が「普通の国」化することそれ自体への拒否感――少なくとも90年代はそうした立場から姜の言論活動は展開されていたわけだが――が、にじみ出ているように思われる。これは、「普通の国」化の容認というこの時期の他の発言とは矛盾しているが、奇妙なことに、同時期に並存しているのである。 これは、この時期においては姜自身が未整理のまま、日本政治・日本社会批判を行っていた結果だと思う。姜はこの時期、「国益」論的立場を打ち出すことで、日本の言論状況に即応しようとしていたわけである。そして、上で見たように、姜は日本のリベラル・左派が何らかの抵抗を行えるとは何一つ期待していない。だとすれば、姜が「靖国的なもの」を象徴とする「第三次国民国家」の出現を食い止めるためには、自民党の支持層を奪回しうる政治構想を提出しなければならない、ということになろう。そのためには、まずは、こうした「普通の国」化への拒否感という残滓を消去し、「国益」論に自らの立場を純化せねばなるまい。 また、単に「国益」論的な合理性・有効性を示すだけでは、自民党の支持層の奪回は不可能である。日本社会はそこまで「合理的」ではないのだから。したがって、そうした支持層を奪回するためには、単に「国益」論上の合理性・有効性を示すだけではなく、イデオロギー的次元においての編成も不可欠なものにならざるを得ない。 いずれにせよ、この模索期での姜の「国益」論程度では無意味なのだ。そこで、姜は、もう一歩飛躍することになる。 (つづく) 4-7.挫折と転向(上)
1. これまで、2006年夏前後の姜の転向に先立つ約1年間について、それを姜の「模索期」と見て、主張の特徴を見てきた。これまで述べたように、姜は、恐らく2005年前半の中国の「反日」運動に関する報道を契機として、自らの立場を「国益」論的なものに移行させている。それは、日本の言論状況に即応しようとした姜の立場修正であり、その程度の修正では対応は不可能であるという認識から生じたのが、2006年夏前後の姜の転向であると私は見ている。 姜の転向は、これまでその特徴的な主張に即して検討してきたように、「国益」論との論理の連続性の観点から見れば、論理的帰結とも言えるが、一方で、その挫折の結果とも言える。今回は、この模索期における姜の挫折を見ておこう。 2. まず確認しておくべきなのは、この時期の姜が――転向後の楽観的な姜とは異なり――状況がかなり絶望的である、という認識を表明していることである。 それは、日本国内で「野党」的な役割を果たす存在がほぼ消滅してしまい、日本の右傾化を押しとどめることができるのは中韓の「反日」だけだ、という認識として、まず表明される。 「編集部 歴史認識や靖国問題で、これだけ反感を買っているわけですから、ここで9条に手をつけるということになれば、アジア諸国の反感は決定的な「反日」になってしまいますね。 姜 だから、今の構図で言えば、中国や韓国が日本における最大の野党になっているわけです、外部からのね。そして、日本はそれを「内政干渉」だと切り捨てる。日本の中にちゃんとした野党がなくなってしまったがゆえの構図だと思うんです。」(『みんなの9条』122頁、2005年7月13・20日付インタビュー) 「姜 (中略)現実的な外交戦略、安全戦略というリアル・ポリティクスで考えると、憲法論的な法理解釈をどうやっても改憲の流れには対応できない。」 「姜 (中略)(注・改憲問題は)残念なことだけれど99%がデファクトとして勝負がついているんですよ。ところが残りの1%で逆転できる可能性があるわけです。それなのに、逆転しようとするエネルギーが内発的ではなくて、外側の中韓がオポジションになっている。中韓が過去の歴史問題をめぐる相克という形で押さえつけている状況でしょ。非常にねじれているんだな。だから僕は悲観的ではないけど、楽観的にもなれない。おそらく、ここ10年間、短ければ5年で勝負がつくと思う。」(姜尚中・丸川哲史「改憲阻止の新たな戦術――政教分離の原理原則論に立つ」『季刊軍縮地球市民』2005年冬号、2005年12月1日発行) すでに「4-1.「反日運動」および「反日運動」報道をめぐって」で述べたように、姜が、2005年夏頃に自らのスタンスを移行させたのは、恐らく、中国の「反日」運動への(リベラル・左派も含めた)日本メディアの反発、という事態に由来している。姜自身は恐らく、中韓のそうした日本批判の本質的な正当性を基本的には認めているのである。その上で、中韓の「反日」の主張と連帯して、日本国家・日本社会の右傾化を批判できる勢力は日本社会ではほぼ消滅している、と認識しているのだろう。そして、「4-1」で指摘したように、姜自身も、連帯する立場はとらない(とれない、と姜は言うかもしれない)のだ。 3. 中韓の「反日」の声と連帯しない(できない)のだとすれば、右傾化に対するどのような対抗法がありうるだろうか。 姜は、それを日本国内の平和運動の再編成に求めようとしたように思われる。そのことを示唆していると思われるのが、姜の、「靖国」と「広島」(と「アジア」)の関係に関する記述の変化である。 姜は、2005年8月頃においては、以下のように述べている。 「姜 (中略)ぼくは戦後日本には少なくとも二つの聖地があったと思うんです。広島と靖国ですね。靖国は言ってみればドメスティックな、内側の密教で、本音の部分を感性レベルで集約できる聖地。そのミニ聖地が地方にばら撒かれた。忠魂碑とかいろいろありますよね。もう一つは、顕教的には広島だったんじゃないかと思うんです。広島と靖国という二つの楕円の中心があって、それが国家的にいうと外側の顔と内側の顔、顕教と密教になってうまく作動してきた。この二つの聖地が、戦後日本の中で、アジアとの応答関係を結果として遮断していった部分があるのではないかと思うんですね。」 「姜 よくわからないのは、戦後史の起源の作り方の中にある神話性みたいなものですね。暗がりにあるいろんな有象無象を引き出してくると、意外に戦後という時代のフィクショナルな部分が見えてくる。広島がそうですね。原爆にまつわるさまざまな問題を平和主義に集約していく時に、かなり重要なものを意味転換させる仕組みがあった。「尊い犠牲」を「聖断」に直結させたり、宗教的な意味解釈にメタファーとして使ったり、そういうかたちにすることで、日本こそが犠牲者だとしていった。犠牲の民を通じて平和が創造されるというのは、明らかに神道的な解釈ではないですね。人類史の原罪を自らが背負うことで清める。清めるというかたちでは神道的かもしれないけど。そうすると、ものすごくピューリタン的なものができあがってしまい、その言説構造の中では、かつての植民地支配の構図とか、軍都であった広島の果した歴史的な役割とか、いろんなものがすべてかき消されてしまう。それを一つ一つ指摘するために膨大な時間がかかったわけですね。 帝国のイデオロギー装置としての靖国の変わらない役割と同時に、広島の聖地化が形成される過程で作られた、歴史的な責任を問うとか、国の責任を問うとか、そういった当たり前のロジカルな発想を昇華させるような装置がいろんなかたちで機能した。広島のことはほとんど問題化されていませんが、広島を語るメディアや一般的な言説のあり方をもう少し考え直す必要があるのではないかと思いますね。それは決して被爆者の方がどうのこうのという問題ではない。」(姜尚中・高橋哲哉 『週刊読書人』2005年8月19日号) ここでの姜の主張を要約すると、以下のようになろう。戦後日本においては、「密教」が「靖国」で、「顕教」が「広島」であった。「広島」の記憶は「日本こそが犠牲者だ」という表象を作り出し、「日本こそが被害者だ」という社会意識を定着させることとなり、「その言説構造の中では、かつての植民地支配の構図とか、軍都であった広島の果した歴史的な役割とか、いろんなものがすべてかき消され」ることになった。「広島と靖国という二つの楕円の中心」は、共犯関係にあり、「この二つの聖地が、戦後日本の中で、アジアとの応答関係を結果として遮断していった」。 恐らく同時期に語られたと思われるインタビュー記事の、以下の発言も、同様の文脈にある。 「今、日本は北朝鮮問題によって被害者意識が強くなっています。しかし実は元々、加害者意識を無理やり持っていたとも言えます。しかし戦後、日本が被害者とすると、加害国は米国です。これはできない。そのひずみが今になってでてきたのでしょう。この日本のゆがんだ、被害者、加害者意識は靖国神社と被爆地域である、広島、長崎という「聖地」に表れています。広島と長崎は日本の被害のシンボルですが、加害のシンボルであるはずの靖国神社も、問題を中韓による「外圧」にすり替えることで被害のシンボルになっています。」(姜尚中「最悪の道を防ぐには“健全な保守”に期待」『金曜日』2005年8月12日号) こうした発言を念頭に置いた上で、この少し後の、以下の発言を見てみよう。以下は、中野晃一・上智大学21世紀COEプログラム編『ヤスクニとむきあう』(めこん、2006年8月15日刊)に収録された、姜の「靖国とヒロシマ――二つの聖地」なるタイトルの文章からの抜粋である。同書によれば、これは、2005年12月14日のシンポジウムで語られた「発言内容をベースに大幅な加筆修正」が加えられたものとのことである。大変長い抜粋になるが、この文章の場合、後述するように文章の「雰囲気」も注目点なので、ご寛恕いただきたい。 「(中略)植民地支配にかかわる靖国神社の問題は難しい。 靖国神社には、日中戦争以前にアジアに進出していた人々――台湾出兵、日本と韓国とのさまざまなやり取りの中で亡くなった人たち、植民地出身者も英霊として祀られている。つまり日中戦争、日米戦争だけの戦死者ではない。これは、植民地支配の廷長上に自存自衛の戦争としてあの十五年戦争があったという考えに基づくことになるだろう。植民地出身者にとっては耐えられないことだ。この問題をどう捉えるか。 その時考えたのは、これをヒロシマとの関係で見ていくという問題設定がありうるのではないかということである。 西のアウシュビッツ、東のヒロシマ、この二つは戦争における人類の罪ということを考える時のいわば聖地である。原爆の犠牲において世界平和を指し示すという、ある種の人間の贖いとして、ヒロシマが存在する。日本の国民にとっては、ヒロシマはもちろんあの戦争の非人道性と残酷さの最大の証になっているが、戦争の歴史の中で語られる時のヒロシマは、国内的な意味だけではなく、インターナショナルな意味を持っていると言えよう。 一方、靖国は日本人にとってのきわめてドメスティックな聖地である。それは、日本のあるいは日本人だけの理解できる、いねば戦争の記憶の場所である。それは同時に顕彰の施設として、天皇特に明治天皇と直結した場所として特別な意味を持つ。すべての戦争――それがたとえ敗北という結果に終わったとしても――は天皇の戦争、つまり聖戦であるという考え方の上に、靖国神社は今もその時間を生きている。明らかに、靖国は人類の罪の贖いの場所、世界平和の場所などではない。どう考えても靖国はヒロシマとつながらないのだ。 ところが、戦後、日本政府および日本人はこの二つを、聖地として、並列して、矛盾しているという意識すらなく、受け入れてきた。 この二つの聖地の発するメッセージの対象はまったく違う。おそらくヒロシマというのはアジアだけではなく、それ以外の国へもメッセージを発している。しかし、ヒロシマのメッセージをどこまで中国や韓国やアジアの国々が深刻に受け止めているか。どこまでヒロシマの願いと思想がアジアに定着したか。 (中略) わかりやすい表現をすれば、平和の問題を考える時、靖国というのは多くの日本国民にとって「密教」であり、ヒロシマは「顕教」である。世界に発信される平和の顕教としてヒロシマはある。しかしこの両者がどういうかかわりを持つかということが、戦争と平和の問題を考えるときにきちっと整理されていない。 広島が原爆投下の地として選ばれたのは軍港としての歴史があったからだ。広島は日本のアジア進出の大きな拠点の一つだった。当時、かなりの数に半島出身者が広島で造船にかかわっていたのである。だから、在外被爆者の圧倒的多数は在韓被爆者である。北朝鮮にもおそらく数千人の被爆者がいる。しかし。朝鮮半島にいる被爆者の問題は未解決のままで残されている。 このことと朝鮮半島出身者が靖国に英霊として祀られていることは、やはりつながっている。両者に共通しているのは、植民地という問題である。靖国は、日本の聖戦、もっと言えば天皇制国家の無謬性、至高性が人間の生死にかかわる部分を担保する聖地である。それと対応する形でヒロシマにおける植民地や朝鮮半島の在外被爆者の問題がこれまで無視されてきたのだ。 多くの日本国民にとって、広島、長崎における被爆という現実と靖国の英霊に人々が参拝するということが矛盾なく結びついている。ヒロシマと靖国の関係から戦後日本の歴史認識や平和の問題を考えるという研究も見たことがない。両者は分断されている。しかし、この二つは明らかに日本の戦後60年という楕円の二つの中心なのである。 (中略) 冷戦崩壊後の今になって吹き出てきたこの問題を解くには、もう一度振り出しに戻って考えるしかないのかもしれない。いろんな複雑な問題が出てくるだろうが。 例えば内閣総理大臣が一方では広島、長崎の戦没者慰霊に加わり、一方では靖国に参拝する。それはそれぞれ犠牲者を弔うという形である。しかし、ヒロシマのメッセージはただ単に日本の国民が犠牲者になった、それを弔うというだけではなく、核戦争は世界というものを破壊する人類史的な危機なのだというメッセージにつながっていったと思う。そうでなければ、ヒロシマを合言葉にしてそこを平和の聖地にしようという運動や認識は成り立たなかったと思う。 しかし、靖国神社は世界の聖地にするということはできない。靖国は日本に住んでいる人々のしかも天皇とのかかわりを持った聖地である。 この二つの場所に日本の最高権力者が出席するということにどういう意味があるのか。 実は、これまで日本の平和運動が靖国をどう位置づけてきたのか、ほとんど見えてこなかった。平和の問題、戦争の問題を考える時によく整理されてなかった。だからこそ、靖国問題がこれほど大きな問題に拡大していったのだ。 ヒロシマの平和運動をやってこられた方が靖国参拝をどう整理してとらえているか、一度お聞きしてみたいと思う。ヒロシマをよりどころにする人々と靖国をよりどころにする人々は対話がなりたつのか。過去にそういう対話の場があったのか寡聞にして知らないが・・・。 東京裁判で昭和天皇が免責され、植民地支配の問題はうやむやになってしまったということで、日本の中で聖戦という考え方は完全に克服されず、靖国に生きていた。そのことがヒロシマ以上によりどころになっているということなのか。 普通の日本人の中ではそれがどう整理されているのか、あるいは整理されていないのか。 (中略) なぜ8月6日と8月15日が結びつくのか。 それは非常に矛盾した戦争の記憶の作られ方だ。それがなぜ同じ国民の中に矛盾なく受け止められているのか。私にはそれが異様でしかたがない。どう考えても整合性がないではないか。 ヒロシマは世界の聖地になれるかもしれないが、靖国は到底なりえない。二つの聖地は、しかも国と非常に濃厚な関係にある、それをどうとらえ返していったらいいのか。」 この文章(執筆時期は便宜上、2005年末から2006年半ば頃、としておこう)においては、「広島」を「ヒロシマ」と書き換えてその「インターナショナルな意味」を強調しつつ、「顕教」と「密教」、「楕円の二つの中心」など、前述の2005年8月頃の文章と全く同じ比喩が使われているにもかかわらず、2005年8月頃の文章とは全くスタンスが変わっている。 繰り返すが、2005年8月頃における姜の主張は、戦後日本における「広島」の記憶は、「靖国」と共犯関係にあり、この「靖国」と「広島」の戦後日本の二つの聖地が、周辺アジア諸国から問われざるを得ない加害者としての意識を遮断してきた、というものだった。だが、この文章では、「植民地(=アジア)支配にかかわる靖国」を考えるためにこそ、「ヒロシマ」を持ち出してきているのである。 既に「4-1.「反日運動」および「反日運動」報道をめぐって」で見たように、模索期の姜は、中国や韓国からの対日批判からは距離を置くことを選択している。したがって、その姿勢を徹底させれば、「靖国」と「広島」の記憶を共犯関係と見なして批判する、という「アジア」からの視線も、放棄せざるを得ないのだ。そして、既に「4-5.「平和国家」としての戦後日本の積極的肯定」で見たように、模索期の姜は、右傾化に対して戦後日本の「平和」を対置するスタンスなのだから、「靖国」に象徴される右傾化には、「アジア」ではなく、日本国内の「平和」(主義)によって対抗する、という図式にならざるを得ないのである。 そして、この文章において見るべきもう一つの点は、その驚くべき無内容さである。姜はここで、「ヒロシマ」と「靖国」は全く異質だ、これが同じ日本人の中で共存しているのは不思議だ、といったことをひたすら繰り返し言っているだけだ。何の具体策も示されていない。 ここにあるのは、「ヒロシマ」を媒介に何らかの形で「靖国」に対抗する論理を作り出さなければならない、と考えつつも、それの手がかりすら掴めずに立ち往生している姿である。姜はただぼやいているだけだ。 「靖国」に対置すべきは、まずは「南京」であり、「堤岩里」であり、その他無数の日本の侵略を受けた土地であろう。金玟煥氏が指摘するように、「ヒロシマ」の表象は、「加害者と被害者の間に存在する差異を無化させる」ものとして機能してきたのであり、その限りにおいて大多数の日本国民に好意的に受容されてきたのであって、2005年8月頃の姜が指摘しているように、その表象は、戦後日本社会においては、「靖国」とある意味で補完関係、共犯関係にあったとすら言える。姜はここでそのことをほとんど問題にしていないのだから、姜の試みには、はじめから可能性はないし、だからこそ姜はここで立ち往生しているのだ。 (つづく) 4-6.「国益」論的立場への移行の完了
まずは、以下の文章を読んでいただこう。 「森巣 セキュリティや国益を声高に語りながら、日本人以外の人間を、あまりにも安直に、視界の外に追いやろうとする空気そのものに対しては、非常に危険なものを感じます。誰もが、その空気に慣れすぎてしまっているのではないか、と。 姜 90年代以降、誰もが躊躇せずに「国益」という言葉を使用することができるようになったのは、確かですね。」(姜尚中・森巣博『ナショナリズムの克服』集英社新書、2002年11月刊、26頁。対談時期は2001年12月7~9日) 次に、このように嘆いている姜の、転向後の発言を読んでいただこう。 「日本の対中関係の議論は、しばしば媚中か、親中か、あるいは嫌中などの極端な意見に分けられます。しかし結局そのような意見は、建設的ではありません。これからの対中外交は、日本の国益につながる「実」を取る外交が必要なのです。(中略)/これから日本は中国とどう付き合っていくべきなのか。それには臆することなく、へつらうことなく、したたかに付き合っていくこと。中国と付き合う上ではかなりの手練手管が必要なのです。/まず日韓関係を強化することが重要です。米中関係が親密になれば、日米関係が米中関係を補完するための下請け的な役割を担わされることも考えられます。日本の国益に反する取り決めを結ばされる可能性だってある。(中略)/また日本の存在感を示すためにも、中国に対して言うべき事は言う外交が求められます。チベット問題も、政府はもっと毅然とした態度をとるべきでした。(後略)」(姜尚中「ポスト・アメリカ時代の「対中外交」は「日韓同盟」で」『週刊現代』2008年5月3日号) もう突っ込むのも疲れるので省くが、転向後の姜がそれこそ「躊躇せずに「国益」という言葉を使用する」、完全な「国益」論者になっていることを、まずは確認しておこう。しかも、この「国益」の前提とされている国は、もちろん「大韓民国」ではなく、日本国なのである。 そして、姜が、「国益」を前提とした政治的主張を積極的に行うに至るのも、『東アジア共同の家をめざして』(2001年)を除けば、この模索期(2005年夏頃~2006年夏頃)だと思われる。姜がどのような論理でそこに至ったかには、なかなか示唆的なものがあると思う。 姜が「国益」という言葉を使い出したのは、どうやら、宮台真司の影響のようである。以下、その経緯を見てみよう。 姜と宮台との対談において、宮台は、以下のように発言している。 「宮台 (中略)ここで、ナショナリズムとセットで使われる国益という言葉について考えてみましょう。日本で国益という場合、世代によってふたつの異なった取り方があります。ひとつは国民益という考え方で、これは計算可能なものです。/ようするに、国民にとって利益になるかどうかを徹底的に分析する。コスト分析やリスク評価をして、どういう選択がどういう利益または不利益をもたらすのかを考え、利益を増大させ、不利益を減らそうとする立場です。(中略)私は反ナショナリストではありません。国益を計算可能な国民益と見なし、国益が守られるように国家を操縦しようとする、近代主義的ナショナリストです。ただしナチス国法学のような「魂のふるさと」的な発想は、まったくとはいいませんが(笑)、まずしません。」(『挑発する知』双風舎、88~89頁)」 その上で宮台は、「魂のふるさととしての国体に殉ずることを国益とする立場」、すなわち、「国体に殉ずる精神的な営みから見た場合、計算可能な国民益が低下するような選択であっても、あえて国益だと見なす」立場を、「近代合理主義の立場からするとナンセンスな妄想」だとしている。 姜はこの宮台が言う「国民益」なる概念が気に入ったらしく、上記の宮台の「国民益」に関する発言があったと思われる日(同書の「まえがき」から推察するに、2003年7月19日)の1ヵ月後の『朝まで生テレビ!』(8月29日深夜放送)で、早速使ったようである。 「姜 外交とか国益という問題は、非常に複雑です。われわれもなかなか理解できないほど複雑な事情で動いていくわけですね。すると、わかりやすい言葉が必要になってくる。こういうときに一番わかりやすいのは、「愛国心」や「ナショナリズム」ですね。それは、「われわれ対彼ら」ということがはっきりするから。 田原総一朗 そう。 姜 ただ、そのことがほんとに、日本の国民益や国益になるのかどうか……。」(田原総一郎編『朝まで生テレビ! 「愛国心」「国益」とはなにか。』アスコム、2004年2月、32~33頁。2003年8月29日深夜放映の「内容を加筆・修正の上再構成したもの」(208頁)) また、この回の放送が単行本化されるにあたって収録された文章(「討論を終えて」)でも、姜は以下のように述べている。 「(注・イラク戦争への自衛隊の)派兵の決定により、日本の国益は大きなダメージをこうむるだろう。しかし、すでに決めてしまった以上、当面の最重要課題は、兵の撤収条件を確定することである。撤収の決定は、派兵の決定以上にむずかしい。それでも、日本が国民のための利益である真の国益と、世界の利益を同時に考え、しっかりと出口を見つけ出し、自主的な判断で兵を引く決断をすることが必要である。これは日本の国際的な地位を高めることにもつながるだろう。」 「国民のための利益である真の国益」とは、「国民益」のことであろう。ここで注目すべきなのは、「派兵の決定により、日本の国益は大きなダメージをこうむるだろう」と、ここで既に「国益」論的な言い方になっていることである。もちろんこの引用文における「国益」とは「国民益」だ、ということになるだろうが、「国民益」という概念が、「国益」論的な言い方を引き出す前段階になっていることをここでは指摘しておこう。 また一方で、「国民のための利益である真の国益」に付随して考慮されるべき判断基準として「世界の利益」も挙げており、この段階ではまだ「国益」一元論ではない。また、「「これは日本の国際的な地位を高めることにもつながる」と、「国益」論的な主張を付随的なものとする言い方もしている。その意味では、まだ姜は「国益」論の立場に純化し切れてないように思われる。 この段階での姜の、「国益」という言葉の位置づけは、以下の、森達也との対談での発言によく示されている。 「森 人道的介入という言葉や地下鉄のアナウンスもそうだけど、言葉を消費することで僕ら自身が溶解していくという部分があるわけです。日米安保がいつのまにか日米同盟になり、自己責任などの耳に心地良い言葉ばかりが流通する。 姜 その最大規模が国益になるんだけど、その国益とは何ぞやということも議論されずにね……。 森 国益の正体をわかっていない。 姜 国益という言葉をメディアで使うと、ほぼ了解されてしまう。僕、その言葉をある意味逆手にとって論じているけど、世論の文法とボキャブラリーが変わったんだよね。」(森達也・姜尚中『戦争の世紀を超えて』講談社、2004年11月、272~273頁) まとめると、2003年頃から2004年頃の時期の姜は、「国益」に関して、「国民益」を意味するものとして打ち出すか、もしくは<「国益」の観点から見た場合でも・・・>と、自己の主張を補強する、保守派のロジックを「逆手にと」る手段として使われている、と要約できよう。 ここでの姜は、こうした留保をつけることによって、単なる「国益」論者とは一線を画していると自己認識しているように見える。 だが、「国民益」と「国益」の間に、本質的な違いはほとんど存在しない。「<佐藤優現象>批判」でも書いたが、先進国の「国民」として高い生活水準や「安全」を享受することを当然とする感覚こそが「国益」論を支えているのであって、先進国における「国民益」の擁護は、そうした生存の状況を安定的に保障する国家―先進国主導の戦争に積極的に参加し、南北間格差の固定化を推進する国家―を必要とするからだ。だから、「国民益」の擁護という論理を打ち出せば、それは必然的に「国益」の擁護という論理に行き着かざるを得ない。 模索期においては、転向後のように「躊躇せずに「国益」という言葉を使用」している事例はそれほど目立たないが(注15)、この章でこれまで挙げた、「護憲的解釈改憲論への移行」、「国立戦没者追悼施設の擁護」、「「リベラル保守」の擁護」、「「平和国家」としての戦後日本の積極的肯定」といったこの時期の姜の発言の特徴が、姜が「国益」論の立場に完全に移行したことを示している。これは、「国民益」の擁護という立場の論理的帰結である。 実際に、転向後の姜の「国民益」なる用語の使用例を見ると、「国益」論を前提としたものになっていることが分かる。 「姜 いまポスト小泉・安倍の状況のなかで、政権はほころびを繕うような感じで、ややダッチロールをしているわけですよね。小泉改革を否定はしないけれどもそこにかなりブレーキをかけているように見えます。結局、新自由主義的な国家というのは、ある人の言葉を使うとノイローゼ国家というんですね。つまり、国民は一体的でなければいけない。ところが実際に政策的にやることは、ますます国民を分裂させ格差を広げていて、そうしなければ、成長や成長に基づく経済的な配分というのはできないんだという、股裂き状態になっている。これは、最後まで行っても、どうしても収斂点が見出せないんですね。 国益と国民益が分裂している。そういうときに、この社会は、いったいどうやって憲法が定めたような、国民が健康で文化的な生活を送れる仕組みを作ったらいいのか。」(姜尚中・寺脇研『憲法ってこういうものだったのか!』2008年10月、167頁) ここでは、上記の2003~2004年時の姜に見られた、「国民益」なる用語を使う際の留保は見られない。「国益」と「国民益」の「分裂」が問題とされているということは、それが護憲派的な主張の一環として語られているとしても、「国民益」と「国益」が合致することが前提とされている、ということである。 次の用例では、「国民益」は「国益」の観点から意味づけられていることがよく示されている。 「姜 アメリカとの力関係のバランスを少しでも修正するためにも、日本でも政権が変わり得るぞっているほうが譲歩を引き出せるわけです。僕はそれが国民益になると思うんですよ。緊張感のある与野党の攻防があって、国民が積極的に投票に参加して、絶えずウォッチングする。国民が積極的に国政に参加するということがあると、結局それはアメリカをも動かしてしまうわけですよ。 ということは、民意というのは、実はすごく、国のバーゲニングパワーを高めるということですよね。」(同上、174頁) 姜の事例は、「国民益」の擁護という立場が、結局は「国益」の擁護に行き着かざるを得ないことを示唆していると思う。例えば、現代世界の南北間格差という構造的問題を無視し、そうした状況における先進国の「国民」の政治的責任を度外視したまま、「国民益」を擁護する立場は、それが「護憲」であれ「反貧困」であれ「脱格差社会」であれ「福祉国家の構築」であれ、「国益」の擁護に行かざるを得ないだろう。それは、戦前の社会大衆党のようなものだ。民主党中心の連立政権下で、そうした動きは急速に強まるだろう。 (注15)以下は管見の範囲では唯一、この時期に「国益」に言及した例である。 「国際社会の中に中国を、いかにして内側に取り込んでいくのか。もちろんそれは、中国の出方次第だという人もいるかもしれませんが、積極的には、アメリカ以上に日本がそのイニシアティブを行使したほうが、日本の国益になる。少なくとも日米関係をより安定的なものにし、日本にとってメリットのある日米関係にしようとするならば、私はそのほうが、はるかにメリットがあると思います。」(姜尚中「「日米同盟」と「東アジア共生」は両立できるか 講義 2006年5月8日」『田原総一朗 誇りの持てる国 誇りの持てる生き方――早稲田大学「大隈塾」講義録1 2006-2007』、79頁) やはり、姜の「国益」論的立場への移行は完了している。 (つづく) 4-5.「平和国家」としての戦後日本の積極的肯定
この模索期(2005年夏頃~2006年夏頃)の特徴としては――既に2005・2006年以降の左派の主張の特質としてかつて指摘したことであるが――姜が、戦後日本を「平和国家」または成功した国家として描き、それを積極的に肯定する姿勢も挙げておこう。これは、『東北アジア共同の家をめざして』を除き、それまでの姜にはあまり見られない傾向である。 そもそも、かつての姜の「戦後社会」認識とは、例えば、以下のようなものである。 「戦後の平和主義・護憲主義が、冷戦という歴史的な制約条件と、その意義について深く掘り下げてこなかった・・・・・・自分たちの戦後の原点が、冷戦と深くかかわっており、それが近隣アジア諸国にとって新たな苦難のはじまりとなり、自分たちには「一国内平和と繁栄」をもたらすことになった、その落差の意味を問いつめてこなかった・・・・・・。」(『アジアから日本を問う』46頁) 従来の姜といえば、戦後社会と戦前の「国体」ナショナリズムとの連続性、戦後社会における在日朝鮮人の社会的排除、戦後日本国家の侵略・植民地支配責任の未清算、米国の軍事活動(朝鮮戦争・ベトナム戦争等)への日本の協力等を、批判してきた人物である。特に90年代においては、姜が、戦後社会だけではなく、「戦後民主主義」の代表的人物たる、丸山真男や大塚久雄の思想の「国民主義」的限界を批判してきたことも、よく知られていよう。 そうした姜の姿からは、姜が戦後日本を積極的に肯定する、といった事態は起こり得ないように思われるかもしれない。だが、それは実際に起こっているのである。経過をたどると、その前段階として、「戦後民主主義」の肯定、という立場への移行が起こっているようである。まず、その点を見ておこう。 まず、姜の丸山評価が変化していることを挙げておこう。そのことを姜は、自ら明言している。 「姜 (中略)最近、丸山真男さんに対する私の評価は、少し変わりました。市民による国家の制御と政治参加の問題や、永久革命としての民主主義の絶えざる自己変革などを考えるとき、彼の仕事は貴重なレガシーです。」(姜尚中・宮台真司『挑発する知――国家、思想、そして知識を考える』双風舎、2003年11月、97頁。対談日は2003年7月19日らしい) 上の発言とほぼ同時期に、姜は、内田雅敏と2回の対談を行っており(2003年4月29日、7月20日)、その対談を中心とした本を出版しているが(姜尚中・内田雅敏『在日からの手紙』太田出版、2003年10月)、同書の「あとがきにかえて」で、以下のように述べている。長くなるが、興味深い一節なのでご寛恕いただきたい。 「大日本帝国の「実在」よりも、戦後民主主義の「虚妄」に賭ける。この戦後日本を代表する知識人・丸山真男の言葉は、戦後というものの可能性を見事に言い表している。それは、まだ実現されていない理想に対する決然とした「自己投企」によってかろうじて叶えられるような絶えざる自己変革を意味している。この意味で、戦後民主主義は、もっともラディカルな「永久革命」にほかならないのである。 内田さんをみていると、まさしくそうしたエートスが漲っていた時代の申し子のように思えてならない。わたしが内田さんのなかに感じるのは、内田さんのなかに血肉化された戦後民主主義の初々しい息吹である。永久革命としての民主主義をその身体丸ごとを賭けて実践しているという意味で、内田さんの人生は、戦後民主主義の歴史そのものの歩みと重なっている。(中略) そして戦後民主主義がそうであるように、内田さんにとって平和憲法こそ、可能性としての戦後を体現した理念の集積であるに違いない。(中略) こうした内田さんと対談の機会を得たことは、わたしにとって大袈裟な言い方でなくひとつの転機であった。なぜなら、戦後民主主義というものについて、あらためてその奥行きと可能性に目を開かれる機会を与えてくれたからである。 「在日」を生きてきたわたしにとって、戦後民主主義と憲法は、どこか遠い世界という感じを拭いきれなかった。(中略) よりきつい言い方をするならば、「在日」は、ある意味で戦後民主主義が「虚妄」であることを告発し続ける「生きた証人」[living evidence]でもあるのだ。戦後民主主義と平和憲法の輝かしい理念の誕生が、何を排除し、忘却してきたのか、それを撃つ「生きた証人」、それが「在日」ではないのか、そんな思いが、学生時代の政治の季節をくぐり抜けたわたしのなかに芽生えていた。(中略) ただ内田さんの言動を通じてわたしは、「在日」の存在とその歴史に心を砕き、その存在のある意味での重さを五体感覚で感じ取っている戦後民主主義者がいることをあらためて知らされた。つまり、わたしは、戦後民主主義を「虚妄」のままに終わらせないために、「在日」を通じて朝鮮や中国など、アジアとの交わりに粉骨砕身する実践する知識人を知り得たことになるのだ。戦後民主主義の可能性は、ここにも開かれているのである。それは、民主主義を絶えざる「自己投企」を通じでっくり替えていこうとする営みのあらわれに違いない。ある意味で、半世紀余りを過ぎてわたしはあらためて戦後民主機主義と「出会った」ことになるのかもしれない。何という歳月であったことか。そして何というイロニーに満ちていることか。戦後民主主義が使い古したボロ雑巾のように疎ましく思われている風潮が強まるなか、むしろわたしには輝きを増しつつあるからだ。それはきっと「反時代」的な感覚であるに違いない。だが、この感覚をバネにわたしはあらためて戦後民主主義の「虚妄」に賭けてみたい心境でいる。その場合に民主主義は、国民の境界を突き崩し、この地に生きる人びとすべてに開かれているはずである。この意味でわたしは戦後民主主義の「鬼子」なのかもしれない。「在日」のひとつの意味を、わたしはここに見いだしている。」(『在日からの手紙』「あとがきにかえて 戦後民主主義の「虚妄」に賭ける」(末尾に「2003年9月」と記載あり)) ところで、『挑発する知』の「あとがき」で、姜は、次のようにも述べている。 「国民―国家の閉鎖性を解除すべく国家の操舵に徹底的にコミットすべきであるという宮台さんの提言にはリアリティがある。/私も内心、ナショナルアイデンティティやナショナルヒストリーの解体に性急なあまり、国家の役割と機能について精緻な議論を展開できなかったと反省せざるをえなかった。戦後民主主義を虚妄として葬り去る流れが滔々として勢いを増し、国家のあらぬ方向への浮遊があきらかになるにつれて、ただそれに歯止めをかけるだけでなく、それをまさしく操舵、ステアリングする必要があると痛感したのである。」(『挑発する知』「あとがき」末尾に「2003年10月25日」と記載あり) ここでは姜は、右傾化の流れに対抗するために、国家を「操舵、ステアリングする」志向性を持ったものとして、「戦後民主主義」を捉えている。 したがって、この時期において姜は、「戦後民主主義」を、①国民主義の枠組みを乗り越える可能性を持っていること、②「市民による国家の制御と政治参加」を促すこと、の二つの理由から肯定的に評価するようになったと言える。 そして、姜の戦後民主主義擁護論は、2004年の段階では、以下のようなものに変質している。 「姜 ぼくなんかは、50年たってようやく戦後民主主義のある光がわかるようになったわけだ。ここを磨けばいいのではないかということをね。その意味では鬼っ子だと言いたい。 丸山真男を後生大事にしている人たちは鬼っ子じゃない。単なるエピゴーネンでは駄目だ。そういう点では、鬼っ子こそが彼の位牌を懐に「新しい戦後民主主義の虚妄」に賭けてみることが出来るのかもしれない。」(「「戦後民主主義」の位牌を胸に」……」『アリエス』01号 2004.10.25(『姜尚中にきいてみた』所収)) 2003年では、「在日」であることを指して、「戦後民主主義」の「鬼子」だと姜は言っていた。ところが、2004年の上の文章においては、「戦後民主主義」の「鬼っ子」は、戦後民主主義にもともと懐疑的だった人を指している。この定義ならば、日本国民も「鬼っ子」であり得るし、だからこそ姜は、「丸山真男を後生大事にしている人たちは鬼っ子じゃない」などと言っているわけである。「鬼子」(「鬼っ子)の定義が、全く別のものになっているのだ。 つまり、ここにおいては、姜は、①の要素を消し、②の要素に純化させた形で、「戦後民主主義」を肯定しているのである。 そして、こうした「戦後民主主義」の国民国家(または国民主義)の枠組みでの肯定的評価という土壌のもとで、模索期における、「戦後社会」の肯定的評価が登場する。以下、この時期の、姜のこうした発言をいくつか挙げよう。 「姜 勝ち負けというロジック以上に、日本の「倫理力」のゆくえが気になります。1970年、ブラント・西ドイツ首相はワルシャワのユダヤ人居住区跡の慰霊碑に跪いて謝罪しました。こういうシンボリックなパフォーマンスによってドイツの倫理的な力を高めたわけです。日本が断トツの力がない国として国際社会で生きていくとき、平和主義に徹し、他国に鉄砲の弾一つ撃たなかったという歴史がもつ倫理的な力は大きい。そういうものを示すのも一つの外交力です。(注・靖国)参拝をやめることによって、国際社会における日本の倫理力が倍加すればいいですが、このままでは元に戻るだけです。」(姜尚中・田中明彦「対談 「靖国」の土俵から降りなければ展望は開けない」) 「姜 (中略)僕は、日本を決して特殊な国とは見ていません。先ほど言ったような平和を愛する「国柄」なんです。そういう「国柄」である日本は、科学的技術的に一応は先進国であり、豊かさを謳歌している。そして、軍事力の行使については、非常に臆病な国です。 臆病というのは、決して悪い意味ではありません。非常に慎重であると。その慎重さにおいて、9条、特に2項を持っている日本が特殊な国である、などとは思われていないのです。アメリカでさえも、そう見ているはずですよ。 編集部 そういう「国柄」が日本なのだと……。 姜 だからね、その「国柄」を逆手にとってね、憲法9条を持っている「国柄」なんだということを押し出していけばいいんですよ、世界に向けて。9条を持っていれば、何かとんでもない自己欺瞞を営々と積み重ねて世界から不信の目で見られるなどというのは、おそらく改憲したい人たちが作り出している幻想でしかないでしょう。」(『みんなの9条』121頁。インタビューの日付は2005年7月13・20日) 「勝 姜さんは日本の常任理事国入りを望まれていない? 姜 よくそう言われますが、そうではありません。安保理問題にフォーカスせず、国連が抱えている課題に日本はミドルパワーを発揮していくべきだと言っているんです。(中略)日本は核は保有していないし経済も縮小している。しかしほかの国にはないテクノロジーや優れたソフト技術、文化産業を持っているわけで、これらをうまく組み合わせて存在感を主張する方が長期的に見れば常任理事国入りの可能性を手に入れることにもつながるという考えです。」(勝恵子・姜尚中「無手マル勝流対談 会いたい、ききたい(13) ゲスト姜尚中」『サンデー毎日』2005年9月4日号) 姜が肯定する日本の戦後の「平和」や「繁栄」は、冒頭の姜の発言にある、「一国内平和と繁栄」ではないとでも言うのだろうか。 こうした「戦後日本の「平和国家」としての肯定」または「「戦後社会」の肯定」という言説は、2005年の9・11選挙での自民党の圧勝後、リベラル・左派内部でより前面化することになる。これは、前項の「「リベラル保守」の擁護」も同じである(「<佐藤優現象>批判」でも指摘したように、<佐藤優現象>や、「護憲派のポピュリズム化」といった現象も)。 姜の言動はこうした流れの典型であると同時に、姜の言動こそが、佐高信や護憲派ジャーナリズムの編集者ら姜と親しい人々を通じて、リベラル・左派が「戦後日本の「平和国家」としての肯定」または「「戦後社会」の肯定」を行うことを免罪し、促進する役割を果たしたと思う。それは、以前書いたで指摘したように、右傾化や改憲の動きへの対抗の必要性という弁明と同時に、「戦後」を肯定したいという欲望に基づいているのであって、そうした欲望こそが、<佐藤優現象>に象徴されるリベラル・左派の右傾化・「国益」中心主義化の基盤を支えているのである。 (つづく) 4-4.「リベラル保守」の擁護
今となっては「愛郷心」の擁護や「健全な保守」(「リベラル保守」)への期待しか語っていないようにすら見える姜だが、「リベラル保守」への期待を主張として打ち出すように至ったのも、この転向前の1年間の模索期(2005年夏頃~2006年夏頃)からだと思われる。 まず確認しておくべきなのは、姜が「リベラル保守」について肯定的に言及すること自体が奇妙だということある。在日朝鮮人の社会的排除という点において、「リベラル保守」も「排外主義的保守」も何の違いもない。そもそも「リベラル保守」などという不明確なカテゴリーを作ること自体がおかしいのであり、「リベラル保守」を自明な固定的な層として想定し、持ち上げようとすること自体が、ある種の政治的衝動に基づいたものである。そのことは、「リベラル・左派からの私の論文への批判について(3)」で既に述べたので、ここでは繰り返さない。 実際にかつての姜も、戦後日本の「平和主義」とは、冷戦によってもたらされた恩恵を享受しつつ、現状の維持を平和とみなす「保守的な平和主義」、「生活保守主義」であって、それは「冷戦のもとでの近隣アジア諸国の「不幸」から隔絶した平和と繁栄」だと的確に批判している(『ふたつの戦後と日本』三一書房、1995年、頁)。また、戦後の「生活保守主義」に基づいた「国民意識」こそが、在日朝鮮人を社会的に周辺化させてきたことも繰り返し指摘している。こうした戦後史理解においては、わざわざ「リベラル保守」を言挙げする契機すら見られない。 また、姜は、特に90年代においては、南原繁や矢内原忠雄といった現在のリベラル・左派では「リベラル保守」の代表と見なされるであろう人々について、彼らの思想が「国体ナショナリズム」、「「内的国境」のナショナリズム」に基づいたものであると厳しく批判している。 管見の範囲では、姜が、「リベラル保守」について好意的に言及し出すのは、2003年からである。 詳しくは後日述べるが、これは、この頃から姜が、「愛国」主義、ナショナリズムの立ち上げのための理論を検討し出すことと関連していると思う。 さて、『愛国心』の単行本版(講談社、2003年6月刊)では、姜は以下のように述べている。 「姜 (中略)僕はなぜ共産党や旧社会党がそうしたスタンスをとらざるを得なかったかというと、圧倒的に冷戦を形づくる力が強すぎたからだと思うんですよ。逆にいうとちょっと不幸だったのは、日本の中にある意味でのカッコ付きですけれども健全なリベラル保守というのがなかなか育ちにくかったことも作用していたと思います。」(『愛国心』 講談社+α文庫、282~283頁) ここで「リベラル保守」が言及されているわけだが、戦後日本には「リベラル保守」が層として実在したとは言われていないことにまず注目しよう。「リベラル保守」なる概念だけが肯定的に語られているのである。また、今日の姜から見れば、驚くほど遠慮がちに「リベラル保守」について語っていることにまず注目しよう。この時期には、「ある意味でのカッコ付きですけれども」とまで留保をつけなければならなかったのである。 それが、2004年には、以下のような発言に移行する。 「姜 かつては日本の自民党にも、リベラル保守というのがあったと思うんです。宇都宮徳馬さんや、鯨岡兵輔さんとか、園田直さんとか。後藤田正晴氏ですら「憲法改正については、いまはタイミングが悪い。もう少し国際情勢を見極めよう」と言っている。そういう保守の持っているリアリズムさえ、いまは抜け落ちているんです。」(姜尚中・佐高信「対談 日本を論じ、日本を変える」『サンデー毎日』2004年4月11日号) ここでは、「リベラル保守」が肯定的に語られているが、その時点での自民党批判の文脈で用いられている。また、「リベラル保守」への期待自体を表明しているわけではない。後藤田正晴が、「リベラル保守」とはされていないことにも注目しておこう。 「リベラル保守」がそれ自体として賞賛され、期待を表明されるのは、管見の範囲ではやはり模索期になってからである。以下、発言を列挙する。 「姜 (中略)極端な右も極端な左も是正していけるような健全なリベラル保守がビルトインされてないと社会はおかしくなる。互いに極端な部分を相殺しながら、世論も外交もある程度穏健なところに落ち着く。そのようなメカニズムがはたらく必要がありますね。」 「姜 いま日本では、健全なリベラル保守が劣勢なんですよ。靖国問題というのは日本にとって戦後最大のアポリアになってしまい、これから抜け出しきれないと、日本は安保常任理事国にもなれない。東アジア共同体もなかなか全面展開できない。」(姜尚中・田中明彦「対談 「靖国」の土俵から降りなければ展望は開けない」『論座』2005年8月号、2005年7月5日発売) 「日本の外交的な行き詰まりは、少なくとも、軍事化というものを制約したり、歴史問題では、例えば不十分ではあるけれども、宮澤喜一や河野一郎のような、一応外交的に調整するような姿勢がないと克服されないでしょう。また経済的にも、池田内閣の時のような、ケインズ経済学的な、所得の再分配をうまくやるようなことが必要でしょう。とりあえず今の日本では、こういったリベラル保守の健全な復権が必要だと思います。」 「とにかく、このままの状態に進んでいっては日本はどこに行くかわからない。とりあえずの時間稼ぎが重要です。その意味でも、ウイングを広げ、“健全な保守”に期待することも必要かもしれません。」(姜尚中「最悪の道を防ぐには“健全な保守”に期待」『金曜日』2005年8月12日号) こうして打ち出された「リベラル保守」、「健全な保守」の擁護は、転向後により全面化することになる。ただし、ここでもう一つ注目しておくべきなのは、後者の『金曜日』での発言においても、「リベラル保守」「健全な保守」の肯定について姜が相変わらず遠慮がちであることである。「リベラル保守」を肯定することが、左派の大前提(世界観)となっている今日から見れば、隔世の感すらある。 この『金曜日』での発言のすぐ後、2005年の9・11選挙における自民党の圧勝に直面したことによって、護憲派ジャーナリズムは、<佐藤優現象>やポピュリズム化など、言説の大きな転換を迎えることになる。左派において「リベラル保守」を持ち上げることが自明視されるようになるのも、この流れの一環だったと捉えることもできよう。民主党の衆議院選圧勝への左派による肯定的評価も、「リベラル保守」への肯定的認識の自明視化によって支えられている。 そして、今では姜こそが「リベラル保守」の日本人の役割を自覚的に演じているようにすら見える。在日朝鮮人が「リベラル保守」たらんとするこの喜劇の馬鹿馬鹿しさを、どうして誰も指摘しないのだろうか。 (つづく)
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