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訴状をアップしました/第1回口頭弁論期日 [2009-08-26 00:00 by kollwitz2000]
姜尚中はどこへ向かっているのか――在日朝鮮人の集団転向現象 6 [2009-08-23 00:00 by kollwitz2000] よい大連立か、わるい大連立か [2009-08-20 00:00 by kollwitz2000] 姜尚中はどこへ向かっているのか――在日朝鮮人の集団転向現象 5 [2009-08-15 00:00 by kollwitz2000] 論評:佐高信「佐藤優という思想」③ ブラック・ジャーナリズム化する左派メディア [2009-08-10 00:01 by kollwitz2000] メモ9 [2009-08-10 00:00 by kollwitz2000] 姜尚中はどこへ向かっているのか――在日朝鮮人の集団転向現象 4 [2009-08-04 00:00 by kollwitz2000] 姜尚中はどこへ向かっているのか――在日朝鮮人の集団転向現象 3 [2009-08-03 00:00 by kollwitz2000] 姜尚中はどこへ向かっているのか――在日朝鮮人の集団転向現象 2 [2009-08-02 00:01 by kollwitz2000] 姜尚中はどこへ向かっているのか――在日朝鮮人の集団転向現象 1 [2009-08-02 00:00 by kollwitz2000] 第1回口頭弁論期日も間近に迫ってきたので、「資料庫」に訴状をアップした。ご参照いただきたい。
「訴状(原告:金光翔、被告:新潮社・早川清『週刊新潮』前編集長・佐藤優氏)」 http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-22.html 第1回口頭弁論は、9月2日午前10時20分より、東京地方裁判所708号法廷で行われる。ただし、今回は第1回目なので、短時間で終わると思われる。 訴訟係属以降のこの間の経過を報告しておくと、被告三者(新潮社・早川清『週刊新潮』前編集長・佐藤優氏)の訴訟代理人である岡田宰・広津佳子・杉本博哉弁護士から、8月13日付の答弁書が、私のところに送られてきている。 この答弁書では、当方の主な主張を全面的に否認してきている。今後、この裁判においては、双方で相当突っ込んだやりとりが展開されるだろう。 今回の訴訟は、「新潮社・早川清『週刊新潮』前編集長・佐藤優氏への訴訟提起にあたって」でも述べたように、佐藤氏は、「言論の自由」への挑戦と言わざるを得ない言動を積極的に展開しているが、佐藤氏を批判した(『AERA』記者の場合は、佐藤氏が不快だとした)人物に対して、『週刊新潮』が大々的な攻撃記事を書くというケースが、私を含めて3件も続いている。そして、『週刊新潮』には、佐藤氏と大変親しい記者(デスク)がおり、私の記事はこの記者が執筆したことを、『週刊新潮』編集部 したがって、この訴訟において、佐藤氏と『週刊新潮』の関係が明らかにされることは、小林よしのり氏らによってつとに指摘されている佐藤氏の「言論封殺」の実態、および、「言論の自由」への挑戦者と言うべき佐藤氏をもてはやすマスコミの腐敗を明らかにすることである。 そして、佐藤氏をもてはやすマスコミの代表者としては、岩波書店が挙げられよう。 「言論の自由」への原理的な否定、イスラエルによるパレスチナ人の抑圧や軍事行動の全面擁護といった、多くの右派言論人ですら言わないような発言を積極的に繰り返す佐藤氏が、そうした異常な発言の問題を問われることなくマスコミ上で活躍しているのは、「平和」、「人権」、「学術」といったイメージをいまだに強く持つ、岩波書店が積極的に佐藤氏を著者として起用していることが大きく貢献していることは明らかである。 そして、そうした社会的評価を持ち、自分たちは「平和」や「人権」を尊重するための出版活動を行っているなどと社内で当たり前のように公言すらしている岩波書店が、佐藤氏を起用し続けるという「矛盾」について、岩波書店はこれまで一切沈黙してきている。今回の訴訟においては、岩波書店上層部、社員等の証人としての出廷が予想され、佐藤氏と岩波書店の関係、および『週刊新潮』本件記事と岩波書店の関係が明らかにされるだろう。 そのことは、私が「<佐藤優現象>批判」で提起した、日本のリベラル・左派の変質ぶりを、極めて具体的に浮き彫りにするものとなると思う。 念のために言っておくが、佐藤氏を積極的に起用するような編集方針は、岩波書店の営業上の問題ではない。それどころか、慢性的な経営不振と、2008年度における売上高の急激な低下により、岩波書店は現在、経営者が「非常事態」宣言を発している状況である。今後、岩波書店社内において、いかなる意味においても擁護のしようがないような、岩波書店と佐藤氏の結託という恥ずべき事態を打開しようという動きが出ることを希望する。それは、最低限の良心と勇気があれば可能なはずだ。 4.転向前の1年間の模索
前述のように、『愛国の作法』(2006年10月刊)を私は姜の転向宣言書だと捉えており、姜の転向は、2006年夏前後に姜が何らかの決断を行ったことにより、成立したものだと考えている。 だが、転向は、何らの準備過程もなしに生じるものではあるまい。そして、姜の転向も、2006年夏より前の約1年間における模索の挫折によって、または帰結として生じたものだと思う。 この1年間の姜の言動は、それまでの姜のイメージ――在日朝鮮人の左派の代表者、日朝交渉における平和的アプローチの提唱者、日本の「国体」ナショナリズムへの批判者、日本のポストコロニアリズムの中心的人物――とはかなり異質な、「国益」論的な立場からのものである(注10)。私はこれを、日本の言論状況に即応しようとした姜の立場修正だと見る。他方で姜は、この時期、状況が絶望的であることも告白している。 そして、そうした状況認識こそが、2006年夏前後の転向の背景にあると私は考える。転向は、この1年間の模索の挫折の結果でもあり、「国益」論との論理の連続性の観点から見れば、その帰結とも言えるのだ。 4-1.「反日運動」および「反日運動」報道をめぐって この1年間は、興味深いことに、中国の「反日運動」(2005年前半)と、北朝鮮のミサイル実験(2006年7月4日)に、ほぼ挟まれている。この2つは、それ自体の重要性もさることながら、日本のメディア、特にリベラル・左派メディアにおいて、かなり大きな画期をなした出来事である。 今や左派においても一般的となっているが、中国や韓国の民衆からの、歴史認識に関する対日批判の声を「反日ナショナリズム」として否定的に述べる論調が、リベラル・左派において大っぴらになったのは、この、中国の「反日運動」への対応においてである。 これは憶測であるが、姜は、この「反日運動」への日本のメディア、特にリベラル・左派メディアの対応に接して、新しい言説状況に即応するために、「国益」論的立場を打ち出すようになったのではないか、と私は考えている。 姜は、「反日運動」が沸き起こった直近の号の『論座』で、以下のように発言している。 「姜 日本は戦前に、ナショナリズムの勃興から生成―成熟―爛熟、そして没落を経験したわけですね。そのような「枯れた」日本から見ると、周辺諸国は、下品な言葉ですがナショナリズムの「発情期」にあるように見えるわけですね。 いま、自民党が抱え込んでいた歴史修正主義的な歴史観をお持ちの方が政治の中心に出てきて、それが世論にウケている。確かに、小渕政権のような外交はもどかしい。エモーションが感じられないし、自分たちに正当性がないようにしか思えない。それに比べると、例えば安倍晋三さんの発言は非常に歯切れがよくて、二分法的でわかりやすい。そういうところに一部のメディアは共鳴板を持っている。そのことが中国や韓国に過大に増幅されて伝わっている可能性があります。」(姜尚中・田中明彦「対談 「靖国」の土俵から降りなければ展望は開けない」『論座』2005年8月号、2005年7月5日発売) 対談相手の田中が「中国の反日デモ」に言及していることから、この対談は、中国の「反日運動」について報じられた後に行われたと考えてよいだろう。ここでの姜は、「反日デモ」に対しても、それに対する日本の報道についても、まるで他人事のようである。 実は、上の引用文中の、日本の周辺諸国はナショナリズムの「発情期」云々という発言は、この対談より前の文章でも使われている。あっという間に廃刊になった、講談社の『アリエス』の創刊号での文章である(姜尚中「夢想家の「見果てぬ夢」と一蹴されそうですが……」『アリエス』01号 2004.10.25)。 なお、これは、同誌の編集長である、横山建城との往復書簡の形をとって掲載されている。横山について詳しくは知らないが、この往復書簡が収録されたアリエス編集部・編『姜尚中にきいてみた!――東北アジア・ナショナリズム問答』(講談社文庫、2005年5月)を読む限り、朝日新聞と読売新聞を足して二で割ったような教養俗物である。 姜はここで、2004年夏のアジアカップサッカー決勝での中国人の応援などを挙げた、横山の中国ナショナリズム批判を受けて、「下卑た表現をあえて使えば、日本からみると、ナショナリズムの「発情期」にある新興諸国と、その時期をとっくに過ぎ、その点でいわば「枯れた」境地にある経済大国との落差の問題といえるのかもしれません」と述べている。 さらに姜は、「さすがに、スポーツイベントであけすけに露呈した「反日」ナショナリズムのジェスチャーをみれば、日本国民ならずとも、顔をしかめたくなります」とも述べているのだが、これに続けて、以下のように語っているのである。 「やはり、中国は「遅れている」。オリンピックという世界的なイベントを開催できるほど洗練された国とは到底いえない。何と民度の低い国民か。こんな反発があっても不思議ではありません。 ただ、そうした直感的な反発が、どこかで福沢諭吉が『世界国尽』で展開したような「文明」「半開」「野蛮」の修辞を反復しているように感じられて仕方がないのは、わたしの穿ちすぎでしょうか。」 要するに、ここでの姜は、横山の中国ナショナリズム批判を、わかるよ、わかるよ、と宥めつつ、中国の民衆の対日批判を「反日ナショナリズム」として切り捨てようとする姿勢をも批判しているのである。 上記の『論座』の対談での発言においては、この、「反日ナショナリズム」として切り捨てようとする姿勢への批判が消えている。恐らくそれは、姜が、反日運動への日本の(リベラル・左派を含めた)メディアや言論人の対応を見た結果、そうした批判を打ち出すことはもう無理だ、と判断したことを意味しているのではないか。 「2-2」で示したように、姜は、「反日運動」への日本の報道への違和感を語っているが、これは2005年夏以降の姜の発言において、管見の範囲では唯一のものであり、例外的なものだと思う。 実際に、姜と田原総一朗、西部邁との鼎談本『愛国心』が文庫化された際の補足鼎談(注1)で、反日運動がテーマとなった際に、姜も「反日運動」について論じているが、ここではそうした批判はない。むしろ、「反日運動」を、ナショナリズムの発露としてしか捉えていない田原や西部の議論を、追認する形になっている。 また、恐らくこの時期にウェブ上に掲載されたと思われる、『ニッポン・サバイバル』(注11)での「なぜ今「反日」感情が高まっているの?」なる読者たちからの問いへの姜の回答においても、そうした批判はない。ここで姜は、①中国には日本文化・商品が氾濫しているのだから、「反日運動」は、日本のベトナム戦争反対運動に従事した人々が、アメリカンスタイルにどっぷり漬かりながら「反米」を叫んでいたのと似たようなものだ(注12)、②日中の経済はいまや相互依存関係にあるのだから、敵対するのはお互い間違っている、と述べつつ、以下のように論じている。 「なぜアジアで、いつまでもそうした反日感情がくすぶり続けているのでしょうか。その根っこにあるのは何でしょうか。 かつてアジアで残虐なことをし、そして戦争に負けた日本が、なぜこんなに豊かなのだろう、と。そしてなぜ自分たちが日本より貧しいのだろう、と。これはやっぱりどこかヘンだという気持ちが潜在的にあるのだと思います。 第二次世界大戦で、日本人は「アメリカに負けた」と思っても、「中国に負けた」という意識はないでしょう。でも、抗日戦争を勝ちぬき、人民解放闘争をしてきた中国にとっては、自分たちが勝者だという意識なのです。 ところが現状は違う。今、急ピッチで経済改革が進んでいるとはいえ、中国ブランドは、まだまだ世界では通用しない。たとえば、電化製品の中身は全部自分たちが作っているのに、それはメイド・イン・ジャパンとして世に送り出されるわけです。日本ブランドの下請けじやないかと。そういう被害者意識や僻屈した気持ちが、とくにインテリ層の中にはあるでしょうね。」(姜尚中『ニッポン・サバイバル』154頁) まるで他人事である。姜はこの文章の末尾で、多くの日本人が「過去の歴史」を知らないことをもとり上げるが、それは、「歴史を知ることはエチケット」だから、というものである。要するに、そのように反発する中国人の思いを理解してやるべきだ、ということであって、その対日批判に正当性を認めない立場から行われている。ここでの姜は、対日批判に部分的な正当性すら認めていない。恐らくそれは、部分的にでも正当性を認めてしまえば、左派を含む日本のメディア・言論界への批判もせざるを得なくなるからだと思われる。 それどころか、姜は、以下のようにすら述べている。別の場所での、学生との質疑応答の中の一節である。 「学生2 中国の反日教育についてお聞きしたいんです。中国は資本主義経済を導入して、そのために貧富の格差ができてしまった。中国政府は、それに対する不安、不満を発散させるために、反日教育を進めているといわれています。それについてはどうお考えですか? 姜 いつだったか、「朝まで生テレビ!」の番組の中で、田原さんが中国の歴史教科書をひもときながら、「意外と反日的ではないな」という印象を述べられていた記憶があります。けれど、みなさんも読まれるとわかると思うのですけれども、確かに反日的な面がないわけではない。 ただ、間違ってならないことは、中国という国の建国理念は「抗日」によって成り立っているわけです。侵略してきた日本を打ち負かすという「抗日」。いわばこれがレーゾンデートル(存在理由)で、それによってはじめて中華人民共和国は成り立っているわけです。だから「抗日」をなくしてしまうと、結局、国の成り立ちの正統性というものがなくなってしまうことになっているわけです。したがって、過去の戦争の問題が、いわば国家の基礎、それ自体になっている。まず、そこを理解しなければいけないと思います。 しかしながら、戦後の日本は違う。戦後の日本は戦前の日本とは違う。なにせ六十年間戦争をしていませんし、一度も実力組織を海外に出して、戦闘行為もしていないわけですから、戦前と戦後は違うんだということを、中国にいる人々も理解しなければいけないと思います。日本もそれをもっとアピールしなければならないと思います。」(姜尚中「「日米同盟」と「東アジア共生」は両立できるか 講義 2006年5月8日」、田原総一朗・早稲田大学21世紀日本構想研究所『田原総一朗 誇りの持てる国 誇りの持てる生き方――早稲田大学「大隈塾」講義録1 2006-2007』ダイヤモンド社、2006年10月) 中国の民衆の方が悪いというのだ。ここには2004年に、日本のメディアの中国ナショナリズム批判を、福沢諭吉の反復だと批判したような姿勢は、欠片すら見出せない。それにしても、日本社会の「国体」ナショナリズムおよび排外主義の、戦前と戦後の連続性を厳しく批判していたのは、かつての姜ではなかったのか?ここで姜は、対日批判を行う中国や韓国の民衆から自らを切断し、「平和国家」日本の日本人「同胞」たることを選択し(たいと表明し)ている。この立場は、「2」で示した、転向後の姜の諸発言と同質のものである。 上述のように、姜は、2005年前半の中国の「反日運動」への報道に接して、中国や韓国の民衆の対日批判に連帯する道を放棄したと言える。そしてその選択は、論理上は、転向後の姜の諸発言にまで結びついていると言ってよいだろう。その意味では、ここでの立場選択は、姜にとってかなり根本的なものだったのである。姜の1年間の模索は、「反日運動」報道で露呈した日本の言論状況の変質への即応として始まった、と私は考える。 (注10)「国益」論的立場は、『東北アジア共同の家をめざして』(平凡社、2001年11月)で既に打ち出されているが、姜は、同書刊行の後、「国益」論的主張をこの2005年夏までほぼ封印する。この点については後日述べる。 (注11)同書は、「2005年9月から06年9月にかけて集英社女性誌ポータルサイト<s-woman.net>に掲載した「another door~もうひとつの世界へ」を、章立ても変えながら全面的に加筆修正し」(同書、238頁)て、2007年2月に集英社新書として刊行された。 (注12)この連載の「2-2」で挙げた、吉田司の「いまテレビ・新聞は反日デモ、反日デモって大騒ぎするけど、その程度、なんなのって。」という発言を受けての、「ぼくもそう思う(笑)」という姜の発言(『そして、憲法九条は。』)でも、この日本のベトナム反戦運動とのアナロジーが用いられている。ところが、『そして、憲法九条は。』においては、「2-2」で引用した金嬉老事件や中国や朝鮮半島系の「在日」との共通性の指摘のように、『ニッポン・サバイバル』とは異なり、「反日運動」の主張の一定の正当性を(この時期の姜の発言としては例外的に)認めているようである。逆に言うとこれは、「反日運動」とベトナム反戦運動とのアナロジーが、後退戦という位置づけの中で出されたものであることを示唆していると思う。 (つづく) 衆議院選投票日も間近であるが、姜尚中がまた注目すべき発言を行なっている。
連載「姜尚中はどこへ向かっているのか――在日朝鮮人の集団転向現象」でも指摘しているが、現在のリベラル・左派の転向または右傾化は、それらの人物の欲望に合致した発言を姜が積極的に行い、それにリベラル・左派が追随する、という形でおおむね進んでいる。したがって、次にリベラル・左派がどういうことを言い出すかは、姜の発言を見ていればよい。 姜は、毎日新聞8月5日付朝刊で、衆議院選に関する連載物の記事の中で、以下のように述べている(抜粋。強調は引用者、以下同じ)。 「政治の最も大切な役割が「富の再分配」にある以上、民間活力の低下で縮小していく経済のパイをどう配分するかが政治の課題になる。政治の不作為や失策は、そのまま経済に跳ね返って有権者の生活を直撃する。 政治家は、前例踏襲が常の「官僚政治」を超えてリーダーシップを発揮する時期に来ている。少なくともこの先10年の在り方を示さなくてはいけない。社会保障を例に取れば、国民に負担をお願いする場合は、その結果どうなるかの説明がいる。「高負担」でも「高福祉」なら安心と考える人は多い。ならば「高福祉・高負担で持続可能な競争力」のようなビジョンを描けば、国民の納得を得られるかもしれない。(中略) 今の状況は、混乱が収れんしていくための「生みの苦しみ」でもある。自民も民主も党内に異なる考え方が同居し、まとめにくい状況だ。だが総選挙の結果次第で、大連立を含め新たな政権形態が予想される。 仮に民主党が単独過半数近くの議席を得れば、民主党が割れる理由はなく、政界再編は遠のく。逆に小差だと、07年の小沢一郎代表(当時)と福田康夫首相(同)の大連立問題が再浮上する可能性は十分ある。あの大連立に私は反対だった。有権者や政治家を置き去りにして密室で決めようとしたからだ。民主党が選挙後に大連立を目指すなら、なぜ必要なのかを明らかにして、ガラス張りでやるべきだ。さもないと有権者は深い政治不信に陥るだろう。」 http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090805ddm002010065000c.html 要約すると、「高福祉・高負担」での「富の再分配」を行なってくれるならば大連立でも構わない、ということである。本当は、大連立によって「高福祉・高負担」での「富の再分配」を行ないうる政治体制を作れ、という主張として、姜は打ち出したいのだと思う。 姜は、「民主党が単独過半数近くの議席を得れば、民主党が割れる理由はなく、政界再編は遠のく」と書いているが、仮にそうした状況になったとしても、汚職案件等で民主党が早期に弱体化する可能性も十分ある。どのみち大連立の声が高まるだろう。 恐らく、「ガラス張り」で、「格差社会の是正」のために自民党の保守政治家たちも一肌脱ぐ、といった感動物語が動員されて、大連立は演出されると思われる。現に、世論調査の数字でも、大連立を支持する声は多い。 http://sankei.jp.msn.com/politics/election/090810/elc0908102002015-n1.htm 言うまでもないと思うが、大連立の目的は、「格差社会の是正」ではなく、消費税増税や、自衛隊の海外派兵恒久法の制定である。このことは、上杉隆や花岡信昭のような、大連立の成立に少なくともそれほど否定的でないと思われる連中も明言している。特に上杉などは、それこそ「ガラス張り」とすら言えるような驚くべきあけすけさで、以下のように語っている。 「実は大連立政権成立の真の狙いは、緊急経済対策的な救国内閣という位置付けではありません。恒久的な海外自衛隊派遣など安全保障上の法律改正、さらにその先の憲法改正も視野に入れての大連立構想なのです。」(上杉隆『民主党政権は日本をどう変えるのか』飛鳥新社、2009年6月、21頁。強調は引用者) また、北朝鮮の核に対抗するための、非核三原則の二原則への見直し(核持込みの解禁)も、大連立政権の下で行なわれるだろう(注)。 私は、姜が勘違いしている、と言っているのではない。姜は、この辺のことを十二分に分かっているはずである。私の連載でも指摘しているが、転向後の姜は、政治的な思惑からの発言ばかりだ。現在の姜にとっては、大連立によって実現されるであろう政策は、遅かれ早かれ実現されるのであって、改憲問題は(近いうちの改憲または安全保障基本法の制定で)決着がついているし、歴史認識問題は、日中韓の政治家レベルでの折衝で決着可能な問題である。以前の姜自身が問うてきた問題は、既に(姜の中では)終わっているのである。姜にとっての問題は、東(北)アジア共同体(的制度)の実現だけである。 姜がまだ主観的には「良心的」であるとすれば、既にそうなるに決まっている路線の中で、他ならぬ姜が影響力を確保することによって、他の悪人たちが影響力を確保するよりもより一般大衆は福利を享受することは間違いない、という意味での「良心」である。多分、姜は本気でそう考えていると思う。 現在の姜の役回りは、佐藤優のリベラル・左派版のようなものだ。佐藤の保守派・右派陣営での主張の多くは、論理的には、大連立が必要だという結論に行き着くものである(そもそも、<佐藤優現象>自体が大連立的である)。両者は、訴える対象を異にしながらも、同じような役回りを果たしている(転向後の姜の主張と佐藤のそれが近いことは、このブログでも何度か指摘している)。 姜が大連立容認論を唱えるということは、今は「政権交代」を呼号しているようなリベラル・左派の言論人たちも、遅かれ早かれ、大連立容認論(または黙認)に行くということである。その場合、多分、「自民党や民主党の新自由主義勢力は、大連立を実現して、停滞している構造改革を再び推進しようとしている」といった形で、「わるい大連立」への警戒が叫ばれるのではないか。そして、それに対比する形で、「格差社会の是正」を唱える「よい大連立」が肯定(または黙認)される、という次第である。民主党や、その別働隊たる社民党は、遅かれ早かれこの路線に入るだろう。 大連立に「よい」も「わるい」もない(「わるい」しかない)。姜の大連立容認論の問題は、姜が恐らく信じてすらいない、「よい大連立」という表象が作られることである。「よい大連立」を(暗黙にではあれ)支持する人々は、騙されるか、騙されるふりをしながら姜について行くだろう。 (注)大連立や、それとの朝鮮半島情勢の関連については、以前、仮説的に記したので、ご参照いただきたい。 「日本の「二大政党制」についての覚え書(上)」 「日本の「二大政党制」についての覚え書(下)」 3.姜尚中の転向と日本のリベラル・左派
3-1. 姜の理論的な次元での転向宣言とも言うべき著作は、2006年10月に刊行された『愛国の作法』(朝日新書)である。この後に刊行された、『日本――根拠地からの問い』や『憲法ってこういうものだったのか!』において、すでに引用したように、姜の発言の奇矯さは、よりエスカレートしていくが、戦後日本社会の全面的肯定、愛郷心の擁護、南原繁・和辻哲郎・矢内原忠雄といった「オールド・リベラリスト」の称揚(三人とも、以前は批判対象)、「国益」中心主義的な国家観の戦死者追悼論(以前は批判対象だった、加藤典洋『敗戦後論』とほぼ同趣旨)等、『愛国の作法』において、本質的な点で転向は成立している。 転向後の姜の発言を笑うのはたやすい。姜に嘲笑的な日本の左派が、笑っている姿も目に浮かぶ。だが、左派も含めた日本人や、(特に北朝鮮批判を率先して行って)日本人に迎合する在日朝鮮人に、姜を安易に笑う資格はないと私は考える。 2002年の小泉訪朝以降の排外主義の熱狂の下、メディア上で、誰よりも排外主義や好戦的な世論と闘ってきたのは、姜であったことは明らかである。私は日朝平壌宣言には極めて否定的であり、日朝平壌宣言を高く評価する姜とは認識を異にするが、姜のメディアでの孤軍奮闘ぶりには敬意を払わざるを得ない。 ところが、日本のリベラル・左派は、日本人自身が取組むべき問題であるにもかかわらず、大まかにいって、排外主義や好戦的な世論と闘う役目を姜に任せ、自らは傍観していた、と言ってよい。それどころか、ウェブ上の記事を読んでいると、一部の新左翼系の人々など(『インパクション』の常連執筆者を含む)は、2003年のイラク戦争前後のアメリカによる北朝鮮への先制攻撃が現実味を帯びている中で、日本社会のそうした動きと戦うどころか、北朝鮮の人権侵害を不問に付しているとして姜を執拗に攻撃していた。 姜の転向とそのエスカレーションは、姜自身の問題であることは勿論であるが(転向の論理それ自体の検討は後日行う)、姜を孤軍奮闘の立場に追い込んだ、日本のリベラル・左派の問題でもあると私は考える。 そのことは、以下の石原慎太郎都知事の姜への「怪しげな外国人」発言(2006年8月30日)に関する、姜の記述の変化が、示唆している。 姜は、2006年9月から2007年4月までと推定される期間(注7参照)では、以下のように述べている。 「(注・石原発言で)はたと思ったことは、そうだったんだ、自分は外国人とみなされているんだ、ということです。意外でした。ショックでした。理屈とか深遠な思想などなくても、簡単な言葉でひっくり返すことができるんだなっていうことを知ったわけです。彼がそこまで戦略的に考えたとは思わないのですが、たった一言「外国人」という言葉で、門戸が閉じられたという気がしたんです。問題はいとも簡単な言葉だったということです。オリジンにかかわる言葉が、簡単で素朴で、だからこそ、釈然としないんだけれど、意外と、影響力を持ってしまうのかなと思った。」(『それぞれの韓国そして朝鮮』、173頁(磯崎新との対談より)) 「残念なことは、石原発言で、僕の周りでひいちゃった人たちもいるということです。僕を見る目は変わらないとは思うんだけれども、それまでは姜という人は自分たちと一緒にやってきた人だと思っていたけれど、やはり朝鮮人、韓国人なんだということになってしまい在日がとれてしまう。すると、何かこれまでより遠い存在になってしまうんでしょう。」(同書、151頁(リービ英雄との対談より)) ところがこの認識が、2007年8月には、以下のように変わっている。 「石原都知事とオリンピックの国内候補地選考でやりあったときに、なぜか体が震えたんです。それは「三国人発言」的なことを言われたからではなく、たとえば、「熊本魂」とか、そういうものに触れることなんです。「在日だから(僕が)そういうふうに言われるし、それに反発するんだ」と見る人が多かったけど、それは違う。在日云々より、石原氏は何か、「熊本の郷里」、そういうパトリ的なものの対極にいるんです。だから「東京が何だ!」っていうような、すごい反発感。何かこう、震える感じがした。で、しゃべっているときに、なんとなく涙腺が緩んでしまって……。それは何なんだろう、と。結局、東京に収斂してしまう国家、そういうものに対する、すごい反発心があったんです。/もちろん、熊本とか九州を、その前から意識はしていた。でもあの選考の場で、改めて強くそれを感じましたね。」(『日本――根拠地からの問い』、41頁、対談時期は2007年8月12~13日) ……姜先生、何回も聞きますが、あなたは本当に同一の人物なんですか? 認識の相違は明瞭だろう。このことの意味を、『愛国の作法』の以下の文章を材料に考えてみよう。姜は言う。 「都知事のわたしに対する誹謗中傷をあらためてここであげつらうつもりはありません。ただ、「愛国」気取りの彼の言動こそ、実はかつて室原知幸氏(注・熊本県のダム建設予定地に「蜂の巣城」を作り、国の治水事業に徹底抗戦した人物)が終生を賭けて抗い続けた「大の虫」の傲慢さではないかと思うのです。「金持ちの、金持ちによる、金持ちのためのオリンピック」、それを国家プロジェクトと言ってはばからない「愛国」とは一体何でしょうか。いささか牽強付会かもしれませんが、「怪しげな外国人」という「パーリア」的状況にあるわたしこそ、実は彼よりもはるかに「パトリオット」ではないかと内心自負しています。」(『愛国の作法』「あとがき」205頁) 姜は、本文中で、「「愛郷心」や「郷土愛」、あるいは「愛国心」や「祖国愛」は、ともに「パトリオティズム」に由来しています。」(145頁)と述べているから、ここでの姜の「パトリオット」という表現は、「パトリオット」という語の持つ二つの意味を利用している。この一節は、石原の差別発言に対し、姜は、レトリックで切り返しているだけのように読める。だが、私が論じている文脈に置けば、この一節の持つ極めて重要な意味が浮かび上がるだろう。 姜はここで、石原の差別発言に対し、<それは外国人差別だ>という主張で反論すること、およびそうした主張での反論を日本人に期待することを放棄し、<自分は石原よりもはるかに「パトリオット」だ>という論理で対抗することを選択している(もしくは、選択せざるを得ない状況に追い込まれている)のである。だからこそ、「熊本魂」云々の発言が出てくるのだ。 姜は恐らく、私が論文「<佐藤優現象>批判」で指摘した、日本のリベラル・左派の変容――「外国人」をメンバーシップから排除した、「国益」を前提とした「社会民主主義」への変容――に気付いたのだ。だが、姜は、リベラル・左派への批判ではなく、<日本的価値観>への同一化を図ることで、メディアでの発言力を確保する道を(無意識的に)選択したように思われる。 姜の転向それ自体は、2002年の小泉訪朝を契機とした、排外主義の蔓延や好戦的な世論の下での、リベラル・左派の傍観による、姜の孤立化に一因があると思われる。そして、『愛国の作法』以降の転向のエスカレーションは、石原の排外主義そのものの発言に対して、日本の左派がまともな反撃をせず、いざという時に姜を守ろうとしなかったことが契機となっていると私は思う(注9)。 3-2. さて、ここで、「2-1」の『AERA』記事の、明治神宮に姜が参拝したと発言した箇所の末尾をもう一度見てみよう。 「一人ひとりの老若男女たちが境内に託してゆく様々な思いが、サンクチュアリとしてこの空間を残しているのではないか。傷をじっと見つめていると、そんな思いすらこみ上げてきて、日本人にとっての神社や初詣でというものに対する僕の先入観も、静かに消えていくようでした。」 姜の「日本人にとっての神社や初詣でというものに対する僕の先入観」とは、一体、何だったのだろうか?そのことについて、姜の著書『愛国の作法』の認識を材料にして考えてみよう。姜は同書で、国民国家の構成原理の2類型について、 ①「エトノス」-「(感性的)自然」-「血」-「民族共同体」 ②「デーモス」-「(意志的)作為」-「契約」-「国民共同体」 と記述した上で、現在の日本においては、「愛国」という言葉が前提としている「国」とは、主に①であり、それこそが、現在の日本の非理性的・排外主義的な風潮を支えているのだ、②を愛する「愛国の作法」こそが必要だ、という趣旨を述べている。 そこで、引用文に戻ろう。私は、姜の「日本人にとっての神社や初詣でというものに対する僕の先入観」とは、「日本人にとっての神社や初詣で」が、①への愛着を補強するためのものだ、という認識だと考える。 「日本人にとっての神社や初詣で」とは、①への愛着を補強するための、<大和民族>のためのものというよりも、「一人ひとりの老若男女たち」の「サンクチュアリ」としての「空間」であり、姜自身に対しても開かれたものである、すなわち、②を前提とした「空間」である――引用文を言い換えると、このように言うことができるように思われる。 これは、姜の、「エスニックなものとネーションとの連続が壊れてきている」という日本社会認識と対応している。姜は言う。 「これまでは即自的だった、エスニックなものとネーションとの連続が壊れてきているんじゃないだろうか。むしろ、エスニックなものとネーションとは明確に違うと言ってしまえるようになりつつあるのかもしれない。ある種の多民族ナショナリズムの萌芽があるとでも言うべきか。そこでの統合作用が今後、天皇制の担う大きな役割になる可能性があるかもしれない。」(『日本――根拠地からの問い』、88頁) 「多民族ネーションに移り変わったとき、その統合のロジックはやっぱり天皇制に依拠するのだと思う。そのときは、アメリカ合衆国に移民した人に星条旗とバイブルで宣誓させるように、国旗掲揚と国家を歌うとか、そういった通過儀礼を国が課そうとするでしょう。」(同書、88~89頁) 「2-1」で示したように、転向後の姜が擁護している天皇制とは、こうした「他民族ネーション」を統合する天皇制である。姜の明治神宮参拝、天皇制の肯定といった身振りは、「多民族ネーション」を志向する(または、志向しつつ否定する)「国益」中心主義的に再編されつつあるリベラル・左派論壇への適応としての、「通過儀礼」である。今後、姜は、こうした身振りを一層昂進させていくだろう。 「2-1」で引用した、かつての姜の、「内側の差別を隠蔽するという問題、外に対しては排他的になり見えない国境をつくりだすという問題が天皇制にはあります」という発言や、「アメリカが移民に対して星条旗に誓わせるように、目に見える形でロイヤリティを示すことのできる国家。私はこれは間違いなく国家主義的な象徴天皇制の演出だと思います」という発言と比べれば、こうした姜の転向ぶりには呆れるほかない。というよりも、姜こそが、「国家主義的な象徴天皇制」の演出の役割を務めようとしているように見える。 だが、天皇制や日本社会に関する認識が変わったからこそ、姜が転向した、ということでは恐らくないのである。逆である。「3-1」で検討したように、姜の転向は、認識の変化というよりも、政治的な「賭け」である。 「エスニックなものとネーションとの連続が壊れてきている」等の、日本社会への肯定的な発言は、認識というよりも、姜が日本社会がそうであってほしいと考えている前提である。その前提の下でのみ、(日本の)「国益」の観点から日本の外交政策を論じ、在日朝鮮人の日本社会への参加や貢献を促すことが正当化できると、姜は考えているだろうからである。そして、姜が「国益」を論じるような象徴的行為や在日朝鮮人の日本社会への積極的な貢献が広がれば、実際に、「エスニックなものとネーションとの連続が壊れ」ていき、日本人「同胞」として、アイヌや沖縄の人々と同様の存在として、「反日」ではない在日朝鮮人も受け入れられるかもしれないというのが、姜の戦略のように思われる。だから、姜の日本社会への肯定的は発言は、行為遂行的な命題である。もっと言うと、転向後の姜の状況認識はほぼすべて、行為遂行的なものとして読まれるべきだと思う。 その点においても、転向後の姜は、「内鮮一体」「大東亜共栄圏」といったプロパガンダに賭け(るよう追い込まれ)た、植民地化の朝鮮人知識人たちと酷似している。 3-3. 念のために言っておくが、私は、姜の転向に対して情状酌量してやるべきだ、と言っているわけではない。姜の内面とは無関係に、姜の社会的影響力がもたらす、転向後の行動・発言の社会的悪影響という観点から、姜は積極的に批判されるべきである。 だが、姜の転向問題が、姜個人のレベルで捉えられてしまうと、姜の言行不一致の道義性の問題(それも重要だが)に帰着するか、「姜さんは仕方ないなー、でも、姜さんはメディアで大衆相手に頑張らなきゃいけないから、仕方ないんじゃないかな」といった、「姜尚中は平和と人権の守り手」という大前提から一歩も出ない容認論に帰結するか、同一の大前提からの、「姜さんも追い込まれているみたいだから」といった同情論に帰結することになるだろう。 姜の転向問題――そして在日朝鮮人の集団転向現象も――は、植民地化の皇民化政策期の朝鮮人知識人の転向現象と同様に、日本国家・日本社会との構造的関連性の中で捉えない限り、あまり意味がない。転向する在日朝鮮人も情けないが、そのような在日朝鮮人を(左派も含めた)日本人が求めていることをよく知っているからこそ、彼ら・彼女らは転向していくのであるから。 姜が転向していることは、身近にいる人や昔からの読者であれば、この連載のように具体的に発言を検討しなくても、気づいているはずである。姜の転向問題において、最も問題となるのは、姜の転向を知りつつ、転向後の姜を持ち上げる連中である。メディアで言えば朝日新聞が代表例であり、個人で言えば、転向後の姜の軌跡そのものと言うべき(『AERA』の連載をまとめた)『姜流』で、姜を称揚するメッセージを送っている人々、上野千鶴子、田原総一朗、中島岳志、宮崎学、梁石日のような面々である。 転向後の姜は、いまや、メディアの寵児となり、大衆レベルで人気を持っている、ほぼ唯一の言論人である。そして、姜の一層の右傾化が、リベラル・左派の転向を先導し、ますます姜の転向のエスカレーションが求められる、という循環構図。 注意すべきは、ここに悲劇性を見出すべきではないことである。そうした見方をしてしまうと、姜の転向の指摘や上述の私の検討も、悲愴に戦う男、などといった文脈で姜のイメージを強化することになり、この循環構図をより潤滑に回転させる材料として機能してしまうだろう。また、姜は、ひょっとすると、転向によって自らがリベラル・左派およびメディア一般(政界もか)で、かなりの影響力を行使し得るようになった現在の事態に、大きな手応えを感じており、転向をポジティブに捉えているのかもしれないのである。 したがって、姜の転向問題において、姜の内面がどうか、といったことは本質的な意味を持たない。問われるべきは、姜の転向が、日本社会、特にリベラル・左派の転向との構造的関連性において現れていることであり、とりわけ上記の循環構図が批判されなければならないだろう。姜への批判は重要かつ必要であるが、その批判は、こうした前提(明示されていないものではあれ)の下でのみ、有効性と積極的意味を持つと思う。 (注9)私はここで、石原の発言が『愛国の作法』に見られる姜の転向の原因だ、と言っているわけではない。同書の編集者による以下の記述を読む限り、そうした関係性にはない。 「(注・『愛国の作法』の)執筆中に、北朝鮮のミサイル発射、首相の靖国神社参拝などのできごとがあり、テレビに生出演している姜さんを見ながら「原稿は……」と気をもんだこともありました。脱稿の直前には、五輪招致活動で福岡市の応援演説をした姜さんのことを石原都知事が「怪しげな外国人」と発言し、急遽、あとがきに加筆してもらいました。」(「朝日新書創刊/編集者から――姜尚中『愛国の作法』」『一冊の本』2006年10月号。「(i)」との執筆者署名あり) (つづく) 論評:佐高信「佐藤優という思想」 ①――佐藤優を使うことの社会的悪影響という観点の欠落
論評:佐高信「佐藤優という思想」 ②――本文批判(付記:佐藤優と小林よしのりと「パチンコ問題」) 1. この連載「論評:佐高信「佐藤優という思想」」は、②まで書いたが未完で、『金曜日』から何らかのリアクションがあれば、結論部分として③を書くつもりであった。直接的なものではないが、興味深いいくつかの文章があったので、これを機会に書いておこう。 もう先週号になってしまったが、『金曜日』2009年7月31日号の編集後記(「金曜日から」)において、株式会社金曜日のある社員は、以下のように書いている。 「「金曜日はニセモノだけれど、ほかよりはずっとマシ」との評価をある人から受けた。なにを!とは思わない。むしろ同感であり、好評であると思う。 ニセモノは不純で、不足し、ブレている。しかしそれは何と比較してか? 前提されているのは、純粋で、満足な、一貫した「私のホンモノ」である。そのホンモノに対して差異だけでなくいくらかの近似性を認めるからこそ、ニセモノなのだろう。そうでなければただのベツモノだ。 明確な自己定義は主体的な生き方に不可欠だ。そしてそこからの距離や違いで他者を定義することもその帰結である。だからこそ、どこまでを自らのニセモノに含められるかが問われるように思う。 「あなたは私のホンモノだ」と同一視するのでも「あなたは私とベツモノだ」と切り捨てるのでもなく、「あなたは私のニセモノだ」。そう言う人とこそ、つながっていきたい。」 ここではもちろん、私の文章どころか、『金曜日』への批判についても言及されていない。にもかかわらず、これは、『金曜日』批判へのリアクションとして(『金曜日』内部で)機能すると思われる(批判へのリアクションとして意図されているかいないかにかかわらず)。 私はこの連載の①で、以下のように書いた。 「繰り返して言うが、左派雑誌が佐藤を重用するのが問題なのは、左派雑誌としてよくないから、ではない。そもそもそんな雑誌には何も期待していないのである。問題なのは、それが社会という<外部>にもたらす悪質な影響である。」 ところが、上で引用した金曜日社員の文章の論理からすれば、『金曜日』への批判は、まさに「左派雑誌としてよくないから」行われている、ということになるだろう。この社員からすれば、自分たちへの批判は、「『金曜日』は左派雑誌として「ホンモノ」ではなく「ニセモノ」だ」という認識から行われているということになり、また、そうした批判に対しては、以下のような認識にならざるを得ないだろう。「あなたたちは、『金曜日』を自分たちとは「ベツモノ」ではなく、「いくらかの近似性を認めるからこそ」、「ニセモノ」として批判するのでしょう?みんながみんな、あなたたちのように、「ホンモノ」になれるわけではないのだから、「ニセモノ」を認めないのは、あなたたちの不寛容さの表れに過ぎないのでは?」と。 この連載の①を読めば明らかだと思うが、少なくとも私はそんな批判を行っていない。上でも改めて引用したが、私が一貫して問題にしているのは、世間的には左派ということになっている『金曜日』が<佐藤優現象>を推進することによる、社会への悪影響である。 上の金曜日社員の言葉を使えば、私からすれば『金曜日』は、「平和」「人権」を真っ当に擁護しようという雑誌とはすでに「ベツモノ」であるが、『金曜日』は自らを「平和」「人権」を擁護する「ホンモノ」(または「ホンモノ」たろうと努力している「ニセモノ」)の雑誌として自己を表象しており、世間一般も、「ホンモノ」(または「ホンモノ」たろうと努力している「ニセモノ」)の左派雑誌として表象され、一定の影響があると考えられる(もはやほぼなくなっている、と言ってしまってもよいかもしれないが)からこそ、批判しているのである。 注目すべきは、金曜日社員のこの論理が、エルサレム賞受賞への批判に対する村上春樹の反論に大変似ていることである。村上は、エルサレム賞受賞がイスラエルのガザ侵攻を正当化することにつながるという、侵略への自身の加担を主として批判されていたにもかかわらず、批判が、村上のイスラエル批判の不十分さを批判する「正論原理主義」の立場から行われたものだとして、問題をすり替えている。いや、村上は意識的にすり替えているのではなく、本気でそう思っているのかもしれない。上の金曜日社員も、意識的にすり替えているというよりも、本気でそう考えているように思う。自分たちの「善意」をどうして「正論原理主義」者たちは理解しようとしないのか、と。この種の「善意」ほど有害かつ厄介なものはない。 仮に、この金曜日社員の文章が、『金曜日』批判を念頭に置いたものではなかったとしても、『金曜日』の自己理解がそのようなものであれば、私の上の指摘は妥当する。また、仮に、『金曜日』批判を念頭に置いたものであったならば、佐高の「佐藤優という思想」も合わせて考えると、そんなに批判が気になるならば、本誌で論争としてちゃんと採りあげればいいではないか、と言わざるを得ない。<佐藤優現象>への『金曜日』の加担が批判されていることを知らない読者からすれば、これらの文章は、唐突過ぎて意味がよくわからないだろう。このままでは、「『金曜日』は批判に対してちゃんと反論している」というアリバイづくりをやっている、と言われても仕方がないのではないか。 2. この連載の①の冒頭で書いたように、『金曜日』がおかしくなっていることはかなり認知されつつあるようであり、部数も相当低下しているようであるから、『金曜日』への積極的な批判の必要性もなくなりつつあるかもしれないが、『金曜日』の今後について記し、連載の区切りをつけておく。 『金曜日』の方向性については、今年の1月に書いた「佐藤優の議員団買春接待報道と<佐藤優現象>のからくり」で、既にある程度論じているので、詳しくはそちらを参照していただきたいのだが、ここでは一部抜粋しておこう。 「私は、『金曜日』は、市民運動・社会運動によって社会を変えるよりも、佐藤とのつながりによって、佐藤の社会的上層部とのつながりを通じて、社会に影響力を行使する側に回ることを選択(というほど自覚的なものではないと思うが)したのだと思う。自己弁明としては、佐藤へ『金曜日』が働きかけて、佐藤が政治家ら要人や保守派(読者)に対して『金曜日』の主張を代弁することによって、『金曜日』の主張が社会的に広がる、という論理である。または、佐藤が媒介者となって、政治家ら要人と『金曜日』関係者が会合し、『金曜日』が直接影響を与える、ということもあるかもしれない。もちろん、佐藤と関わることによる、人脈の拡大(マスコミ人は大好きである)等の個人的な利益もあろう。 市民運動、社会運動の力によって下から社会を変えることは無理であるから、佐藤優(の諸活動や人脈)を通じて上の中で、上から社会を指導する、あるいは、社会をいじくりまわすことを志向した、と言い換えてもよい。体制側(の一部派閥)に自分を売り込むことによって政治的影響力を行使(あるいは、行使したつもりになる)する道を選ぶ志向になりつつあるのではないか。ここでは『金曜日』は「市民の週刊誌」というよりも、胡散臭い政治集団のようなものになっている。」 基本的にこのラインにのっとって、今後の『金曜日』(および佐藤優と結託する左派メディア全般)は進むと思うが、もう一つ指摘しておくべきは、金曜日社長の佐高は、『金曜日』の転向について、実はすでに内心開き直っているだろう、ということである。 2008年7月4日号の佐高信の「「売りまへん」に泣く」なる一文は、私には、佐高の「転向宣言」であるように見える。 http://www2.kinyobi.co.jp/pages/vol709/fusokukei 佐高はここで、以下のように述べている。 「亡くなって1カ月ほど過ぎた「偲ぶ会」で、突然、涙がこみあげた。「学歴はないけど病歴はある」が口癖だった岡部伊都子が、ある時、大手の出版社から連載を断られ、 「私は自分を売りまへん」 と京大教授だった上田正昭に告げた、と知った時である。京都での「偲ぶ会」の席上、その何番目か後に話さなければならないことも忘れて、私は思いっきり唇を噛みしめた。 それがどんなに辛い選択だったか。それでもあの小柄で華奢な岡部は自分を売らなかった。」 そして佐高は、「転向するにも能力が要ることを忘れないでほしいね」という言葉を引きつつ、以下のように続ける。 「売りものになるというか、影響力のある文章を書く人間が転向するよう狙われるのであり、売りものにならないような文章を書く人間はそもそも転向を要求されない。 この機微がわからず、ただ、転向しなかった人間だけを礼讃していては不毛だろう。競輪で「トップ引き」という言葉があると聞いたことがある。うろおぼえだが、最初にトップを走る選手は風の抵抗とかがあって不利になるのに、それを承知でトップを引く選手のことを、そう言うらしい。 いわゆる革新の陣営では、トップを引きながらも転向してしまった者に対する優しさがないのではないか。たとえば部落解放運動の西光万吉である。西光さえをも転向させてしまった権力を激しく憎みつつ、西光の「弱さ」に学ばなければ、第2、第3の西光を続出させることにしかならないだろう。 岡部は「売らない自分」を持っていた。ということは「売る自分」も持っていたということであり、誰に何を売るかという問題なのである。 」 佐高の文章を周辺の人物はチェックしてやるべきではないのか、と改めて思わせる一文である。誰でも気付くことだとは思うが、節を曲げなかった岡部の事例が、摩訶不思議にも、節を曲げることを正当化することに使われているという珍妙さをまず指摘しておこう。 佐高は、権力に「狙われ」て転向するということは、それだけの「能力」があったということだと主張している。だからどうなのか、仮に「能力」があった上で転向したのならば、その方が社会的な被害を拡大するという点でより悪質ではないか、としか言いようがないのだが、佐高は、だから転向者も一概に悪いとは言えない、と言いたいようである。この人、意外に(でもない?)エリート主義者なんじゃない? そして、佐高が「革新の陣営」に対して求める、「トップを引きながらも転向してしまった者に対する優しさ」とは、佐高および『金曜日』の転向への「優しさ」を、「革新の陣営」に対して要求して求めていると私は読む。恐らく、「1」で挙げた金曜日社員も、「「ホンモノ」ではないと攻撃するのではなく、「あなたは私のニセモノだ」として認める「優しさ」を持ってほしい」と言うだろう。 佐高は転向について、内心開き直っているから、批判に対しては「佐藤優という思想」のようなアリバイの一文で身をかわそうとしつつも、何の躊躇もなく、転向の道を突き進んでいくことだろう。もちろん、『金曜日』の他の編集部員や常連の書き手で、佐高のような転向をよしとしない「良心的」な人間もいるだろう。だが、社長である佐高の敷いたレールに沿って『金曜日』が進む以上、そうした人びとの「良心」は、転向路線に対するある種のアリバイとして機能することになる、と思われる。 百歩譲って、仮に『金曜日』の投書欄が、自らへの本質的な批判を積極的に採り上げ、活発な論争の場として機能しているならば、転向へのある程度の抑止力になるかもしれない。だが、現状はそうでないし、2007年3月時点では、編集部で「投書を選んでいる」のは、佐藤優と極めて密接な関係らしい、伊田浩之である。現在でも「投書を選んでいる」のが伊田ならば、抑止力になる可能性は全くないだろう。 無論、転向路線で行けば、従来の『金曜日』を支えていた読者はますます離反していくだろう。『金曜日』が今年に入って、部数が低下していると危機を訴えていることも、それに関連しているのかもしれない。 だが、仮に『金曜日』の部数が突然回復しても、私は驚かない。佐藤を支持する「抵抗勢力」、政治家、団体等が、自らのプロパガンダの媒体として、相当部数を買い上げて『金曜日』を買い支える(恐らく、佐高らごく上層部のみ知る形で)、ということは十分に予想できるからである。というよりも、『金曜日』が生き残るとしたら、その道以外にないだろう。そしてその場合の「生き残る」とは、まともな言論機関として「生き残る」ということではない。 3. そして、どうやら『金曜日』がその道を歩み始めているのではないか、と思わせるのが、先週号に掲載された、佐高信による後藤田正純への、3頁にわたるインタビュー(「国家主義でなく国民主義の政治を」)である。 編集部による、「自民党内リベラル保守の若手を代表する」、「サラ金問題、貧困問題に取り組み、党内幹部議員にも率直にもの申す」といった後藤田の紹介文からもわかるように、これは、かなりあけすけな、後藤田への提灯記事である。後藤田を持ち上げようとする護憲派ジャーナリズムの一部の傾向については、2年近く前に、「リベラル・左派からの私の論文への批判について(3)」で指摘したが、ここまで大っぴらなものを読んだのはこれが初めてである。 このインタビューは、後藤田が、大叔父の後藤田正晴と同じく、リベラル・左派のマスコミの懐柔と利用に長けていることが分かる、興味深い内容である。具体的な発言は忘れたので控えるが、後藤田正純は、2005年にテレビで見たときは自民党右派政治家にしか見えなかった。今は、「リベラル保守」として売り出していく、ということなのだろう。後藤田正晴、野中広務、鈴木宗男といった、現在のリベラル・左派ジャーナリズムがプロパガンダの手段として簡単に利用できることに気付いている政治家が、また一人増えたわけである。 なお、後藤田の以下のような奇妙な発言に対しても、佐高は矛盾を指摘していない。後藤田は「護憲派」ということにするようである。解釈改憲肯定論者の佐藤優を「護憲派」ということにする、『金曜日』らしいといえばらしいが、さすがにこれでは、後藤田にナメられるのも仕方がないのではないか。 「憲法九条と日米安保の問題だって密接不可分です。ただ憲法改正には反対です。僕は加憲論者ですから。改正なんて安倍晋三さんとかタカ派の人が言うこと自体危うい。」 * * * * * さて、単にインタビューだけなら問題ないんじゃないか、と思う人もいるだろう。では、次の事例はどうだろうか。 『金曜日』の最新号(2009年8月7日号)は、「審判を待つ改憲・タカ派議員たち」なる特集を組んでいる。特集の中では、右派系の議員グループを列挙し、その中の一部等に所属する議員については、別頁で「総選挙に出馬する主な右派団体所属議員」として、都道府県ごとに、氏名を挙げている。『金曜日』は、こうした議員グループに所属している議員を、「タカ派議員」と捉えている(そしてその規定を私は正しいと考える)と、普通の読者は思うだろう。記事自体は詳しく読んでいないが、これだけ見れば、なかなかの好企画に見える。 そこで列挙されている議員グループの一つとして、「神道政治連盟国会議員懇談会」が挙げられており、主な所属議員が紹介されている(ただし、「総選挙に出馬する主な右派団体所属議員」の典拠とはなっていない)。神道政治連盟国会議員懇談会の情報については、記事には、「06年9月29日現在。神道政治連盟のホームページより」とある。 では、神道政治連盟のホームページの、神道政治連盟国会議員懇談会の会員である議員を紹介したページを見てみよう。 http://www.sinseiren.org/ouen/kokugikon.html 後藤田正純がいるではないか。『金曜日』最新号の「神道政治連盟国会議員懇談会」紹介記事には、主な所属議員が紹介されているにもかかわらず、後藤田の名前は挙がっていない。 このホームページの議員リストには、「平成18年1月現在」と明記されている。普通、この手のリストには、最新版を掲げるだろう。ホームページには、2006年9月29日付の「神道政治連盟国会議員懇談会」議員リストはなさそうだから、『金曜日』が言う、「06年9月29日現在。神道政治連盟のホームページより」という記述は、おそらく、2006年9月29日時点でホームページ上に掲載されていた議員リスト、という意味なのではないかと思われる(だが、仮にそうであれば、最新版をなぜ参照しなかったのか、ということにもなる。この記事には、麻生内閣の大臣の67%が神道政治連盟国会議員懇談会所属議員、との記述もあるのだから)。 仮に、2006年9月29日時点でアップされていた議員リストには、後藤田の名前は載っていなかった、その時に掲載されていた議員リストは「平成18年1月現在」より以前のもので、そこには後藤田の名前はなかったということであれば、『金曜日』は後藤田が2006年1月時点で神道政治連盟国会議員懇談会に所属していることを知らなかった、ということになる。その可能性は、私には低いように思えるが。 したがって、『金曜日』が、後藤田が神道政治連盟国会議員懇談会に所属していることを知りながら、あえて最新号では後藤田の名前を出さなかった、ということではない可能性もあるから、そのようにはここでは断定しない。だが、少なくとも、最新号の特集記事の論旨から言えば、後藤田は、「タカ派議員」ということに(正しくも)なるのではないのか。 仮に『金曜日』編集部が、後藤田が所属していたことを知った上で、神道政治連盟国会議員懇談会の所属議員として後藤田の名前を出さなかったのならば、これは隠蔽工作と言われても仕方がないだろう。自らが、直前の号で「リベラル保守」などと持ち上げた議員の実態を、知らしめる義務があるからである。また、仮に、所属していたことを知らなかったならば、次号以降で、神道政治連盟国会議員懇談会のウェブ上で公開されている最新の議員リストに名前が挙がっている人物を、「リベラル保守」などと持ち上げるインタビューを掲載した件について、少なくともなんらかの釈明をすべきではないのか。 <佐藤優現象>を推進していることへの批判に対して、佐高信による「佐藤優という思想」という一文を載せてお茶を濁そうとしている『金曜日』が、こうした釈明をするようには思えない。多分やらないだろう。結局、こうした形で、『金曜日』は、佐高が主導して、特定勢力と結合していくのではないか、というのが私の予想である(もうすでにある程度結合してしまっているのかもしれないが)。恐らくそれは、ほとんどの『金曜日』の編集部員や書き手のあずかり知らないところで進められるだろう。 かくして、元総会屋雑誌の編集長たる佐高により、新しい総会屋雑誌のようなものが出来上がるのではないか。篠田博之編集長の『創』も、この方向に進んでいるらしいことがウェブ上では囁かれているが、その情報が確かならば、左派ジャーナリズムは、ブラック・ジャーナリズム的再編の方向に――佐藤優と癒着する岩波書店も含めて――向かっているようである。 ある意味でそれは、『流動』やら『現代の眼』やら『新雑誌X』やら『現代ビジョン』といった総会屋系の左翼雑誌が、当たり前のように発行されていた状況に回帰することである。ただし、一点、大きな違いがある。かつての総会屋系左翼雑誌は、スポンサーたる総会屋それ自体は編集内容にそれほど干渉していなかったようである(古本屋でたまに見る限り、今日読むに耐える文章はあまりなさそうだが)が、新しいブラック・ジャーナリズムは、スポンサーの主張をそのまま反映し、プロパガンダの手段として活用されるであろう、という点である。 12回にわたって連載した、「日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか」 を論文形式にして一つにまとめた上で、「資料庫」にアップした。内容に関わる加筆修正は行なっていない。
「日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか」 http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-21.html 未読の方は、これを機会に、是非ご一読いただきたい。 2-3.姜尚中と「愛郷心」
ところで、最近の姜尚中と言えば、二言目には「故郷」の熊本への愛を表明し、「愛郷心」「パトリ」の価値を称揚することで知られる。姜の「愛郷心」の称揚は、今や小林よしのりですら引いてしまう(注8)レベルに到達している。 姜が、こうした立場を強く打ち出してきたのは、管見の範囲では、『愛国の作法』(朝日新書、2006年10月刊)が初めてである。同書から、いくつかの発言を引用しておこう。 「わたしにも自分が生まれ、育った地、熊本への愛着があります。もっとも、ケンタッキーの黒人たちとは較べようもないにしても、やはり差別と賎視に堪えなければならなかったことは言うまでもありません。しかも、父母に連なる世界(韓国・朝鮮)は、劣った否定的なイメージにおおわれていました。直接、そう指摘されなくても、いつもそう刷り込まれていたのです。」(150頁) 「「郷土」への愛着は、わたしの中に身体化された記憶として生き続けています。雑木林や稲刈りの後の広々とした田、夏の光にキラキラと輝く水源が、大人の眼の届かないわたしたちだけの「ワンダー・ワールド」でした。(中略)郷愁を誘う数々の記憶が昨日の出来事のようにわたしを捉えて離さないことがあります。/きっとこの感覚は、たとえナショナリティの違いによる屈折があるにしても、分かち合うことのできる記憶ではないかと思います。そしてすべての人々が、「日本人」や「日本国民」という前に、そのような「郷土」あるいは「故郷」への愛着がどこかに仕舞い込んでいるのではないでしょうか。たとえ、「郷土」と言えるほどの記憶の場所を持たず、絶えず移動を余儀なくされていたとしても、想像の中だけでもそうした「郷土」を持ちたいと思ったことはなかったでしょうか。」(153~154頁) こうして姜は、「より開かれた新しい「郷土」の再建を目指す」「実験的な試み」を擁護し、「わたし個人は、この新たな「パトリア」の再生に、自らの「愛郷心」を重ね合わせたいと考えています。それは、さし当たり、ナショナリティの「屈折率」を縮小していく方向に向かう可能性があるからです」と述べる(以上、156~157頁)。そして、「やや図式的に言えば、地域=郷土(パトリ)の再生とアジアとの結びつきこそ、「愛国」の目指すべき理想なのではないでしょうか」と結論づけている(あとがき、203頁)。 まずは、姜の熊本への愛着なるものについて考えてみよう。森巣博との対談本『ナショナリズムの克服』(集英社新書、2002年11月刊)では、姜は以下のように語っている。 「姜 今から思うと、あの時代(注・高校生時代)には、アイデンティティ以前に、僕の中に人前で語る歴史がありませんでした。在日一世たちは、自分たちの物語を話しましたが、二世の僕は、アイデンティティを持つ持たない以前に、物語を語りえないし、同じ立場の人間同士の共通の歴史を知らなかった。 森巣 ご出身は、確か熊本でしたね。 姜 そうです。僕は、熊本という、日本国内でも非常に保守的で、在日の人も少ないところで育ちましたから、物語不在状況は、在日二世一般には言えないことなのかもしれません。しかし、そういう状況を考えると、あのときはアイデンティティからの自由というよりは、アイデンティティについて考える前提そのものがなかった。」(91~92頁。対談時期は2001年12月7~9日) 熊本という「パトリ」への愛着は「アイデンティティについて考える前提」にならないのか?同書には、姜の大学生時代の回想の記述があるが、前節で引用した、大学生時代の姜が抱いていたという「民族から切り離された「パトリへの情念」」を伺わせる記述は見当たらない。それどころかここでは、上記の引用例からも明らかなように、アイデンティティは民族的なそれと同一視されている。逆に言えば、「民族的自覚」と「パトリへの情念」を対立的なものとし、<在日朝鮮人の(反日)民族主義>を、「虚ろではかない」「パトリなきナショナリズム」とする、前節で挙げた『日本』での主張は、この立場を180度引っくり返したものであることがわかる。 もう少し2人のやりとりを見てみよう。166頁から169頁にかけての箇所(対談時期は2002年4月19日)である。長くなるが、重要な箇所なのでご寛恕願いたい。 「姜 ここで、訊いてみたいことがあるんです。 森巣 はい。何でしょう。 姜 故郷って、あるんでしょうか。 森巣 故郷ですか。私個人には、なかったんじゃなかろうかと思っているのです。でも、そういうのは体験や記憶によって違うものでしょう。第一、私にとっての故郷と姜さんにとっての故郷への思いとが、同じはずがないですよね。」 この後、森巣の故郷である金沢と東京の話、それについての森巣と姜とのやりとりがある。そして、今度は姜の番である。 「姜 僕の場合、日本の熊本が故郷になるかっていうと、やっぱり、よくわからない部分がありますね。 森巣 聖書に、生まれた土地に行ったキリストが、いじめられる話があるじゃないですか。 姜 吉本隆明が、『マチウ書試論』で書いてましたね。「人はたれでも、故郷とか家とかでは、ひとつの生理的、心理的な単位にすぎない。そこでは、いつも己れを、血のつながる生物のひとりとしてしか視ることのできない肉親や血族がいる」 森巣 姜さんには、故郷から排除されたような思い出はあるんですか。 姜 去年、熊本で、日本名じゃなくて、姜尚中の名前で講演をしました。そうしたら、僕と同じ世代の人が何人か来てくれて、「ああ、あのときのテッちゃんね」って言うのです。でも、僕としてはバツが悪いわけです。だって、仮面をかぶって生きてきたみたいなもんでしょう。なにか、正体見たり、という感じで見られているんじゃないかなあという気持ちもあった。でも、そう言ってくれる人が懐かしくもあり――。 森巣 今、すごいフレーズを思いつきました。「黄色い皮膚・黄色い仮面」っていうのはどうですか(笑)。 姜 フランツ・ファノン(笑)。『黒い皮膚・白い仮面』じゃないけど。でも、逆に外見上あんまり違いがわからない分、かえって差異っていうのはものすごく大きいわけですよね。確かに、僕の70年代は、黄色い仮面を脱いで、もう一つの仮面が出てきた時代と言えますね。 森巣 新しい黄色い仮面が出てきた。金太郎飴ならぬ、金太郎仮面(笑)。 姜 それで、やっとこれが本来の自分だなって思うわけね(笑)。頭の中ではしっかりナショナリスト(注・民族主義者)になってるわけだけど。でも、先ほども話したように、僕は、70年代にイニシエーション(注・姜の大学生時代の民族運動団体での活動)を受けたわけですよ。そうすると、今までの自分は全部ペケ。よく考えたら、故郷の共同体から、結構、排除されてたな、という思いもある。 森巣 やはりそうですか。 姜 故郷は、どうしても人にかかわるでしょ。どんなに美しい場所に生まれても、そこに生きてる人と何か美しい関係がないと、心の底から故郷だと納得できない部分もできてしまう。確か、坂口安吾だったと思うんだけど、自分は好きな女性が住んでいた故郷のことをどこかいとおしく感じるって言うんです。それと同じようなものですね。熊本は自然は美しいし、食べ物はおいしいし、いいとこなんですよ。ところが、人との関係の中で、時々ひどく言われたこともあった。/僕にとって、たぶん、熊本が故郷なんだろうけど、行くたびに懐かしいと同時に違和感もある。だから、ある意味では、僕の一番の理想は博さんだったかもしれない。要するに、博さんは、僕の理想を先取りしてた。自分の好きなように生きて、故郷や、日本人であるということにこだわらない。」 ………姜先生、姜先生。天皇制の件もそうでしたが、2002年から2006年の4年間の間に、一体何があったんですか?姜先生、あなたは本当に同一の人物なんですか? 姜の「愛郷心」の称揚は、姜が思わせたいような、姜自身の「身体化された記憶として生き続けて」きたものの自然な発露、ではなく、作られた一つのイデオロギーであることは、上記の引用から明らかであろう。このイデオロギーの性格について、簡単に触れておこう。 『愛国の作法』における姜の主張は、パトリオティズム(愛郷心)は本来的だが、ナショナリズムは作為的なものであって、パトリオティズムはナショナリズムに回収されないという、それ自体通俗的な認識に基づいている。そして、上記の中島との対談本の刊行後、再び中島と対談した際には(対談:姜尚中・中島岳志「『日本』をめぐって」(『本の時間』2008年5月号)、同書で提起した「根拠地」(パトリ)とは、「脱中心的、脱領域的な主体」である「マルチチュード」的なものだとする。 その姜の発言に対して、中島は以下のように述べている。 「中島 僕は、マルチチュードの議論にかなり惹かれる部分とこれでは無理だと思う部分と両方があるんです。(中略)さまざまな場所で発生した脱中心的な抵抗が、脱領域的にネットワーク化されていくと。これは弱いと思うんです。これだと、なかなか今のグローバル権力には抵抗しきれない。/だからこそ、今後、一番大きく出てくるのが、国家論ではないかと思います。たとえば、格差社会を国家がある程度統制しなければならない、といった国家論が非常に強くなってくるでしょう。おそらく、僕も姜さんも、それだけ、という形は避けたいと思っている。だとすれば、やはり根拠地のようなものを軸に、国家の適正規模を考えるしかない。」 姜は、この中島の発言を否定していない。結局、『愛国の作法』や『日本』で姜が打ち出している、「愛郷心」「パトリ」なる理念は、国家の補完装置の域を出ていないと思われる。実際に、姜は、『憲法ってこういうものだったのか!』では、以下のように発言している。 「姜 小泉的なポピュリズム、窮迫した気分が社会に蔓延しているからこそ、大向こうの受けがいい政策やもの言いで国家の凝集力を動員する、というのとは全く違う意味での、ある種の国家論が必要なんだと思う。これまで、とくに戦後左翼はいかに国家を遠ざけるとか、国家を超えるかとかいう議論をしてきたんだけど、国家を超えるっていうのは、実はいま強者の議論なんですね。だってグローバリゼーションのなかで金融などで成功している人は国家を超えているわけでしょう。/実は、超越的強者ではない僕たちには国家論が必要なんです。国家というのはやはり、全体性を持っているから国家なんですね。国家はそのなかにいる国家のメンバーに対して、少なくとも建前としてはすべて普遍的に対応するわけですね。/ところが、日本を含むその国家が、競争社会の強力メンバーの、ある特定の勢力の利益を推進していくエージェントに成り果てている。そういうことを進めながら、もう一方で国を愛せよと要求している。」(142~143頁) だから、現在の姜においては、前述の天皇制による社会統合(まさに「国を愛せよ」という主張と等しいが)にプラスして、中島が言うところの「格差社会を国家がある程度統制しなければならない、といった国家論」が志向されているのであって、姜が称揚する「新しい「郷土」」はそうした国家の補完装置、せいぜいのところ国家の行きすぎを抑制する機能を持つもの、という形にならざるを得ないだろう。 したがって、この「新しい「郷土」」は、以下のような、まさにかつての姜が憂慮したものとなると思われる。 「姜 小林よしのりの漫画がなぜ売れるのかというと、私というものを支えきれない人間に訴えているからです。私と公をどの具体的な関係のなかで再定義していけるのかをきちんと問題化しないと、シビック・ナショナリズムという形で共和主義と結びつけられ、共同体の一員であることにおいてはじめて一人前の人間として認められるという排他的なナショナリズムが台頭し、それがデモクラシーと結びつくということがあり得る。ナショナル・スペースに限定されたデモクラシーという考え方を、どうやってわれわれが超えられるのか」(石田英敬・鵜飼哲・姜尚中・小森陽一「座談会 国旗・国歌法のあぶり出すもの」『世界』緊急増刊「ストップ!自自公暴走」1999年11月刊、150頁) 姜が出現を憂慮した、この「シビック・ナショナリズムという形で共和主義と結びつけられ、共同体の一員であることにおいてはじめて一人前の人間として認められるという排他的なナショナリズムが台頭し、それがデモクラシーと結びつく」という事態こそ、現在のリベラル・左派における、「ナショナリズム」擁護の合唱という現象として現れているものである。姜は、「ナショナル・スペースに限定されたデモクラシー」を、結局超えられなかったようである。むしろ、「反日」ではない在日朝鮮人を、どうか、「ナショナル・スペース」に入れてほしいという主張が、現在の姜の立場だと思われる。 * * * * * この連載は、姜の転向を暴露することが目的ではないので、転向を示す発言の例示はこのくらいでいいだろう。ここでは、現在の姜が、少し前とは極めて本質的なレベルで立場を変えてしまっていることが確認できればよい。以下、姜の転向の意味と方向性について、検討する。 (注8)転向後の姜のパトリオティズム―ナショナリズムの関係性の把握と立論は、実質的には、小林よしのりのそれに極めて近いものになっている。以下の小林の主張など、現在の姜の発言と言われても何の違和感もない。 「日本にあっても、日本人が無警戒に、果てしなく近代化・市場絶対主義を受け入れる現在にあっては、「郷土」など早晩消滅してしまうだろう。/そのときこそ「故郷喪失者たちのナショナリズム」は、アメリカと同様の排外的なものになるに違いない。」(小林よしのり『ゴーマニズム宣言EXTRA――パトリなきナショナリズム』小学館、2007年6月、149頁。初出は「パトリなきナショナリズムの危険」『わしズム』2007年冬号) ただし小林は一方で、「故郷」が持つ排他性をも指摘している。興味深いことに、小林は、姜の異変に気づいているようである。 「朝日新聞のインタビューで姜尚中が「国家は人に「死ね」と命じるが、郷土は「死ね」と命じない」と言っていたが、馬鹿なことを言っちゃいかん。(中略) 国が召集令状を出して「死ね」と命じただけではない。ナショナリズムに酔った郷土の者らが「世間体」という倫理を振りかざして「死ね」と命じたのだ。/その郷土の倫理観の残滓は今でもある。姜尚中が知らぬはずはあるまい。郷土こそが差別の温床ではないか!」(同書、154~155頁) (つづく) 2-2.姜尚中と「民族的自覚」
姜のこうした天皇制(的価値観)の肯定は、姜自身の在日朝鮮人としての「民族的自覚」の否定と対応している。 「かつて作為的に民族的自覚を「ねつ造」せざるをえなかった私は、どこかで「パトリへの情念」を押し殺し、そうすることで民族主義者に脱皮できると思ったことがあった。しかし、身体性を欠いた思想が虚ろなように、パトリなきナショナリズムも虚ろではかない。そこには「根拠地」が欠けているのだ。/確かにその欠落をより積極的な意味へと反転させる回路がないわけではない。ユダヤ的知性に見られるような「意識的パーリア」の道である。だが、私にはどうしてもそれがしっくりとはこなかった。なぜなら、私は余りにもパトリを愛していたからである。/こうして私は、民族を捨て去ることもできず、さりとて、民族から切り離された「パトリへの情念」を手放すこともできないまま、煩悶し、悶々とした日々を送っていた。」(『日本――根拠地からの問い』「あとがき」215~216頁) ここでは「民族的自覚」と「パトリへの情念」が、対立的なものとして認識されている。「虚ろではかない」とされている「パトリなきナショナリズム」とは、<在日朝鮮人の(反日)民族主義>である。 以下の発言も同様の文脈にある。 「(注・北朝鮮について考えると)1968年に起きた金嬉老事件を思い出します。金嬉老は人殺しも、人質をとって立てこもったことも、民族差別のせいにしました。でも、それは独りよがりでしかなく、たとえ差別にあったとしても、だからといって殺人行為が許されるはずはないのですから。今の北朝鮮は、この金嬉老と変わりがないなという思いでいます。」(『それぞれの韓国そして朝鮮――姜尚中対談集』(注7)角川学芸出版、2007年12月刊、249頁(黒田福美との対談より)) 金嬉老が殺人に至った経緯を知ればこの事件に民族差別が深く関与していること、また、金嬉老の日本社会への訴えが、日本社会における在日朝鮮人差別を顕在化させ、そのことへの認識の社会化に大きな役割を果たしたことは明白である。ここでの姜の目線は、在日朝鮮人差別を問題化させまいとする、日本人マジョリティの立場からのものである。 ところが、そもそも、姜はかつて金嬉老事件について、次のように書いているのである。 「この事件(注・金嬉老事件)はわたしの中に二律背反的な感情の波紋を広げた。よくぞ「在日」という存在そのものを知らしめてくれたという気持ち。しかし「在日」はやはり「犯罪者」ではないのかという疑念。そのアンビバレンスを抱えたまま、わたしは大学生になっていたのである。」(姜尚中『在日』講談社、2004年3月刊、74頁)。 「いま「反日無罪」なんて、暴動的な動きが起きていますが(注・中国の「反日」運動のこと)、考えてみれば60年代終わりの金嬉老事件は、言ってみれば暴力を通じて、内側から反日をやってるようなものなわけです。しかし、今回の中国の反日暴動と金嬉老を結びつけた議論は一件もない(笑)。つまり反日は、すでに60年代からいろいろな形であったということで、そういう言わば過去の歴史の「リビング・エヴィデンス」、「生きた証拠」が中国や朝鮮半島系の「在日」だったわけです。それは間違いなく反日だったわけです」(姜尚中・吉田司『そして、憲法九条は。』晶文社、2006年2月刊、129頁。対談時期は不明だが、姜の「はじめに」と吉田の「あとがき」の日付は「2005年12月」)。 後者の発言のすぐ後で、姜は、吉田の「いまテレビ・新聞は反日デモ、反日デモって大騒ぎするけど、その程度、なんなのって。」という発言を受けて、「ぼくもそう思う(笑)」と述べている(同書、130頁)から、金嬉老事件を否定一本槍で捉えているとは言えない。 したがって、少なくとも2005年12月時点までは、姜は、金嬉老事件を「独りよがり」などとして切り捨てるのではなく、「アンビバレンス」をもった行為として、また、重要な問題を提起したものとして認識していたことになる。ここからも、姜の立場に変容が起こっていることが読み取れよう。 (注7)同書は、「2006年6月から2007年4月まで角川学芸Webマガジンで連載された「姜尚中の今日はいい日だ」を再編集したもの」(同書、6頁)である。 (つづく) 2.
前置きが長くなった。もう一つ補足しておくと、今回の主題は、姜の転向をどのように位置づけ、それをどのように批判するかであって、転向それ自体を倫理的に批判する、というものではない。もちろん、転向それ自体への倫理的な批判もあってよいと思うが、ここではそうした点に重きを置いていない。 だが、姜のファンや擁護者たちは、姜が転向したなどとんでもない誹謗中傷だ、と言うかもしれない。姜自身、ごく最近でも、以下のように発言している。 「これまで左だった人が一挙に右に傾くこと、あるいは、これまで中間だった人が一挙に右か左に変わること、これは由々しいことです。大切なことは、ブレないことではないでしょうか。 自分自身の最小限の矜持として言えることは、私は変わらなかったのではないか、ということです。学生時代から三十数年経っても、あのとき言っていたことと、いまの考えに変わりはありません。韓国の民主化により、日韓の関係を変えていく。その思いは、やっといま、成果として現れています。」(姜尚中『希望と絆――いま、日本を問う 』岩波ブックレット、2009年7月、40~41頁。強調は引用者、以下同じ) では、姜の転向を示す諸発言を、いくつか具体的に示しておこう。 2-1.姜尚中と「天皇制」 まずは、転向の「象徴」的な例として、姜が天皇制を積極的に肯定するようになっていることを示しておく。中島岳志との対談本『日本――根拠地からの問い』(毎日新聞社、2008年2月刊)の、「「歯止め」としての天皇制」と題された節での姜の発言である。 「姜 今の国家の現実はある意味、天皇よりも右に行っちゃっているじゃない?今の天皇は実際、戦後体制的な日本国憲法第一条的な役割を、自覚的に演じているところがあるでしょう。「朕は地域に心を痛めている。日本の民には格差がないほうがよろしかろう」くらいの本音を持っていらっしゃると思う。あるいは、憲法改正は「大御心」に反するということになるでしょう。」(66頁、対談時期は2007年8月12~13日) とりあえず、「いらっしゃる」などと天皇に敬語まで使っていることをまずは指摘しておこう(注1)。また、ここで姜が想定している天皇の政治的権能は、象徴天皇制下でのそれを明らかに超えている。 「それ(注・天皇制)が国家主義に対してある種の抑制的な役割を担っている。」(同上、66頁、) 「もし、日本が天皇制を廃止して共和制になったら、それでいい国になるかというと、必ずしもそうじゃない。」(同上、66頁) 「たとえ戦前であっても、もし第九条があったら天皇は軍服を着て、軍人のシンボルになったりはできなかったんじゃないかと思う。つまり、単に第九条を平和・戦争だけで捉えず、第一条との関係で議論する必要がある。/つまり、立憲君主制に近い、ある種の国体が歯止めとしてやはり必要だろうと。それは和辻哲郎が構想した、非常に保守的なものであるかもしれません。しかしそれが、かろうじてギリギリのところで、国家主義に対するある種の防波堤になる。第九条がなくなると、戦前の隘路に踏み込んでいく可能性がなくもない。/左翼には「一条は廃棄だ」と天皇制廃止論を唱える人がいるけど、現状では、そんなことをしても「天皇なき国家主義」に行っちゃう可能性があるんですよね。どんなに形骸化したものであれ立憲君主制がなくなると、むしろ野放図な国家主義が膨張する可能性がある。これは敗戦間際に、天皇の重臣たちが最も恐れていたことで、だから色々な人間たちが終戦工作をやりましたよね。」(同上、67~68頁) 「終戦工作」は、「野放図な国家主義が膨張する可能性」を抑えるために行われたそうだ。思想信条以前に、史実として滅茶苦茶である。編集者はチェックしなかったのだろうか。戦時期の天皇制国家こそが「野放図な国家主義」の行き着いたものではなかったのか。姜の両親や親族は、戦時期に朝鮮人に強制されたはずの「皇国臣民の誓詞」を免除されていたに違いない。 姜の発言からは、論理的には、共和主義下の日本国家の方が、戦前の天皇制国家よりもはるかに「野放図な国家主義」になりうるということになる。これはむしろ日本人への冒涜ではないか?君主制が「野放図な国家主義」を促進している例など掃いて捨てるほどあるではないか。イタリアのファシズムは国王の積極的な支持により政権を獲得できたし、何よりも、戦前の日本がその最もよい反証である(注2)。 それにしても、この一節全体が、奥歯に物が挟まっているような言い方である。恐らく姜は、本当はこう言いたいのではないか。「憲法は早晩、変えられるだろう。そのときに、天皇制がないと、「野放図な軍国主義」が膨張するだろう。だから、天皇制は擁護されるべきである」と。姜の中では、改憲されることは大前提なのだと思われる(注3)。 「日本の戦後は、和辻的な保守主義にうまく回帰しつつ国体を護持した。うまい形で保守主義を、あえて保守主義と言いますが、それを使った。」(同上、68頁) 戦後、在日朝鮮人は、そのような「保守主義」の下で抑圧されたのではなかったのか? 「念のために付け加えれば、僕は本来、戦略的には天皇制をあまり議論しないようにしているんです。首を突っ込まない。ただし、いわば「国家のオルガン」としての天皇制はもちろん問題だと思う。だからこれに回収されないあり方をパトリの論理と心情でどう組み立てられるか、は考えている。とはいえ、天皇よりも現実が右にある以上、当面は、天皇制批判は緊急の課題ではないとも思っている。」(同上、69頁) カマトトぶるべきではあるまい。姜は積極的に天皇制を肯定しているではないか。 「ここまで僕が言ってしまうと、あまりに意外に思う人がいるかもしれません。自分でも、葛藤のようなものはあるんですよ。でも小学生のころ、今の天皇が皇太子時代、「熊本にご夫妻が来る」ということで、日の丸の旗をみんなが持たされて、炎天下、熊本大の正門前で四~五時間待たされたの。担任の先生が皇族大好きな女性でしてね(笑)。それで、目の前をオープンカーが通って、美智子さんを「ああ、綺麗な人だなあ」と思った。みんなが「万歳、万歳」と言っていて、その光景が妙に鮮明に焼きついている。/だから、どうなんだろう?国家的なシンボルから切り離された、ある種の土俗としての天皇、みたいな可能性がもしありうるとするならば、これには、必ずしも違和感がない。」(同上、81~82頁) 姜の小学生時代の上記の見聞・体験まで、「土俗としての天皇」という概念(この概念自体の是非はさておき)に含まれるならば、「土俗」も「創られた伝統」(もしくは、国家、学校教育、メディア等によって<自然>に植え付けられる、天皇制への肯定的意識)も、区分自体が意味をなさなくなるではないか(姜自身が、「日の丸の旗をみんなが持たされて」と、学校教育の関与を記している)。姜の認識では、天皇制への肯定的感情は全て、<自然>なものということになる。強制さえなければいい、ということだ(注4)。 なお、この記述では、姜自身はこの「土俗としての天皇制」から切り離されているかのようにも読めるが、別の本の以下の記述を読むと、姜自身もこの「土俗」の構成員であるらしいことが分かる。 「姜 京大の高坂正堯さんがご存命の時、あるところでなんと言ったかというと、天皇は掛け軸だと。床の間に掛け軸がないと殺風景でしょ。掛け軸があると、これは、冴えるんですよと。それを聞いたとき僕はびっくりした。これはね、僕のように熊本で育って、やっぱりいまの天皇ご夫妻が僕らの前を通り過ぎるというのを何時間も待って旗を振った、そういうエートスで育った人間からするとね、出てこないわけです。」(寺脇研との対談本『憲法ってこういうものだったのか!』ユビキタス・スタジオ、2008年10月刊、61頁) それにしても、リベラル・左派論壇によく登場する在日朝鮮人で、これだけあからさまに天皇制を肯定している人間はいない。私は、同書でこれらの発言に接したとき、そのあまりの倒錯振りに唖然としてしまった。姜先生、あなたはなぜ日本にいるの?天皇制国家による侵略と植民地支配による、朝鮮農村の崩壊の結果じゃないの?そうした侵略と植民地支配は、天皇制があったにもかかわらず行われてしまったものなの?皇民化政策というのはいったい何だったの? 『日本』刊行後に出版された、上で言及した寺脇研との対談本『憲法ってこういうものだったのか!』で、姜は、この傾向をさらにエスカレートしている。発言をいくつか抜き出しておこう(注5)。 「姜 僕は、天皇制それ自体について発言したことや書いたことはいままでないんです。/最近自分の中で腑に落ちているのは、歴史学者の和田春樹さんがおっしゃったことなんですね。つまり、結局第一条(象徴天皇)と第九条(戦争放棄)はセットなんだと。/それは、憲法制定当時国民がそう理解したということでもあるんです。日本国民統合の象徴としての天皇という形とセットで、平和主義というものが国民のなかに理解されていたと和田さんはおっしゃっている。」(『憲法ってこういうものだったのか!』、52頁) 「姜 僕が西部邁さんとお話したときなどは、彼の議論について僕はいろいろ批判もしたけれども、結局民主主義というものが百パーセント善で、それですべてがうまくいくというのは、幻想以外のなにものでもない、その点では一致した。そうするとね、天皇制廃棄というならば、それに代わるものは何か。これは僕は、ほとんど代案はないんじゃないかと思います。いまのところはね。そして、憲法第一条にこういうかたちでそれが明記されているということを、目を逸らさずに、受けとめるべきではないのか。だから僕個人は、天皇制を否定したことは一度もないんです。」(同上、70~71頁) 「寺脇 かつては、アメリカ以外の国はほとんどみんな王様がいたわけです。だけどロシア革命のとき殺されちゃったりフランス革命でギロチンにあっちゃったりしてるからいまはあんまりいないわけですよね。そして戦後、何か象徴を作ろうとしたときに、たまたま日本にはそれがいたわけですよ。(中略)いまの天皇や次に天皇になろうとしている人などを見たときに、およそこの人が戦争をしたり侵略したりするようなことをしそうには…… 姜 見えないよね。 寺脇 戦争をするようなマインドをもってない。でも、例えば小泉さんにそんなマインドがないとは、まだ私たちにはわからない。/だいたいあの人たちはおそらく日本で一番ストイックに生きてきている人たちで、象徴ということを最大限の努力で担い通そうとして、相撲のひいきさえ慎ましやかに、何が好きかとも言わず暮らすような強い自律というのをもっている人たちだから。」(同上、71~72頁) 「姜 一条と九条はセットだという見方は、戦後的なトラッド(伝統)なんですね。いまの問題はどこにあるかというと、そのトラッドが、浅い観察からは非常に保守的に見えるということ。天皇制に反対しないのは保守なんだと。だから天皇制を変えなきゃいけないんだという立場が、自動的に革新的に見えるようになっていた。そこにはやっぱり戦前の革新官僚的な、ニュアンスがあるよね。」(同上、73頁) 「姜 僕は、いまの一条と九条があればね、情報の大波がなんとか制御できると思うんです。戦前は九条がなかったから、情報の大波のなかで、天皇もまさしく大元帥を演じなきゃいけなかった。」(同上、104頁) 「姜 戦後民主主義と言われているものの中でも、情念的なものの大波が、いつでも起きうる。それに対して、憲法や象徴天皇というかたちでスタビライザー、安定装置を想定したとも言えますね。」(同上、105頁) 歴史学的には抱腹絶倒の発言の数々に驚くほかない。だが、こんな姜(や寺脇)の抱腹絶倒発言を挙げ出しているときりがないし、そろそろ私も(多分、読者も)飽きてきたので、そろそろひっくり返すことにしよう。 姜は少し前までは、以下のように述べていたのである。いくらでも挙げられるが、とりあえず代表例を二つだけ。 「姜 天皇制がぼくにとっていちばん苦痛だったのは、見えない国境をつくるからです。見えないかたちで、日本人と日本人でないものを分ける。そして日本人の内部には絶対的差別がないかのように幻想化する。実際には沖縄、同和、アイヌ差別があり、階級差別があるのにもかかわらず、天皇という名においてすべてがひとくくりにできると……」、「内側の差別を隠蔽するという問題、外に対しては排他的になり見えない国境をつくりだすという問題が天皇制にはあります」(姜尚中・内田雅敏『在日からの手紙』太田出版、2003年10月刊、79頁) 「(注・小渕恵三内閣の下で)ここ数ヵ月(注・1999年)にわたって、周辺事態法から国旗国家法まで、ひとつの内閣が潰れてもいいくらいの法案が立て続けに出てきたということは、やはり79年(注・1979年)の段階から較べると国家の側がかなりピンチに立っているというふうに考えられます。そのひとつが、言うまでもなく日の丸・君が代の法制化です。天皇制は、私の言葉を使えば、「舶来品の国産化」でした。いわば、舶来の国産品をいかにして国体の護持という形で作り出すかが象徴天皇制のひとつの眼目だったわけですが、これはアメリカの覇権のもとに日本がいる限りにおいて初めて存続を許されるものでした。/この象徴天皇制の担保として、第九条がウルトラCとして差し出されました。しかし日本の戦後平和主義は第一条には手を着けず、第九条にのみすべてのアイデンティティを置いてきました。しかし、この第九条の成立過程を見ていくならば、第一条が眼目であることはあきらかです。第一条を認めさせるためには第九条という日本の軍事的な去勢化が必要だったのです。これをしないかぎり、恐らく極東委員会や連合国はマッカーサーが構想したような国体護持を決して許さなかったでしょう。戦後の民主主義は第一条についての論議をほとんどネグレクトしてきました。そのつけが今出てきているわけです。/象徴天皇制は非常によくできたシステムで、国の側からすると、法制化しないことによって、社会の内部と私たちの意識に浸透できるこれほど望ましい象徴政治はありません。(中略)なぜ、あえてそれ(注・象徴天皇制)を法制化(注・日の丸・君が代の法制化)しなければならなかったのか。それは国の側に必然性があるからで、ひとつには、市場のグローバリゼーション化と同時に国家のグローバルスタンダード化をやろうとしているということです。国家のグローバルスタンダード化、すなわち「普通の国家」です。NATOにおけるドイツと同じように、集団安全保障を通じて国外に軍隊も出すし、応分の負担を担えるような国家、それから外からやって来る外国人に対して、アメリカが移民に対して星条旗に誓わせるように、目に見える形でロイヤリティを示すことのできる国家。私はこれは間違いなく国家主義的な象徴天皇制の演出だと思います。憲法の第一条に表されている象徴天皇制は、国家が過剰な介入をせず、いわば国民主義的なかたちで、頭上にプカプカと浮かんでいる、漂流した象徴として、慣習法的に、絶大な影響力を持っていました。露骨な形で、国家主義的に象徴天皇制をオペレートするのではなくて、むしろ下からの平和主義や国民主義に乗るかたちで国民のなかに浸透していたわけです。しかし、今は第九条を変えるために第一条を変質化させなければならないという事態が起きているわけです。(中略)これは単なる戦前の復帰ではない。むしろ、バイゲモニーつまり両頭支配で、アメリカとセットになって、かなり大きい覇権を有するような、今後国連の安保常任理事国になれるようなそういう国家にしていこうということだと思います。」(「溢れ出す国家という<公>――揺さぶられる戦後の秩序感覚」『季刊戦争責任研究』2000年春季号。発言の日付は1999年9月26日) 後者はあまりにも今日的な、2009年の政治を予兆するような見事な文章だったので(しかも、民主党(日本)政権下での「普通の国」化と東北アジアの集団安全保障構築に際しては、姜がイデオローグまたは広告塔の役割を担うように思うのだが)、つい長々と引用してしまった。 姜先生、姜先生、「天皇制それ自体について発言したことや書いたことはいままでない」、「天皇制を否定したことは一度もない」んじゃなかったでしたっけ?「天皇制を変えなきゃいけない」とする主張には「戦前の革新官僚的な、ニュアンスがある」んじゃなかったでしたっけ?天皇制が「見えない国境をつくる」問題、「内側の差別を隠蔽するという問題、外に対しては排他的になり見えない国境をつくりだすという問題」はなくなったんですか?なくなったとしたら、この2003年後半から2007年後半の間のどの時点なのでしょうか? * * * * * ところで、私が、姜がとんでもない方向に行っていることに確信を持ったのは、たまたま読んだ『AERA』の姜の連載記事で、姜の、明治神宮参拝の記事を読んだときである(注6)。 できれば直接全文を読んでほしいのだが、いくつか引用しておこう。姜は、「最近、ある雑誌の取材で初めて明治神宮を訪れました。」とこの記事を書き出し、明治神宮を「原宿に、あれほど静謐な空間があったとは、思いもよりませんでした。」とする。その後、「在日である僕と、神社。このやや奇異な組み合わせ」に緊張していた、姜に同行していた編集者が、原宿でのこの発見に驚く姜の様子を見ると、「喜々として森を案内してくれました。」とした上で、以下のように続ける。 「聞けば明治神宮は、明治天皇の逝去後、全国から集まった青年たちの「奉仕」によって広大な荒れ地を造営し、350種類以上、約15万本の樹木が奉納され、あのような見事な森が形成されたということでした。/その広さたるや東京ドームの約15倍。樹齢1500年を超えるヒノキの巨木を使った大鳥居は、質朴にして重厚。空を樹木が蔽い、しんと静まりかえった境内に海外からの観光客が行き交い、東京とは思えない時間が過ぎていきました。/そして、僕も参拝しました。すると、賽銭箱や周辺の柱に無数の傷が残っていることに気づきました。傷跡は深かったり浅かったりと、色々ですが、老若男女、様々な人が、渾身の力で投げた賽銭の跡なのでしょう。明治神宮は初詣での「メッカ」。柱に賽銭が刺さってしまうほどの人々の切なる思いに、胸がキュンと熱くなりました。神社の方によると、こうした傷は修復せずに保存しているとのことです。/一人ひとりの老若男女たちが境内に託してゆく様々な思いが、サンクチュアリとしてこの空間を残しているのではないか。傷をじっと見つめていると、そんな思いすらこみ上げてきて、日本人にとっての神社や初詣でというものに対する僕の先入観も、静かに消えていくようでした。」 この箇所については後でコメントする。この箇所の後、戦後、在日朝鮮人でチマ・チョゴリを着て神社に行く人もいたらしい、という話が続き、以下のように続けている。 「思えば僕の父母と寺社との関係でも様々なエピソードがあり、母は、2歳で夭逝した長男を、熊本市内の密教系のお寺にまつったと聞きました。」 「寺社」という名の下で、神社と寺の違いがぼかされている。また、地方の神社を参拝することと、朝鮮植民地化の法的な最高責任者である明治天皇を祀る明治神宮を参拝することとの違いもぼかされている。 姜は、この後、熊本市の藤崎八幡宮の加藤清正ゆかりの例大祭に、子どもの頃の姜を含めた、結構の数の在日朝鮮人が通っていたと書いた上で、 「こうして振り返ると、神社と在日との関係は、複雑なものでした。/日本の神社に参拝を強要され、つらい思いをした人々の歴史も、忘れてはならない史実としてある。その一方で、民俗学者・柳田國男の言葉を借りれば時代を問わず民俗を伝承していく常民的な場としての意味合いも、願いを寄せる人々の姿には確かにあります。」 と続ける。 ここでは、神社参拝という行為が無媒介に「民俗」とされ、そして、「民俗」を営む主体を「常民」という柳田民俗学の概念で規定し、「つらい思いをした人々の歴史」と対比して、肯定されている。姜が、それこそ「常民」イデオロギー批判を含めた、柳田民俗学が孕む植民地主義に関する近年の批判的研究を知らないはずはあるまい。在日朝鮮人の「つらい思い」と、「常民」の営みが、なぜ対比の対象なのか。在日朝鮮人に対する日本の神社への参拝の強要は、地方においては、まさに「常民」たちの地域共同体による圧力の下で行なわれたのではないのか。 また、はじめは緊張していた編集者が、姜の反応を見て、「喜々とし」た様子に変わったことも示唆的である。姜のような在日朝鮮人の<親日的>反応によって、朝鮮人への神社参拝強要という歴史的責任が解除され、この(恐らく)日本人は過去から<解放>されるわけである。 (注1)ただし、姜が天皇に敬語を使ったのはこれが始めてではない。すでに、講談社+α文庫版の『愛国心』(2005年7月刊)の「補章 「愛国心」ふたたび」(文庫化時に加えられた章)において、「首相や、将来、天皇が靖国に行かれるならば」として、天皇に敬語を使っている。文脈上、「行かれる」という敬語は天皇に使用されている。なお、同書で姜は、「僕は個人的に天皇がどうあるべきだとか天皇制がどうあるべきだとか一度も発言したことはない。それは日本の国民が決定すればいい。」と発言しており(64頁。対談時期の記載はないが、単行本は2003年6月刊)、この段階ではまだ天皇制肯定に踏み出していない。 (注2)なお、姜の議論は、佐藤優の「国体」護持のための「護憲」論に非常に似ている。少なくとも論理構成上は、完全に同一である。 (注3)この「改憲は止められない」という認識は、恐らく、リベラル・左派全般の暗黙の了解でもある。奇妙なことに、これは、安倍政権崩壊後の右派・保守派陣営の明文改憲への絶望振りと好対照である。 (注4)こうした認識は、日の丸・君が代の<強制>だけを問題にする、現在の朝日新聞的なリベラルのそれと正確に対応している。 (注5)ただし、同書の目次頁(4頁)には小さな文字で、「本文テープ起こしのうち、姜尚中氏の発言についての文責はユビキタス・スタジオ 堀切和雅にあります」とある。出版常識では考えられない措置で呆れてしまった。そんな本出版するなよ。 (注6)「姜尚中 愛の作法 第20回」『AERA』2007年12月31日-2008年1月7日号。この記事の見出しは、「原宿の杜の静謐に触れ/賽銭箱の傷跡に/「常民」の営みを知る」。前掲『姜流』に収録。 (つづく) 1.
「AERAムック」なるシリーズで、姜尚中の『AERA』連載記事を中心にまとめた、『姜流』なるDVDつきの本(ムック)が出た。 http://www.aera-net.jp/editorial/blog/090724_001010.html 書店で書名を見かけたときは、「またやってる」という感想しか持たなかったが、中身を見てみると、佐藤優との対談(『週刊朝日』2006年12月1号)が収録されている。佐藤とのこの対談は既に読んでいたが、私が「<佐藤優現象>批判」を発表して以来、私のものも含めていくつかの佐藤批判が出ているにもかかわらず、同書へのこの対談の収録を了解したことは、姜が佐藤および<佐藤優現象>を擁護するということの意志表示である、と見なしてもよいだろう。 私はこれまで、姜尚中については、折に触れて批判的に言及することはあっても、これまでの功績に鑑みて、まとまった形での批判はしてこなかったのだが、こうなれば、姜に配慮する必要もなさそうである。 以下の論述が明らかにするように、姜は明白に転向している。そして、姜のメディアへの露出は、このところ、ますます増えており、最近ではテレビにも頻繁に現れている。雑誌媒体でも、論壇誌だけではなく、週刊誌や女性誌にも頻繁に登場している。また、マスコミ関係者やリベラル・左派の知識人(例えば小森陽一、佐高信)にも影響力が強い。日本の、極めて多くの人間にとって、姜が、「日本社会に批判的な「在日」知識人」の代表である、と言ってよいだろう。 そして、それゆえに、姜の転向は大変深刻な社会的影響をもたらす(もたらしている)と考える。「あの「在日」の姜さんですらここまで言っているのだから」ということで、日本のリベラル・左派、日本人・日本社会の転向が容認・合理化されてしまうという構図。 転向後の姜は、「玄界灘トンネル構想」という言い方ではあるものの、日韓トンネルの必要性をあちこちで主張している(例えば、加藤紘一・姜尚中『創造するリベラル』新泉社、2008年11月。同書は、「聖学院大学において開催された加藤紘一氏と姜尚中氏の講演と対談、学生との質疑応答(2007年12月)に、後日行われたインタビュー(2008年6・7月)を加えてまとめたもの」(同書、7頁))から、魑魅魍魎の世界に行ってしまったという見方もできるが、転向と呼ばれるべき主張をし出している在日朝鮮人は、姜に限らない。姜だけではなく、在日朝鮮人の「左派」の言論人(ネット右翼や右派論壇からは「反日」だと往々にして称される人々)の、従来では考えられない発言が目立っているのである。私はそれを、「在日朝鮮人の集団転向現象」であって、<佐藤優現象>に象徴される、日本のリベラル・左派の国益中心主義への転向に即応したものだと考えている。 これは、日本のリベラル・左派の転向にとって、大変都合がよい。転向した「左派」の在日朝鮮人は、リベラル・左派の転向を不問に付すし、リベラル・左派がこうした在日朝鮮人を起用することは、自らの「リベラル・左派」としてのアリバイにもなるからである。 現に、日本のリベラル・左派系のメディアや言論人は、「外国人労働者の流入に反対」といった論調を公然と打ち出しつつあるが、同時に、こうした「左派」の在日朝鮮人はこれらメディアに登場し、それら言論人や編集者とつるんでいる。「外国人労働者の流入に反対」という命題と、日本の「外国人労働者」の嚆矢とでも言うべき在日朝鮮人への差別に反対、という命題は、リベラル・左派においてはどうやら何の矛盾もなく共存しているようである。むしろ、後者のようなアリバイがあるからこそ、リベラル・左派は躊躇なく、「外国人労働者の流入に反対」と公然と言えるわけである。 この「在日朝鮮人の集団転向現象」というのは、一言で言えば、「自分たちも沖縄の人たちと同じように、日本人の「同胞」だ」「外国人もしくは旧植民地出身者と見るのではなく、自分たちも日本人の「同胞」に加えて欲しい」という主張を、在日朝鮮人の「左派」の言論人がほぼ一斉に発言し出している、ということである。「私たちが日本社会に厳しいことを言ったとしても、それは「反日」ではなく、沖縄の人々による発言の場合のように、「同胞」の言葉として受け止めてほしい」と。 沖縄と言えば、佐藤優は、「特にいけないのは、今、右派の沖縄に対する見方が、朝鮮や中国に対する見方と同じになっていることです。これはいけません。沖縄は、わが同胞なのだということからまず出発しなければなりません。」(「吉野、賀名生詣でと鎮魂」『月刊日本』2007年12月号)と述べており、同趣旨の、朝鮮や中国に関する歴史認識問題と沖縄に関するそれを分けよう、という呼びかけを、あちこちのメディアで行っている。 もし、ある人物が、「中国に関する歴史認識問題と朝鮮に関するそれは区別する必要がある。中国からの日本の「歴史歪曲」批判に関しては、まともに応じる必要はないが、在日コリアンは人口も多く、日本の国家統合上必要だから、在日コリアンによる歴史に関する主張には配慮すべきだ」などと言えば、私はその人物を心底軽蔑するし、公的に批判するだろう。また、仮にその人物が、在日朝鮮人を自称するかコリア系日本人を自称するかするならば、私はその人物をより一層軽蔑し、社会的に同一のカテゴリーに括られることすら恥じ、より一層強くその人物を公的に批判するだろう。まあ、当たり前の話である。公的に佐藤を批判している目取真俊を除く、大多数の沖縄の左派には、そうした意識は欠片もないどころか、「佐藤さんは同じウチナンチューなのだから、仮に問題があったとしても少しくらい大目に見よう」という<空気>の下にいるかのように見える。 こうした発言は、日本のリベラル・左派の転向を助長するという意味でも大きな問題だが、それに加えて私が強く問題だと思うのは、こうした発言が支配的になれば、在日朝鮮人の諸活動は、<佐藤優現象>を推進する沖縄の左派のように、あたかも単なる「利権運動」「同権運動」であるかのように社会的に表象されるようになり、在日朝鮮人の言葉から(例えば、抑圧されるものの連帯といった)「普遍性」が奪われることである。 「左派」在日朝鮮人の転向は、政治的にも(彼らの主観的な願望に反して)結局は悲惨な結果をもたらすと思うが、それこそ自らの歴史への冒涜であり、在日朝鮮人が本来持つべき(だと私はあえて主張しよう)普遍的な連帯への志向を踏みにじるものである。 今回、姜を取り上げるのも、以下で指摘する姜の転向を、在日朝鮮人の集団転向現象の象徴と私が捉えており、この在日朝鮮人の集団転向現象は、<佐藤優現象>と相互に絡み合いながら、日本の公的言説の右傾化を促進する(している)と考えるからである。 (つづく)
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