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我が農政の友、中川昭一の若い死を悼む-09.10.12-

<超多忙の9月中旬から10月上旬>
9月中旬から、10月上旬にかけて私は大忙しであった。前々からの長野市長選の候補者選びが一つ、次に、読売新聞が長野2区の下条みつ衆議院議員のことをいろいろ書いて、その延長線上で私のところにも取材が来だした公設秘書給与寄付問題。マスコミ10数社への対応に膨大な時間がさかれた。それから、9月29日に財務金融委員会の筆頭理事を命じられ、その関係の会合が2日ほどあったほか、関係省庁からの説明等に時間をとられている。

<はじめてのスキャンダル(?)報道>
これら雑多な問題をブログでいろいろ報告するために書き留めたいと思っていたところ、9月30日読売新聞に私の公設秘書給与寄付問題が書かれた。同じように取材を受け対応したが、朝日新聞は、後に全く違ったトーン、つまりお金のない議員が企業献金を禁止され、個人献金は集まらず、公設秘書の寄付も民主党内で禁止されたら、いったいどうやってやっていったらいいのかというトーンで書いた。読売新聞とそれにつぐ信濃毎新聞の記事は中傷的な内容であり、私にはとても腑に落ちなかったが、あれこれ蒸し返してもしかたないのでブログ掲載はやめることにした。

<突然の訃報>
長野市長選挙には、私と長野高校で同学年の小林計正さんに急遽出ていただくことになった。県庁OBで行政経験は豊か、温厚篤実な人柄で市長候補として申し分ないが、短期決戦となったため、私も総力をあげて取り組み始めた。
そうこうするうち10月4日、私の盟友の中川昭一元財務・金融大臣の訃報が届いた。いやな予感がしていたが、その通りになってしまい、私は一瞬涙した。弔問もおわり、今日10月9日14時のお葬式にも出席して、議員会館で机に向かってこの文章をしたためている。何よりも中川昭一さんの追悼をしないとならない。

<激励に行けなかった悔やみ>
10月4日、私の農林水産省の同期Sが電話をすぐ掛けてきた。「篠原が言って心配したとおりになってしまったな」という電話である。私の公設第一秘書(注:働きがよく、寄付など一切してもらっていない)が「代議士がつぶやいていた通りになってしまったですね」と連絡してきた。私は中川さんの性格をよく知る一人であり、早くから、総選挙での落選→ショックでガックリ→誰も声をかけず→孤独になり→・・・と心配していた。当選のお礼の挨拶回りを終えて上京し、真っ先に中川さんを激励に行くことにしていた。
しかし、前述のとおり、長野市長選のバタバタ、ふって沸いた公設秘書給与寄付問題の対応のために中川さんと顔を合わせることができなかった。それが今でも非常に悔やまれてならない。

<懐かしい玉沢勉強会>
1983年に、今順調に当然を重ねていたとしたら当選9回になる方々が一期生として当選してきた。当時の自民党農林部会長の玉沢徳一郎さんは「今年の一期生議員は活きのいいのがいっぱいいるから、おれが勉強会をセットして鍛えてやらなくてはならない」と言って私(大臣官房企画室企画官)に命が下り、その活きのいい一期生と毎週1回勉強会を開くこととなった。このように、中川さんの26年の国会議員生活は、農政のかかわりから始まった。中川さんの他に大島理森幹事長、金子原二郎長崎県知事といったメンバーである。玉沢さんの目に狂いはなかった。

<冗談を言い合う仲>
私は克明に覚えている。事務方として末席にいる私の前に、一番若輩であるがゆえにチョコンと末席に座った若き日の中川昭一議員がそこにいた。それ以来の仲である。初期の頃は、何か農政関係でちょっとわからないことがあると、私のところに電話してきた。例えばいつか電話で「有機農業とはどういうものですか?篠原さんが何か肩入れしてると聞いたんですが、勇気の出る農業ですか?」といった冗談を交えつつ聞いてきた。「そんな馬鹿なことを言って、また選挙区で言いふらすよ」と脅した。「中川さんはビートを大きく育てたホウレンソウと言った」と、ずーっとまことしやかにいわれていた。本人はそんなことを言ったことはなく、敵陣営のデマだといい続けた。だから「そんなことを言いふらしては困りますよ」と言ってまじめに困っていた。

<有機農業研究会での子連れ講演>
それから二ヵ月後、私が中標津町の公会堂で北海道有機農業研究会が開かれ、ゲストスピーカーとして話をしていた。終わった後の懇親会はバーベキュー大会を開くことになっていたが、終わる直前に若いお兄さんが後ろのほうから入ってきて遠くのほうで手を振っていた。近づいて来たのを見たら中川さんであった。悪いことにその日は、私の2歳半になった長女を女房から連れて行けと言われたため、子連れでの講演会であった。こんなに幼いうちに同伴したのはこの時だけだが、中川さんは「篠原さんは酷い人だ。子守をしながら講演をして歩いている」と永田町、霞ヶ関で言いふらし、毎度そうしてるかのごとくとられたことがある。(民主党男女共同参画推進本部ホームページ「男性議員子育てパパ日記」2005秋参照)

<農政をともに推進>
本当に素直な勉強家であり、我々の前で威張り散らしたことがなく、まさに農政の同士であった。これが今民主党が指摘する、自民党族議員と霞ヶ関官僚の癒着の典型例かもしれないが、政府与党一体となった政策推進のひとつの姿かもしれず、一方的に悪いとは決められない面もある。
二人でタッグを組んで実現した政策の一つを紹介する。その一つが加工原材料の牛乳には補助金が出ているが、自ら加工する場合はホクレンに出荷しないため補助金がつかない。それを申告することによって補助金が出るようにしたのも、北海道の元気のいい酪農青年部幹部が私のところに押しかけ、私が中川さんに伝え知恵を出したのが始まりである。その結果、北海道の牛乳を原材料としたチーズ、バター、キャラメル作りが広まっていった。役人と与党の国会議員のタッグマッチが成功した事例である。(2006年8月27日ブログ「大黒宏:ノースブレインファーム再訪」参照)

<待望の農林水産大臣>
当然予想されたとおり、中川さんは農林水産大臣として農林水産省入りした。若き自民党のホープである。私はその頃から中川さんがいずれ自民党の総裁、そして総理になることを密かに熱望した。しかし、身近に接していると一つ障害になることがあった。例の酒の飲みすぎである。二人だけで飲むことも数回ある。私はビールを2・3杯飲み、酒を一本ぐらい飲めばもう飲みたくなくなるが、彼の場合はいくら飲んでも止まらない。そういう飲み方であった。当然私は注意をしたがなかなか聞かなかった。

<飲み過ぎを何回も注意>
いつぞやは私の関係する会合に、他の会合も梯子した後、わざわざ出てくれたことがある。私が国会議員になったあと後援会の副会長になっていただく某出版社の社長もいた。あまりぐでんぐでんに酔っ払っているので、中川さんはその副会長から挨拶の中でお叱りを受けた。それでも「長野県の人は篠原さんをはじめとして小言を言う人が多いですね」と減らず口をきいていた。この頃はまだ余裕があった。ある時、後輩から「篠原さん、大臣が篠原さんの悪口言ってましたよ」という告げ口が届いた。かわいそうに私の小言にうんざりして、若手と飲んでうさを晴らしていたらしい。結構気にしているのだろう。
何の因果か、私は後々民主党の国会議員になった。中川さんは小泉政権のときに経済産業大臣となり、農林水産大臣に再び任命された。小泉首相の所信表明演説の時、本会議の壇上でぐてんぐてんに酔っ払って首をあっちにやりこっちにやりしていて、野次で騒然となった。私もこれはまずいと思い、経済産業大臣室に注意をしに行った。その時もあの人懐っこい、恥ずかしそうな顔をしながら「小泉総理にも言われたし、酒は飲んでないから」といって私には答えた。

<ローマの酩酊記者会見後も総理を期待>
 中川さんの性格のよさがそうさせるのであろう。同じタカ派的体質を持つ安部政権で政調会長、麻生政権で財務・金融大臣、まさに、トントン拍子の政治人生だった。自民党がすっかりタカ派的体質になったのも中川さんに幸いしたのだろう。酒の飲み過ぎなど苦にもされず、要職を歴任し続けた。
私は酒をやめて総理・総裁を目指して欲しいと心から願っていた。そして、この事を明言し、苦言し、励ましつづけた。その夢が半分つぶれたのが、例のローマでの酩酊記者会見である。
しかし、私はそれでも中川さんに立ち直ってほしいと思っていた。私の同僚議員の石川知裕さんがすでに比例復活し、中川さんのライバルとして急激に力をつけつつあった。当然私のファンの農家もいっぱいいる選挙区であり、応援に来て欲しいと要請を受けたが、中川さんに義理立てして行かないようにしていた。

<私は55歳で国会議員、中川さんは55歳で残るは総理のみ>
2009年の選挙戦、ブログの端々にも書いたが、私は予想される事態を考え選挙の演説の時にも中川さんに触れて私の政治姿勢を話していた。
「中川さんは若くして国会議員となり、農林水産大臣2回、経済産業大臣、政調会長、そして財務大臣と、55歳ですべてをやりつくしています。私は55歳の時に国会議員になりました。だから私はできる限りのことをしているだけで、政治資金も集めず、できることをできるまでやればいいということで政治活動をやっています」。これは多分落選してしまうであろう中川さんを励ます時に使うフレーズを使っていたにすぎない。
「中川さんは55歳であとやってないのは総理だけ。私は55歳で初めて国会議員になった。0から始めると考えれば何も悲観することはない。10年後でも麻生さんより若い65歳。72歳の福田さんよりずっと若い。自民党が政権奪取する時に、いくらでも総理・総裁を狙える。」こう言いに、なるべく早く中川さんのところへ行く予定だった。

<お互いにファン同士>
もし私が中川さんと会って、「昭ちゃん、しっかりしろよ」と励まし、久しぶりに軽く一杯やっていたら、彼を救えたかも知れないのだ。私には面と向かって言ったことはないが、中川さんは「篠原さんのファンだ」と言っていたそうだ。それよりも私こそ中川昭一ファンだったのだ。中川さんは時には酔っ払って電話してくることがあった。どうやら私との語らいを癒しの一つにしていたらしい。今回はこちらから癒しに行ってやろうとしていたのに。
政治の世界に、If、もしなになにならというのは許されない。我々は心優しい政治家、中川昭一を失ってしまった。自民党の退潮を象徴しているのかもしれない。
中川さんの冥福を祈るばかりである。