2009年10月10日
紙面を開けた読者はどんな印象を持っただろう。9月6日付朝日新聞早版スポーツ面。3ページのうちの1ページは、こんな見出しのトップ記事だった。
「サッカー全日本ユース きょう開幕」「総体枠2校 打倒Jへ」
紙面の半分以上を、当日に開幕するサッカー全日本ユース選手権の展望と、8月の高校総体でこの大会への出場権を勝ち取った前橋育英高、米子北高の話題記事が占拠している。多くの読者は日本時間の前夜にオランダ代表対日本代表の試合があったことを知っていただろうが、まったく触れられていない。
記事を入れようと思えば、入れることはできた。ただし、「日本、前半は0−0」といった見出しで。そして試合の後半途中、オランダが次々と得点し始めた頃、無念の思いで早版を降ろさなければならなかっただろう。
時差のある海外での試合が終了する前に降版時間を迎えるケースは悩ましい。「降版前に起こったことは経過であっても載せるべきだ」という声は今も社内から聞こえる。ただ、3−0でオランダが勝ったという結果(最終版では掲載)を、新聞が配達される前にテレビやインターネットでいくらでも知ることができる時代だ。「前半0−0」に、何の意味があるのか。同じサッカーでも完結した記事のほうが有用な情報となる。
朝日新聞のサッカー報道は5年ほど前から、試合途中に降版を迎える場合は、まったく別の記事を載せている。日本が2010年ワールドカップ南アフリカ大会出場を決めた6月6日組の紙面も、ウズベキスタン戦に触れたのは最終版(6月7日付)だけ。試合開始前の早版と途中の13版は、ふだん報じる機会が少ないJ2やJFLの話題を、いい機会だと載せた。
◆試合翌日の紙面に感じる虚しさ
こうした時、新聞が置かれた厳しい現状を突きつけられた気持ちになる。情報はインターネットで速く、しかも無料で入手でき、映像も簡単に得られる。人々の嗜好の多様化にともなってスポーツへの関心が高まり、新聞のスポーツ報道の地位も高まっているようにもみえるが、それは「新聞の中」での話であって、インターネットと競合する「メディア全体の中」では限界にさらされ、埋もれるばかりである。
スポーツに限った話ではないが、情報を有料で提供できる度合いがどんどん薄まっている。
野球、サッカー、相撲、五輪……。かつては朝刊、夕刊各版締め切り間際の修羅場をしのぐためだった予定稿を常に準備し、ウェブに素早く載せることは当然のこと。「購読者だけが読めた情報をウェブで誰もが見られるようにしたことで、新聞社として首を絞める結果を招いている」という分析も散見されるが、事態はそんな悠長さを許さない。
様々なサイトにおいて、野球なら1球1球の結果がウェブに数秒後にアップされ、サッカーは何分に誰がシュートを決め、誰が警告を受け、誰が交代したかが、やはり「中継」される。朝日新聞社が主催する全国高校野球選手権の地方大会も、全試合の経過がイニングごとにアサヒ・コムにアップされる。世間の注目度の高さを加味すれば、このコンテンツは有料化が可能なのではないかという考えも頭をよぎるが、力を入れているスポーツイベントについて、各新聞社がこの程度のことはどこでもやっていることを思えば、全面無料開放せざるを得ないだろう。
試合結果だけでなく、取材で得た内容も同様だ。監督の記者会見での発言やミックスゾーンでの選手コメントが、ほどなく文言もそのまますべて載るサイトも珍しくない。戦評、コメントを翌日付の紙面に羅列しても、既に読者が知っていることを再録しているだけではないかと虚しさが拭えないのである。
実はこの原稿は、今年6月7日に立命館大学(京都市)で開かれた日本マス・コミュニケーション学会のワークショップで問題提起した内容を基に書いている。テーマは「スポーツジャーナリズムとブログジャーナリズムの交錯による新たなスポーツ“公共圏”の可能性を考える」とされたが、実際には、ブログを含めたインターネットに押される新聞のスポーツ報道の危機感を、吐露せざるを得ないものだった。
◆新聞社サイトより人気を集めるブログ
ワークショップは私の問題提起に対し、取材を通じて知り合った関西大学大学院生の生駒義博氏が討論者となった。生駒氏は、「脚と角」というサッカーブログ(http://blog.goo.ne.jp/ashitotuno/)を開設している。小学校時代からガンバ大阪のサポーターとしてスタジアムに通い、最近は出身地の奈良県からJリーグ入りを目指す奈良クラブのサポーター活動も始めている。
「脚で語る」と題する日記では、サポーターの視座から日本サッカー論を展開し、関西リーグや奈良県リーグなどをリポート。問題点の指摘も的確で、コアなファンにはたまらない内容だ。一般のスポーツメディアがフォローできない下部リーグを隅々まで見て歩き、まさに足で稼ぐ取材をしている。
そのブログへのアクセス数を聞き、敗北感を覚えた。具体的な数字を明かすことはできないが、アサヒ・コムで私が構成を担当する「釜本邦茂のニッポンFW論」(http://www.asahi.com/sports/column/kamamoto.html)は負けているのだ。
「ニッポンFW論」は、メキシコ五輪得点王の釜本邦茂氏に「なぜ日本のFWはシュートを決めることができないのか」というテーマを基軸にして戦術、日本人の思考回路、時代の色、環境、文化など、日本サッカーを取り巻く様相を多角的に語ってもらうもので、昨秋から週に一度更新している。新聞社としてのウェブ強化の一環だけでなく、紙面に載らないコンテンツを増やすことで、今後、ウェブの有料化ができないだろうかという個人的なモチベーションもあり、試している。
これが「市民ブロガーに負けている状況」なのだ。野望は膨らみようがない。ただでさえ新聞が読まれなくなっているのに、ウェブでも読者を集められない。そんな現状を生駒氏と、旧知の関西大学社会学部の黒田勇教授(メディアスポーツ学専攻)の3人で雑談していたところから、スポーツメディアの将来を考察するテーマになりうると考えた黒田教授の働きかけで、ワークショップは実現した。
以下は、新聞社がスポーツ分野でウェブとどう競合、対抗していけるかという視点から、ワークショップで問題提起した内容である。
第1に、「新聞社がウェブで展開しているコンテンツは、インターネットを見る人々のかゆいところに手が届いていないのではないか」という分析だ。これは黒田教授の指摘でもある。新聞に載せることを前提とした旧来の企画、取材、執筆方法は、ウェブの世界では旧態依然としたものと化し、読まれないのではないかという仮説だ。
ウェブでは、誰もが好きなテーマで持論を展開できる場所が持てる。生駒氏がごく少数の人しか見ていないことを材料にして書きまくるように、検索やリンク機能が発達しているウェブでは題材が細分化されるほど興味を持つ読者が掘り出され、定着していく。様々な事象をすべて載せようという新聞スポーツ報道の百貨店方式は、細分化が進むウェブでは支持されにくいのかもしれない。
第2に、速報の概念を洗い直す必要があるのではないかという点だ。先述のように、新聞社の出稿の場では、競技結果などをウェブに素早くアップさせるべく、予定稿で対応している。例えば大相撲は主な取り組みの結果が速報できるよう、結び前の時点で記者が原稿を用意して待っている。ウェブを持っている以上、最低限必要なことだ。
ただ、これが他社よりも1分早かった、遅かったと、時間差を競う向きがあるが、これにはさして意味を見いだせない。駆け出しで甲府支局にいた時に誘拐殺人事件が起き、地元テレビ局2社が報道協定解除の瞬間に画面を切り替えるスピードを争い、どちらかの記者が「1秒遅かった」と悔しがっていたことを覚えているが、その滑稽さに似たものを感じもする。
ウェブに詳しい知人のフリーライターが投げかけてくれた言葉を思い出す。「インターネットで勝負するなら、そういう速さではなく、何かに特化した速さを追ったほうがいい。例えば、柔道のあらゆるレベルの試合結果が『その日のうち』にアップされるような速さであるなら、柔道に関心のある層から絶大なアクセスがあり、有料化を目論めるかもしれない」
「サッカーの朝日」を標榜するなら、日本サッカー協会のホームページより早く、あらゆるカテゴリーの大会結果が載るような記録ページを作る。アマチュアスポーツ報道の伝統を売り物にするなら、関東大学リーグ、関西大学リーグなど、競技のメジャー、マイナーを問わず、大学スポーツの記録をその日のうちに一網打尽にアップする「大学スポーツ・コム」といったようなものを作ってみる。こんな速報の発想が、黒田教授の言う「ウェブを見る人のかゆいところに手が届く」ということにつながるようにも思う。その意味では、全国高校野球選手権の地方大会のイニング結果が同時中継的にアップされるのは付加価値を感じる。
3つ目は、ウェブでは誰もが「市民記者」となりうる現状で、新聞の存在価値が薄まらないよう、質の高い記事を出し続ける原点に立ち返らなければならないということだ。
先述のように、かつて新聞、雑誌といった刷り物しか文章を発表する場がなかった時代と異なり、今は誰もが書く場をたやすく作ることができる。そして、スポーツ関係のブログを見ても、取材、論考、筆力とすべてにおいて質の高いものがある。もはや競争相手は同業他社だけでなく、あまたの人々である。
「新聞の信用は、プロの記者がしっかりした取材に基づいて書いた記事という部分で生まれている。ブログはプロでない人が、好き勝手に書いたものでジャーナリズムとは呼べない」。こんな指摘があるかもしれない。だが、ジャーナリズムと呼べるレベルにあるか否かは、それを読んだ人が判断することで、ブログの内容に信用性があると判断されれば、それはジャーナリズムと言える。新聞が既存の信用性にあぐらをかいて生半可な記事を書き続ければ、読まれなくなるのは自明の理である。
新聞がウェブに速報でかなわない時代。「市民記者」が台頭し、新聞により質の高いものが求められる時代。新聞スポーツ報道は、もはや第一報や記録はウェブで展開し、紙面では思い切って第一報と記録を捨てるくらいの大胆さが求められているのではないか。
翌日の紙面では第一報にスペースを割くのではなく、スポーツの現場の背景にあるものや、競技性の面白さ、ドラマ性を掘り下げる。題材はある程度古いものであっても、何かを検証していくような雑誌的な作りへの移行。これがインターネット時代の波間を泳ぎ切る道かもしれない。
◆「新聞離れ」ではなく「文章離れ?」の危惧
なお、ワークショップでは、私の発言の後に、生駒氏がブログのアクセス時間解析などを発表し、出席者との質疑応答があった。そのうちのいくつかを紹介しよう。
ある大学教授はこう指摘した。「私の大学はスポーツ選手が多いのだが、最近の学生は試合の結果はよく知っているが、それがどんな試合だったのか、どこに面白みがあったのかを語ることができない」
現代の大学生はウェブや携帯サイトで結果や第一報をコンパクトに知ると、それで満足していると推測できる。逆に考えると、新聞が読まれなくなった理由は、ウェブでも知ることができる内容を再掲しているからではないか。新聞は「第二報」を掘り下げ、充実させることで地位を確立すべき存在になっているという点で、示唆的である。
ただ、別の参加者からは、次のような発言があったことも付記しておく。
「ウェブでブログを書いている人の年齢層は、いったいどうなっているのだろう。もし40代、50代が中心だとすれば、文章自体が若い世代にとっての表現方法でなくなっているということになる。その分析は必要かもしれない」
確かに、ブログに接している年齢層が高く、新聞読者の年齢層とたいして変わらないということであれば、活字媒体とウェブの競合という問題ではなくなってくる。若い世代の活字離れではなく、文章離れだとすると、薄ら寒い。(「ジャーナリズム」09年10月号掲載)
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中小路 徹(なかこうじ・とおる)
朝日新聞東京本社スポーツ部デスク。
1968年東京都生まれ。京都大学文学部卒。91年入社。甲府支局、名古屋本社、大阪本社、ソウル支局、東京本社などで主にサッカー報道を担当。2009年4月から現職。
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