東北から維新の旗を!
中央での叛乱と地方からの進撃
←ブログランキング応援クリックお願いします。
行動右翼を名乗っていた若い頃は「東北から第二の維新を!」というスローガンを叫んでいた。東北出身者で右翼・民族派の運動に関わる者にはどうしてもわだかまりと言うか、考えさせられることがあります。
それは民族運動を行なう上で避けて通れない問題でした。明治維新こそは日本の右翼運動に取っては、その原点ともなるべきもので、明治維新を成功に導いた勤皇の志士こそが、最も尊ばれる存在でした。
これは右翼に限らず保守派と呼ばれてきた人たちの考えも一緒であり、日本の近代の歴史の中には明治維新こそがその始まりであり、それを推進した志士達こそが尊敬される人間であるという教えがあった訳です。
薩摩・長州藩を主体とした明治維新の勢力は錦の御旗を掲げたことにより、それに抗した東北の諸藩は「反天皇」という逆賊の汚名を着せられました。
しかし、これは歴史の真実ではない。確かに東北の諸藩は反薩摩や反長州の旗を掲げたが、決して「反天皇」などではなかった。東北の諸藩は徳川幕府が掲げた公武合体を支持し、薩長の横暴を討とうとしたに過ぎません。
薩長軍による会津若松城攻めは日本の近代史においても、最も凄惨極まりない戦争として有名です。1500人以上の会津人が犠牲となりました。
中でも有名なのが会津少年白虎隊の存在です。当時16歳と17歳であった少年37名は薩長軍に戦いを挑み、10人以上は戦死、残りの全員が飯盛山に逃れたが、そこで砲煙があがる鶴ヶ城を望み「もはやこれまで」と主君を追って自刃したのです。
(一人だけは近くの人に助けられて蘇生しました。)
又、会津の白虎隊ほど知られてはいませんが、福島県の二本松市の二本松少年隊も同様に悲劇に見舞われました。こちらは12歳から17歳までの少年が出陣、20名からの若者が戦死しました。
会津では男の若い藩士だけではなく、22歳から16歳までの若い女性20数名も戦いに参加、隊長の中野武子(22歳)は敵の銃弾に倒れたので妹・中野優子(16歳)に介錯を頼み、妹は姉の首を切り落として近くの法界寺に葬った。
私はほぼ毎年どちらかへの供養の墓参りをしてきました。今年は3年ぶりになりますが、飯盛山に行きたいと思っております。
これらの若者は先ほど述べたように逆賊の汚名を着せられはしましたが、反天皇などではなく、天皇陛下を中心とした日本の維新を望んでいた一人でもあったのです。
前置きはこのくらいで本日は止めますが、私は再度昔の自分を取り戻し、「東北から維新を!」の旗を掲げ、東北各地で「現代維新講座」を開催するつもりです。
これからの首都圏や大都市圏における「行動する保守」の運動とは、戦後民主主義への総叛乱を目指すものとなるでしょう。特に首都東京における我々の権力機構への決起と叛乱は、地方からの出撃があって初めて大規模なものへとなるのです。
人材であれ食料であれ大都市の供給原となってきたのは地方でした。地方からの反撃と出撃なくして、中央での闘いの勝利などあり得ないのです。
東京での活動に参加すると必ず東北の方から声をかけて頂きました。三鷹市での闘いでは山形・岩手から参加した人に握手を求められました。秋葉原のデモにおいては会津からの参加者に「お体大丈夫ですか」と温かい声も頂きました。
現代における 草莽崛起には東北のチカラは必要です。東北に草莽の群れが出現し、首都東京を目指すときに「第二の維新」は成功するでしょう。
尚、昨日の「新風福島の会」への参加者は私を含めて8名でした。ご参加頂いた皆さん感謝申し上げます。懇親会でのお話もとても楽しいものでした。ありがとう御座います。
東北地方における「現代維新講座」の開催は、維新政党・新風の東北での組織体制固めと兼ねて行なっていく考えです。早ければ11月初旬には宮城県仙台市において、「現代維新講座」を開催したいと思います。又、その時はよろしくお願い申し上げます。
↑↑ブログランキング応援クリックお願いします。