もどる

T O P I C S

岩槻街道と岩淵宿
13世紀鎌倉時代にはすでに川口に渡って岩付(岩槻)から古河へと奥州に向かう街道が出来ていて、岩淵には宿場が開かれていた。江戸時代に入ると各街道に整備が急がれて岩槻街道は主要五街道の下にランクされた。
家康の廟所が日光に出来ると二代将軍から日光社参の旅が始まったが、将軍家の第一の宿所を岩付城と定めていたことから行列は日光街道を利用せずに岩槻街道を通ることを習いとした。旅人や諸大名の行列の多くは日光街道の方を通行していたので岩槻道は徳川家のワンマン道路的に見なされて日光御成り道とも呼ばれていた。

徳川家の社参行列は臣下の大名行列よりも規模が抜きん出たものでなくてはならず、そのために多大な費用と手間を要して財政を圧迫することにもなったが、江戸期260年のあいだに中断した時期はあるもののたびたび行われていた。またそれ以外にも奥方お女中達の東照宮参詣も盛んでよくこの街道を往来した。
岩槻道を通って日光社参の記録 いずれも4月(霊祭月)
元和5 1619 二代秀忠
元和8 1622 二代秀忠
元和9 1623 三代家光
寛永2 1625 三代家光
寛永3 1626.三代家光
寛永5 1628 三代家光
寛永6 1629 三代家光
寛永9 1632 三代家光
寛永11 1634 三代家光
寛永13 1636 三代家光
寛永17 1640 三代家光
寛永19 1642 三代家光
慶安2 1649 四代家綱
亨保13 1728 八代吉宗
亨保16 1731 八代吉宗
安永5 1776 十代家治
天保14 1843 十二代家慶


岩槻道は中仙道とともに日本橋を発し、本郷追分の一里塚で中仙道から分かれて支街道となる。川口から先は、鳩ヶ谷の丘を登り岩槻を経て幸手あたりで日光街道に合流する。
この道は北区内ではほぼ現存して辿ることが出来る。道沿いに集落が出来始めてから昭和の戦後に至るまで長い間この地のメインストリートだった。
駒込通りの西ヶ原に2里目の一里塚(二本榎)が保存されている。そこから(今なら音無橋を渡るところだが)飛鳥山に沿って都電通りを王子駅まで下ってから石神井川を渡る。狸坂を再び昇って十条台から今の細い道に入る。真光寺や西音寺は公方の行列のお休み処として利用された。清水坂を下って稲付に入る。法真寺鳳生寺普門院もよく休憩所に使われて静勝寺あたりに3里目の一里塚があった。道は赤羽の本町通りから宝幢院の前に至って左板橋街道と右岩槻街道の道標に突き当たる(現存する)。岩淵宿の家並みはそのあたりから始まっていて本宿の通りを川べりの本陣小田切家まで続いていた。
≪参考 明治13年の地形図





岩淵宿は岩槻道の初宿であって『遊暦雑記』には日本橋から三里八町、宿の長さは四町二十一間、道幅四間とある。旅篭屋は若松屋大黒屋が有名で本陣は小田切氏が代々勤める。川口と合い宿として月の前半後半で宿場の役目を交代した。実際にはほとんどが日光街道の千住宿を利用したのであまり活気はなかったようだ。と新修北区史にある。
街道の初めの宿場といえば千住板橋新宿品川などに見るように実質的にそこが旅の門口で、見送る人たちと一晩遊興してから旅立つところとされて色街的な色彩をのちの時代まで残す。だが岩淵にはそのような面影が見られない。おそらく宿泊客は少なく休憩場所的な性格が強かったのではないだろうか。
しかし宿場の機能とは旅人に宿を提供するばかりではない。むしろ江戸内外の物資の運輸や郵便通信などの問屋場業務のほうが政治的社会的には重要で、多くは本陣が直轄して運営されていた。ことに岩淵は街道交通に加えて荒川の上流下流の水運もあったのでその意味では物資が集積する賑わいのある町だったのではないだろうか。川が荒れたときや荷がたくさん届いたときなどはたびたび周辺の村から男たちが川越え人足として駆り出されたという。





もどる


ごあいさつに
あかばねの甘い宝石

wagashi和菓子 On-Line SHOP