もどる

T O P I C S

軍都赤羽

いまでも古老たちは戦前の赤羽の町を評して「軍都」と言う。それは、下の地図で見るように赤羽の台地の大半を陸軍の関連施設で占められていたということのみならず、下町においても民間人たちも有象無象にこれらと関わりを持って生活していたことにも寄る。

日清日露戦争から始まって日本軍は大陸を戦場とすることが多くなり、陸軍の工兵部隊はそのつど強化されていった。赤羽の両工兵師団もまた重要な存在となって将兵の数は増大し続けた。
入隊除隊、休暇や家族の面会などで赤羽駅には軍服姿が目立ち、駅前通りとしてのいまの本町通りはそれらの関係で両側に旅館や飲食店みやげ物店娯楽場などが立ち、村から徐々に町らしい家並みへと姿を変えていった。また「兵隊屋敷」からのもろもろの商店への買い入れ、農家においても野菜や漬物を納入する業者が生れ沢庵漬け菜らっきょう梅干しなどの生産で潤うようになった。

こうした経済的な恩恵だけではなく、町と両工兵隊は互いに良好な関係を保ち続けていた。
荒川の氾濫は本町通りまでも川と変えて舟を浮かべさせたが、こうした洪水災害や大火災にあってはすばやく救援活動に出動し、震災のときの不穏な騒動のうわさに対しては昼夜に町の警備にあたったりした。
花見どきになると営門から兵舎まで続く桜並木が花見客に開放され、大陸からの凱旋帰還のときは町ぐるみで歓迎して戦勝に沸いた。訓練を兼ねて浮間橋と工兵橋を荒川に築いて感謝され、町の行事には両師団長が招かれるのが常だった。士官達は家族とともに町なかの住宅に住んで子供を赤羽小学校に通わせ、または青年将校は老夫婦の二階に下宿した。町の娘と恋に落ちた兵士が除隊後に結ばれてここに住み着くこともあった。

鉄道の駅が出来たことによって軍隊の駐留をも呼び込む結果となり、もとは都内に無名の小村でしかなかった赤羽は次第にそれを町化の推進力としたが、こうした特色から陸軍町と呼ばれて名が知られるようになっていった。

だが、軍施設の設置の決定と更なる周辺への拡大はいわば有無を言わせぬ国の施策であって、その一方的な計画に巻き込まれてしまった台地における土地所有者や農民たちは少なからず迷惑を蒙ってきた。東京府や北豊島郡、岩淵町の自治体は可能な限り民間擁護の立場でそのつど軍と折衝を繰り返したが、用地の提供は売買にはよるものの一律の価格で納得させられたり離農を余儀なくさせられたりした者も多かった。施設自体のみでなく軍道の新設、街道の拡幅、鉄道線路や水道設備などにも軍用地の渉猟が及び、赤羽の台地の人々の多くがこの問題に直面した。八幡神社の歴史は将にこの、国に神域を削り取られてきた歴史であり、また現在の旧家の人々の昔語りに接すれば何度もこの話題が登場する。これもまた隠れた赤羽の歴史である。





帝國陸軍第一師団工兵第一大隊
明治初期には東京鎮台として軍施設を皇居前に集結させ広大な旧大名屋敷地を利用していたが内 乱が落ち着くと順次中心地から分散させていった
明治20年8月 大手町辰の口より移転 現星美学園地3万坪
赤羽駅の誕生を契機として移転
八幡神社の後背地を一旦東京府に供出 府の庁舎建設地と交換に移転してきた。
隊の司令官によると…孫子の兵法 地形第十 我以って往くべく彼以って来るべきを通という。
通形は先ず高陽に居て糧道を利し、以って戦えば則ち利あり。
交通の便よく高台の南に面して、手近に糧食を得られるところがよい。
M7 東京鎮台工兵大隊 M9 工兵第一大隊 大手町 M10 西南戦争出征 M20.9 赤羽に移設
M25.4 明治天皇行幸 M27.8 日清戦争出征 M37.3 日露戦争出征 旅順203高地作戦で戦死者181名 T4.6.18 大正天皇行幸 すぐとなりの近衛工兵隊と同日 T3.9 第一次大戦 対独出征 T7.8 シベリア出征 T12.9 関東大震災都内救助復旧作業 赤羽付近混乱警備
工兵橋 浮間橋建設
S3.4 浮間橋架橋 浮間町民の寄金6000円で工兵隊が 6000円橋と呼ばれる
太平洋戦争ではレイテ島で玉砕

近衛師団工兵大隊
明治20年9月 旧国立王子病院と裏の公団団地
M7.9創設
M10 西南戦争出征 M20.8 移設
M25.4 明治天皇行幸 M26.1 近衛工兵中隊から大隊へと改称 M28.4 日清戦争出征 大連台湾 M37.3 日露戦争出征 鴨緑江旅順奉天 T3.9 第一次大戦 対独青島出征 T4.6.18 大正天皇行幸 T7.8 シベリア出征 T12.9 関東大震災都内救助復旧作業 赤羽付近混乱警備
太平洋戦争ではシンガポール、スマトラに進駐

両方をあわせて赤羽工兵隊と呼んでいた。
今はないが星美学園と王子病院の正門の石の門柱に当時の営門のなごりがあった
花見の時期には開放されて市民も花見を楽しんだ 赤羽駅から本町通り板橋踏切師団坂を経て両工兵隊正門まで乗合バスが往復していた

錬兵場 両工兵師団のあいだの旧都営住宅を共用錬兵場に
演習場 両工兵師団の演習場 諏訪神社前の谷地から城北高校あたりまで
大演習は荒川河床で行われた
射撃場 旧赤羽保健所付近の谷地から今の八幡小の丘地に向かって小銃の射撃訓練をした。校舎の場所に台形に山を盛り上げて着弾地とした。側面から見ると三角に見えるので地元の人からは三角山と呼ばれ、射撃場はシャテキバと呼ばれていた。八幡神社下から兵器廠を繋ぐ鉄道線路を越えて射撃したため、列車が通るときは訓練を中断、山の中央に赤い旗が立てば訓練中の印で周囲の民間人が通行止めになるなど悠長な面があった。

赤羽火薬庫
明治5年 まだ旧幕の残存勢力と戦っていた明治政府のというよりも東征軍の武庫司が建設したものが前身でこの地で最も古い軍施設
今の桐ヶ丘団地がある場所に34000坪を有していた
両工兵師団が移転してきた後はそれらの火薬倉庫も兼ねた
陸軍兵器支廠に属し更に27000坪を拡張予定するほどの重要施設に成長した。
明治初期に官軍の火薬倉庫ができて陸軍が引き継いで赤羽火薬庫とした。この地で最も古い軍施設。この正面から人工的な直線道路が十條村に向かって延びている。陸軍火薬製造所(いまの帝京病院から家政大あたりまでの地域)と結ぶ軍道である。火薬庫の正門を出るとすぐ道は地形が谷越えとなる。いまの自然観察公園と島下公園のあいだだが、重くて危険な火薬を運搬するには道を平面にしなければならず、初めから木橋を架けるか今のように盛り土していただろう。
なぜ官軍は当時のこんな僻地に火薬庫を設置したのだろうか。まだ西南戦争の前で越後や東北に政情不安があって出兵するのに中仙道沿いに置くのは都合が良かったか・・・それにしても街道からは離れすぎている。ともあれこの火薬庫の存在が端緒となってその後この地域十條豊島王子にかけての一帯を銃器製造と砲弾銃弾の製造のメッカにしてしまった。火薬庫の敷地もこの時点ではまだ面積が小さいがやがて何倍にも膨れ上がる。

陸軍火工廠稲付射場
明治38年設置 稲付の西南端、現梅ノ木小のあたり
板橋火薬製造所に所属
火薬火器の爆破や発射の実験訓練場
爆発音で稲付住民を悩ませた

十条兵器製造
明治38年設置

陸軍兵器支廠 造兵廠
M19 東京鎮台武器庫が前身
M39 創設 当初陸軍省板橋兵器庫と S3.5.5 東京陸軍兵器支廠と改称
姥ケ橋から現国立西ヶ丘サッカー場を越えて一部は志村にも掛る75500坪
現十条駐屯地もその敷地内で亀ガ池谷を利用して地下倉庫もあった
姥ケ橋付近に今も赤煉瓦の塀が保存されている 兵器の購買 貯蔵 保存 修理 支給 交換 廃品処分を任務とする 両工兵師団の兵器倉庫も兼ねる
戦後は米軍兵器補給廠となり、西が丘町が成立(稲付の西の意)

陸軍被服本廠
現公団赤羽台団地
M19.3 付属から独立機関となる M24.2 赤羽台に被服倉庫を建設開始 T8.8 麹町築地本所深川に分散していた各被服倉庫も集結させて
陸軍被服本廠を本所より移設
総面積9千坪 職員143名 職工800名
主な製造品 軍帽 軍服 外套 背嚢 巻脚絆 軍靴など兵隊の身の回り品
そのほか軍装のほとんどを製造
衣料資源の窮乏と統制から民間の国民服まで
材料はほとんど国外からの輸入
工場の周囲には下請民間工場も多かった
赤羽駅から本町通り板橋踏切を経て正門まで乗合バスが往復していた
空襲が激しくなると上尾に移転
戦後昭和35年まで跡地を米軍に接収され、戦車修理工場として旧建物をそのまま利用 していた。鉄条網越しには放置された戦車や軍用車が列が見られた
とくに朝鮮戦争の終了までは町にも米兵の姿があり、荒川で演習を行った米第8騎兵師 団の軽戦車が駅前を走り回るなど傍若無人なこともあった。
37年には日本住宅公団赤羽団地 当時23区中最大の団地
地図

王子火薬製造所
明治28年王子 豊島に

鉄道敷設
輸送引込み線
地図



年表にもどる
もどる


ごあいさつに
あかばねの甘い宝石

wagashi和菓子 On-Line SHOP