T O P I C S
東京遷都
慶応3年大政奉還され新しい中央集権政治の中心地をどこに置くかが議論になった。京都返還論、大久保利通の浪速(大阪)遷都論、前島密の江戸遷都論、江藤新平の西の京都(西京)に対して江戸を東京とする東西二京論があった。
欧米列強を強く意識した大久保はそれらの首都と遜色のない都市を建設すべく思案したが、結局のところ、前時代からの政治支配体制と経済システムの遺産を継承しやすい利点と、広大な都市面積をもつ(旧武家地が全体の70%あり廃墟となる)ことから江戸を都と定めて再建に未来を賭けた。また関東や東北に残存する旧幕勢力に対するけん制の必要もあった。
慶応4年(明治元年1868)天皇の詔書がなされた。「江戸ハ東国第一ノ大鎮、宜シク親臨ヲ以テ其政ヲ視ルベシ、因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン。東西同視スル所以ナリ」。京都から遷都することの意味は公卿たちの新政治に対する妨害を嫌ったためだったが、それでもはじめは東西二京的なニュアンスを含めて東京奠都が開始された。
この詔勅によって江戸が東京と改称されたが、この「東京」にふりがながなかったために「とうけい」「ひがしのきょう」などとも解釈され、「とうきょう」の呼び名に落ち着くまでに明治の15,6年を要したらしい。明治の新聞には漢字のすべてにルビがふってあるが20年ごろの新聞にさえ東京には"とうけい"のルビがふってあり西京(京都)には"さいきやう"とふってある。
これとともに天皇は東幸して旧江戸城を東京城として到着後東京市民に酒3,000樽を下賜した。いっぽうこの時の京都の混乱は大きく、千年の都を保って御所に親しんできた市民たちの落胆が甚だしいために、慰撫するためにいったん戻らなければならなかった。
が三っ月のち(明治2年)に再び東京へ立ち、完全に御座が東京に移った。その後皇后や大臣諸卿も東京に呼び寄せたが、荷物の運び出しなどは深夜にこっそりするなど京都市民に大変気を使ったそうである。
こうした経緯で誕生した「東京」の名は今でも正しくは地名ではない。政治的な名称とでもいうべきか。東京駅はあるが千代田区東京という場所はない。東京駅を開設するときには東京中央駅とする予定だった。ほかのすべての都内の駅もまた東京の駅であるからという論理からだ。
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