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江戸時代に赤羽は「江戸」の内だったか
家康開幕のころの江戸の町は当然のことながらまだ非常に小さかった。江戸城郭内の四里四方と言うから今の千代田区の域をいくらも出ていない。
そののち江戸は米の大消費地、つまり米経済の中での年貢米の大換金地としての役割を持つこととなり、膨大な都市流入を許す事になった。
江戸市内のことを御府内といったがその範囲は時代が下るとともに広がる一方で、町民の行政支配は町奉行が行っていたものの、ほかに武家地や寺社関係地なども混在して「江戸」の範囲の解釈が各機関によってまちまちになってしまった。統一を望む目付からの要請があって文政元年(1818江戸後期)に幕府がそのおおよその市域を示した。
江戸城を中心に絵図面に円く朱線を描いて区分けしたもので、朱引(しゅびき)という。以後、朱引き内、朱引き外という言葉で御府内か否かを別けて江戸末までその効力を保った。この内外が江戸時代に「江戸」の内だったかどうかの判定になる。

絵地図の北辺を見ると、朱線は板橋区上板橋あたりから石神井川上に引かれていて荒川にそそぐ接点まで続いている。すなわち北区では音無川を境いにして以北の王子村、十条村、岩淵郷赤羽村は残念ながら外れてしまっている。江戸時代には江戸の外のただの「いなか」だったと言える。
したがってたとえば江戸でお奉行様から“江戸ところ払い”の刑を言い渡されても赤羽になら住んでいて「お構いなし」である。この辺りは武蔵ノ国というくくりの中で支配者は豊島郡代官であり名主が取り締まりや伝達を請け負う地帯だった。百年一日の農村風景で幕末の動乱のころでさえ時代の音さえ聞こえないいまだ眠りの中だったのだろう。
この朱引の発表と同時に江戸町奉行直接支配のための範囲として黒引(墨引)も示されたが、これは朱引よりもぐっと狭っていて今度は滝野川西ヶ原中里が外れる。現在の巣鴨駒込駅間の山手線の線路あたりが区切りとなっている。御府内では田畑が禁止されていたということから、本当の市中という意味ではこの黒引が実質の境界であっただろう。
江戸朱引絵図 文政元年 東京都公文書館 転写


ではいつから赤羽は東京になったのか。
東京府は皇都建設にあたって明治2年(1869)この江戸時代の朱引を踏襲して改正した。従来の朱引範囲を東京府範囲としたが更に内側に朱い区線を付けて府内を更に新朱引内(市街地)と朱引外(郷村地)と分けた。町人居住区と、耕作地や武士階級が去って荒廃甚だしい武家地や寺社地を分けた形になって、範囲をぐっと狭くした、のちに東京市となる首都圏を形成した。
朱線の北辺は浅草上野から池之端あたりにまで引き上げられているのでほんとうの「お膝元」と言える。この市中の人口を50万人と見込んで1万人ごとの50番組に分けた。これがのちに区になる原形。朱引外も府下として5番組に分けたが、元からの朱引の外だった赤羽はまだそのまた蚊帳のそと。

幕末から維新にかけての赤羽は、岩淵領の内にあり、王子村とともに旧代官制度を受け継いだ武蔵知県事(元幕臣松村忠四郎長為)の支配に収まっていた。武蔵ノ国 岩淵領とは岩淵本宿を筆頭に、豊島 神谷 下 稲付 袋 赤羽 上十条 下十条 小豆沢 本蓮沼 田端 滝野川 上中里 中里 西ヶ原 堀之内 船方村など。
のち元年11月制度が変って朱引き外の田端滝野川中里西ヶ原は東京府に、王子以北は2年1月大宮県9月浦和県と県が誕生するたびに籍を転々とした。武家地や寺社領地を撤廃した廃藩置県への模索の段階と身分別(人別帖)によらない住居地主義の戸籍制度確立への混沌とした時代であった。
(赤羽八幡神社の宝物が明治元年に小菅県の命により提出されてそのまま雲散霧消となってしまったという記載がある 当時寺社領は小菅県管理) 。

明治4年廃藩置県の時点で東京府は朱引をまた改正、こんどは荒川以南を東京所管としたので赤羽はこの時にようやく東京内になった。
都内を区画していた大区小区制が当地にも及んで第四大区第十七小区が割り当てられた。
明治7年にまた大区小区制が改正、≪東京府管下第九大区第六小区赤羽村○○番(屋敷)≫という住居表示がついた。ただし依然と7〜11大区は朱引外と呼ばれていて、明治11年の大区小区制廃止、15区6郡制開始においてもまだ区外の「北豊島郡」。
市の中心と肩を並べたのは昭和7年10月1日岩淵町と王子町による王子区成立(東京市35区制)がなってから。
くわしくは<行政単位と住所表示の変遷



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