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先史の赤羽
この『赤羽タイムトラベル』は明治元年の赤羽に舞い戻ってそこからから今日まで旅をし てくるスタイルをとっていますが、それでもやはり明治までの道のりも無視してしまうわ けにゆかず、ごくサラッと覗いてみることにします。ただそれ以前の歴史の展開はほとん どすべてが台地の上でなされたもので、低地帯の赤羽はなお夜明け前だったようですが。
明治以前の赤羽
国の統一(大化の改新645)のころより律令制度のもとに全国は国>郡>里に区画された。この地方は東山道武蔵の国とされ今の東京都全部と埼玉県全部と神奈川県の一部三浦半島浦賀以北くらいの国域を持っていた。
周囲には上総下総下野上野信濃甲斐相模の国が配されている。
さらにその下部の郡分けは21郡とされ、埼玉県の足立あだち新座にいくら入間いるま高麗こま比企ひき横見よこみ埼玉さいたま大里おおさと男衾おぶすま幡羅はたら榛沢はるさわ那加なか児玉こだま賀美かみ秩父ちちぶ、東京都の多麻たま荏原えばら豊島としま、神奈川県の橘樹たちばな都筑つづき久良岐くらき、と分かれていた。
この地域は豊島郡といい、今の北区千代田区中央区台東区文京区荒川区新宿区豊島区板橋区練馬区にまたがっている。
武蔵の国の国府は今の府中市とされ豊島郡の郡役所(郡か)は北区西ヶ原近辺と研究されている。そこにはまた豊島駅(としまのうまや)を備えていて、旅の馬を交換したり宿を提供したり朝廷の役人や国司たちの交通のための中継所となっていた。
やがて律令制度が崩壊する平安末期より各地に開拓武士団が数多く現われ、この地方でも秩父氏が有力となった。そこから派生して豊島氏 河越氏 江戸氏 渋谷氏 葛西氏 畠山氏 河崎氏 小山田氏などの豪族が興った。
豊島氏一族は今の上中里へんに平塚城を構えて源家に忠誠して城北一帯に武威を奮った。ことに四代豊島清光が中興で源頼朝の旗揚げを助けて鎌倉幕府の成立に寄与したことが『吾妻鏡』に記されている。その後室町中期まで400年にわたってこの地域の支配を継承して嫡子に多くを分家させたので、滝野川氏 板橋氏 志村氏 赤塚氏などが立った。
武蔵野の台地でそうした展開をしていたころ、赤羽の低地帯ではどれほど荒川の洪水が引いていただろうか。
遡って8世紀に、坂上田村麻呂が朝廷の命を受けて奥州の蝦夷鎮圧のためにはるばる出陣してきたが八幡の高台に行き着いて立ち止まった、という伝説がある。そのころはまだ、秩父の山々から下り続ける川の水が小豆沢の台地の壁に突き当たるといきなり節度を失って平地に広がっていた。太古海だったものが海岸線が引いてゆく退海現象につれてそれらは次第に収まっていったが、袋や岩淵や川口はまだ所々に葦や茅の生い茂る州を作っているだけの広大な湿地帯であったに違いない。関東台地のへりから武将が眺める東北は遠くに鳩ヶ谷の高台がこんもり望められるくらいだっただろう。
鎌倉時代には、岩付古河宇都宮にむすぶ街道が出来ていたようだ。荒川(入間川)の渡河に関所が置かれ、岩淵に宿場があった。13世紀の『問わずがたり』に、尼が川口の善光寺に参る折りに「岩淵の宿といいて遊女ども住む処」と記述している。岩淵の名が初めて出てくる。渡し場は八雲神社近辺だったかとされる。そうならばいくつかの村落がその周辺に生まれていただろうが水田耕作はまだ出来なかっただろう。ただ15世紀になると旅人に渡船料や橋賃(船橋)が課せられてその上り銭は鎌倉の寺社造営に寄進を要求されたというから街道交通も宿場もそれなりに発達していたのだろう。
15世紀、豊島氏が太田道灌によって破られるとこの地はしばらく豊島氏の残党から分立した小武士団に分かれた。そのころ和歌山の熊野大社の荘園地だったが年貢帖には岩淵稲付十条志村板橋蓮沼など今の町名の元となる豪族の氏(うじ)名や当時からの地名が多く記録されている。
やがて太田道灌の孫資高の子で後北条氏に仕える太田新六郎康資(やすすけ)が所領とした。『小田原衆所領役帳』によれば戦国時代、稲付城(今の静勝寺)を居城として「岩淵五ヵ村」のうち赤羽と稲付の大部分を所領としたとなっている。1551年新六郎康資は赤羽八幡神社を保護して寄進を行った。この事については神社に寄進状が現存する。稲付城は背後に鶴ヶ池亀ヶ池を堀として険しい山の上に誇っていて、岩淵砦とも言われていたという。
こうして岩淵の名は歴史に登場し始めるが、はたして新六郎ら支配者たちは宿場と渡し場以外にこの低地帯を領有していることにどれほど経済的な興味を持っていただろう。農業技術が未発達の上にたびたびの水害ではとても安定した生産高は望めなく、農村部落の形成も他所と比べてかなり未熟だったのではないか。
江戸時代に入ると灌漑技術が進み農業生産の高まりを見た。堤防による水害防止の努力も進められた。この地域は、岩淵宿のほかに赤羽根袋下稲付神谷十条豊島梶原堀之内船方上中里中里王子滝野川西ヶ原田端の村々がひとまとまりの岩淵領とされ、幕府の御料地(天領)として年貢を上納した。
江戸後期の記録によると、岩淵宿では100戸(宿町とも)御料地のまま、赤羽根村は81戸(長吏宅含む)本郷伝通院領上野東叡山領赤羽根宝幢院領と変遷する。袋村47戸下村78戸も伝通院領、稲付88戸御料地、神谷70戸旗本領となっている。
お代官様の下には各村に名主年寄百姓代の役があって、村を代表して年貢業務を代行したり争いの調停などした。農民たちは隣組(五人組)を組織させられて、相互扶助や逆に連帯責任を負わされた。しかし幕府の直領地でしかも寺社地だったことによって経済的な締め付けはその時代の他の農民たちに比べるとかなり緩やかだったらしい。年貢(四公六民)は多めに見られ、江戸に近いことによって江戸町民と同じく白い米を食し子弟の奉公先も多くあって苦労が少なかった。ただ助郷といって支配者たちのための雑役人夫仕事に駆り出されることもしばしば辛抱しなければならなかった。それらは村名主の責任において行われた。
幕末のころの村名主 岩淵本宿 小田切重路 岩淵宿本陣 赤羽村 田口権左衛門 袋村 松沢利兵衛 宮森六左衛門 下村 富田左兵衛 稲付村 松本次郎右衛門 神谷村 島村満姓 浮間村 松沢藤助 と、今も続く旧家といわれる苗字が連なる。
岩槻街道から宝幢院の前で分かれて中山道に結ぶ道(板橋街道 今の八幡坂の道)があったが、江戸後期の十方庵敬順の紀行随筆集『遊暦雑記』にその道中の姿が記されている。「此路すがら土人は一里といえど一里半もやあらん(中略)赤羽根村より中仙道の往来に出抜けるまで凡そ一里余の間人家なければ」と表現されている。低地と違って台地では土質から水耕が難しく人々は蔬菜の畑作で暮らしていた。稲付台では大根茄子人参茶などが作られて市場に出荷すれば換金できて盛んだったが、そのころの赤羽台はまだ未開で畑の合間に武蔵野の雑木林が連なり人煙まばらだったに違いない。遠くに富士さえ望めたという。
八幡祠(神社)が岩淵赤羽根稲付下袋のそれぞれのほこらの総鎮守としてあったことが明治の修理中に偶然発見した文書で判った。それらの村々が昔からひとつの共同体を保っていたことを表している。なお岩淵はかつて「村」であったことがなく、常に村以上の特別な地位にあったようだ。宿場では小田切家が代々本陣を務めて将軍の休息の接待を任じた。そのころの渡し場は今の大橋よりも上流で対岸が善光寺にたどる個所で、川口と半月交替で役人が諸役を果たしていた。
祖先の農民たちは洪水に悩まされつつも新田を開墾したりして年貢と戦う年月が永く続いていた。幕末維新の激動の時代になってもなお歴史の風雲が及んでこない田園地帯で、まだ先史の時代の静かな眠りの中だった。
≪参考図書≫ 新修北区史
北区の歴史 芦田正次郎氏ほか 名著出版
北区誌 武藤輿四郎氏 新人物往来社
ほか
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