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地名「赤羽」の由来
太古、厚く積もった関東ローム層の台地に秩父から下り落ちる荒川の流れがぶつかり、そこに立止まって周囲に氾濫し、やがてその水が引いて出来た土地が赤羽くわしくはこちら。したがって水が丘の裾を削ったために低地との落差が激しくローム層を縦割りにした崖が多くある。その壁面に赤い土が露見していたが、この赤土を意味する赤埴(あかはに)が地名の語源ではないかと一般的にいわれている。

埴(はに)の字はそのものでも赤い粘質の火山灰沃土を指して土器の製造に使われる。だが、≪川の岸辺で岩淵≫、≪その川しもで下(志茂)≫、≪むかし小豆舟が転覆して小豆が散らばったところが小豆沢≫で、≪その小豆沢から小豆のから袋だけが流れ着いたので袋≫、≪川の洪水で低地帯の稲穂が崖下に流れ寄せたので稲付≫、≪新田にカニがたくさんいたのでかにやといい神谷となった≫などの周辺群の土俗的な名前のつけ方の水準から考えると埴のことばは少々高尚すぎて古代史学的な後付けの感があって素直に首肯できない気がするのだが。たとえば「赤骨」とか「赤舟」とかもっとほかに単純な名づけのきっかけになるエピソードが昔にあったのではないだろうか。
或いは、古地図を探ってみると、むかしの赤羽村の家屋はまず岩槻街道に沿って岩淵宿まで集落しているのが主だが、そのほかには西口側の崖の下(赤羽幼稚園からトンネルまで)に意外と人家の集中が目立つ。稲付村でもそうだったが初期の住人たちは夜台地の上に寝起きして日中平地に降りて耕作する生活だった。だとすると原始の赤羽集落とはひょっとするとこの地域だったのではないかとも思われる。ならば朝夕に崖に露出する赤い土を目にしていたにちがいない。

古来、「赤羽根」とか「赤場根」とか表されることがあった。現存する中で最も古い文書では、天文20年(1551)に小田原北条氏の家臣である太田新六郎康資が岩淵郷八幡神社にあてた寄進状くわしくはこちらの中に「赤場根」の名が見られる。数少ないながら明治以前の文書には「赤羽」もあるが「赤羽根」のほうが支配的。

現在の「赤羽」の表記に定まってきたのは、明治4年(1871)東京府域の再編成と新戸籍制度の開始がきっかけで、広まってきたのは明治18年「赤羽駅」の誕生からではないかと想像する。そのときの新聞広報には「赤羽根村」に「赤羽停車場」を開いたと表現されている。なぜ鉄道会社は「赤羽」のほうを選択したのか今となっては解からない。そのころ設けた駅名は偶然だろうがすべて二文字だったので揃えるつもりだったのだろうか(上野王子浦和上尾鴻巣板橋新宿など)。ともかく「赤羽根」よりも「赤羽」のほうが近代的な感じがしてありがたい。



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