toppageINDEXMyHometown>地形図

山の手と下町 坂道の多い町

私達の住む町赤羽は、山の手台地と下町低地とで成り立っています。下に示した地形図は明治初年発行の(まだ人の手で地勢を変えられていない頃の)地図をもとに等高線を追って図形化してみたものです。荒川の位置も放水路工事の前の流路です。
見ると北側では台地と低地の境界線はするどい崖になっているところがほとんどで、台地が長いあいだ川の流水の衝突によって削り取られてきたものと想像できます。一方東側の境いは入り組んだなだらかな斜面が多く、こちらは台地の上で生まれた小さな川の流れが海に向かううち次第に大きくなって侵食谷を形成してきたものでしょう。低地部が海だったころには入り江をかたち作っていたものと見られます。


赤羽の低地部はむかし海の底だった

以下は武藤輿四郎氏著「北区誌」を中心に他書も参考に含めております。
山の手台地とは、関東山地から多摩川が出来た地点の青梅市を基点として扇状に広がっている武蔵野台地と呼ばれる広大な地域の東端部の名称であり、台地の表面はだいたい平坦で24メートルから26メートルの高さである。荒川と台地に挟まれた下町低地も平坦で、荒川が運んできた土砂の堆積によるデルタ(三角州)といえる。
2万年以上前、関東地域は山岳地帯を除いたほとんどの部分が海であり、大きな湾を成していた。これを古東京湾という。洪積層時代中期になると、古富士山や箱根浅間山などの大火山から噴出された大量の火山灰が降り積もって、この古東京湾が埋め尽くされた。この火山灰関東ローム層(赤土)が厚く積って山地を除く関東一帯が平坦な陸地となって広大な台地を形成してしまった。
洪積層時代における第四回目の氷河期(ヴュルム氷期)がきて、地球上を長い間激しい寒波が襲いはじめた。地球の両極は凍りつき陸に降った雪は万年雪となりまた雨も結氷して海に戻らなくなって、海水面が関東沿岸で80メートル以上も下降してしまった。そのため、関東平野は海から眺めると、表面の平らな80メートルも高い台地と見えた。この頃の海岸線は浦賀水道のさらに南にあり、東京湾はすべて陸地だったといえる。そして海方向に多少の傾斜を作っていたところに水流が生れ、やがて温暖期に変ると山地から発する荒川利根川入間川の三つの川の元になる古東京川が生れて、強烈な勢いで溶けた水とともに軟らかい火山灰の地層を次第に侵食しながら海に流し出した。また同時に上流から肥沃の土ももたらし、流路をさまざまに変えながら平坦な低地部を造っていった。
間氷期になると海水面が上昇し台地のほとりまでやって来てさらに土地を平坦にする。この氷河期温暖期による海進海退の繰り返しで山の手台地と異にする下町低地を作り上げたということである。縄文人が住み始め貝塚を残したのがこのころである。また
今は埋め立てられてしまったが弁天池としてなごりをのこす赤羽西口の亀が池は、海が引いてゆくうちにいちばん水底だったところが池としてのこったものということである。
この海を奥東京湾と称しいちばん奥は浦和あたりまで海進して、
八幡原から北を見遥かせば、対岸は鳩ヶ谷の丘であった。八幡神社下には船着場の跡があったと伝えられている。

こうしてみると、延暦年間(1200年前)に朝廷より奥州鎮圧を命ぜられてやって来た坂上田村麿呂が、この八幡原に至って立ち止まらざるを得なかった事、一旦この地に陣を張って付近から兵を募り煉兵を繰り返し、出陣に際して八幡三神を勧請して武運長久を祈願したことにより八幡神社が創建されたという伝承は可能性として想像できないことではない。

そのころの低地は海が退いた後とはいえ所々に砂州の盛り上がりが見える程度の広大な湿地帯だったかもしれない。
上流から運び込まれた肥沃の土が堆土して水田耕作によいので、そのころの原赤羽住民たちは水害の危険を冒してでも平地に下りて開墾耕作した。また砂礫とともに粘土質の土ももたらされたので梶原の煉瓦の製造、川口の鋳物の製造に発展した。一方台地の関東ローム層は砂地が多く水の通りが良すぎて水田には不向きで、耕作は土質に強い根菜類が多かった。









toppageINDEXMyHometownTIMMETRAVEL>明治13年

北区の歴史資料室には過去の年代の地図が何種類か保存されている。
その中で江戸時代の絵地図などの類いを除いて近代的な測量地図として最も古いものは明治13年版である。
以下、それ以降の各年代版を検証し、地形図や現代の地図とを重ね合わせてみる。

明治13年の赤羽 1880年 東京府北豊島郡岩淵町大字赤羽根村


維新からわずか13年、まだこの地方は江戸末の世界そのままだろう。
荒川は放水路工事事業以前のすがた。荒ぶる川の名の如く水路は上流の笹目の方から激しく蛇行して下る。どこから洪水してもおかしくないが川ふちに村落が伺えるのは小豆沢村より上流にない。
川向こうは埼玉県北足立郡川口町。橋はまだどこにもない。渡し舟を利用するのみ。渡し場が小豆沢から浮間に(浮間側にその記念碑がある)、岩淵から川口に、神谷から鹿浜にあった。渡し舟といっても牛馬から荷車までも運送できた。

主要道路は中山道と岩槻街道のみ。ランクを落とせば、現在の北本通りの旧道である岩淵道、十方庵敬順が江戸時代に歩いた板橋街道、袋村から小豆沢村に崖下に沿って通じる小豆沢道、稲付普門院ワキ真正寺坂(今の交番のかど)を登って今の三岩小赤羽商業稲付中をすぎて中山道に達する板橋道、なんと戦後に出来たはずの環七通りの原形ともいえる道が当時からあったことも伺える。道とは1世紀を越えても廃絶したりしないものらしい。すべて現在もある。環七前の馬坂は馬も喘ぐ急坂。神谷の交差路はほぼ現在の神谷陸橋地点。

被服本廠が建設される前の板橋街道における八幡坂下から消防署先までのあいだは地図の等高線に当てはめるともっと台地の中央にあったようだ。すなわち現在の水道局より団地商店街の大通りをなぞる位置がちょうどそれに当る。宝幢院前の道標から板橋街道の上り坂はほぼ左カーブとなっている。この坂道は被服本廠時代には東通用門としてあった。それが街道の始点の上り坂だった。そのためか今日ではうつり坂と名付けられている。

明治初期に官軍の火薬倉庫ができて陸軍が引き継いで赤羽火薬庫とした。この地で最も古い軍施設。この正面から人工的な直線道路が十條村に向かって延びている。陸軍火薬製造所(いまの帝京病院から家政大あたりまでの地域)と結ぶ軍道である。火薬庫の正門を出るとすぐ道は地形が谷越えとなる。いまの自然観察公園と島下公園のあいだだが、重くて危険な火薬を運搬するには道を平面にしなければならず、初めから木橋を架けるか今のように盛り土していただろう。
なぜ官軍は当時のこんな僻地に火薬庫を設置したのだろうか。まだ西南戦争の前で越後や東北に政情不安があって出兵するのに中山道沿いに置くのは都合が良かったか・・・それにしても街道からは離れすぎている。ともあれこの火薬庫の存在が端緒となってその後この地域十條豊島王子にかけての一帯を銃器製造と砲弾銃弾の製造のメッカにしてしまった。火薬庫の敷地もこの時点ではまだ面積が小さいがやがて何倍にも膨れ上がる。

岩淵町の集落は街道を堺いに東側正光寺側に集中している。地図から見る村落の広さでは下村が最も大きく現3、4丁目が中心、赤羽稲付袋村は街道にへばりついて点在する程度。赤羽村では街道沿いの並びを別にすれば西口側の崖の下(赤羽幼稚園からトンネルまで)に人家の集中が目立つ。崖に露出する赤い土を表現して「赤埴あかはに→あかばね」となったとすれば、原赤羽集落とはひょっとするとこの地域だったのではないかとも思われる。静勝寺裏の亀ヶ池もまだ埋め立てずに残っているのが興味深い。今の弁天通り。

赤羽小学校が岩槻街道沿いの当時無住無檀の福寿院内に開校。現赤羽駅あたりと推定。
北豊島郡の郡役所は下板橋宿(地図外JR板橋駅近辺)に。岩淵町役場(扱い所)の所在は不明だがおそらく小田切重路宅。ならば本宿町内、川のほとり。

村落のしるしのない空白地はすべて野園。低地の色分けの地帯では水田をほとんどに、あぜ道、用水路、茅の茂み、湿地、地蔵塚が混在する。高地の色分けの地帯は赤羽台は武蔵野の原野。いくぶん開けた稲付台でも所々に畑作地で人煙まばらといったところ。








toppageINDEXMyHometownTIMMETRAVEL>明治39年


明治39年の赤羽 1906年 東京府北豊島郡岩淵町大字赤羽


明治18年の赤羽駅の誕生から20年が経過している。この間に赤羽は飛躍的に町勢を伸ばした。人口も世帯数も増えてあっという間に本家の本宿町を越えた。

駅開業をきっかけに両工兵隊がそろって都心部から移入してきて駅前の本町通りは常に軍服姿が目立った。
町では入営兵士の見送りに旅館、家族の面会に土産物屋、兵営調達品の納入、休日の娯楽など新しい店屋が多く誕生した。
25年には明治天皇の行幸も仰ぎ、時は前年の旅順陥落直後、日露戦争が終結に向かい出兵した両工兵隊の凱旋と戦勝に町ぐるみで沸いていた時期である。
陸軍被服倉庫も出来た。ただしまだのちの本廠移転の前で倉庫業務のみなので人員は少ない。初期はいまの公団団地の全面積規模ではなく団地商店街道路(原板橋街道)の南側片側半分の敷地。
この年陸軍板橋兵器庫が稲付に設置されたばかり。今の西ヶ丘サッカー場周辺の広大な土地で、S3に東京陸軍兵器支廠とする。

この施設と幹線鉄道を結ぶために軍用特殊鉄道線を八幡神社下から敷いた。土地っ子の言う「引込み線」で翌年開通。
このおかげで八幡神社は参道の一部を明け渡すことになり、石段の付け替えから社殿の移動新築工事にまで至った。
初期今の大ガード付近からゆったりと参道が延びていて石段も緩やかだったに違いないが、この線路横断のおかげで横から入り込み踏切りを跨ぐ変な参道になってしまった。
昭和の新幹線トンネル工事と同じ国策に翻弄される神社の運命。
火薬や銃器を満載した列車が神社下を通過した。今の大鳥居の位置に蒸気機関車用の給水設備があったのが戦後まで残っていたので、石炭燃料の積み込みもここで行われていたかもしれない。
赤羽火薬庫はこの間に敷地を倍増している。
板橋火薬製造所十条兵器製造所に付設して稲付の谷あいに射爆場が開設。炸裂音と硝煙臭が稲付の村民を不安にした。

鉄道によって、最近ようやく撤去に至った赤羽名物の大踏切が2つ生まれた。さらに袋踏切吉原踏切、稲付から清水坂へ神谷村へは二股に分かれる赤煉瓦のメガネ橋。
赤羽小学校が岩淵尋常高等小学校と改称して20年の宝幢院内の間借り時代を終えて現在の場所に新築。その跡地に岩淵町役場が移入。
神谷の自性院に分教場のちの神谷小、志茂の西蓮寺に町立明和小のちの二岩小、稲付にも分教場のちの三岩小を設置。
3年前の36年に赤羽大火を経験。真頂院ワキの農家から出火して新築の赤羽小、宝幢院ワキ現ドミールマンションにあった岩淵町役場、駅前現宮森駐車場にできた郵便局などを焼失して今町は復興を遂げたところ。

当時の赤羽駅は現在の高架線下ビバホームの地点。鉄道国営化によって赤羽駅が国鉄駅になったばかり。荒川に個人経営だが有料舟橋もできた。舟橋とは小舟を横に並べて舟べりに板を渡して対岸につなげる浮き橋で、人道橋というから規模は小さいが乗合馬車が赤羽駅前からそこまで往復した。

人口増交通増によって道路の巾はそれぞれ広がっただろうが、この時点で新道というのは見られない。
赤羽に一番街通りの原形が見え始め、それから続く志茂に至る通道が顕著になってきた。のちの北本通りと東本通りの新設によって今は不明瞭になっているがこれも現存して辿れる。すなわち今の一番街入り口から発して赤羽小ワキの中央街に入り東本通りを越えて以前の警察署通りと交差する。さらに岡村病院岩二会館を過ぎて北本通りに斜めに接する細い道がある。通りの向こうガソリンスタンドの先にまた斜めに入る道があるがそこにつながって下村内に達する。

地図上の集落のしるしがだいぶ濃くなってきて広がりも見せて人口が増えたことを示している。
稲付村では街道沿いのほかに法真寺の谷あいから三岩に結ぶ地帯、また普門院ワキ真正寺坂を上りきったあたりに密集が見える。
赤羽では、本町通りが軒をひしめく飽和状態。町役場郵便局の地図記号も溶け込んである。しかし通りの奥に踏み入れば赤小に達するころにはあとは一面の田んぼのまま。西口は現宗泉寺のラインより駅側は密集、被服倉庫南門現在の駅から赤羽団地に上がる細い坂道も現れている。
袋村は通り沿いを堂山あたりまで。本宿は街道左側にも密集地が増えた。下、神谷には村落の広がりに変化が少なく、神谷村の表示だけわざわざ「カニワ」とルビがふってあるのが面白い。柏木神社が川沿い現日本金属かモデルハウス展示場あたり。








toppageINDEXMyHometownTIMMETRAVEL>大正10年


大正10年の赤羽 1921年 東京府北豊島郡岩淵町大字赤羽


荒川放水路の掘削と岩淵水門の建設工事が始まって8年目。この地図には省いたが川口善光寺側と岩渕水門側の土手に鉄道線の書き込みがある。工事は多くの朝鮮人労働者を雇い込み、トロッコどころではない蒸気機関車の動力を使って巨大土木工事として行われた様子が当時の写真に残る。

赤羽線はすでに自動ドア付の6両編成電車と変わり、お隣り川口町駅と十条駅が開設された。
火薬庫がまた小豆沢側に敷地を伸ばした。現桐ヶ丘団地N地区は工兵作業場と書き込まれている。工作や破壊の訓練場だったのだろう。両工兵兵舎のあいだの空き地は煉兵場。
下村の第二小が西蓮寺から独立して街道沿いに。

下十条に大蔵省製紙工場が出来たが払下げられて王子製紙の十條工場に。神谷堀川の水を利用している。戦後王子製紙が解体されて十條製紙となり移転されて今は王子5丁目団地。
大袋に日本製紙が開業 北区一帯に王子製紙傘下の大小の製紙工場がふえる。それにつられて印刷製本インク工場なども。

都心に遅れてようやく一般電灯用の電力の供給が始まった。巣鴨の火力発電所から発した電柱の列と電線の書き込みが王子方面から赤羽に連なり、町裏を通って鉄橋から川向こうの川口まで延びている。現南口駅前あたりに変電所。電線はその建物に達してから二股の分かれて先に延びている。王子電灯会社と呼ばれのちに東京電灯に吸収される。町に街灯が設備されて夕刻になると点消夫が稲付道女喜から岩淵本宿にかけて一灯一灯スイッチを入れてまわった。家内に電灯を引き込んだ家はランプとの明るさの違いに喜びひとつ部屋に家族が集った。

赤羽亀ヶ池が埋め立てられてしばらくは水田に利用されていたがやがて小口組という製糸工場がここに建設され開業した。いまの弁天通りの宗泉寺のラインから奥の地帯である。近在よりたくさんの年端もいかない労働力を集め、「女工哀史」ほどではないにしても昼となく夜となく繭玉を煮込む臭いと紡績機械の騒音の中で操業が続けられた。小学校の卒業もおぼつかないまま働きに出された子女が多かったので、赤羽小の教師は毎夜寮まで出向いて補習を施したり相談に乗ったりしていた。だがこの製糸工場、平屋だったが埋立地の地盤のゆるい上に建っていたのでT12の大震災で建物のほとんどが倒壊してわずか12年で幕を閉じた。その痕跡は今では全く見当たらない。

大正4年、日本製麻会社の工場が設立された。範囲をいうと横は東口駅前前富士銀行の横道を入ってキャバレー街の末まで奥行きは前富士銀行からすずらん通り岩淵中の手前までの広い範囲。雇用が大きく社宅も工場内外に次々に設備された。このため街道から外れていたために町化が遅れていた現在の東口駅前あたりだったが、この新住民や新通勤者達のための飲食店や娯楽店映画館が急激に建ち並んだ。また製麻会社の外塀に沿って片側だけの商店街も誕生してのちのすずらん通りの原形が出来た。工場は利水のために大きな溜め池を南側につくった。ここに台地から流れる稲付川がそそいで水を湛え、排出しては志茂の七溜に向かって七ヶ所の溜め池を形成させつつ荒川に流れた。土地の人は製麻池と呼び自由に入り込んで釣りが楽しめたようだ。手長がエビがよく釣れたそうで、池の中ほどに出島がせり出していたりして行楽の場所ともなっていた。

赤羽に飛行機の滑走路があった事を知っている人は少ない。岸飛行場と呼ばれ赤羽飛行機製作所が持っていた。築地明石町の耳鼻科医師岸一太が開設したもので、ここではファルマン6型という複葉機が製作され4機を陸軍に納入したりした。だがどちらかといえば岸の趣味的な会社で長い滑走路を残して2年で消えた。場所は製麻池からはずれて稲付柳田から今の清掃工場にいたる長方形。

その現在の清掃工場の場所にこの時、国電に送電する赤羽火力発電所が建設中。この発電所は山手線中央線赤羽線に送電するためのもの。国鉄は六郷橋の矢口に発電所を持っていたが相次ぐ電車化の需要に追いつけず、京浜線のみをそこに任せて赤羽に新設したもの。これに付設して発電燃料である石炭を輸送するための幹線からの引き込み線路が計画されていた。面白いことに、この年にはまだ発電所が建設中であり引き込み線は計画段階であったのだろうが、地図の予定線の書き込みは赤羽駅方向に向かっている。実際に出来上がったのは下十条方向王子までであった。大日本印刷から中央病院に達する左カーブした道路が今でもあるがそれが発電所から続く線路の侵入路の軌道である。発電所の廃屋は戦後昭和30年代まで取り壊されずに残っていた。私は小学生のころにその廃工場を訳も知らずに探険ごっこをしたことがある。内部にはコークスの山が多くあり(コークスは学校のストーブで知っていた)、錆びて危うい鉄製の階段を昇って遊んだ。帰り道、今の神谷運動公園あたりで盛り土の上を横たう雑草に隠れた線路の残骸を見た記憶がある。

2年前に被服倉庫の地に陸軍被服本廠が本所区より全面的に移転してきて軍服のみならず武器以外で軍や兵が使用するあらゆるものを生産し始めた。倉庫時代より敷地を拡張して板橋街道を西側(現在の場所)に追いやり南は火薬庫に隣接するほどまでになった。9万坪といわれたがほぼ現公団赤羽台団地の範囲。街道を移動したことによって始点が今のようにクランク型となり八幡坂が生まれた。被服廠は、八幡小前トンネル入り口あたりに正門、先の消防署近くに西門、東小あたりに東門、弁天池から登る坂に南門、ほかに旧オデオン座の上り口に通用門を備えた。貨物輸送のため兵器廠の引込み線に便乗する形で線路も入線された。
民間人職工の巨大雇用によって近在の通勤者が駅を利用するようになり製麻会社とともに町と駅が発展の一途を辿る大きな原因となった。通勤者はおもに東門を利用したので朝の時間帯には駅から排出されて本町通りから板橋踏切を越えて門まで辿る長い人の列が絶えなかったという。また周囲に下請けの町工場も多く出来、食料品日用品の納入や映画館料理屋旅館などが新開地に増えた時代だった。

とはいっても表通りを一歩踏み込めば小住宅が建ち並ぶが、その奥は明治と変わらぬ一面の田んぼ。赤羽小学校の校舎の窓から志茂の熊野様の森が望めたという。稲付の道灌山に登れば両国の花火や浅草の十二階が見えた。
前年第1回の国勢調査が行われ、岩淵町の人口15,672、ちなみに王子町は38,368。王子町ではこの年王子町信用組合が創立。3年後には岩淵水門完成する。岩渕町長に丸沢万五郎。関東大震災の2年前である。








toppageINDEXMyHometownTIMMETRAVEL>昭和7年


昭和7年の赤羽 1932年 東京市王子区岩淵町大字赤羽


荒川の放水路掘削工事がついに河口まで完成し岩淵水門もすでに稼動を開始している。これで東京下町にまで及ぶ毎年の洪水の憂慮から完全に開放された。水門に妨げられずに隅田川と川越方面との船運を確保できる新河岸川も通水を始めたばかり。放水路工事に長く待たされ続けていた新荒川大橋が完成開通。ようやっと川向こうとの自動車交通が可能となって、今は王子駅〜岩淵〜川口駅間、赤羽駅〜川口駅鳩ヶ谷間に乗合自動車が運行。木造だが浮間橋も架橋された。

赤羽駅が現在の場所に移動。乗客と列車の駅スペースが限界にきていたことともう一つには横浜桜木町から田端まで延びてきていた京浜電車を赤羽まで導入する計画から。新しく用地を広げて京浜線の土手が築かれた。ただ今更に大宮までの延長工事中、近々京浜東北線となる予定。
池袋赤羽間も山手環状線から外れた赤羽線となって複線運転、東北本線が尾久廻り赤羽となり下十条駅(S32東十条駅と改称)も開設された。特殊専用線が王子駅〜赤羽発電所間を石炭運搬。

新赤羽駅東口広場にはバスプールが設けられて、このころのバス路線は王子行鳩ヶ谷行川口行志村行などの鳩ヶ谷乗合と川口乗合会社。変わったところでは現スズラン通りを通って駅〜志茂七溜にもバスが往復。

王子電気軌道(王子電車)が神谷橋まで来ていた線路を赤羽まで延長。同時進行で自動車道路も建設していたので路面電車通り(北本通り)も王子まで全通。のちに都電となる王子電車のこのころの停留所は、赤羽終点−岩渕本宿−七溜−下村−北町−神谷橋と続く。

浮間村が新水路によって本村であった埼玉県横曽根村から分断されたことによって岩淵町に転入を果した。

玉川上水から取水して杉並中野練馬などに広く飲料水を給水しながら稲付より末端荒川まで水道を通す共同事業「荒玉水道」が完成して赤羽にも給水を開始。徐々に水道管の設備をした各家の台所に蛇口が備えられるに至った。それまでの井戸水生活に別れを告げた。電灯はすでに浸透しておりNHKのラジオ放送も楽しんだ。
道という道には必ず側溝に「ドブ」が流れていて各家の生活排水の異臭を漂わせているのが当たり前の時代である。ドブ板を踏まずに入れる家は珍しいくらい。むかし農業用水の小川だったものがそれらの排水を集めた「大ドブ」と役割が変わって通りに沿って荒川に向かって流れている。 「大ドブ」の小橋を渡って買い物する店屋も多い。

赤羽における関東大震災の被害は都心部のそれに比べればずっと軽微に済んだ。建物倒壊はあったものの大きな火災を呼ばなかったことによる。震災とその後の影響についての詳しくは<赤羽の関東大震災>。大正12年におこった震災の直後から東京からの移住者が年を追って増え続けて穏やかに成長してきた町は急激な都会化を余儀なくされた。寺院や学校や工場や諸施設の移転も続き農地の宅地化が進んだ。すでに赤羽町には農地が見られない。稲付に震災復興事業として同潤会住宅を建設。

赤羽の商店街には下野中央銀行鹿沼銀行岩淵町信用組合などが開店。赤羽西口に軍人や産業人を客に花柳界二業地が設けられた。ほかに映画館演芸場なども。
東京の大災害から発生してこの地の及んだ都市化の勢いはこの年昭和7年ころまで続いてきて、今は太平洋戦争前における赤羽発展のピークを迎えている。震災前との人口比は240%。町は土地区画整理事業を行ってこの押し寄せる波に対策を付さなければならなくなった。

10月には東京の市域がこの地にも及び、いよいよ東京市の一員となる東京市王子区岩淵町になる予定。だが、金融不安に始まった昭和恐慌が徐々に浸透してきて銀行閉鎖も起こり、満州事変は上海事変に発展、満州国承認五一五事件と、このころから世相を反映した重たい空気が町を多い始めた。蓄音機からは東京行進曲や君恋しが流れた時代である。













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