T O P I C S
戦時の赤羽
厚く積もった関東ローム層を秩父から下り落ちる荒川の氾濫で削られ続けて、その荒川が引いたところに出来た土地が赤羽<くわしくはこちら>。したがって丘と低地の落差が激しく関東ローム層を縦割りにした崖が多くある。その壁面に赤い土が露見していたが、この赤土を意味する赤埴(あかはに)が地名の語源ではないかといわれている。
埴の字はそのものでも赤い粘質の火山灰沃土を指して土器の製造に使われる。だが、川の岸辺で岩淵、その川しもで下(志茂)、小豆沢から小豆の空ら袋が流れ着いたので袋、川の増水で稲穂が崖下に流れ着いたので稲付、などの周辺群の土民的な名づけの水準から考えると埴のことばは少々高尚すぎて古代史学的な後付けの感があって素直に飲み込めない気がする。
古来、「赤羽根」とか「赤場根」と表されることがあった。残された中で最も古い文書では、天文20年(1551)に小田原北条氏の家臣である太田新六郎康資が岩淵郷八幡神社にあてた寄進状<くわしくはこちら>の中に「赤場根」の名が見られる。数少ないながら明治以前の文書には「赤羽根」が支配的。現在の「赤羽」の表記に定まってきたのは明治4年(1871)東京府の再編成と新戸籍制度の開始がきっかけかと思われる。
もどる |