T O P I C S
医王山宝幢院
≪北区教育委員会≫
真言宗智山派。医王山東光寺と号し、本尊は薬師如来像です。創建年代は不明ですが、住僧のうち秀永という僧が天文九年(1540)に歿しているといわれていることから、それ以前の創建と推定されています(『新篇武蔵風土記稿』)。
その後、法印宥意(寛永五年1628歿)が中興し、慶安二年(1649)、徳川家光から赤羽根村内に10石余の朱印を付されたといいます。かつては浮間の西野にあったといい、その跡は宝幢院屋敷と呼ばれていました。(『岩淵町郷土誌』)赤羽村は赤羽根村とも書かれました。西野というのは、今の浮間四丁目にほぼ相当します。『新篇武蔵風土記稿』に、「赤羽根村…家敷八十一戸…石神井用水ヲ引沃ケトモ不足ナレハ別二溜井ヲ設テ助水トス正保ノ改ニハ傅通院領トノミ載セタレト今ハ東叡山傅通院村内賓幢院八幡社領入曾ノ村ナリ……村内日光御成道六町二十間余掛レリ」と記されています。正保というのは西暦1644〜1647、江戸時代初期にあたり、「今ハ」とあるのは、文化文政年間1804〜1829)のこと、日光御成道とは岩槻街道のことです
板橋街道は、この西側少し先の踏切を越え、うつり坂を登り、赤羽台団地内を抜け、善徳寺、大恩寺前を通っていく道です。文化年間のこの道筋について、十方庵敬順は「賓幢院の前より南へ入りて小坂を登リ……縁切榎の北方へ出けり、此路すがら土人は一里といヘど行程一里半もやあらん、されど左右只びょうぼうたる高みの耕地にして折しも夕陽西にかたぶきねれば全形の芙嶽を程近く見る、此景望又いふべき様なし、左はいへ赤羽根村より中仙道の往東へ出抜るまで凡一里除の間人家なければ…」と『遊暦雑記』に記しています。
≪宝幢院前の道標≫
この道標は、正面に「南 江戸道」、東側(向かって右側)に「東 川口善光寺道」、西側に「西 西国富士道板橋道」、裏面に「元文五庚申天十二月吉日 願主了運」と彫られています。江戸道というのは、ここでは岩槻街道のこと、元文五年は西暦1740年にあたります。
年々盛大になってゆき、やがて赤羽の有名年中行事に育つか
宝幢院の節分豆まき大会
もどる |
ごあいさつに あかばねの甘い宝石 wagashi和菓子 On-Line SHOP |