(3)本当に処刑されたのか?


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『神は沈黙せず』批判(まえがき)
(1)南京論争登場
(2)否定論を理解しているか?
(3)本当に処刑されたのか?
(4)捕虜ハセヌ方針(東中野説)
(5)捕虜ハセヌ方針(南京戦史)
(6)トンデモ国際法
(7)便衣兵摘発の状況
(8)形勢不利なのはどっち?
(9)石射史料に虐殺の記述なし
(10)なぜ数が問題になるのか
(11)虚構の上に論を重ねた虐殺説
「あとがき」のようなもの

 
中島日記に関して(その一)


 『神は沈黙せず』山本弘著 角川書店
 P58−P64(順次抜粋)

 真田が、「そもそも南京大虐殺を見た者など一人もいない」と発言すると、「あくはと」はここぞとばかりに大量の証言をアップしてきた。

 たとえば日本軍の南京入城式のあった一九三七年一二月一七目だけでも、当時の日本兵の日記の中にこれだけの証言がある。

(略)

 真田はまったく動じず、せせら笑った。そんな下級兵士の証言など信用できない。どうせ左翼文化人のでっちあげに違いない。たとえば第一六師団長の中島今朝吾中将の日記には、虐殺行為などまったく記されていない。それどころか、「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ」とあって、当時の日本軍が中国兵を捕虜にせず、武装解除して解放していたことが分かる・・・・・・。

「あくはと」は即座に反証を挙げた。中島今朝吾中将の日記には、真田が引用した箇所のわずか数行後に、十二月十三日に捕虜にした中国兵の処分について、次のような記述があるのだ。

「此七八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百二百二分割シタル後適当ノケ[カ]処に誘キテ処理スル予定ナリ」

 この文章の意味が理解できない者はいないだろう。武装解除して解放するだけなのに、なぜ「大ナル壕」が必要なのか? つまり先の「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ」というのは、捕虜はすべて殺して埋めてしまう方針のことなのだ。結局、何万人も埋める「大ナル壕」が用意できなかったので、揚子江岸で殺害して死体を河に流すことにしたのだろう。
 真田はこうした事実を知らなかったらしい。どうやら中島中将の日記を実際に読んだわけではなく、「なかった」派の書いた本の歪曲された解説を鵜呑みにしていたようだ。


 


 真田のトンデモ否定論に対して、あくはと君のトンデモ肯定論が飛び出すという構図なので、突っ込みどころが満載(つまり現実社会の論争よりもかなり幼稚な議論)なのですが、細かく突っ込んでるとキリがないので歴史的事実から解説していきます。


 中島日記には仙鶴門付近で確保した7千人−8千人捕虜を殺害したという記述はありませんし、揚子江岸で殺害して死体を流したという記述も存在しません。山本さんは「あった派の歪曲された解説」を鵜呑みにしちゃったのでしょうか?



 どうやら山本さんは、中島日記に記された捕虜は殺害されたと思っいこんでいるようですが、中島日記でも「処理する予定」となっており殺害したという記述はありません。その他の史料を見ても仙鶴門付近で確保した約7千人は捕虜として南京に収容されたというものがほとんどです。以下史料と『南京戦史』の解説を見てみましょう。



捕虜の行方

 
仙鶴門附近の約7千人の捕虜
南京に収容

上海派遣軍独立砲兵第二大隊『戦闘詳報』
第9号付録(12月13日午前一時〜正午)

(四) 戦闘における状態
(略)
 同夜午後7時頃、仙鶴門鎮西方に約2〜300の敵襲を受けたるも難なくこれを 撃退せり。14日午後4時砲兵指揮官、内山少将、仙鶴門鎮に来られ 、敵襲後の状態を視察せらる。
  これより先午後2時頃堯化門付近において、約7000名降伏し来り。午後6時歩兵第38連隊の一中隊護衛の下に、仙鶴門鎮北側凹地に集結す。該俘虜の大部は13日早朝仙鶴門鎮及び新庄付近を襲撃せるものにして、事後北方に退却し我が部隊各所に駐屯し有力なる為ついに、企図を放棄し武器を捨て降伏し来れりものなり。

(注 捕虜確保は12月14日) 
『南京戦史資料集』P650

独立砲兵隊の捕虜は歩38所属の中隊に引き渡されたということです。
次に歩38の戦闘詳報をみてみます。



第16師団
歩兵38連隊戦闘詳報 附表第3 戦闘詳報12号附表

備考
1、俘虜7200名は、第10中隊堯化門付近を守備すべき命をうけ同地にありしが 14日午前8時30分頃数千名の敵、白旗を掲げて前進し来り午後一時武装を解除し南京に護送せし者を示す。 

『南京戦史資料集』P594

 堯化門と仙鶴門鎮は約3キロほどの距離です。捕虜の収容、連行については他にもいくつか目撃情報があります。これらの史料を見る限り中島日記に記された約7千人の捕虜は南京に護送されたと考えられます。



 




南京に収容された捕虜
『本当はこうだった南京事件』P387 板倉由明著 日本図書刊行会

 なお、城内に収容された捕虜のその後については、『南京戦史』第六章第六節「南京付近に収容した捕虜の状況」に詳しいが、最初一万人程度の捕虜が収容され、翌昭和十三年一月六日に「三千六百七十人もいるそうだ」と第十六師団経理部の小原立一少尉の日記に記されている。約半数が昭和十二年末ころ上海に送られたものと見られ、残りが汪兆銘の南京政府軍に編入されたという事実はよく知られている。

(注 板倉氏は『南京戦史』の主力編集員)

『南京戦史』P324

 これらを総合すると堯化門(仙鶴門鎮)付近の捕虜約七千二百名を中央刑務所(第一監獄所)に護送し収容したことはあきらかである。



 以上のように中島日記に記載された仙鶴門付近で確保した約7千人の捕虜は、殺害されずに南京に収容されたと考えられます。複数の史料による裏づけがあるということです。処刑されたと揚子江に流されたというのはかなり無理がありますね。



 そもそも『神は沈黙せず』の参考資料に、『南京戦史』もあげられています。山本さんは見落としちゃったのでしょうか。『南京戦史』本編の論考ですから、見落とすことはまず考えられないと思いますが。


 「虐殺あった派」の研究書は史料を多角的に精査することなく、合の悪い史料は見ない(存在に触れない)事にして構成されているものが多いので、あった派の研究書を鵜呑みにして、さも史料を読んだかのように装うと底が割れるのも早いのです。

 
 

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