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ニックネーム:おつる (洗礼名ジャンヌダルク)
性別:女 
年齢:いい感じの年 
都道府県:兵庫県
サッカー大好き♪好きなサッカーチームもちろん★バンヴェール兵庫★マリリン・モンロー大好き♪自衛隊ファン♪ JAZZが大好きー♪ 猫が大好き♪ そして 何より好きなんは・・ビールやね♪

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2009年10月10日(土)
明日の 10/10大阪外国人参政権反対デモへ行かれる皆さまへ。
明日の外国人参政権反対デモへ行かれる皆さまへ。
明日頑張ってください。 




********************************************************************:


鶴姫 おつる 中曽千鶴子


田中様、大圓様、松井様 そして手嶋さん
その他、明日の外国人参政権反対デモへ
行かれる皆さまへ。


カトリックの10/11の反靖国見学会が
中止になりましたが、主権回復を目指す会様が
その勉強会の場を提供した 聖イグナチオ教会(麹町教会)
に中止声明にかかわらず、抗議に行かれるようです。

当初、イグナチオの外人神父様は 左翼カトリック組織の
責任者でもないので、抗議は、
責任者である さいたま谷司教や大阪 松浦補佐司教に
していただくべきと思っておりました。

あまり今回の反靖国行動について
知らない聖イグナチオの信徒さんや
小中学生、小さな子供たちの信徒さんには、何の罪もないこと。
なんとか聖イグナチオでの抗議はやめていただきたいと思いました。

が、今回の外国人参政権反対デモの妨害予告の
賛同者のリストを見て驚愕しました。
カトリックのシスターがずらりと賛同しているのです。

たぶんシスターは、妨害行動に参加するわけではなく
何も知らないで、外国人差別がいけないと署名しただけの
人もいるかもしれません。
けれども シスターの中で、もっとも左翼的で
解放の神学にどっぷり浸った 弘田しずえ氏が名前を
連ねていることにきづきました。

こんな状況では、カトリック信徒全員が

同じようなイメージでとらえられてしまいます

このように 多くのシスターが妨害に参加しないまでも
賛同者として署名していることは
同じカトリックの信徒として お恥ずかしく
お詫びの気持ちでいっぱいです。

明日、東京で カトリック保守の仲間たちと
会議をします。

そして次の日、麹町教会 イグナチオへ出向き

抗議団体である主権回復を目指す会様に対して

左翼カトリックが謝罪しないのであれば
私たちが カトリック信徒の代表として

靖国を汚す行為を自浄できず、見過ごしたこと
左翼カトリックの跋扈を許してきていることに対して

謝罪をし、お話ができればと思っています。

靖国神社をマッカーサーの焼き討ちから救った
ビッター神父様の思いを無にできません。
西村慎悟先生の尊い生き方、
思いを踏みにじる行為を許せません。

主権回復を目指す会様にはメールで
まず、その旨をお知らせいたしました。


日本を愛し、靖国を愛する皆さま
外国人参政権反対の声を明日 大阪であげられる皆様

私は、このカトリック左翼の連中の恥ずべき行為を
同じカトリックの信徒として

心よりお詫びいたします。

誠に申しわけありません。

私の洗礼名の ジャンヌダルクは遠い昔
真実の道を歩まない堕落した教会、神父に
「お前は司教にさからうのか」と聞かれ

「まずは神に従うのです」

と答え 火あぶりにされました。



明日は、東京マリアカテドラルで
このカトリック左翼が撲滅し、本来の愛に満ち
排他主義ではない、
日本の神道や他宗教をも大切にするカトリックの道が
護られるよう お祈りしてきます。

   おつる
2009-10-10 00:49 | 記事へ | コメント(6) | トラックバック(1) |
| 日本シルクロード科学倶楽部 / キリスト教 カトリック |
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2009年10月08日(木)
10/11 カトリック正義と平和協議会の反靖国見学分科会の中止の速報
本日、カトリックの左翼化組織
「カトリック正義と平和協議会」のホームページで

全国大会の中の
10/11 靖国見学分科会の中止の速報が出ていました!

長年にわたる カトリック正義と平和協議会の
左翼化全国大会で、このようなギリギリの中止は
はじめての事だと思います!!

カトリックの名前をつけての
反靖国の行動を、事前阻止に至ったことは
大きな喜びです。

といっても、私は署名運動もまにあいませんでしたし、
抗議文なども持参しようと計画していただけで
まだ、なにも行動していない状況でしたので、

どなたかが抗議をして下さったのではないかと感謝しています。

在特会、主権回復の会、靖国会などが
大きな問題として注視して下さり
ブログや掲示板などに掲載して下さったことも
大きな影響があったのではと思います。

また、私も祈り続けていましたが
お祈りして下さった方々の思いが
神様に届いたのだと思います。

本当にうれしく、心から感謝しています。

有難うございました。

今後ともカトリックの左傾化とは、戦っていきたいと思います。

もしかしたら、完全なる中止ではなく、場所を変えて
などという姑息な手段をとり勉強会だけは
行われるかもしれませんが
とりあえず 神聖なる靖国神社、英霊が汚されることが
ないということは、大いなる喜びです。



前日の10/10に 
東京カテドラル聖マリア大聖堂 で、
こちらは、カトリックの保守が集う、荘厳ミサがあります。
このごミサと後の懇親会で保守系仲間と喜びあいたいと
思います。

東京カテドラル聖マリア大聖堂 は
1900年に前身の教会がたてられたのですが
東京大空襲で全焼、1964年に今の場所に再建。
そのすぐあとに

故吉田茂首相の葬儀が行われた場所です。

麻生元首相がクリスマスに家族とともに過ごされる場所。

吉田茂元首相のゆかりの教会で
しかも 日本の国の守護である聖母マリアの
日本を代表する一番の教会

ここで、最後のメッセージ「国が危ない」という言葉を
残され、拉致問題やチベット問題にも深く関わられた
中川元大臣のために、心からの祈りをささげてきます。

反靖国の行動が中止に至ったことへの感謝の祈りも
してきます。



************************************************
正義と平和協議会ホームページより
速報
都合によりイグナチオ教会での第4分科会、
及び靖国見学ツアーは中止いたします。

第4分科会参加者の皆さんには、大会事務局から追って連絡いたしますので、
しばらくお待ちください。

この件のお問い合わせは、

  正義と平和協議会事務局!!
http://web.mac.com/jccjp/justice_and_peace/home.html



*****************************************************

>
> 上記のカトリック左翼の全国大会では、
> 分科会として反靖国の講師を招いての靖国見学会という
> 姑息で、巧妙な反靖国活動が行われます。
>
> 私はデモで忙しく署名運動などをたちあげるつもりが
> ネット署名TVというサイトで認可待ちでしたが
> 結局却下され、署名を集める時間がありませんでした。
> 無念です。が、
> 東京のバチカン大使館に直訴しに行きます。
> そして抗議文、中止を求める文章をカトリック中枢組織
> 左翼組織に送付します。
> カトリック内部から、左翼カトリックを
> 崩し、つぶしていくことが必要です。
>
> この件について、カトリック保守の掲示板に
> 靖国会、主権回復の会の方より
> メッセージをいただきました。
>
> 在特会や主権回復の会の厳しく激しい抗議行動には
> 賛否両論もあるとは思います。
> 私自身が、今、行動をともにしたりお手伝いを
> したりはしていないのですが
>
> 子供たちに悪影響を与える従軍慰安婦展を阻止したり、中高生や大学生にも陰謀論からおもしろおかしく興味を
> 抱かせ、やがて左翼思想へと洗脳するリチャード・コシミズ
> に対する抗議など、
>
> そして反天連への抗議など・・・
>
> 過激ではありますが、今まで戦後60年間
> 左翼が過激な行為をし続けて左傾化した世の中を
> 戻すには、これぐらいの激しさもひとつの方法論として
> 必要なのではないかと
> 思い、子供たちへの洗脳を阻止してくれる行動には
> 感謝する気持ちがあります。
>
> また、カトリック左翼を外部から
> 圧力をかけてくれる団体は今のところ
> この在特会、主権回復の会だけですので、
> 感謝しています。
>
心より感謝しています。 有難うございました。




おつるの相方の問題提起

>
> > 10月10日〜12日に開催される正平協全国集会さいたま大会の案内書をWeb上で確認したところ、前回の大阪大会以上に思想的・政治的に偏った内容になっていることに、今更ながらに驚き呆れています。
> >
> > http://web.mac.com/jccjp/justice_and_peace/%E3%81%95%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%BE%E5%A4%A7%E4%BC%9A.html
> >
> > 中でも、2日目の18個に及ぶ分科会・現地学習会は、これがカトリックのキリスト者としての勉強会ですか? と疑問符の付く内容と講師陣の多いこと!
> > 特に、「おいおい、これはいかんやろ」と気になったのが、第4分科会「憲法20条と靖国神社〜解説と現地見学で考える〜」
> >
> > 「戦前、国家神道の中心であった靖国神社は、戦後64年経過する今も、国家護持、首相の公式参拝、遺族を無視した合祀など、問題・議論が続いています。国家神道への反省から確立されている憲法20条(信教の自由と政教分離)が憲法改正、形骸化の中で危機を迎えようとしています。その中心的存在、靖国神社について、研究者のお話を聞き、現地見学しながら考えましょう。」
> >
> > との内容紹介が書いてあり、聖イグナチオ教会で主日のミサ後、午後1時からなんと、辻子実をガイドにして靖国神社と遊就館へ見学だそうです。
> >
> > このような不純かつ失礼な動機の下に、反靖国の急先鋒と言える人物を先頭にして、英霊が安らかに祀られているまさに聖域である空間へぞろぞろと見学に行くなぞ、カトリックの恥さらしではないですか。こんな愚かで失礼なことは断固中止していただきたい。
> >
> > ただ、もしかしたら参加者の中には、すべてを見て体感して、自分たちのやっていることが間違っていると気づいてくれる人がいるかも知れない。靖国神社や遊就館がどんな所なのか何も知らないよりはいいのか?
> >
> > いや。でもやっぱり動機が間違っている! その風景を想像するだけでもおぞましいワイ!
> http://yasukunikai.com/


中止ではありますが聖イグナチオ教会での抗議が
行われるようです。

聖イグナチオ教会よりも

やはりカトリック正義と平和協議会の一番の
中枢は、
大阪 玉造の 松浦吾郎補佐司教

さいたま 谷 大二司教
の お二人です。

この二人に対して 抗議していただきたいものです。

このような情報を見つけました。


速報 都合によりイグナチオ教会での第4分科会、
及び靖国見学ツアーは中止いたします。
http://web.mac.com/jccjp/justice_and_peace/home.html

10.主権回復を目指す会事務局 投稿日:2009/10/07 16:52 >>9
緊急阻止行動について

「正義と平和協議会」は嘘とでっち上げをその布教理念としてきている。

いわばシナ・朝鮮・反日極左と一体となって歴史捏造を煽ってきた確信である。わが国益を如何に害してきたか、その罪は計り知れない。

主権回復を目指す会はこの「中止声明」を問題としないで、当日は告知通りの抗議行動を実施する。
さらに、会場を彼らに提供した「聖イグナチオ教会」のドメニコ・ヴッタリ大司教の責任を追及する。

主権回復を目指す会事務局




この情報に驚きましたが


もし 実際に聖イグナチオ教会で抗議活動が行われるとすれば

松浦補佐司教や 谷 大二司教は

責任をとらねばならないだろう!!!!


靖国神社 焼き討ちから救った ブルーノ・ビッター神父

靖国神社を守ったブルーノ・ビッター神父のお話。

この神父様はマッカーサーが靖国神社を焼き払おうという計画をたてたとき次のように反対されました。

 「自然の法に基づいてかんがえると、いかなる国家も、その国家のために死んだ人々に対して、敬意を払う権利と義務があるといえる。それは戦勝国か敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。無名戦士の墓を想起すれば、以上のことは自然に理解できるはずである。もし、靖国神社を焼き払ったとすれば、その行為は米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残るであろう。歴史はそのような行為を理解しないに違いない。はっきり言って、靖国神社を焼却することは米軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。われわれは、信仰の自由が完全に認められ、神道、仏教、キリスト教、ユダヤ教などいかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものはすべて靖国神社にその霊がまつられるようにすることを進言するものである。」



稲田朋美伝統と創造の会より
http://www.inada-tomomi.com/dento-souzou/d_20060330.html
2009-10-08 01:27 | 記事へ | コメント(6) | トラックバック(2) |
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2009年10月07日(水)
チャンネル桜、高田教授出演 もう一つのNHK大罪・楼蘭遺跡周辺の不都合な真実
シルクロードへのロマンをかきたてるためにNHKが隠蔽し続け る、核実験場のあった楼蘭遺跡周辺の「不都合な真実」について そして、間寛平アースマラソンの危険について
2009-10-07 02:40 | 記事へ | コメント(5) | トラックバック(2) |
| 東トルキスタン ウイグル / 日本シルクロード科学倶楽部 / 中国の核実験 |
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●緊急告知! アースマラソンの間寛平が危ない!  
大阪での青山繁晴講演会の時に、
羽田様より、ご提案をいただいた
「間寛平アースマラソン」について


高田教授が、ご自身のブログにもとりあげられ、
また
本日のチャンネル桜にご出演の際にもこの問題を大きくとりあげられました。


●チャンネル桜 本日ご出演の映像をぜひご覧ください!
http://www.youtube.com/watch?v=XXN_ujBlKtw


羽田様 有難うございます!!


日本シルクロード科学倶楽部としてこの問題を周知させましょう。


羽田様は、青山繁晴さんを通して、
関西テレビにもはたらきかけてはと
ご提案の時におっしゃって下さいましたが、私は青山氏とご挨拶できたものの時間の都合で 詳しくお話はできませんでした。


日本シルクロード科学倶楽部会員の皆様より、各報道機関やテレビ局、
そして吉本興業などへ 
メールやFAXなどではたらきかけては、いかがでしょうか。
どうぞよろしくお願いいたします。

また会員以外の皆さまも この問題について
ご協力をぜひお願いいたします。


**************************************************************


高田教授 日本シルクロード科学倶楽部ブログより


アースマラソンの間寛平が危ない!


     http://www.earth-marathon.com/


   昨日10月3日、未明のコペンハーゲンからアースマラソンに挑戦している間寛平が、生中継でテレビ出演していた。その時見たヨーロッパ後の予定走
行経路地図には、カザフスタンから天山南路あたりが描かれていた。


  現在のその地は、世界で最も危険な核の砂漠地帯である。中共がメガトン級の核爆発を1996年まで繰り返し、多数の人々が虐殺された地である。今も
放射線障害を受けた100万以上のウイグル人たちが苦しみ放置されている地獄地帯である。


  マラソン中の深呼吸で、プルトニウムを含む砂が肺細胞に吸着するため、肺がんリスクが高まるのである。NHKのシルクロード番組に関わったカメラマ
ンが今年、肺がん死したとの情報が寄せられている。



  寛平、シルクロード天山南路周辺を走るな!!!


    アースマラソンに挑戦する寛平を応援している科学者より


     高田純 理学博士 札幌医科大学教授 放射線防護学


 アースマラソンの公式ブログの日記の欄へ、本日、この件をコメントしました。


寛平を応援しているみなさん、是非、彼にこの危険を知らせてください!!!


 関連情報


http://www15.ocn.ne.jp/~jungata/SSP-J5.html


********************************************************************
2009-10-07 02:32 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(1) |
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2009年10月06日(火)
今夜8時〜!! チャンネル桜  NHKが放送しなかった楼蘭遺跡周辺の不都合な真実
チャンネル桜 

 NHKが放送しなかった楼蘭遺跡周辺の不都合な真実

チャンネル桜 今晩 10月6日 放送


放送時間
20:00−21:28




 新刊「核の砂漠とシルクロード観光のリスク」を材料に語ります。

1 日本人観光者の家族から寄せられた情報

2 タリム盆地油田と地下核爆発

3 アースマラソン・間寛平が危ない


チャンネル桜のHPより 

もう一つの「NHKの大罪」Part2

http://www.ch-sakura.jp/programs/program-info.html?id=1520

キャスター:三輪和雄・児玉麻衣比

ゲスト:高田純(札幌医科大学教授

チャンネル桜のHPより

もう一つの「NHKの大罪」Part2

http://www.ch-sakura.jp/programs/program-info.html?id=1520

冒頭、水島社長から、NHKのJAPANデビュー隠蔽工作の事実が語られます。
こちらも、興味深い報告です。
2009-10-06 18:44 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(1) |
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動画 (burenoさん作成) 10月3日中国建国60周年抗議デモin大阪A
D行進 E行進 F行進 G行進 H解散
2009-10-06 02:32 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(1) |
| チベット・ウイグル・サウスモンゴル 三民族 / 日本シルクロード科学倶楽部 / 中国の核実験 |
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動画 (burenoさん作成) 10月3日中国建国60周年抗議デモin大阪@
レポートはまだですが、burenoさんの動画完成です。 10月3日中国建国60周年抗議デモin大阪 @集会 Akinaさん演説 Bおつるとリコリスさんの演説 C出発 Dデモ行進 ニコニコ動画はこちら 10月3日中国建国60周年抗議デモin大阪 http://www.nicovideo.jp/watch/sm8413778 http://www.nicovideo.jp/watch/sm8417821 http://www.nicovideo.jp/watch/sm8418270 http://www.nicovideo.jp/watch/sm8420194 http://www.nicovideo.jp/watch/sm8419293 http://www.nicovideo.jp/watch/sm8420518 http://www.nicovideo.jp/watch/sm8427077 http://www.nicovideo.jp/watch/sm8427204 http://www.nicovideo.jp/watch/sm8427299
2009-10-06 02:21 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(1) |
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2009年10月03日(土)
人権蹂躙国家・中国建国六十周年 抗議デモ
チベットやウイグルや南モンゴルの人々を虐殺し、
資源を奪い、核実験による民族虐殺、女性への強制中絶、レイプ

反日教育をし、日本からのODAで軍備増強する国

大陸間弾道ミサイル、最新兵器の内外へのアピールの軍事パレード



中国建国60周年の軍事パレードを見て、憤りと悔しさで
涙がこぼれました。 体が震えます。 

人権蹂躙国家・中国建国六十周年 

抗議デモ


私たち日本人はこの方々の悲しみ・苦しみを見過ごすのか!!




本日、晴れました!! 神様が応援してくださってます。

10月3日(土)

集合時間:14時30分
集会開始:14時45分
デモ出発:15時15分

集合場所:大阪市西区うつぼ公園(東園、中央)
     地下鉄四ツ橋線 本町駅 28号出口 徒歩5分

http://map.yahoo.co.jp/pl?p=%C2%E7%BA%E5%BB%D4%C0%BE%B6%E8%A4%A6%A4%C4%A4%DC%B8%F8%B1%E0&lat=34.68233389&lon=135.496685&type=&ei=euc-jp&v=2&sc=3&lnm=%BF%D9%B8%F8%B1%E0&idx=21

デモコース:公園を出発→中国領事館を一周→本町通りを東進→御堂筋      を南下→難波付近解散

*3民族旗、日章旗、台湾旗、プラカードの持込大歓迎!
*青天白日滿地紅旗(中華民国旗)は不可。


主催:きなの会  
参加団体:日本シルクロード科学クラブ
連絡先:080-5707-7078(手嶋)
メール:uighur_uighur_tm@yahoo.co.jp



2009-10-03 09:09 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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中国建国60周年抗議 エンパイアステートビルのチベット国旗と  マドンナ
中国建国60周年にあわせてライトアップされたエンパイアステートビルと チベット国旗! 温家宝首相とヒトラーが登場、マドンナのMVが波紋
2009-10-03 09:00 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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10月 和田幹男神父様の言葉 カトリック箕面教会と ペットミサ
日曜日、10月4日(日)は、

アシジの聖フランシスコの祝日です。

 アシジの聖フランシスコと言えば映画
  「プラザーサン シスタームーン」で有名です。
  


今年は、この日が日曜日にあたっていますので、主日のミサが優先します。
箕面教会は、フランシスコ会の神父様によって創立され、育成された信仰共同体ですから、この大聖人のことも記憶したいとおもいます 
エコ・ミサはそのためです。アシジの聖フランシスコは太陽や月を兄弟姉妹と呼んだり、小鳥に説教したりして神様のお造りになった自然をこよなく愛しました。それゆえ、この聖人は、事前環境保全(エコロジー)の聖人とされています。この機会にわたしたち、カトリック者こそ自然を大切にする第一人者であることを自覚したいと思います。
みなさん、どうぞペットを教会につれてきてください。
犬や猫、鳥や虫、なんでも生き物をご持参してください。
また信者さんでなくても、ペットの祝福をお望みの方は、祝福いたします。どうかお誘いになって 来てください。

おつるは、数か月前に生まれたチベタンの赤ちゃん 三匹を
連れていきます。







10月 和田幹男神父様の言葉 


良心の究明のために
知らずに犯した過ち、隠れた罪から、
どうかわたしを清めてください。-詩編19−13- 
主任司祭 和田 幹男
楽園で禁断の木の実を食べたエワは、神様から追及されてこう答えます。「蛇がだましたので、食べてしまいました」(創世記3の15)。新共同訳の原訳者の訳文では、 「蛇がだましたので、食べました」となっていました。これを検討した編集委員会で、国語委員の小川国夫氏から、「食べました」では神様に向かって「まずいことしてしまった」という後悔の心が出ていないと言われました。 開き直りとも聞こえます。そこで「食べてしまいました」と訂正されました。後悔とか悔悛とか、罪を悔やむ心とは、いかなるものか、参考になる話でしょう。 さて、周囲の人に迷惑をかけておきながら、本人はそれに気づかず、涼しい顔をしていることがあります。迷惑をかけられた人は、やきもきして、腹が煮えくりかえることがあります。 迷惑をかけた当の本人は、べつに悪意もなく、むしろ善意なので、反省することもない。 「地獄は善意でいっぱいだ」とは、わたしが大神学院に入学したとき、最初に受けた教訓で、自分の言動を反省するとき、ひとりよがりになってはならないと、頭にたたきつけられました。まだまだ十分たたきつけられてはいませんがね。
ゆるしの秘跡を受けるときだけでなく、毎日、夕の祈りのときなど、良心の糾明を行うことが、信仰生活上大切です。しかし、いかに良心の糾明をすればよいのか、教えられていないかもしれません。 参考までに、わたしは、告白の祈りの中で、「わたしは思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました」と唱えるところから、ヒントを得て反省するようにしています。 まず「思い」で、心の中で傲慢や軽蔑、反感や憎み、あるいは不潔など悪い考えをもったことがなかったか、つぎに「ことば」で、悪口や批判、名誉を傷づけたり、うそをついたりして無責任な発言などなかったかどうか、 「行い」で、昔は兄弟をいじめたり、今ではいじわるやセクハラなど、「怠り」で、親切を怠ったり、発言すべきときに黙ったりなど。たとえ小さな罪でも、神様を悲しませないようにしたいものです。
2009-10-03 00:04 | 記事へ | コメント(4) | トラックバック(0) |
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2009年10月02日(金)
【特別号】 陸軍史あちらこちら−(31) 『進学先としての陸軍士官学校−(下)』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【特別号】 陸軍史あちらこちら−(31)              荒木肇
『進学先としての陸軍士官学校−(下)』━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━




□これまでの陸士研究のまとめ

 廣田照幸(ひろた・てるゆき)氏が『陸軍将校の教育社会史』を出されたのは、1997(平成9)年のことでした。当時、東京大学大学院の助教授であられました。書店の店頭でみて、さっそく購読。その史料分析と論述のすばらしさに圧倒された記憶があります。しかし、いくつか疑問点もありました。

 まず、廣田先生は高校への進学率が高かった都市部の一流校の中学生が、大正時代に「陸士離れ」を起こしたことに着目されたのです。そこから彼らが、陸士や海兵を「二流の進路」とみなすようになったと論じられました。論文の副題は「立身出世と天皇制」です。
「一流という進路」は高校から帝大。そうした了解が世間にあったということを前提に当時の若者の進学動機をまとめておられます。

 へそ曲がりな私は考えました。いま、この現在(20世紀末)でも地域間には、さまざまな格差がある。情報処理能力の偏在、不公平がある。進路選択だって、完全に公平とは言えないだろう。昔は、もっと差があったのではないか。
 大きなまとめとして廣田氏のいうようなことがあったにちがいない。それは間違っていないだろう。でも、地方の一流校の少年、あるいは伝統的に「軍人になることをよいこと」だと考える地域の気風があるところでは、どうだったのだろう。いまもそうであるように、誰もが立身出世、経済的成功ばかりを価値においているのだろうか。

 また、前回、ご紹介した竹内洋先生も高校生のエリート性や都市性を論じておられます。『学歴貴族』といわれる高校生たちと陸士・海兵の生徒たちの違いを論じて、その隔絶していることを主張されました。
 しかし、そう単純に考えていいのだろうか。そんなに陸士・海兵の生徒たちは主流から外れていたのだろうか。
 いずれであれ、なんとか統計数字をつかって考えられないものかと考えていました。


▼陸軍当局者はどう見て、その実態は?

 前の号では、明治30年代に受験時代がやってきたことをお話ししました。当時、軍人の人気は、相対的に低下し始めます。そのことは中学校卒業生が士官候補生に進まなくなることで分かるのです。1899(明治32)年には、全体の12.8%が軍職に進んだのに、1911(明治44)年には4.5%にしぼんでしまいました。しかも、この数字は兵役についた人たちも含んでいるので、ことは難しくなります。前にもお知らせしたとおり、この時代の中学生は、後のように13歳から17歳ではありません。だから、卒業と同時に兵役を果たしに入営するということがあり得ます。

 問題は、その質です。当時の高官たちは、みな、そろって『近頃の士官候補生は質が悪い』とこぼしています。優秀な中学生は、みな高校から帝大をめざしてしまう。そういう風潮なのだと悲しんでいます。じっさい、そうだったのでしょうか。
 1909(明治42)年の第3師団がつくった資料には、『中等以下ノ成績ノ者』が士官候補生を受験するとあります(防衛研究所にある密大日記に記載)。

 ここに、丹念に力仕事をされた若い学者がおられます。武石典史(たけいし・のりふみ)といわれる方です。氏は東京大学大学院博士課程におられたとき、廣田先生の指導をあおがれました。氏はまさに、陸軍士官学校の入学難易度と志向地域性についての研究をされたのです。
 2005(平成17)年12月号『史学雑誌』に掲載された論文をご本人からお送りいただきました。その成果をお借りしてみましょう(なお、廣田先生とも私はご縁があり、拙著をお送りしてご指導もいただいたことがあります)。

 まず、武石氏の調査結果をみます。府立一中(現都立日比谷高校)の卒業生の席次と進路です。すると、1899(明治32)年の卒業生107名中、51名が現役で進学をし、一高へ行った者が34名もいます。陸士への進学者は6名であり、たしかに、その最高席次者は53位であることから、「中以下ノ者」かもしれません。しかし、54位、55位、65位、70位の生徒も一高に入学しています。五高、六高、七高などの合格者は下位の生徒です。これだけをみても、最上位の者は少ないが、地方高校の生徒とは同じであるといえるでしょう。

 府立一中は極端な例かも知れない。そこで、地方の中学生も調べたと武石氏はいわれます。「浜松、新発田、三重二中、粕壁(かすかべ)」の四校を調べても、地方高校(一高以外の高校)進学者と陸士進学者の間に有意な差はないと結果をまとめておられます。金沢一中はどうかというと四高のお膝元であり、広い成績層からの四高進学者が目立つ一方、陸士進学者も上位層、中位層から出ていると指摘されています。

 ここに日露戦後の陸軍上層部の自信喪失をみるのは私だけでしょうか。あるいは、焦りといってよいかも知れません。わが国が国民国家の意識をもてるようになったのは、明治20年代(1890年前後)からといっていいでしょう。国民はようやく、国家の伸張と自分を重ねて意識できるようになりました。そういう気持ちをもつ人が増えてきたということです。それが、日露戦争に勝利したとたん、国家は目標を失って、それぞれが自己実現ばかりを追い始めた。
 その時にあたって、「陸軍とは国民という海に浮かぶ船であり、その船頭こそ陸軍将校である(田中義一)」という理想をもったのが陸軍上層部でした。将校は頭脳の面でも、トップでなくてはならないと考えたわけです。


▼大正時代の陸士志願者中の上位者割合

 陸士の志願者は減る一方でした。世界大戦が始まり、バブルともいうべき現象が経済界に起きたからです。同時に、日露戦争のときに採用しすぎた陸士の卒業生の進級停滞がいわれていました。
 陸軍は少年たちにとって、きらびやかな就職先ではなくなったのです。1916(大正5)年、陸士の志願者は4,328名。1920(大正9)年にはそれが1,428名と減少していました。もっとも、この頃、募集もまた300名をわるような事態ですから、それほど倍率が下がったわけではありません。

 1917(大正6)年度の陸軍将校生徒試験常置委員会の報告が残っています。『中学世界』という受験雑誌です。現役、もしくは1年浪人して高等教育機関へ進学した者の調査でした。中学校卒業時に成績が上位2割にいた者の比率を武石氏が出しています。
 陸士は67%、高校65%、海軍諸学校63%、陸軍経理学校49%、官立実業専門学校45%、医学専門学校29%、商船学校31%、その他公私立学校14%になっています。つまり、学校間格差があったとしても、陸士生徒の3分の2は母校の中学で上位2割に入っていたということです。

 こうしてみると、陸士には優秀な青年が入校していたことが分かります。海軍諸学校というのは海兵、海軍機関学校、海軍経理学校を合わせたものです。だから、海軍兵学校だけをとると、もう少し高かったのではないでしょうか。
 官立実業専門は当時では、京都高等工芸、名古屋、熊本、米沢、桐生の各高等工業、盛岡、鹿児島の両高等農林、上田蚕糸、東京高等蚕糸、京都高等蚕糸でした。いずれも、後の国立大学の各学部になる名門ですが、地味な進学先だったのです。医学専門は1903(明治36)年に官立医専としてスタートした千葉、仙台、岡山、金沢、長崎の5校。京都府立、愛知県立、大阪府立の公立医専がありました。

 こうしてみると、当時の受験生の偏差値ランクは、一高がダントツ。つづいて陸士、海兵、海機、海経と並ぶ。次に官立実業専門。だいぶ下がって医専その他となることが分かります。結局、若者たちは、自分の身の丈に合わせた進学先を選んでいたのでしょう。
 戦後教育は東大を頂点にした富士山型だ、戦前はさまざまな頂点がある八ヶ岳型だというこれまでの解説がウソにみえてきました。戦後の教育は画一的で個性を認めない、戦前は人それぞれにあった学校制度だったといわれてきました。いろいろなエリートがいた、今はみんな同じだというのが、ある時期、もてはやされた制度改革論者のいい方ですが、それは真っ赤なウソだと思います。実は、昔からわが国の受験体制は変わらないのです。


▼大正時代の高等学校間の格差と陸士

 1917(大正6)年から、高等学校入試は共通試験総合選抜方式になります。せっかく学校ごとの単独選抜にしたのに、またまた、学校間の学力格差がいわれたからでした。そして、19年、わずか2年後にまた単独選抜に戻ります。この猫の目のようにクルクル変わる選抜方法の議論は興味深いのですが、教育史に入りすぎるので省きましょう。

 この頃のデータによると、やはり、ダントツに1位が一高です。二番手は一高の最低得点の8割以上が必要とされた他のナンバー・スクール。これに続くのが地方の地名高校です。これもまた武石氏の研究によって、一高入学者の最低点を100点として、各高校の最低点をならべてみました(1922年調査)。
 仙台二高が87.0、官立大阪86.7、京都三高85.6、岡山六高84.1、浦和84.3、松本83.8、金沢四高82.5となり、ナンバー・スクールでは鹿児島の七高が最低で74.3になります。地名高校では佐賀高校の66.4が最低で、他もおおよそ70点代でした。

 陸士がこの中のどれと同じくらいかというと、地名高校とは同じか、それ以上と思われます。確定することの難しさは、陸士進学者はどうしても少ないからです。できる人は学年で1番という人もあり、多少低い人でも上位2割には入るという人がいます。また、当時、陸士と海兵は同時受験が可能でした。
 そして、両方合格する人が多かったのですが、たいていが海兵を選んでしまいました。1917(大正6)年から20年にかけて、陸士と他の学校との重複合格者は437名。うち392名(実に89.7%)が海軍諸学校とのもので、342名が海軍学校を選んでいます。


▼海軍人気への仮説

 よく陸海軍で比べると、海軍に人気があったとされます。実は、私はひそかにこう考えています。海軍と陸軍を比べると、海軍の方が経済的に恵まれやすいのです。
 前にも書いた永田鉄山少将を例にとりましょう。比較するのは山本五十六海軍大将です。この例は、大江志乃夫氏がよくとりあげています。もっとも、氏は両者の部隊勤務経験の差に着目されたものです。陸軍は海軍ほど現場を知らなくても出世できるという例にあげておられます。

 私が興味をもつのは、次のことです。2人の間には、進級速度の違いがあります。
 永田少将は1884(明治17)年1月生まれ。山本大将は同年4月生まれです。学齢が1つ違うのですが、少尉任官は永田少将が1904(明治37)年11月、山本大将は翌05年8月です。したがって、山本大将は負傷した日本海海戦当時、少尉候補生でした。

 さて、2人のことです。永田少尉が中尉になるまで3年。これに対して山本少尉は2年と3ヶ月で中尉に昇任。大尉になったのは、それぞれ少尉任官から8年と4年なのです。なんと、大尉になるまでに海軍は陸軍の半分しか要しない。
 永田大尉が少佐になったのは少尉任官後から14年3ヶ月。山本大尉(だいい)は10年3ヶ月で少佐になりました。そして永田が少佐になった年月で、山本は中佐に昇進。山本中佐が大佐(だいさ)になったのは、少尉任官後18年。永田中佐が大佐になったのは同じく22年3ヶ月後でした。

 このことは、あまり言われていませんが、結局、組織の違いというべきです。
 歩兵を例にすれば、聯隊には大佐1、中佐1(聯隊付、後備歩兵聯隊長要員),少佐が3(大隊長)、大尉14(小銃中隊長+MG中隊長+聯隊副官)、中・少尉52(准士官含む)となります。完全なピラミッドになっています。
これに対して軍艦をみてみましょう。艦長と先任将校各1、機関長、主計長などの各科長にそれぞれ1名の附(ヅキ)もしくは「士(たとえば機関長に機関士)」、分隊長にも分隊士というように、ほぼ同数の配置になっています。
 あまり厳密な比較とはいえませんが、概念的には、陸軍は「人中心」、海軍は「機械中心」であり、陸軍の方が将校を多く必要とするのです。

 しかも、海軍は平時から訓練などで海外へ出たり、洋上勤務が多かったりする。そうであれば手当が違ってきます。海軍士官の思い出話の中で、陸上の学校に入校すると貧乏するといったことがありました。艦船への乗組手当だけでもけっこうあったし、航海すれば日額手当がさらに出る。士官学生として学校に入ると、とたんにカネがなくなったというのです。

 また、海軍の3校では、健康で事故を起こさなければ、まずまず大佐(だいさ)にはするといった方針があったといいます。日露戦争に参加して「此一戦(このいっせん)」で大ベストセラー作家になった水野広徳氏。度重なるワガママと、勝手な言動、最後には軍備縮小論者になりましたが、その水野氏も満43歳で大佐になれました。陸軍だったなら、少佐くらいで予備役編入になったかも知れません。

 こうした違いを、当時の受験少年たちは知っていたのではないでしょうか。もちろん、紺の制服と腰の短剣、帝国海軍の勇姿、遠洋航海での外国訪問などなどが魅力であったこともありましょう。しかし、安定した収入、しゃれた生活、将来性を考えたとき、野暮な陸軍と比べたら……。皆さんいかがでしょうか。


▼志望者たちの故郷

 さて、現在の防衛大学校でも入校者は「西高東低」と思えます。旧軍以来、九州と中国地方は陸軍将校を多く輩出しています。福岡藩の藩校を起源にもつ「済々黌(せいせいこう)」や同じく熊本の「修猷館(しゅうゆうかん)」、鹿児島の元県立一中などは、いまだに防衛大への入校者は多いようです。

 昔のデータを見ても、1917(大正6)年の例では、幼年学校、士官候補生の両者を合わせて、山口県47名、東京府37名、鹿児島36名、熊本31名、福岡26名、愛知19名、佐賀、岡山18名ずつとなっています。東京府が多いのは軍人の子弟のせいです(幼年学校卒業者が27名もいます)。本籍地を移した人が多かったのでしょう。
 また、余談ですが、「士族」の数の減少をいう人もいますが、当時、分家をすれば華族も士族も平民になりました。大正時代、3代目軍人になると、初代から分家をして士族から平民になった人が増えたことがあります。
当時、人口が多かった大阪府や、神戸市のある兵庫県からは志願者は少なかったようです。どこか地域の気分が分かる話です。

 さて、陸軍省統計年報をくってみると、採用者の本籍地がかんたんに分かります。1920(大正9)年から24(大正13)年までの数字をあげてみましょう。
 北海道・東北地方6.9%、関東9.5%、東京4.2%、中部21.1%、近畿7.8%、中国・四国24.8%、九州25.7%となります。合計人数は639名です。志願者は9,130名。平均倍率は14.3倍というところです。
 また、1919(大正8)年には、教育総監部は『志願者が著しく減少した』と、6府県をあげています。和歌山、滋賀、長崎、秋田、京都、岡山がそれです。また、『人口に比し志願者の著しく少なき府県』は、沖縄、北海道、滋賀、京都、秋田、岩手、神奈川、大阪となっています(武石氏論文)。

 ただ、当時は中学校の卒業生数に偏りがあります。たとえば、北海道と東北六県の2,276名に対して、東京府は3,462名であり、関東は2,838名、中部4,014名、近畿3,685名、中国・四国3,677名、九州4,023名と、大きな格差がありました。
 これをうまく解決できないかなと考えていたら、武石氏は「輩出度(はいしゅつど)」というアイデアを出されたのです。


▼輩出度をはかってみたら

 志願者輩出度=中学校所在地別の陸士志願者数÷該当地方の中学校卒業者数×100。という計算法です。そして、全国の中学校卒業者100人あたりの輩出率を100として、それぞれの地方の輩出率の数値を修正する。それが輩出度指数になる。指数が100をこえると、その地方が全国平均を上回るわけで、志願熱意が高い地方ということになる。

 そうして出た数字が次の通りです。大正10年から12年の数字になります。
 北海道・東北は85.9、東京70.9、関東77.5、中部87.7、近畿56.2、中国・四国143.1、九州155.2。これが志願者輩出度数です。
 採用者輩出度数を出すとおもしろいことが分かります。これは合格者の比較です。それは中部地方の数字です。志願者の指数は87.7であるのに、合格者は131.0という数字が出ています。進路指導が良いのか、学力が高いのか。他の地方は一様に志願の数字は合格者より高いのに、中部だけは逆になっているのです。熱意は全国的に見れば低いのに、合格実績はたいへん高い。つまり、必ず入りたいという生徒が多かったのでしょうか。

 海兵との比較もおもしろいものです。1924(大正13)年の数字ですが、採用者で最も高いのは中国・四国です(147.0)。低いのは中部の55.6。これは北海道・東北の64.9より低くかったのでした。九州は136.7で、これも高い。高校はどうかというと、東京と近畿の指数がたいへん高い。

 さまざまな数字を駆使してみると、東京と大阪、兵庫などは一貫して高校志向が強くなっていくことが分かります。海兵は近畿や東京という都市部ではなかなかの指数が出ます。
 陸士では50前後の指数だった近畿、東京が、海兵ではそれぞれ70代、100代を出していることです。大東亜戦争のときの中佐クラスでは、陸軍より海軍の方が都会出身の現役将校の割合が多かったといえるかもしれません。


▼まとめとして

 陸軍将校の地位は決して低いものではありませんでした。しかし、同時に、報われない職業でもあったのです。とりわけ社会的威信から見れば、多くの国民は官僚や、大企業の幹部、銀行の役員などの方が上位にあると考えていたのでしょう。明治20年代に、近代国家の枠組みがほぼできあがり、世間も資本主義、経済優先になりました。

 日清・日露の両戦役がおわって、政党政治の力は増し、同時に強固な官僚組織ができあがっていきました。そんな時代でも、一部の青年たちは、陸海軍の将校をめざしたのです。大東亜戦後になって、戦前の歴史が否定されようになって、彼らを「滅私奉公」の存在だったように否定する見方が主流になりました。しかし、彼らの選択や、生き方をみれば、今の私たちと少しも変わらない「活私奉公」の考え方がよく分かります。人は、若者は、いつも夢や希望をもち、未来に失望せず、与えられた環境の中で懸命に生きるのです。

 中国や四国地方、九州に今なお残る「尚武の気風」は、そのおかれた歴史的、地勢的条件が関係しているのではないでしょうか。異民族の攻撃にいつもさらされてきた九州や中国地方。反対に外敵に襲われることも少なかった関東や近畿。外国と海を隔てて接する中部地方の石川県や福井、富山、新潟の人々。軍事に対しての熱意は温度差が出てくるものなのでしょう。






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◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。


◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
2009-10-02 23:52 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
| 荒木 肇 先生 / 自衛隊 / 戦争 |
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日本ウイグル協会 イリハムさん 大阪 三民族デモへの メッセージ




皆さん、こんにちは。


皆さん東京、大阪三民族同時デモに参加いただき有難う御座います。
今日私たち三民族の人々と応援者の皆さんが中共の圧制に抗議する
声を上げ、悪魔の中共政権を歴史の舞台から退場させるために集まれ
ました。
60年前から中共侵略者らがウイグル、チベット、南モンゴルを植民地として
支配され、我々の独自の言語、文化、歴史を否定して、自分たちの
都合に合わせって嘘の歴史教育をさせ、言語教育、宗教活動を制限されて
います、我々はまさに民族としての生命が絶たれようとしています。
この60年間3民族あわせって500万以上の罪も無い人々の命がが色んな残酷な
手段で奪われました、そりによって中共が我々を完全に収めることができる
と思ってた、でも彼らが間違っています、私たち三民族は悪の暴力に頭を
下げる歴史は持っていません、またいま私たちの応援者、支援者は全世界に
広めっています、こういう状況で私たちは必ず民族の自由、平和を勝ち戻します、
どうか皆さんこれからも相変わらず我々の運動をご応援宜しくお願いを申し上げます、有難う御座いました。

日本ウイグル協会会長 イリハム マハムティ
 
2009-10-02 23:00 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| チベット・ウイグル・サウスモンゴル 三民族 / 日本シルクロード科学倶楽部 / 中国の核実験 |
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2009年10月01日(木)
●チベット ペマ・ギャルボ先生 護王神社 天皇陛下御即位二十年記念特別講演会
日曜日、午前中にカトリック箕面教会で、オルガン担当。
オルガンで祈り捧げたあと、京都へ。


ペマ・ギャルボ先生の講演会に行ってきました。



前日のデモと今朝は早起きで、教会でのオルガン
京都行きの電車で爆睡してしまいました。
しかし、京都でしゃきっと目覚めて いざ護王神社の横にある
ホテルガーデンパレスへ・・・

到着すると、巫女さんや神社関係の若い男性が受付に。
神道関係の方の若い方々の礼儀正しさはやはり、素晴らしい。
これは、カトリックが見習うべきところだと思います。

会場に入るとすぐ、日本シルクロード科学倶楽部 京都の
リカさんがいらっしゃいました。

リカさんとは、青山講演会もデモも、最近いつもご一緒させて
いただいていますが、華奢で清楚な美しくいつも笑顔。大好きです。

同じく日本シルクロード科学倶楽部のリコリスさんに
席の確保をお願いしていたので隣へ

前から二番目のいい席でした。

隣にデモで大活躍のたなべさんも来られました。

そして・・・またまたレオご夫妻を発見。

レオさんご夫妻は、いつもご紹介した講演会に真っ先に来てくださいます。 感謝

後ろを振り返ると、本日の講演会をご紹介下さった
ハチドリの一滴こと、橘様。

リコリスさんの隣には、偶然、いつもデモでお見かけする
美しい女性とご主人が!!  

志を同じくする方々とこうして、同じ講演会でご一緒するのは
とてもうれしいことです。

講演会の内容は、メモをとって聞きましたが、
日本シルクロード科学倶楽部のリカさんが、

詳細で素晴らしい記録をレポートされていましたので
最後に転載させていただきます。


日本は占領憲法から脱出すべきであるとお話される憲法学者の小森義峯様の閉会のご挨拶に耳を傾けるペマ・ギャルボ先生 

講演会が終わってから、橘様に本日のお礼を述べたあと、

ブログにコメントを下さっていた もりやんさん、
そして浄土真宗僧侶のベルカンプくんと 
そこへ、NHK京都デモでご一緒した、原田さんも合流

みんなで、ロビーでお茶をしました。

レオ様ご夫妻やリカさんが、ベルカンプくんのあまりに純粋で
強烈な印象とえんえんと続くお話に笑顔で・・・

話は、チベットの事、明智光秀と織田信長のこと、
宗教の左翼化の事、民主党の事、ありとあらゆる話題で、
話はつきません

そして、帰宅間際、京都のみなさんをお見送りして
大阪、兵庫組は、たなべさんの車で送っていただくことに・・・
駐車場へ行こうとすると、ベルカンプくんが
ペマ・ギャルボさんにどうしてもお会いしたいと。

もうとっくにお帰りになられていると思いましたが
優しいタナベさんが、ベルカンプくんのために、フロントに
聞いてくださいました。

そしたら、まだレストランの個室にいらっしゃるということ、
私もお名刺をことづけて、

「以前、東京のシンポジウムでご一緒し、ご挨拶させて頂きまして
本日もしご挨拶できれば、お願いいたします。
失礼ながらお約束もしておりませんので、ご無理ならば結構です」

とお話しました。
そうしましたら、護王神社の方が、メールで拝見しておりましたと
おことづけ下さいました。
メールで事前に、私の自己紹介をさせて頂いていたのです。

ダメかな・・・と待つこと数分。

なんと、ペマ・ギャルボ様がわざわざ、ロビーに来て下さいました。


私は、日本シルクロード科学倶楽部の事、高田教授の事、
中国の核実験のシンポジウムの事、
そしてペマ・ギャルボ先生が参加された東京の三民族連帯デモに
大阪も同時開催で、デモを前日にした事などを話しました。
笑顔でお話を聞いて下さいました。
 
チベット亡命政府議員 ケドゥープ トゥントップ閣下から
メッセージを頂いて感激した事、そのお礼をお伝えしてほしいと
お願いしました。

レオさんご夫妻も、もりやんさんもご挨拶。
たなべさんは、チベット語で、ご挨拶。
以前、チベットを旅した事などをお話されました。

ベルカンプくんは、一生懸命 思いを伝えました。

そしてみんなで記念撮影にも笑顔で応じてくださいました。

感激です。
ベルカンプくんの純粋な思いとたなべさんのおかげで
ペマ・ギャルボ先生とお話できた事に感謝。

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リカさんの日記より

桐蔭横浜大学大学院法学部教授
チベット文化研究所名誉所長
ペマ・ギャルポさんの講演会に行ってきました。

護王神社 天皇陛下御即位二十年
記念特別講演会「心の中心、国の中心」
〜現代国際社会とおかげさまイズム〜



ペマ・ギャルポさんは
私ひとりの人間が考えていること、感じていることを率直に
お話したいと思います
と、前置きされたうえで

44年間、日本に生活させていただきまして
正直申し上げて、日本に来た最初の10年〜20年間は快適に過ごしておりました。
そして、日本はこれからも益々繁栄していき
世界に大きな影響をもつ国になると信じておりました。
しかし最近10年位は、それとは反対に
果たしてこの国が、このまま継続することができるのか
あるいは衰退の道を歩んでいくのか・・・
余計な心配かもしれませんが心配している要素もあります。
今日はまず最初に日本が置かれている状況について
専門分野でもあり、国際政治の話をして
それから、今日のテーマである「おかげさまイズム」は
それに対し、どうしたら良いかというような事の
ひとつの対応策としてお話したいと思います。

ぺマ・ギャルポさんの丁寧な美しい日本語を
省略してしまうのは、大変申し訳ないんですが・・・
以下要約させて頂きます

新しい政権になり
東アジア共同体という構想が
今出ているようですが
私個人としては、これは日本にとって
極めて危険だと思っている。
なぜならば、過去の歴史などにおいて
南アジアの場合
中国華僑中心の経済で
その中に日本だけが入るということは
日本にとっては、決して良いことではないと
思っている。

国際社会において
少なくとも日本は孤立状態になっている。
これから、更に今後もし日本の経済が衰退すると
同時に、国際社会に対する影響力も当然弱っていく。

しかし全く打つ手がないわけではない。

国内においても足腰が弱くなってきているのではないかと感じる。
44年前日本に来た時
兄から託された激励の言葉の中味は
「何が国を大きくするか」
かつての英国・ポルトガル・スペイン・日本など
小さい国でも、その国民が一丸となって
大きな目標をもっていれば、世界の大国になれる。
そして素晴らしい日本へ行くんだから
日本の素晴らしいもの・精神をもらって帰ってきて欲しいというもの。

実際に日本に来て、それを非常に感じた。
少なくとも今から40年前の日本は、
戦争に負けて、廃墟となったところから
わずか25年間で国を復興させ
世界の模範の国となった。
それは決して経済的な成長だけではなく
何よりも、世界一安全な国で
世界一安心して暮らせる国だった。

留学生で13歳の頃は、公衆電話はピカピカ光っていて
学校に通う駅のベンチは誰一人落書をする人がいなかった。
町の外套は夜になるといつまでも輝いていた。
そんな環境で過ごしていた。

埼玉の田舎で3人で合宿していた3年間は
先生でもまだ
兼業農家の方が多かった時代だった。
自転車に乗ってるお母さんたちに
すれ違う時には、帽子をとって挨拶すると
お母さんたちも、自転車を一回止めて
頭にまいているタオルとって
挨拶してくださった。
心のゆとりがあり、そういうものが今は懐かしく思う。

学校を休むと
必ず仲間が帰りに寄ってくれて
「今日は、ここからここまで勉強しました」
読めない漢字には、仮名をうってくれたり
友達のお母さんたちは甘酒をもってきて
町中村中が私たちを、自分たちのお客さんのように
あるいは家族のように
接してくださった。
洗濯機もなかった時代
でも、お互いに名前を知っていたし挨拶もしていたし
家に鍵をかける事がなかった
そういう時代を過してきてた。

1970年万博になり
世界中や日本の中でも
日本について研究が盛んになった。

しかし、ジャパンアズナンバーワンの本が出たあたりから
日本が軍事的に為し得なかったことを
経済的に文化的にやるんじゃないかという警戒心があったと思う。
日本を褒めている本ではなくアメリカへの警告本だった。

世界の注目があつまって
日本は少し傲慢になった気がする。
そしてそのままバブル経済に繋がっていった。
実態と幻想が伴わない
あくまでもこの現象がが続いてくという幻想を抱いてしまった。
それと同時に
戦後の日本の教育
特に核家族制度・平等の概念など
そういうことによって
それまであった縦糸がゆるくなってきた。
(すべての編み物は縦糸と横糸がある)
縦糸はあまり見えないが 例えれば、伝統・文化・歴史・言葉であり
横糸はその時代によって、多少色々流行が違ったりして
模様が変わってくる。
同時に横糸は家族・社会・風潮によってかわってくる

だんだんと
編み物の模様が見えなくなってきた。


以上前半のお話でした。
この続きと感想は後日。


頂いたパンフレットから引用

チベット問題に関心のある方は
「チベット自由人権日本100人委員会」までお問い合わせいただければ幸いです。
同委員会は、ダライ・ラマ法王のご指導の下、チベット人の
総意に基づく民族自決権を回復し、尊厳と誇りをもって
国際社会に貢献できるように支援しております。みなさまのお力添えを
よろしくお願い申し上げます。

http://tibet100.jp/



************************************************************



最後に、この講演会の事を教えて下さった橘様に
ハチドリの一滴のお話を聞いて感動しましたので、ここに
感謝をこめて記したいと思います。

ハチドリの一滴(ひとしずく)

「ハチドリのひとしずく〜いま、私にできること〜」という話を知っていますか?

南米のアンデス地方に伝わる話

それはこんな話です。


森が燃えていました
森の生きものたちは われ先にと 逃げて いきました
でもクリキンディという名の
ハチドリだけは いったりきたり
口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます
動物たちがそれを見て
「そんなことをして いったい何になるんだ」
といって笑います
クリキンディはこう答えました
「私は、私にできることをしているだけ」 
出典・「ハチドリのひとしずく」 光文社刊



今日も神様が巡り合わせて下さった素晴らしい人々との出会いに
心から感謝
ごミサへのオルガンのご奉仕への神様のプレゼントね
2009-10-01 03:06 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(3) |
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★ダライラマ法王の甥 チベット亡命政府議員ケドゥープトゥントップ閣下のメッセージ
チベット臨時政府議会議員でダライ・ラマ法王の甥であられる

ケドゥープ・トゥンドゥップ氏 から
 

 いま中国共産党は建国六十周年を祝おうとしています。

しかしチベット・ウイグル、そして南モンゴルは強制的に侵略され併合されたものです。
 過去六十年の間に、我々主要な少数民族は尊厳を剥奪され、人間としての誇りを蹂躙され続けてきました。

今こそ我々は共に連帯して将来、共産主義国家・中国と決別すべきときです。

今後変化の時が来ます。

中国共産党政権が永遠に続く事は有り得ません。
中国共産党が終わりを告げるときです。 

中国共産党は人民の心を掌握出来なくなっています。中国共産党は権力保持に執着するだけで、その権力は腐敗しています。

 我々チベット人は、南モンゴルとウイグルの仲間達が自由になれる権利、そして自らの将来を自分達で決定する権利を持つ事をこれからも訴えていきます。もちろんその道のりは困難であり、私達には忍耐と非暴力が求められます。私達は共に道徳的に高い位置に立ち連帯しなければならないのです。

 皆様にどうぞ宜しくお伝え下さい。

 ケドゥープ・トゥンドゥップ




Dear Mrs.Nakaso

Thank you for writing to me. Please read my statement.

Communist China is going to celebrate sixty years since its founding. Tibet, Sinkiang and Inner Mongolia have been forcibly invaded and taken over. For the last sixty years we the major minorities have lost our human dignity. Our human values do not exist. It is time for us to unite and given any opportunity in the future to split from Communist China. The time will come, change is in the future, the communist party cannot last forever, this is the beginning of the end. The communist party in China is losing its grip on the minds of its people. It is only thinking of its power and its power is eroding.

So I appeal to my Mongolian and Uighur brothers we Tibetans support your rights to be free and to be able to determine your own future. Yes the road is rough but patience and non violence is the answer for all of us. we stand the moral high ground together.


regards,



khedroob Thondup

2009-10-01 02:56 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(1) |
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★モンゴル中連盟党幹事長 オルホノド・ダイチンさんメッセージ 大阪デモにて



60年間も続けた中国共産党政府の圧迫に抗議するチベット、モンゴル、ウイグル三民族の大阪での集会&デモ行進に参加される皆様
こんにちは。
去年の3月14日、チベットの平和的な集会・デモ隊を武装警察が撃ち殺し、何百人の死者も出た。そして、今年の7月5日、ウルムチ市でのウイグル人達の平和的なデモ隊をまたも武装警察が撃ち殺し、もっと多くの死者が出た。こんな自分の国民を残酷に殺す政府が、この世の中で、中国以外にまだあるか。
南モンゴルについて皆様よくご存知ないかもしれない。過去何が起こって、現在何が起こっていると思いますか。「文化大革命」のとき、当時の南モンゴル人が13,14人の中で一人が殺された。日本人口の比率で言うと、1千万人が殺されたということになります。皆さん考えてみてください、その残酷さを。
現在、南モンゴルで毎年、春になると黄砂が起こるようになりました。それが日本まで飛んできている。これを日本人もよくご存知でしょうが、あの黄砂に有害物ついていることを日本人はそんなに知らないでしょう。それが、中国共産党政府が中国の南のほうの有害工場を南モンゴルに移動したからです。それでその被害は日本まで飛んできてます。だから、日本人も南モンゴル人と同じく中国共産党の被害者であります。
中国の憲法に認めている民族の自治権を求めたハダー氏15年監禁も宣告され、いまだに刑務所に受刑している。南モンゴルのモンゴル伝統医者であるナゴンビリゲー氏のところにモンゴル人患者が多く集めるため、「邪教者と非合ビジネス」の罪で10年監禁、妻のダゴーラー氏が5年の自宅監禁を宣告された。また、今年の5月1日に、南モンゴルの中心地のフフホト市でモンゴル文化について会議しようとしたら、逮捕して、1年自宅監禁した。要するに、中国共産党政府は、我々南モンゴル人の基本的な人権と自由まで略奪したのです。
現在、南モンゴルで、共産党政府の「放牧禁止」、「生態移民」等の政策の下でモンゴル人たちが自分達の何千年もの暮らししてきた故郷から、漢人でいっぱい町や農業やっている農村へ強制的に移動されている。自分達の伝統経済から強制的に隔離され、自分達のモンゴル文化から隔離され、民族教育から隔離されている。これは中国共産党が過去60年間行ってきた、南モンゴルに対する残虐な浄化政策の続きである。
中国共産党政府は、我々南モンゴル、そして、私達と同じ運命であるチベット、ウイグルに対して、またもあの「文化大革命」が行い続けています。中国共産党政府の植民地支配下の南モンゴル、チベット、ウイグルのこの60年間は本当に悲惨な60年間で、血だらけの60年間である。これを見て我々、南モンゴル人、チベット人、ウイグル人は、黙っていられるのか。これを見ている良心のある、正義心のある日本人の皆様が黙っていられるのか。
日本は単なる経済大国だけでなく、アジアにおいて模範的な民主国家でもある。そのため、アジア民主化において、欧米より積極的な役割を果たすべきであると期待している。自由、民主を愛し、人権、平等を尊重する日本人の皆様にも中国共産党政府圧迫を受け続けている南モンゴル人、チベット人、ウイグル人の自分達の自由、人権を取り戻すための運動への支持、支援を期待してます。アジアの各民族の自由、人権、平等があってからこそこの「アジアの共同体」と言う構想がありえる。
どうもありがとうございます。

モンゴル中連盟党幹事長 オルホノド・ダイチン
2009年9月26日


ダイチンさんから、お送りいただいた
南モンゴル人の牧民達の政府の前に座り込んで、
「牧場を返せ」と講義している写真






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★高田教授のメッセージ 9/26大阪デモ


中華人民共和国建国60周年に抗議する三民族連帯集会&デモ
2009年9月26日
3民族連帯シンポジウムへのメッセージ


科学を力とする

高田純 理学博士
札幌医科大学物理学教授 日本シルクロード科学倶楽部会長

中華人民共和国建国60周年に抗議するチベット、南モンゴルそしてウイグルの三民族連帯集会デモに集まられたみなさん、こんにちは、高田純です。在日の3民族のみなさんと、これら3民族を支援する心ある日本人のみなさんが、本日、中之島公園に集まられたことは、大きな意義があると思います。日本とシルクロードでつながるアジアのこれら3民族の大いなる危機を、私たち日本人は見過ごすわけにはいきません。 台湾も含めて、これらの危機は、わが国日本の危機でもあります。
昨年10月、拓殖大学で開催された最初の三民族連帯シンポジウムへ、私は、ワシントンDCから、世界ウイグル会議総裁のラビア・カーデルさんとの会談、ブエノス・アイレスでの4年に一度の国際放射線防護学会で中国の核実験による大災害についての世界で最初の報告も含めた声明文を送りました。
その後、ウイグル支援の白石念舟先生ら多くの日本人支援者と連携しました。 シルクロードでの核の蛮行を初めとする中国共産党、すなわち中共の人権人命を無視した悪魔の行いを告発する運動を、憲政記念館での3.18シンポジウムを皮切りに展開しました。この時に、シルクロードの悲劇の解消を願うシルクロード科学プロジェクトとそれを支える日本シルクロード科学倶楽部が発足し、今、全国から参加いただいています。先輩たちが大切にしてきた大和魂は、まだまだ健在でした。ありがとうございます。
世界最初の科学報告書となった原著日本語の「中国の核実験」は、英語とウイグル語に翻訳され本年3月に刊行され、日本から世界へ情報が発信されました。直ぐに、イギリスとアメリカの有名誌が、この科学研究成果を報じ、世界が知ることになったのです。こうした図書は平和的武器です。私たちは、真理である科学事実を武器に、悪魔の勢力と戦います。私たちに暴力はいらない、国内国際の世論を喚起し、平和的に、中共の暴力を封じ込めます。みなさん、そう思いませんか!
2
時を同じくし、中共の影響を強く受けたNHKの台湾偏向番組である「Japan デビュー」放送事件が勃発しました。NHKへの抗議運動が立ち上がり、日本シルクロード科学倶楽部も合流し、全国的な国民運動に発展しました。中共寄りで反国民的なNHKの源流を、私は最初のシルクロード番組となった1980年の楼蘭遺跡の取材に発見しました。この地こそ、中共が、ウイグル・チベットなどのシルクロード民族を虐殺した核実験場だったのでした。
NHKはその核実験場のことを知りつつ、偽装したロマン番組の放送を続けたのでした。その結果、27万の日本人が核爆発の継続していた平成8年1996年まで、その危険地帯を観光してしまったのです。これがNHKの大罪です。NHKは、中共の核の蛮行を隠蔽するばかりか、日本人を危険な核の地獄に誘導してきたのです。反国民的NHKは日本の毒であり、こうした公共放送は無用です。
シルクロード科学プロジェクトでは、日本人のシルクロード核被災の調査を続けており、白血病、肺がん、悪性リンパ種の情報が寄せられています。日本人調査の展開は重要です。みなさん是非協力してください。これが1億2千万の日本人が、シルクロードの悲劇を知り、そして、世界中が知ることにつながるのです。これが日本の役割です。平成の時代に、大和魂が、新たな形で世界を駆け抜けるのです。
今月、この調査研究の成果が、「中国の核実験」の続編として、医療科学社から「核の砂漠とシルクロード観光のリスク NHKが放送しなかった楼蘭遺跡周辺の不都合な真実」が刊行されます。本日は、日本シルクロード科学倶楽部が、この会場で、新刊を先行して発売しています。これもお読みください。
みなさん、シルクロードの科学調査の協力、よろしくお願いいたします。
科学を私たちの力としましょう!
シルクロード三民族の悲劇解消のために力を合わせましょう!
ご静聴、ありがとうございました。


高田純
平成21年9月26日

2009-10-01 02:38 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2009年09月30日(水)
★デモ レポート 9/26 大阪 三民族 中国建国60周年抗議
9/26の「大阪 三民族 中国建国60周年抗議」について、
レポートです。

中之島公園に集合、お手伝いのために早めに到着。
でも、いつもkinaさんやリコリスさん、タナベさんが
早くからきてご準備して下さっていて、

水辺の公園に降りる階段の上、一般の方がたくさん通る道路際にも
ウイグルやチベット、南モンゴルの旗やプラカードを
並べてアピールされていました。

現在、中之島公園
メイン会場はやや東寄りの薔薇園のほうなどで
大阪の一大イベント「水都大阪2009」が日々、開催されています。

中之島のまわりを通る人もいつもより多く感じられました。

9月末なので、季節早どりで、袷の着物を着るつもりが
とてつもなく暑いので、9月の単衣の着物にしました。

大圓さんが、到着して、今日は青い風船を用意してくださり
トラの着ぐるみだけでなく、猫ちゃんのきぐるみを用意して
下さっていて、いつも感謝です。
風船は毎回、毎回 大圓さんの差し入れです。

心から感謝

トラは暑いだろうなー。着物のおつるも暑いです。
いつも我慢大会みたい。
猫ちゃん かぶって汗まみれになった方ありがと
ございます。

受付のところには、「英雄たちの涙」をはじめ
高田教授の「中国の核実験」そして 新刊を販売しましたが、
とてもたくさんの方に購入していただきました。
また、ご寄付を下さる方も多く、ありがとうございました。

いつもデモで顔なじみのメンバーさん、はじめて参加した、
仕事をぬけてきたよとおっしゃる会社の重役さんのような方、
NHKデモの時から 何度も来てくださる方々・・・

日本シルクロード科学倶楽部の会員のご夫妻やリカさん
そして感激したのが

体調の優れないのに参加してくださったtontonさん

今日は、東京と同時開催で、東京の三民族デモには
信友のカトリック保守クリスチャンの頬白親父さん
カトリック東京代表と 私とtontonさんという
カトリック大阪、神戸代表が 遠い空の下、同じ時に
祈りの声をあげるのです。 すばらしいことです

新しく倶楽部に参加された物理学関係の若い方は
フリーチベットの時もお会いした方です。

それと、フリーチベット関西から来てくださった
フリーチベットの中心的存在の風さんや ぜんさん。 
めちゃくちゃ嬉しかったです。

それと、デモは用事で参加できないけど・・・と
ご挨拶して、重たい荷物を運ぶのを手伝ってくださった
素敵な女性、まりりんさん ありがとうございました。

紫の上下の在特会の関西支部長、川東さんは、はじめてご挨拶
させていただきましたが、足の捻挫で足まで紫色なのに
最後まで歩いてくださいました。


*************************************************************

集会では、

まず最初に主催者、kinaさんのご挨拶。
kinaさんは、回を重ねるごとにご挨拶がすばらしくなる。
心からの思いと行動力を伴う声に、感動します。

そして、私の紹介をしていただき、
今回、参加団体となった日本シルクロード科学クラブ会長の
札幌医科大学教授 高田純博士のメッセージを心をこめて
読み上げました。

高田先生のメッセージは、高田先生の強い意志と心を感じました。

そして次に ダライラマ法王の甥であられる 
チベット亡命政府議員 ケドゥープ トゥントップさまに
いただいたメッセージも読み上げました。



ケドゥープさまは、3月に東京のシンポジウムに参加して下さり
ぺマ・ギャルボさんとともに
ウイグルのイリハムさん、アニワル医師と、歴史的な連帯を約束した方です。 今回のデモにも心強いメッセージをくださいました。

中国の建国60周年は、中国共産党の終わりを告げる日なのだと

読み上げながらふと、視線を感じて、公園の入り口の階段を
見上げると、びっくりしました。
デモの参加者ではない外国人の方々や、水都大阪にこられた通りすがりの方々が、ずらりと並んで、話を聞いたり写真を撮ったりして
いてくれたのです。

私の読み上げた言葉が 少しでも聞いてくださった人の胸に
残ればいいなと思います。


*************************************************************

続いて、リコリスさんが、ウイグルのイリハム・マハムティさん
のメッセージ、
 



南モンゴルのダイチンさんのメッセージを
読み上げてくださいました。



私は、カトリック教会で、オルガンを弾きながら祈るとき、
チベット・ウイグル・南モンゴル・のことを祈る時

いつもこのかたがたの悲しそうな顔が胸に浮かぶのです。
涙が出ます。

自分がもし、愛す祖国日本で、自分の愛する宗教や文化や言葉
服装を禁止され、声をあげることで、亡命せざるをえなくなったら
・・・自分の国を心から愛するのに、愛する国に住むことが
できなくなった方々です。 どんなにおつらいことか。

いったい誰が、そんなひどい事をするのか

中国共産党は 悪魔。 崩壊しろ!!

日本人として、日本を愛してくださるこの方たちのために
少しでも、声をあげていきたいのです。

リコリスさんの声も思いがこもっていました。

準備やあとかたずけがたいへんで、
おつるは、あ、忘れものーとか思い直して、くるくるまわったり
着物ではしたなく、走ってる姿が動画にうつっていて笑いました。

集会が終わり、三列を作って 出発地点に並びました。

**************************************************************

出発前に けたたましく消防車やパトカーのサイレンが鳴っていて
驚いていると、先頭のおまわりさんが、
「車両火災事故ですので、気にせず、すすんでください」
との指示。

そして、人通りや車の通行量の多い、御堂筋スタートです。

先頭の着物のおつるが振り返ると
トラさんと猫さんがとてもかわいい。
青い風船とチベット・ウイグル・南モンゴル・台湾旗・日章旗が
ものすごく美しい。

まるでパレードのようです。

でももちろん 楽しいパレードではありません。

休日の御堂筋を通る人々、車、ビルの人々 数万人に
訴えることができるのです。
中国の侵略と暴挙と三民族の悲しみを強く訴えます。

歩いている途中、汗が噴き出します。

この日は、家族連れが多く、
トラさんとネコさんと 風船の効果でしょう

子供たちの注目のまとでした。

わたしが手をふると 
子供たちはどの子も笑顔で手をふってくれました。

子供の心に届けたいのです。
たとえ、デモの意味がわからなくても、
私たちの心が子供たちに伝わるとうれしいです。
親に「あれはなあに」と聞いている子もいました、
親が一生懸命、説明してくれていたり、お孫さんを連れた
上品そうなおばあちゃまが、お孫さんに「あの旗はどの国の旗かな」
と、勉強させていました。

そう、チベットの旗もウイグルの旗もうちモンゴルの旗も
自国の旗なのです。

長い長い距離でした。

若いお兄ちゃんも結構、反応してくれます。
見た目が派手な、若いお兄ちゃんたちの集団が手をふって
くれたり、若いカップルも手をふってくれました。

実は、見た目が派手で、ちょっと悪そうな若い子たちは
いろいろと家庭での不幸などを経験して、自分を守るために
そういう派手な格好をしている子が多いです。
そういうタイプの子たちほど、
心の痛みを知っている子だからこそ、優しさを持つことができます。
私たちに手をふったりしてくれます。

長い長い長い距離を歩き、叫び、がんばりました。

kinaさんと おつるが後半 ふらふらにになったのを見かねて、
タナベさんが最後は叫んでくださいました。


2時間ぐらい歩いたでしょうか。

最後は あまりの暑さとプラカードや旗を持っての行進。
全員ふらふらです。。。。


参加された皆様、ほんとうにありがとうございました。

終わってから、公園で解散、
そのまま、残れる人で お茶の懇親会〜 焼き鳥やさんの飲み屋さん
ビールは やっぱり死ぬほど美味しかった

さあ、次は 10/3(土) 大阪 うつぼ公園

中国建国60周年 抗議デモです。

よろしくお願いいたします!!







2009-09-30 11:08 | 記事へ | コメント(7) | トラックバック(1) |
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EPA通信さんが「3民族連帯 中国建国60周年抗議デモ」の写真を世界に配信
先日の「3民族連帯 中国建国60周年抗議デモ」の模様をEPA通信のtomofumiさんが取り上げてくれました。

http://media.daum.net/cplist/view.html?cateid=1007&cpid=2&newsid=20090927011405263&p=yonhap





tomofumiさんは、イラクやシリアなど、戦争の傷跡を追う
カメラマンとして活躍。

彼の体験談を聞きたい方はぜひ、講演会の講師もされているので
お声かけください。

彼の作品についての記事はこちら↓

●戦場の傷跡を追ったカメラマン
(おつるの秘密日記)
http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/1046/



http://bccks.jp/dept/tomofumi

↑このページをひらいて、

写真の部分をクリックすると彼の作品が見れますので

ぜひぜひ ご覧下さい。








EPA通信
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


EPA通信(European Pressphoto Agency / epa)は、ドイツのフランクフルトに本部を置く世界有数の写真通信社の一つ。写真通信社としては、AP通信、ロイター、AFPに次ぐ世界第4位の規模を持つ。1985年、ヨーロッパ諸国の市場に対応することを目的に西ヨーロッパ7カ国の主要通信社によって設立されたEPAは、2003年、アフリカ、中東、アジア、南米など世界規模のネットワークを構築、グローバルなサービスを開始。他社とは一線を画す視点、ユニークな写真スタイルをモットーとする。 世界各地に400人以上の写真家を有し、一日に配信する写真の数は900枚以上。 日本においては、時事通信社と提携、同社を通じて写真を配信している。




2009-09-30 04:51 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(1) |
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動画つづきです ●大阪三民族 9月26日 中国建国60周年抗議デモ
 動画つづき ●大阪三民族 9月26日 中国建国60周年抗議デモ東京、大阪同時開催!今回もDVD化しますので、希望される方は burenovga@gmail.comまで「デモDVDの件」 でメール下さい。 ●9月26日 中国建国60周年抗議デモ E ●9月26日 中国建国60周年抗議デモ F ●9月26日 中国建国60周年抗議デモ G 9月26日  ●中国建国60周年抗議デモ H ニコニコ動画 9月26日 中国建国60周年抗議デモ E http://www.nicovideo.jp/watch/sm8357271 9月26日 中国建国60周年抗議デモ F http://www.nicovideo.jp/watch/sm8359427 9月26日 中国建国60周年抗議デモ G http://www.nicovideo.jp/watch/sm8362869 9月26日 中国建国60周年抗議デモ H http://www.nicovideo.jp/watch/sm8363984
2009-09-30 04:26 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2009年09月28日(月)
動画UP  ●大阪三民族 9月26日 中国建国60周年抗議デモ
ご参加された皆さま 暑い中ごくろうさまでした。 レポートは後になりますが、 まずは、burenoさんの動画ができていますのでとり急ぎ配信です。 9月26日 中国建国60周年抗議デモ @ 9月26日 中国建国60周年抗議デモ A 9月26日 中国建国60周年抗議デモ B 9月26日 中国建国60周年抗議デモ C 9月26日 中国建国60周年抗議デモ D ニコニコ動画 9月26日 中国建国60周年抗議デモ @ http://www.nicovideo.jp/watch/sm8349391 9月26日 中国建国60周年抗議デモ A http://www.nicovideo.jp/watch/sm8353731 9月26日 中国建国60周年抗議デモ B http://www.nicovideo.jp/watch/sm8355420 9月26日 中国建国60周年抗議デモ C http://www.nicovideo.jp/watch/sm8355970 9月26日 中国建国60周年抗議デモ D http://www.youtube.com/watch?v=Xkenc0QWRho
2009-09-28 00:54 | 記事へ | コメント(4) | トラックバック(3) |
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2009年09月26日(土)
【中共抗議!】東京・大阪3民族連帯デモの呼び掛け[チャンネル桜H21/9/24]
【中共抗議!】 東京・大阪3民族連帯デモの呼び掛け[桜H21/9/24] 日本ウイグル協会会長のイリハム・マハムティ氏と、チベット問題を考える会代表の小林 秀英氏をお迎えし、ウイグルやチベットの現状をお聞かせいただくと共に、東京と大阪で 行われる「チベット・ウイグル・南モンゴル3民族連帯 中国建国60周年抗議デモ」についてご案内いたします。 11分30秒あたりで、大阪デモの案内もあります
2009-09-26 00:43 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(1) |
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2009年09月25日(金)
緊急告知! 9/26●大阪 3民族連帯 中国建国60周年抗議デモ  
チベット、ウイグル、南モンゴル

『3民族連帯 

   中国建国六〇周年抗議デモ』

       東京、大阪同時開催!   


9月26日(土)

集合場所:大阪市北区 中之島公園(女神像前)
     地下鉄、淀屋橋駅下車(大阪市役所隣)

集会開始:14時20分

デモ出発:15時 

コース:公園を出発→御堂筋を下り→難波中公園解散

*旗、プラカード持込も歓迎!(日章旗も可)

主催 東トルキスタンデモ実行委員会

参加団体 日本シルクロード科学倶楽部
 
連絡先 080-5707-7078(kina)
メール uighur_uighur_tm@yahoo.co.jp


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

当日は、

チベットからは、
チベット臨時政府議会議員でダライ・ラマ法王の甥であられる、
ケドゥープ・トゥンドゥップ氏 から


(一部紹介です)

時は来た。世界は大きく「チェンジ」、「変革」の時代を迎えている。
我々が連帯して、将来、共産党中国から自由になるチャンスが到来しようとしている。

中国共産党が永遠に存続することはありえない。 
この建国60周年の祝典は、彼らの終末の兆しを告げる祝典でもあるのだ。





東トルキスタン ウイグルからは、
世界ウイグル会議日本代表 日本ウイグル協会 代表
イリハム・マハムティ氏



南モンゴルからは
モンゴル中連盟党幹事長 オルホノド・ダイチン氏

一部紹介です

中国共産党政府の植民地支配下の南モンゴル、チベット、ウイグルのこの60年間は本当に悲惨な60年間で、血だらけの60年間である。これを見て我々、南モンゴル人、チベット人、ウイグル人は、黙っていられるのか。
これを見ている良心のある、正義心のある日本人の皆様が黙っていられるのか




台湾からは
台湾研究フォーラム会長、日本李登輝友の会理事
永山英樹氏


そして札幌医科大学教授 日本シルクロード科学倶楽部会長 高田潤教授



からの支援メッセージを読み上げます。










チラシです

http://www7b.biglobe.ne.jp/~free-uyghur/

コールは東京と同じコールとさせていただきます。

●東京の三民族連帯デモの詳細
http://3natioco.web.fc2.com/

実行委員会ブログ http://3natioco.blog62.fc2.com/
↑プラカードや印刷用の旗のデータがあります。

東京作成のプラカード
 


●ウィグル人10万人の大虐殺
http://ameblo.jp/is1234/ 



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告知動画★ 「3民族連帯 中国建国60周年抗議デモ」
チベット、ウイグル、南モンゴル   「3民族連帯 中国建国60周年抗議デモ」東京、大阪同時開催!    9月26日(土) 集合場所:大阪市北区 中之島公園(女神像前) 地下鉄、淀屋橋駅下車(大阪市役所隣) 集会開始:14時20分 デモ出発:15時  コース:公園を出発→御堂筋を下り→難波中公園解散 *旗、プラカード持込も歓迎!(日章旗も可)主催 東トルキスタンデモ実行委員会  連絡先 080-5707-7078(kina) メール  uighur_uighur_tm@yahoo.co.jp 10月3日(土) 集合時間:14時30分 集会開始:14時45分 デモ出発:15時15分 集合場所:大阪市西区うつぼ公園(東園、中央)
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(30)『進学先としての陸軍士官学校−(中)』
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(30)              荒木肇
『進学先としての陸軍士官学校−(中)』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━





▼文官、学者、陸軍将校の経済的地位を比較すると…

 伊藤隆氏が書かれた労作、『事典昭和戦前期の日本』の中に、軍人の経済的地位について興味深い資料があります。それは、いずれも1896(明治29)年生まれの、文官、学者、陸軍将校の1935(昭和10)年の時点での俸給を比べたものです。3人は、それぞれが各分野で最高のスピードで昇進を果たしてきた人たちでした。年齢は39歳というところです。

 まず官吏は1910(大正9)年に東京帝大を卒業、商工省工務局長で高等官2等、位階勲等は正五位勲六等。年俸は4,300円でした。
 学者は同年、同大学を卒業、現職は東京帝大法学部教授で高等官2等、正五位。年俸は1,650円ながら、職務俸が1,600円。合わせて3,250円になっています。
 陸軍将校は、1917(大正6)年に陸士卒。その後、25(大正14)年に陸軍大学校を卒業。陸軍砲兵少佐、参謀本部部員。高等官5等、従6位勲5等。年俸は2,330円。

 単純に考えれば、少佐を1とすれば、学者は1.4、官吏は1.85となります。いったい、この格差は何なのか? 高等官2等といえば、軍人では少将閣下。たしかに官庁で局長にまで登るのは、やはりたいへんなことではありましょうが、帝大卒と比べて陸士卒はその較差ほどレベルが落ちるのか? いや、専門学校の位置づけだった陸士はともかく、難関(同期生の1割も入れない)の陸軍大学校は履修期間も3年。帝大の学部と変わりません。

 それぞれの同期生のふつうの昇進を果たした例が、それぞれ載せてもあります。
 官吏なら課長(高等官3等=大佐相当、3,660円)、学者なら助教授(同5等=少佐相当、1,220円と職務給800円以内)、陸軍将校なら大尉(同6等、1,900円=1等級)となっています。ここでも格差は一目瞭然。比率でいえば、課長は大尉の1.9倍、学者も1.06倍となりました。


▼陸軍将校は勤め人としてはどうだったか?

 軍人の生活苦もよくいわれているところです。昭和ヒトケタ頃のことでした。当時、月収100円が「家族をもって、そこそこ暮らせる基準」だったとか。年収では1,200円となりますが、民間ではボーナスの支給額が多かったのです。軍人も年度予算が残れば、それを期末賞与で配当したともいいますが、軍縮では(つまり平時)それもままなりません。俗に『貧乏少尉に、ヤリクリ中尉、ヤットコ大尉』といわれていました。

 貧乏少尉とはひどい言い方ですが年俸は850円でした。それで正衣、正袴(せいこ)といわれた礼服から、ふだんの軍服、さまざまな装具を全部、自分で買わなくてはなりません。任官するときには、「軍装手当」が出ましたが(時代によって変わりますが、650円という記録もあります)、とても足りるものではなかったようです。
 指揮刀といわれたサーベルも、拳銃も自前。双眼鏡、長靴、図嚢(書類をいれる)、背嚢、戦闘帽、ゲートル、革脚絆、軍刀(戦時に用いる)、飯ごう、水筒などまですべて自費購入。共済組合にあたる「偕行社」でローンを組んで月々の返済をしていた人もめずらしくありませんでした。

 ヤットコ大尉も同じです。どうやら年俸が1,900円(1等級)。ところが、それなりにお金がかかるようになっています。昼食は将校集会所で会食がふつうですが、それは仕出し屋から届けられました。夜になれば宴会が多い。中隊長ともなれば、部下が120人からいるわけです。冠婚葬祭などのときには、そのつき合いもある。大尉殿は自分のふところからの出費でした。満期して除隊する兵の再就職を世話したり、餞別を渡したり、そういう記録がよく見られます。同学歴の民間の技師や、文官と比べると恵まれているとはいえません。

 子どもが大きくなれば、教育費もかさみました。当時は、公立学校の方が私立より月謝が高い時代です。府県立の中学が月謝5円。その他、弁当代だ、通学費だ、教科書・教材費、その他でおそらく20円近くがかかったのでは。
 東京帝大、慶應は授業料年間120円、早稲田が140円で、月割りの学費も含めた学生の生活費は50円という調査もあります。大尉の年俸は最高で1,900円です。中学生に女学生の子どもがいれば、年間500円近くが養育費にかかったのではないでしょうか。

 また、戦前社会は、現在とは比べようもない「役割社会」でした。体面や、その人の立場がうるさくいわれ、高給取りや地位の高い人ほど自由がききません。山本夏彦氏の戦前話の中で、接待旅行を受けてきた人たちが、宿の女中の着物を見て、接待ぶりを評価するエピソードなどは現在ではわかりにくくなっています。
 将校たちは私的な外出でも、和装なら袴を必ずはく、洋装なら三つ揃いのスーツに帽子が当然でした。奥さんたちも高等官の妻らしくよそわなければならない。「体裁(ていさい)が悪い」、「世間の目がある」、「外聞(がいぶん)にかかわる」などの、今は死語になっているようなことが常識でした。

 軍人の中でも、『中佐になると、鬱勃(うつぼつ=内にこもっていた意気が高まって外にあふれ出そうになるさま)と愛国心が湧いてくる』という本音がありました。
 調べてみると、大尉から少佐に昇任すると、23%の昇給。少佐から中佐では、38%同。中佐から大佐でも、同29%。大佐から少将では、20%同ですから、少佐から中佐になった喜びは大きかったのでしょう(1931年の減俸以後の年俸で比較しました)。

 また、戦前社会は病気による中途退職者が多かったこと、死亡者もたくさん出たことを忘れてはなりません。平時の陸軍では同期生の3割くらいが大尉で予備役編入になりました。中佐にまでなれたのは全体の2割くらいでした。これは、陸軍将校たちのポストの数に関係がありました。きわめて単純化すれば、中隊に中・少尉が4名いたなら、大尉の中隊長は1人です。また、平時では1個大隊は3個中隊。3人の大尉から1人の少佐が生まれるわけです。大隊長(少佐)は貴重な地位でした。

 同じような学力だった(はずの)文官志望者は高給取りで昇進も早かったのです。今より、天下りの批判などない社会。政党政治のただなかで、縁故が重視されていた社会。近代国家になって、まだ数十年。今よりずっと学歴社会でもありました。国内総生産(GDP)はアメリカの7分の1くらい、世界貿易に占めるシェアも3%というものでした。
 1930(昭和5)年、総人口はおよそ6,400万人、うち農業人口が1,370万人。第2次産業の従事者が約20%、サービス業などは、わずか8%という時代です。官吏(軍人も含む)、企業従業員、医師などの専門職をいれても170万人から200万人ではないかと推測されます。就業人口の総数が約2,900万人ですから、全体の6%から7%くらいでしょう。

 大正時代は、日露戦後のことでもあり、軍人を蔑視する風潮もあった頃です。どんな若者たちが陸軍将校をめざしたのでしょうか。その前に、軍人独特の人事制度についておさらいしておきましょう。


▼実役停年制度

 現在の自衛隊も同じですが、軍人が上の階級にのぼるためには、ある年限が必要です。これを実役停年(じつえき・ていねん)といいました。中将になって4年間は務めなければ大将にのぼれない。同じく少将は3年間。佐官は各2年。大尉は4年間で少佐に。中尉は2年、少尉は1年でした。
 これなら、少尉任官から7年後には少佐に、13年後には少将にということになります。満で数えて21歳で少尉になったら、34歳で将官旗をひるがえすとなるはずですが、それは絶対にあり得ませんでした。

 例外としては皇太子殿下であり、他の皇族でも、この最低年限で進級した人は誰もおりません。たとえば、梨本宮守正王(なしもとのみや・もりまさおう)です。宮は久邇宮朝彦(くにのみや・あさひこ)親王の第4王子でした。兄である久邇宮邦彦王は元帥陸軍大将。弟のお2人も陸軍大将。陸軍士官学校は士官候補生7期生です。

 宮は1872(明治7)年のお生まれ。96(明治29)年5月陸士卒。97年1月少尉。99年2月中尉。1901年3月大尉。04年11月少佐。08年4月中佐。10年12月大佐。1913年8月少将。17年8月中将。23年8月大将。少尉から大将までに27年間がかかっています。

 それでは一般人のエリートはどうかというと、陸士旧1期卒業の宇垣一成をみてみましょう。宇垣は1868(明治1)年6月生まれ。少尉任官は1891(明治24)年3月でした。少尉を3年半、中尉を4年と1カ月、大尉を5年と3カ月。少佐を3年10カ月、中佐を3年、大佐になるまでに19年8カ月が必要でした。そして大佐を4年3カ月で通過しています。少将は3年11カ月、中将を6年1カ月。大将になるまでに合計、34年1カ月です。


▼先任進級は尉官時代、佐官になると抜擢進級

 平時では、少尉3年、中尉6年から7年、大尉は6年から9年というのがふつうでありました。陸士16期生の俊秀といわれた永田鉄山少将も、少尉は3年、中尉を5年と半年、大尉を6年務めて、少佐昇任は少尉任官後14年と半年後でした。
 少尉になると位階では、「正八位」になり、その後、従七位=中尉、正七位=大尉となりました。大正時代、進級がとどこおり、昇叙の年限がきて大尉のまま従六位になってしまうという悲喜劇があったそうです。こうした人を決してバカにはせずに、「従六位タイイ」といって畏敬したともいいます。

 尉官は先任進級といいました。主に年功序列によって大尉までは同時期に進みます。士官学校、経理学校、軍医学校などの出身者は、それぞれに期別管理をされていました。同期生は、いちおう、大尉まではほぼ全員同時に進みました。
 佐官になると、様子がちがってきます。抜擢(ばってき)進級といわれました。大尉から少佐への昇任は、士官学校の期別による順序ではなくなりました。やはり陸軍大学校や、砲工学校高等科などの卒業生が、同期の中でも早く佐官になります。参謀本部や、陸軍省などで勤務する、あるいは技術系将校として研究機関や工廠に出る。そういった人たちがいました。

 速いスピードで出世、進級の階段を登っていった人たちを非難する傾向が、昔から、そしていまもあります。昔でいえば陸軍大学校本科。現在の陸上自衛隊幹部学校指揮幕僚課程の卒業者は、たしかに若い尉官のころに受験勉強に励みます。現場を知らないとか、詰めこみ教育のおかげで視野がせまいなどとも批判されます。
 そんな連中が軍部を暴走させた元凶のようにいう人もいますが、「教育にはできないこと」があることを前提にした話が、ここにはありません。

 軍の官僚となるためには、若い頃から視野を広げる訓練や、部隊管理、運用などの理論を学ばねばなりません。いかに現場に詳しくても、それだけでは近代国家の軍の組織を運営はできません。平時にあっては、軍の運営とは、政府の閣僚たち、政党の指導者、大蔵省をはじめとして、他省庁の官僚たちとのせめぎあいです。

 これには、やはり、30歳前後で特別な教育が必要になります。人はそれほどオールマイティの存在ではありません。過去をふりかえって、陸大卒業生や、陸軍大学校の罪を鳴らすだけでは得るところは少ないと思えます。戦前の軍部の暴走などといいますが、私はそのメカニズムを、その背景も含めて、きちんと検証すべきだと考えるのです。

 官僚批判が現在も盛んです。現場を知らない、世間にうとい、国民の目線に立てないなどといわれます。でも、もともと彼らが受けてきた専門教育とはそういうものです。当時も現在も。そして、政治家とはどういう教育を受けてきたのかも検討すべきでしょう。


▼現役定限年齢とは、今でいう定年のこと

 現役を去って予備役に編入、つまり、戦時補職しかない立場になる年齢を、定限年齢といいました。大将65、中将62、少将58(各部は60)、大佐55(同56)、中佐53(同54)、少佐50(同52)、大尉48(同50)、中・少尉45(同47)歳となっていました。ただし、実際はこの通りに勤めあげることはなく、後進に道をゆずり、定限に満たないままに予備役になった人が多かったようです。それは、若くなくてはならない武装組織の宿命でした。
 現在の自衛隊でも定年はありますが、じっさいには勧奨退職によって、将軍・提督は規定どおりに勤めることはありません。国家公務員で行政官と同じ扱いですから、定年延長とか、勧奨退職をやめるなどと主張する人もいますが、有事に「老害」が起きてしまう可能性もあります。

 よく、退役将校という言葉が書かれたり、いわれたりします。これは旧陸軍においては、後備役からも引退したことを指しました。陸軍少佐で予備役に編入された人なら、満56歳のあとの3月31日までは後備役。その翌日からは召集に応じる義務はなくなりました。だから退役です。ただし、陸軍少佐である身分は死ぬまで保持します。制服を着用する権利もあり、その階級にふさわしい礼遇を受け続けます。陸軍将校は、その相当官もふくめて「終身官」だからです。「元少佐」という言い方は正確ではありません。もっとも、大東亜戦後では、軍隊そのものが廃止されたので、元としか言いようがないのです。

 さまざまな理由で、現役でありながら補職がないときがありました。これを「待命(たいめい)」といいます。この期間は1年間。俸給は支払われます。しかし、これが過ぎれば休職。これが2年間でした。休職俸は半額でしたから、たいへんなことになりました。もっとも、必ず待命から休職へ、それから予備役編入というわけではなく、本人の願いや事情で、直接、予備役へということが多かったのです。


▼武官給与が低いという実態

 それから重要な視点があります。官吏(文官)の年俸と比べると、一見して武官のほうが高いということです。それは、帝大総長の年俸6,200円と比べると陸海軍大将は6,600円。中将は警視総監、枢密顧問官、政務次官などと同額で5,800円。下の方で比べても、帝国大学出身の大学助手は判任官で月俸50円に対して、少尉は高等官同70円という格差がありました。なんだ、軍人の方がいいではないか。

 ところが、これには見直しをかける必要があります。大学助手は30歳くらいで、まだ判任官という人もめずらしくありません。学者になるのは戦前社会では、ごく一握りのエリートだったことがよく分かります。高額所得者の親からの送金が当然だったのです。今でもつづく、学者はお坊ちゃんという感覚はそこからきているのでしょう。
 ところが、いったん高等官となりますと、帝国大学助教授は年俸1,050(12級)〜2,770円(1級)でした。それに前に述べた職務給もつく。
軍人は官階が上がらなければ昇給しない。文官はたいていが1つの官階の中で10級以上に分かれて、官等があがるスピードも速く、それにつれ級も上がったのです(大尉は3等級しかなかった)。

 また、上級の官吏(高等文官)は、政府や外郭団体の各種の委員を兼ねました。それに手当がつきました。各省の局長や官房課長などになると、本俸をはるかにこえる年5,000円くらいになったというような驚く話があります。国庫補助金の交付をうける外郭団体、委員会や調査会から謝金や手当を受けていました。また、これもすぐには信じられないことですが、欠員者の分の俸給を受け取り、それをみなで山分けにするといったこともよくあったようです。

 軍隊には、そのような慣習がありませんでした。しかも、進級は中尉になってからがなかなか遅い。文官の高等官は昇進が速い。あっという間に抜かれてしまいました。


▼「受験勉強の時代」始まる

 予備校があって、受験雑誌はよく売れる。そんな時代は、いつ頃からでしょうか。
 現在はもう、同年生の56%だかが大学へ進む時代になりました。いわば、受験の「現代化」あるいは「ポスト・モダン」です。みな、あまりムキにならなくなりました。学力層による「棲み分け」ともいうべきでしょうか。無理をしない、「自分に合った」ところへ行く。野心のクール・ダウンですね。

「立身出世」という考え方で、みなが大学受験、あるいはより高い学歴を得ることに燃えた時代。それを受験のモダンとすれば、その起こりは明治30年代からでしょう。明治20年代には中学校へ進む人も少なかったし、高等教育機関も数えるほどのものでした。
 それが1902(明治35)年になると、明治20年代の後半よりざっと6倍もの卒業生数です。約6,600人。その後は、毎年、1,000近くが増えていって、1909(明治44)年には、とうとう17,000人にもなりました。

 ところが、高等(中)学校への進学者の全体への割合は、年々低下します。1895(明治28)年には卒業生中、高校への進学は44.2%もあるのに、1909年には7.6%となり、およそ6分の1になってしまう。その代わり、進路未詳、不明の者が増えていきます(14.4%が34.8%へ)。これは、つまり「浪人」が増えていったわけです。

 ここで話題にしている時代は、もともと大正時代のことです。しかし、その一つ世代前の「現状」をつかまえておきましょう。それは大正時代(1912〜26年)に陸士、海兵、陸軍経理学校、海軍経理学校、高等学校、専門学校、実業専門学校といった高等教育機関に進む人たちが子どもの頃に目にした景色だからです。


▼旧制高校のランキング

 さて、それでは、明治時代末の高校のランキングをみてみましょう。いわば、難易度ですね。もちろん、トップは第一高等中学校、一高です。
 ところで、高校の入試選抜方法は、しばしば変わります。1902(明治35)年から08年までは「共通試験総合選抜試験」でした。志願者は、全国どこでも同じ問題を解き、第一から希望を書きました。それまでの単独選抜では、せっかく高得点でも、難関校に落ちてしまう。そこで、第二志望以下で拾い上げようという計画でした。

 すると、何が明らかになるか。難易度によるランキングです。竹内洋(たけうち・よう)という教育社会学の先生がいます。この方は受験雑誌をひろってみるうちに、次のような資料を発見されました。1909(明治36)年のことです。「文部省年報」によれば、受験者数4,214名。合格者数1,612名で、合格率は38.25%となります。
 合格者の得点分布で学力差が明らかになりました。一高は80点以上(100点満点換算)の受験生6名がいる。つづいて三高(京都)と四高(金沢)が各1名ずつ。他の高校には1人もいません。79〜70点の合格者は、一高130名、三高27名、二高15名、その他はひとけたの合格人数です。中でも鹿児島の七高はゼロでした。資料はさらに細かく10点ごとの人数に分けています。
 こうしてみると、一高、三高、二高、四高の順に難しいことがわかります。
 戦後の総理大臣の池田勇人(いけだ・はやと)や佐藤栄作(さとう・えいさく)は、この時代の第五高等学校入学者です。もちろん、第一志望は一高だったようですが、2人とも第二志望に選んだ熊本の五高に進んだわけでした。

 次回は、いよいよ大正時代の陸士と海兵の受験についてお話しします。







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◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。


◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
2009-09-25 00:05 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| 荒木 肇 先生 / 戦争 / 自衛隊 |
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(30)『進学先としての陸軍士官学校−(中)』
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(30)              荒木肇
『進学先としての陸軍士官学校−(中)』
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▼文官、学者、陸軍将校の経済的地位を比較すると…

 伊藤隆氏が書かれた労作、『事典昭和戦前期の日本』の中に、軍人の経済的地位について興味深い資料があります。それは、いずれも1896(明治29)年生まれの、文官、学者、陸軍将校の1935(昭和10)年の時点での俸給を比べたものです。3人は、それぞれが各分野で最高のスピードで昇進を果たしてきた人たちでした。年齢は39歳というところです。

 まず官吏は1910(大正9)年に東京帝大を卒業、商工省工務局長で高等官2等、位階勲等は正五位勲六等。年俸は4,300円でした。
 学者は同年、同大学を卒業、現職は東京帝大法学部教授で高等官2等、正五位。年俸は1,650円ながら、職務俸が1,600円。合わせて3,250円になっています。
 陸軍将校は、1917(大正6)年に陸士卒。その後、25(大正14)年に陸軍大学校を卒業。陸軍砲兵少佐、参謀本部部員。高等官5等、従6位勲5等。年俸は2,330円。

 単純に考えれば、少佐を1とすれば、学者は1.4、官吏は1.85となります。いったい、この格差は何なのか? 高等官2等といえば、軍人では少将閣下。たしかに官庁で局長にまで登るのは、やはりたいへんなことではありましょうが、帝大卒と比べて陸士卒はその較差ほどレベルが落ちるのか? いや、専門学校の位置づけだった陸士はともかく、難関(同期生の1割も入れない)の陸軍大学校は履修期間も3年。帝大の学部と変わりません。

 それぞれの同期生のふつうの昇進を果たした例が、それぞれ載せてもあります。
 官吏なら課長(高等官3等=大佐相当、3,660円)、学者なら助教授(同5等=少佐相当、1,220円と職務給800円以内)、陸軍将校なら大尉(同6等、1,900円=1等級)となっています。ここでも格差は一目瞭然。比率でいえば、課長は大尉の1.9倍、学者も1.06倍となりました。


▼陸軍将校は勤め人としてはどうだったか?

 軍人の生活苦もよくいわれているところです。昭和ヒトケタ頃のことでした。当時、月収100円が「家族をもって、そこそこ暮らせる基準」だったとか。年収では1,200円となりますが、民間ではボーナスの支給額が多かったのです。軍人も年度予算が残れば、それを期末賞与で配当したともいいますが、軍縮では(つまり平時)それもままなりません。俗に『貧乏少尉に、ヤリクリ中尉、ヤットコ大尉』といわれていました。

 貧乏少尉とはひどい言い方ですが年俸は850円でした。それで正衣、正袴(せいこ)といわれた礼服から、ふだんの軍服、さまざまな装具を全部、自分で買わなくてはなりません。任官するときには、「軍装手当」が出ましたが(時代によって変わりますが、650円という記録もあります)、とても足りるものではなかったようです。
 指揮刀といわれたサーベルも、拳銃も自前。双眼鏡、長靴、図嚢(書類をいれる)、背嚢、戦闘帽、ゲートル、革脚絆、軍刀(戦時に用いる)、飯ごう、水筒などまですべて自費購入。共済組合にあたる「偕行社」でローンを組んで月々の返済をしていた人もめずらしくありませんでした。

 ヤットコ大尉も同じです。どうやら年俸が1,900円(1等級)。ところが、それなりにお金がかかるようになっています。昼食は将校集会所で会食がふつうですが、それは仕出し屋から届けられました。夜になれば宴会が多い。中隊長ともなれば、部下が120人からいるわけです。冠婚葬祭などのときには、そのつき合いもある。大尉殿は自分のふところからの出費でした。満期して除隊する兵の再就職を世話したり、餞別を渡したり、そういう記録がよく見られます。同学歴の民間の技師や、文官と比べると恵まれているとはいえません。

 子どもが大きくなれば、教育費もかさみました。当時は、公立学校の方が私立より月謝が高い時代です。府県立の中学が月謝5円。その他、弁当代だ、通学費だ、教科書・教材費、その他でおそらく20円近くがかかったのでは。
 東京帝大、慶應は授業料年間120円、早稲田が140円で、月割りの学費も含めた学生の生活費は50円という調査もあります。大尉の年俸は最高で1,900円です。中学生に女学生の子どもがいれば、年間500円近くが養育費にかかったのではないでしょうか。

 また、戦前社会は、現在とは比べようもない「役割社会」でした。体面や、その人の立場がうるさくいわれ、高給取りや地位の高い人ほど自由がききません。山本夏彦氏の戦前話の中で、接待旅行を受けてきた人たちが、宿の女中の着物を見て、接待ぶりを評価するエピソードなどは現在ではわかりにくくなっています。
 将校たちは私的な外出でも、和装なら袴を必ずはく、洋装なら三つ揃いのスーツに帽子が当然でした。奥さんたちも高等官の妻らしくよそわなければならない。「体裁(ていさい)が悪い」、「世間の目がある」、「外聞(がいぶん)にかかわる」などの、今は死語になっているようなことが常識でした。

 軍人の中でも、『中佐になると、鬱勃(うつぼつ=内にこもっていた意気が高まって外にあふれ出そうになるさま)と愛国心が湧いてくる』という本音がありました。
 調べてみると、大尉から少佐に昇任すると、23%の昇給。少佐から中佐では、38%同。中佐から大佐でも、同29%。大佐から少将では、20%同ですから、少佐から中佐になった喜びは大きかったのでしょう(1931年の減俸以後の年俸で比較しました)。

 また、戦前社会は病気による中途退職者が多かったこと、死亡者もたくさん出たことを忘れてはなりません。平時の陸軍では同期生の3割くらいが大尉で予備役編入になりました。中佐にまでなれたのは全体の2割くらいでした。これは、陸軍将校たちのポストの数に関係がありました。きわめて単純化すれば、中隊に中・少尉が4名いたなら、大尉の中隊長は1人です。また、平時では1個大隊は3個中隊。3人の大尉から1人の少佐が生まれるわけです。大隊長(少佐)は貴重な地位でした。

 同じような学力だった(はずの)文官志望者は高給取りで昇進も早かったのです。今より、天下りの批判などない社会。政党政治のただなかで、縁故が重視されていた社会。近代国家になって、まだ数十年。今よりずっと学歴社会でもありました。国内総生産(GDP)はアメリカの7分の1くらい、世界貿易に占めるシェアも3%というものでした。
 1930(昭和5)年、総人口はおよそ6,400万人、うち農業人口が1,370万人。第2次産業の従事者が約20%、サービス業などは、わずか8%という時代です。官吏(軍人も含む)、企業従業員、医師などの専門職をいれても170万人から200万人ではないかと推測されます。就業人口の総数が約2,900万人ですから、全体の6%から7%くらいでしょう。

 大正時代は、日露戦後のことでもあり、軍人を蔑視する風潮もあった頃です。どんな若者たちが陸軍将校をめざしたのでしょうか。その前に、軍人独特の人事制度についておさらいしておきましょう。


▼実役停年制度

 現在の自衛隊も同じですが、軍人が上の階級にのぼるためには、ある年限が必要です。これを実役停年(じつえき・ていねん)といいました。中将になって4年間は務めなければ大将にのぼれない。同じく少将は3年間。佐官は各2年。大尉は4年間で少佐に。中尉は2年、少尉は1年でした。
 これなら、少尉任官から7年後には少佐に、13年後には少将にということになります。満で数えて21歳で少尉になったら、34歳で将官旗をひるがえすとなるはずですが、それは絶対にあり得ませんでした。

 例外としては皇太子殿下であり、他の皇族でも、この最低年限で進級した人は誰もおりません。たとえば、梨本宮守正王(なしもとのみや・もりまさおう)です。宮は久邇宮朝彦(くにのみや・あさひこ)親王の第4王子でした。兄である久邇宮邦彦王は元帥陸軍大将。弟のお2人も陸軍大将。陸軍士官学校は士官候補生7期生です。

 宮は1872(明治7)年のお生まれ。96(明治29)年5月陸士卒。97年1月少尉。99年2月中尉。1901年3月大尉。04年11月少佐。08年4月中佐。10年12月大佐。1913年8月少将。17年8月中将。23年8月大将。少尉から大将までに27年間がかかっています。

 それでは一般人のエリートはどうかというと、陸士旧1期卒業の宇垣一成をみてみましょう。宇垣は1868(明治1)年6月生まれ。少尉任官は1891(明治24)年3月でした。少尉を3年半、中尉を4年と1カ月、大尉を5年と3カ月。少佐を3年10カ月、中佐を3年、大佐になるまでに19年8カ月が必要でした。そして大佐を4年3カ月で通過しています。少将は3年11カ月、中将を6年1カ月。大将になるまでに合計、34年1カ月です。


▼先任進級は尉官時代、佐官になると抜擢進級

 平時では、少尉3年、中尉6年から7年、大尉は6年から9年というのがふつうでありました。陸士16期生の俊秀といわれた永田鉄山少将も、少尉は3年、中尉を5年と半年、大尉を6年務めて、少佐昇任は少尉任官後14年と半年後でした。
 少尉になると位階では、「正八位」になり、その後、従七位=中尉、正七位=大尉となりました。大正時代、進級がとどこおり、昇叙の年限がきて大尉のまま従六位になってしまうという悲喜劇があったそうです。こうした人を決してバカにはせずに、「従六位タイイ」といって畏敬したともいいます。

 尉官は先任進級といいました。主に年功序列によって大尉までは同時期に進みます。士官学校、経理学校、軍医学校などの出身者は、それぞれに期別管理をされていました。同期生は、いちおう、大尉まではほぼ全員同時に進みました。
 佐官になると、様子がちがってきます。抜擢(ばってき)進級といわれました。大尉から少佐への昇任は、士官学校の期別による順序ではなくなりました。やはり陸軍大学校や、砲工学校高等科などの卒業生が、同期の中でも早く佐官になります。参謀本部や、陸軍省などで勤務する、あるいは技術系将校として研究機関や工廠に出る。そういった人たちがいました。

 速いスピードで出世、進級の階段を登っていった人たちを非難する傾向が、昔から、そしていまもあります。昔でいえば陸軍大学校本科。現在の陸上自衛隊幹部学校指揮幕僚課程の卒業者は、たしかに若い尉官のころに受験勉強に励みます。現場を知らないとか、詰めこみ教育のおかげで視野がせまいなどとも批判されます。
 そんな連中が軍部を暴走させた元凶のようにいう人もいますが、「教育にはできないこと」があることを前提にした話が、ここにはありません。

 軍の官僚となるためには、若い頃から視野を広げる訓練や、部隊管理、運用などの理論を学ばねばなりません。いかに現場に詳しくても、それだけでは近代国家の軍の組織を運営はできません。平時にあっては、軍の運営とは、政府の閣僚たち、政党の指導者、大蔵省をはじめとして、他省庁の官僚たちとのせめぎあいです。

 これには、やはり、30歳前後で特別な教育が必要になります。人はそれほどオールマイティの存在ではありません。過去をふりかえって、陸大卒業生や、陸軍大学校の罪を鳴らすだけでは得るところは少ないと思えます。戦前の軍部の暴走などといいますが、私はそのメカニズムを、その背景も含めて、きちんと検証すべきだと考えるのです。

 官僚批判が現在も盛んです。現場を知らない、世間にうとい、国民の目線に立てないなどといわれます。でも、もともと彼らが受けてきた専門教育とはそういうものです。当時も現在も。そして、政治家とはどういう教育を受けてきたのかも検討すべきでしょう。


▼現役定限年齢とは、今でいう定年のこと

 現役を去って予備役に編入、つまり、戦時補職しかない立場になる年齢を、定限年齢といいました。大将65、中将62、少将58(各部は60)、大佐55(同56)、中佐53(同54)、少佐50(同52)、大尉48(同50)、中・少尉45(同47)歳となっていました。ただし、実際はこの通りに勤めあげることはなく、後進に道をゆずり、定限に満たないままに予備役になった人が多かったようです。それは、若くなくてはならない武装組織の宿命でした。
 現在の自衛隊でも定年はありますが、じっさいには勧奨退職によって、将軍・提督は規定どおりに勤めることはありません。国家公務員で行政官と同じ扱いですから、定年延長とか、勧奨退職をやめるなどと主張する人もいますが、有事に「老害」が起きてしまう可能性もあります。

 よく、退役将校という言葉が書かれたり、いわれたりします。これは旧陸軍においては、後備役からも引退したことを指しました。陸軍少佐で予備役に編入された人なら、満56歳のあとの3月31日までは後備役。その翌日からは召集に応じる義務はなくなりました。だから退役です。ただし、陸軍少佐である身分は死ぬまで保持します。制服を着用する権利もあり、その階級にふさわしい礼遇を受け続けます。陸軍将校は、その相当官もふくめて「終身官」だからです。「元少佐」という言い方は正確ではありません。もっとも、大東亜戦後では、軍隊そのものが廃止されたので、元としか言いようがないのです。

 さまざまな理由で、現役でありながら補職がないときがありました。これを「待命(たいめい)」といいます。この期間は1年間。俸給は支払われます。しかし、これが過ぎれば休職。これが2年間でした。休職俸は半額でしたから、たいへんなことになりました。もっとも、必ず待命から休職へ、それから予備役編入というわけではなく、本人の願いや事情で、直接、予備役へということが多かったのです。


▼武官給与が低いという実態

 それから重要な視点があります。官吏(文官)の年俸と比べると、一見して武官のほうが高いということです。それは、帝大総長の年俸6,200円と比べると陸海軍大将は6,600円。中将は警視総監、枢密顧問官、政務次官などと同額で5,800円。下の方で比べても、帝国大学出身の大学助手は判任官で月俸50円に対して、少尉は高等官同70円という格差がありました。なんだ、軍人の方がいいではないか。

 ところが、これには見直しをかける必要があります。大学助手は30歳くらいで、まだ判任官という人もめずらしくありません。学者になるのは戦前社会では、ごく一握りのエリートだったことがよく分かります。高額所得者の親からの送金が当然だったのです。今でもつづく、学者はお坊ちゃんという感覚はそこからきているのでしょう。
 ところが、いったん高等官となりますと、帝国大学助教授は年俸1,050(12級)〜2,770円(1級)でした。それに前に述べた職務給もつく。
軍人は官階が上がらなければ昇給しない。文官はたいていが1つの官階の中で10級以上に分かれて、官等があがるスピードも速く、それにつれ級も上がったのです(大尉は3等級しかなかった)。

 また、上級の官吏(高等文官)は、政府や外郭団体の各種の委員を兼ねました。それに手当がつきました。各省の局長や官房課長などになると、本俸をはるかにこえる年5,000円くらいになったというような驚く話があります。国庫補助金の交付をうける外郭団体、委員会や調査会から謝金や手当を受けていました。また、これもすぐには信じられないことですが、欠員者の分の俸給を受け取り、それをみなで山分けにするといったこともよくあったようです。

 軍隊には、そのような慣習がありませんでした。しかも、進級は中尉になってからがなかなか遅い。文官の高等官は昇進が速い。あっという間に抜かれてしまいました。


▼「受験勉強の時代」始まる

 予備校があって、受験雑誌はよく売れる。そんな時代は、いつ頃からでしょうか。
 現在はもう、同年生の56%だかが大学へ進む時代になりました。いわば、受験の「現代化」あるいは「ポスト・モダン」です。みな、あまりムキにならなくなりました。学力層による「棲み分け」ともいうべきでしょうか。無理をしない、「自分に合った」ところへ行く。野心のクール・ダウンですね。

「立身出世」という考え方で、みなが大学受験、あるいはより高い学歴を得ることに燃えた時代。それを受験のモダンとすれば、その起こりは明治30年代からでしょう。明治20年代には中学校へ進む人も少なかったし、高等教育機関も数えるほどのものでした。
 それが1902(明治35)年になると、明治20年代の後半よりざっと6倍もの卒業生数です。約6,600人。その後は、毎年、1,000近くが増えていって、1909(明治44)年には、とうとう17,000人にもなりました。

 ところが、高等(中)学校への進学者の全体への割合は、年々低下します。1895(明治28)年には卒業生中、高校への進学は44.2%もあるのに、1909年には7.6%となり、およそ6分の1になってしまう。その代わり、進路未詳、不明の者が増えていきます(14.4%が34.8%へ)。これは、つまり「浪人」が増えていったわけです。

 ここで話題にしている時代は、もともと大正時代のことです。しかし、その一つ世代前の「現状」をつかまえておきましょう。それは大正時代(1912〜26年)に陸士、海兵、陸軍経理学校、海軍経理学校、高等学校、専門学校、実業専門学校といった高等教育機関に進む人たちが子どもの頃に目にした景色だからです。


▼旧制高校のランキング

 さて、それでは、明治時代末の高校のランキングをみてみましょう。いわば、難易度ですね。もちろん、トップは第一高等中学校、一高です。
 ところで、高校の入試選抜方法は、しばしば変わります。1902(明治35)年から08年までは「共通試験総合選抜試験」でした。志願者は、全国どこでも同じ問題を解き、第一から希望を書きました。それまでの単独選抜では、せっかく高得点でも、難関校に落ちてしまう。そこで、第二志望以下で拾い上げようという計画でした。

 すると、何が明らかになるか。難易度によるランキングです。竹内洋(たけうち・よう)という教育社会学の先生がいます。この方は受験雑誌をひろってみるうちに、次のような資料を発見されました。1909(明治36)年のことです。「文部省年報」によれば、受験者数4,214名。合格者数1,612名で、合格率は38.25%となります。
 合格者の得点分布で学力差が明らかになりました。一高は80点以上(100点満点換算)の受験生6名がいる。つづいて三高(京都)と四高(金沢)が各1名ずつ。他の高校には1人もいません。79〜70点の合格者は、一高130名、三高27名、二高15名、その他はひとけたの合格人数です。中でも鹿児島の七高はゼロでした。資料はさらに細かく10点ごとの人数に分けています。
 こうしてみると、一高、三高、二高、四高の順に難しいことがわかります。
 戦後の総理大臣の池田勇人(いけだ・はやと)や佐藤栄作(さとう・えいさく)は、この時代の第五高等学校入学者です。もちろん、第一志望は一高だったようですが、2人とも第二志望に選んだ熊本の五高に進んだわけでした。

 次回は、いよいよ大正時代の陸士と海兵の受験についてお話しします。







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━━━━━━
◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。


◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
2009-09-25 00:05 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(1) |
| 荒木 肇 先生 / 戦争 / 自衛隊 |
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2009年09月24日(木)
カトリック 北摂大会 堅信式 9/23 聖母被昇天学院
今日は、カトリック 北摂大会が 聖母被昇天学院で行われました。

本来は5月に行われるはずでしたが、インフルエンザの影響で延期に
なっていましたので、堅信式を待ち望んでいた信徒さんにとっては
素晴らしい喜びの日となりました。

私の洗礼を受けた母親も堅信式。 お母さん、おめでとう

そして箕面教会の可愛い子供たちや学生さん、台湾の美しい娘さん
洗礼を受けた大人の方々も堅信式です。おめでとうございます。

夫は聖歌隊指揮・私はオルガン、箕面聖歌隊は代表で聖歌のご奉仕と
いうことで、ずっと練習してきた聖歌の披露です。

当日も10時からの式ですが、8時半に集合。
みんな白と黒でおそろいです。

高槻教会の夫のお兄さんもスタッフとしてご準備におられました。
お会いできてうれしい

練習をしていると続々と箕面・池田・豊中・川西日生中央
吹田・高槻・茨木・千里ニュータウン 8教会の方々がお見えになりました。なにせ今日は140名もの堅信式があるのです。

池永大司教様とご挨拶して、聖歌隊指揮の夫とオルガニストの私で
打ち合わせ、歌ミサでも一部の歌でもどたらでもいいとおっしゃる大司教様ですが、8教会、歌ミサに慣れていない人もいるかもということで、一部分だけ歌うこととなりました。
そのあと、クウ神父様も一部 歌われるということで打ち合わせ。

そして最初に Christus vincit  聖歌隊とオルガンで演奏。独唱は夫です。
この歌はとても美しいので大好きです

そして大司教様、8教会の神父様方の入場。
アレルヤ豊かな愛を

典礼聖歌203と 204は、
8教会のそれぞれ普段歌われるスピードがまちまちで、
慣れているスピードで歌われるので・・・
(箕面はいつもとてもスピードが速いのです)
オルガンをあわせるのがたいへんでした。指揮と歌とオルガンが
ずれて・・聞き苦しくなってごめんなさい。

そして朗読が終わり


堅信式へ。

池永大司教様は 「えっ??これ全部堅信??こんなの初めて」と
140名もいることにとても驚いておられました

堅信の行列がえんえんと続き・・・


その間に、オルガン演奏

Ave verm 主よ人の望みよ喜びよ 風がどこから
Veni Jesu グノーのアヴェマリア 
シューベルトのアヴェマリア サルベレジーナ サルベマーテル
Christus vincit などなど・・・・・

途中には、夫がリコーダーで 私がオルガンで
カッチーニのアベ マリアも演奏しました。

たぶん40分ぐらい弾き続けたと思います・・・ふぅ。
池永大司教様のお声が聞こえるように 小さな静かな音で。

そして聖体拝領は 無伴奏で
聖歌隊の美しい Vittoriaの AVE MARIA 

聖体拝領は、8教会の神父様が、二階席や
いろいろな場所にわかれて、授けてくださいました。
私は、若い神父様でしたが、ひざまずいて口で拝領いたしました。

終わってから、私の代母であるポーランド人女性のイレナさんが
私の堅信のためにとお祝いを下さりとっても嬉しかった・・・

聖母被昇天学院のオルガンは ハモンドオルガンで
音色や鍵盤の重さなどが、普段と違って難しかったのと

500人ほどの人数で一斉に歌う時は大音量にする必要もあったりで
調整がたいへんでしたが、拙い私のオルガン技術なりに
なんとか、心をこめてご奉仕を無事に終えることができました。

神様に感謝いたします。

箕面の堅信式のみなさんです↓


終わってからも、箕面の信徒さんに聖歌隊美しかったですよと
声をかけていただいて、感動しました。
聖歌隊のみなさんのご努力に感謝いたします。

ある方から、このようなメッセージもいただいて感涙です。

大好きなラテン語聖歌、ミサ曲が常日頃、
私どもの教会ではそれほど多くは聞かれないもの
ですから、震えるほどの感動でした。
またご主人のお声も大変素晴らしく、耳を傾けずには
いられませんでした。


神様のお恵みと ご奉仕できたことに感謝したいと思います。


大司教様のお話は、昔の教会のごミサにあたって自分が満足する
だけではいけないと、第二バチカン公会議の意義を述べられ
新しい教会をみんなで作り上げていくことが大切というお話で、

日常生活でも、クリスチャンとしての生き方を示すことによる
福音宣教のお話で、いいお話でした。


今日は、喜びの日、このようなご奉仕をさせていただけたことに
心から感謝いたします。


******************************************





終わってから、終身刑の創設のための署名運動をなさる
アルベルト・ストッキさんのお手伝いをしました。

神父様で署名をして下さった方や信徒の方々、若い方も
署名してくれて嬉しく思いました。

アルベルト・ストッキさん
●妻と娘の死を無駄にしたくない 死刑と無期懲役の溝を埋めるべく
 終身刑の創設を求めて全国行脚
この方については、
●終身刑の成立を求めて 全国行脚のストッキ・アルベルトさん@
http://blogari.zaq.ne.jp/otsuru/article/827/
●終身刑の成立を求めて 全国行脚のストッキ・アルベルトさんAhttp://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/828/
●終身刑の成立を求めて 全国行脚のストッキ・アルベルトさんB
http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/829/
●終身刑の成立を求めて 全国行脚のストッキ・アルベルトさんC
http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/830/
 











2009-09-24 01:55 | 記事へ | コメント(10) | トラックバック(1) |
| キリスト教 カトリック |
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2009年09月23日(水)
戦争の傷跡を追ったカメラマン 
いつも、大阪でのチベットのデモやウイグルのデモを
撮影して下さる ヨーロピアン写真のカメラマンさんの

tomofumiさんの素晴らしい写真集を紹介します。

tomofumiさんは、先日の大阪の青山繁晴講演会にも
ご参加くださって、

その時に、彼の生きてきた道程をお聞きして感動しました。

たった一人でカメラを持ち、イラク戦争後のイラク

そしてシリアなどで、戦争の傷跡と人々のその後の暮らし
そして風景などをカメラに収めてこられました。

美しい写真は、感動です。

戦争により傷ついた子供の写真や 瓦礫や武器の残骸の
写真など 胸をうつ写真はたくさん見れますが

クリスチャンである私の一番 気に入った写真は
この写真集の中で

カトリック教徒の女性とイスラム教徒の男性のご夫婦の写真


バグダッドで皮膚科医だったアブドル・ワヘドさん(48歳)=写真堰≠ヘ、妻のヘレンさん(42歳)=写真=と06年10月、ヨルダンへ逃れた。アブドルさんはイスラム教徒(スンニ派)でヘレンさんはキリスト教徒。「イラクでは宗教の区別なく結婚するのが普通。二人の愛こそすべて。日本も一緒でしょ?」と話す

こちらは、戦後のイラクでキリスト教徒とイスラム教徒が
共同生活している写真です。


サルゴーン・イーシャさん(28歳)=写真堰=iキリスト教徒)がアッバスさん(イスラム教徒)を誘い始まった共同生活に、マーゼンさん(キリスト教徒)が加わることになった

http://bccks.jp/dept/tomofumi



↑このページをひらいて、

写真の部分をクリックすると見れますので

ぜひぜひ ご覧下さい。
 

イスラエルとパレスチナの宗教の違う民族の戦争は
有名ですし、イスラム教徒=テロリストだとか

どちらも一神教で 他を排除し、お互いに憎しみあっていると
いうようなイメージがついつい持たれていると思いますが


tomofumiさんの写真によって、実は、

宗教の違いを超えた人間の愛を感じることができました。


tomofumiさんの 戦後のイラクの人々とともに
過ごした体験、シリアで拘束されそうになった体験など

貴重な体験は、ご依頼すれば
講演もしていただけますので、

ぜひご講演を依頼したい人があればご連絡ください。




彼は、ドイツのジャーナリズムの日本特派員として
日本で撮影した写真を、海外に送られ
採用された写真が海外で紹介されるのです。

うまくいけば アメリカのニューズウィークなどに載せられることも
あるそうです。


今までにも ウイグルのデモやNHKデモなどの写真が彼のおかげで
海外に紹介されました。↓





9/26の大阪 三民族連帯 中国建国60周年抗議デモにも
来てくださいます。

2009-09-23 23:18 | 記事へ | コメント(1) | トラックバック(1) |
| 日本シルクロード科学倶楽部 / 戦争 |
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京都 ペマ・ギャルボ氏 講演会
ハチドリの一滴様より、教えていただきました。



京都 護王神社より、

天皇陛下御即位二十年奉祝記念事業の一環として、
来る9月27日(日)午後2時より京都ガーデンパレスにおきまして、
国際政治学者のペマ・ギャルポ先生の特別講演会を開催されます。
入場無料ですので、お誘い合わせの上ご来場下さい。

「心の中心、国の中心」
現代国際社会とおかげさまイズム

桐蔭横浜大学大学院法学部教授 チベット文化研究所名誉所長
ペマ・ギャルボ氏 特別講演会

お問い合わせ・詳細はこちら→ http://www.gooujinja.or.jp/
2009-09-23 01:41 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(1) |
| チベット / ペマ・ギャルボ氏講演会 / 日本シルクロード科学倶楽部 |
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第一回 シルクロード核ハザード FMラジオ放送 画像を加えてアップ
高田教授 ブログより
http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/

ラジオ番組第一回 

「シルクロード核ハザード」(FM白石) 

の放送音声をアップしました。




 ニコニコ動画の次のサイトをご覧ください。

 そして、この情報を拡散してください!!!

 前編

http://www.nicovideo.jp/watch/sm8280605

 後編

http://www.nicovideo.jp/watch/sm8280768




関連ページ

http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/09/post_8b04.html

http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/09/post_4eff.html



*******************************************

ところで 本日、自民党 兵庫6区
こびき司先生が

おつるの自宅にご挨拶に来て 下さり

以前お渡しした「中国の核実験」を読みましたと言ってくださいました。 
シルクロードにかかわるこの問題への活動を
応援してくださいます。

心強いことです。




2009-09-23 01:10 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(1) |
| 日本シルクロード科学倶楽部 / 中国の核実験 / 東トルキスタン ウイグル |
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2009年09月21日(月)
●青山繁晴氏 講演会  大阪護国神社 靖国崇敬奉賛会 青年部あさなぎ 主催
昨日、青山繁晴さんの講演会に行ってきました。


第3回大阪護國神社英霊慰霊顕彰勉強会
 日時:平成21年9月20日(日) 13時〜16時30分(17時より懇親会)
 場所:大阪護國神社境内 住之江会館
 講師:青山繁晴先生
 (株式会社独立総合研究所 代表取締役社長 兼 主席研究員)


お誘いして参加した皆さま、有難うございました。
Yさん、せっかくの申し込み、間に合わなくてごめんなさい。

会場に着くと、もう会館はいっぱいでした。

あさなぎの関西支部 支部長 押上 様や スタッフさんが
ご丁寧な挨拶とともに出迎えて下さいました。
あさなぎの方々の礼儀正しさはいつも、素晴らしい。

少し遅れて到着したので、君が代斉唱に間に合わず、残念でした。

青山さんの講演は、いつもながら熱い思いを
涙ながらに語られ、参加者さん一同、真剣に聞き入っておられました。

お話は、民主党政権の事、自民党の今後のあり方、
硫黄島、沖縄の白梅の塔、小沢氏について、法相について
外国人参政権、人権擁護法など多岐にわたり

どのお話も興味深かったのですが、

私は、
千葉景子という死刑制度反対の人間が法相になったことを
海外から見たらどんなに異常なことか・・・というお話が
心にひっかりました。

これは今朝の新聞にも掲載されていましたが
裁判で、確定した死刑について、この千葉という一人の人間の
思想によって執行されないということがおこりうるということ。
この異常さについての部分は
普段、左傾化した「カトリック正平協」が死刑廃止運動にも熱心な
こともあり、その組織と闘う私も、非常に懸念を感じています。

裁判で決まった死刑が、たった一人の法相の偏った思想による
押印しないことで、執行されないということは、
まるで、この千葉という人の独裁・・・

死刑の是非ということよりも
しかし、日本においてアメリカのような懲役200年だとか
終身刑それにかわるような制度がない限り、凶悪犯が、刑務所から
出てくる可能性がある限りは、死刑制度は私は必要だと思います。

ちょうど、今日は、カトリック箕面教会にアルベルトさんが来て
お話したところです。
この方は凶悪な犯人に奥さんと子供さんを殺された。
でも今のままでは、犯人は、刑期を終えれば、出てくるのです。

●妻と娘の死を無駄にしたくない
 死刑と無期懲役の溝を埋めるべく
 終身刑の創設を求めて全国行脚
この方については、
●終身刑の成立を求めて 全国行脚のストッキ・アルベルトさん@
http://blogari.zaq.ne.jp/otsuru/article/827/

●終身刑の成立を求めて 全国行脚のストッキ・アルベルトさんAhttp://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/828/

●終身刑の成立を求めて 全国行脚のストッキ・アルベルトさんB
http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/829/

●終身刑の成立を求めて 全国行脚のストッキ・アルベルトさんC
http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/830/
 

こちらの日記をぜひ お読みください↑

私は、子供を殺す池田小の宅間や連続幼女殺人の宮崎つとむの
ような人間に対して、死刑か終身刑が執行されないような事が
もしあれば、被害者のご家族の気持ちはどうなるでしょう。

ストッキ・アルベルトさんの気持ちを考えれば
私は、単純に死刑廃止など言えないと思います。

福島瑞穂などは、死刑廃止、そして終身刑もNOと言っています。

それと、小沢氏への政治の黒いお金の流れ・・・・

日本が、国際貢献へ1兆6千億ものお金をお金を出しながら、
人を出さなくて各国から批判を浴びた話は有名ですが、
青山氏によれば、その当時の国の1兆6千億ものお金の中で
一兆円については、外務省に領収書がある
そのほかの6千億のうちの 数百億が実は、ある政治家が
マージンのように黒い金として受け取ったことは

核密約など問題にされている中、そんなことよりもっともっと重要で
追及されなれなればならないことが闇に腐れていると・・・・
この話は衝撃的でした。

青山氏はテレビでは言えない、いろいろな衝撃的事実を
教えてくださいました。

硫黄島の滑走路の話は以前、川西市で行われた
自民党 こびき司さん主催の青山繁晴さん講演会でも
語られました。

●青山繁晴氏 川西市講演会@「めざめる国民国家」 (こびき司議員、自民党主催)
http://blogari.zaq.ne.jp/otsuru/article/805/
http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/806/


日本国民が立ち入り禁止である硫黄島に、何度も何度も交渉し
青山さんが関西テレビの飛行機で取材に行くことができたいきさつ

そして硫黄島での、海上自衛隊の三人の方との話。

硫黄島の滑走路が、日本を守るために戦って亡くなった
2万人の兵士の遺骨の上をコンクリートで固められていること
その滑走路をはがして、遺骨を収集しなければいけないと
その体験を青山さんが語り続けられたことで、国民が政治家や防衛省に各地から声をあげたことで、その滑走路をはがすことに
国が動いたこと・・・

青山さんの熱意が亡くなった英霊の魂を思う心が
ついに国民を動かし、国を動かしたこと・・感動です。

そして沖縄の話
ひめゆりの塔は有名であるが、
実は、他にいくつも女子の学徒隊があったこと
ひめゆりの塔は、いってみればエリートの学校で脚光もあび
映画化され、天皇皇后陛下もお参りされたのであるが

この白梅の塔は、忘れ去られ、青山氏が初めて訪れた時は
鍵もかかっていない鉄の扉のついた石積みのところに
遺骨が詰め込んであり、壕の中からは異様な霊気があったこと
何度も何度もお参りしているうちに きちんとした塔が建てられたこと、その塔は、実は生き残った女性が、戦後の混乱期、
何もしてやれず、また亡くなった人の遺族の親が、娘は生きていると
信じて、遺骨を回収することを望まなかったつらい気持ち、
でももしかしたら こっそり遺骨を見に来るのではと
その生き残りの女性が、骨を集めて、いつでも見に来れるように
鍵をかけなかったこと・・・そして現在ようやく、塔を建てることが
できたこと・・・

そのお話には胸うたれました。
私も沖縄に行くことがあればぜひ立ち寄りたいと思います。


いったん休憩時間になり、

私は、大好きな西村慎悟先生と三宅博先生のそばの席だったことも
あり、走り寄って、握手していただき、写真撮影もお願いいたしました。お会いできて感激!!



休憩の間に、あさなぎの元自衛官の方や顔なじみのスタッフさんと
ご挨拶したり、日本シルクロード科学倶楽部メンバーの
リカちゃんや レオさんご夫妻、羽田さんともお話しました。

ヨーロピアン写真のイケメン中野さん発見、
私の横の席が空いているので、ひっぱってきました。

質疑応答では、超人気ブロガーのぼやきくっくりさんの
質問が読み上げられ、

ご本人の紹介がありました!!

ぼやきくっくりさんの事は、尊敬していますし
大ファンなので、お顔を拝見できて感激

ぼやきくっくりさんのブログには、この講演会についての
記事がアップされているので是非ご覧ください

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid723.html

最後のほうで、青山さんのおっしゃった

民主党の外国人参政権のこと、

すでに小沢氏が外国人参政権について、韓国の大統領と会談して
密約していること

外国人参政権は日本の国家の危機であること

外国人参政権・人権擁護法案による危機の
お話の部分は、本当にこの国の行方を左右する緊急課題で
あり、なんとしても国民が阻止していかねばならないと
未来の子供たちのためにも思いを新たにしました

そしてその次は、人権擁護法案。
これが成立すれば 青山繁晴さんは逮捕
もちろん ぼやきくっくりさんや おつるのようなブロガーも
逮捕でしょう。

言論の危機です。 このことを国民でなんとしてでも
阻止することの重要性を強調されました。

*******************************************

講演会が終わり、愛媛のジャンヌダルク 田中直子さんに
あえて感激!!

滋賀県の野田さんにも再会!

ニートさんが、ぼやきくっくりさんをご紹介して
ご挨拶もさせて下さいました。

「大ファンなんですー」とご挨拶。
とても優しい雰囲気の知的で清楚な女性でした。


サイン会ですが
おつるは本が買えなくて売り切れだったので サイン会の権利なし

懇親会も40歳以下ということで、、、笑

おつるは、今回、お誘いさせていただいたお仲間と
リコリスさんが連れてこられた仲良しデモ仲間と合流して
お茶しに行きました。

メンバーは 日本シルクロード科学倶楽部の
レオさんご夫妻、天皇陛下の前で勤労奉仕団代表で
万歳三唱をされた羽田様、相方
つねに一人で戦いを続けるリカちゃん、

そして金髪超美女の動物愛護で戦う Jellyちゃん
イケメン民主党本部抗議・中国領事館抗議主催のろーちゃん

レバノンやシリアを一人で写真撮影に潜入した戦場カメラマン
その時の体験を講演していて、ドイツのジャーナリズムの
日本で唯一の特派員である中野さん

東大阪のブログコメンテーターで有名なMさん
そして日教組と戦う音楽の先生 

と、老若男女 大阪の個性的なおつるの大好きなメンバーで
お茶しました。

いろいろな話で盛り上がりました。

最後に羽田様から、間寛平が今、アースマラソンでシルクロードも
駆け抜けるという企画をしているが青山さんに
中国の核実験とシルクロードについて、
間寛平さんのこととも関連して取材依頼をしてはどうかという
提案、や日本シルクロード科学倶楽部の現状と今後についての
質問もありました。

そんな中で行動派の ろーちゃんとJellyんが
「おつるさん チャンスだよ、青山さんに突撃しようよっ」って
言ってくれましたが・・・

私は、あさなぎさんの手前もあるのでご迷惑かけちゃいけないし
青山さんといえどもテレビ局が中国の核実験については
ダメだしをするだろうし・・などと
無理だよーとためらっていました。

でも、一応、行くだけ行ってみようと・・・・

東大阪のMさんがサインがまだだったので、おつるはつきあって
会館の中へ・・・Mさんが最後だったようです。

サインは青山さんが丁寧にされるので 全員が終わるまで
二時間ほどかかったのです。

おつるが、Mさんがサインをしているのを見ていると

ちょうど、懇親会場のテーブルに 西村慎悟先生が!!
また握手していただいたら
「まあ、座りなさいよー、まあまあ飲みなさい」と
チューハイをあけてくださいました。

西村慎悟先生にチューハイをいただくなんて

朝早くから、教会で魂こめてオルガンで祈ってきたあとで
朝ご飯もおひるごはんもたべてなかったからか・・・

めずらしくチューハイ少しで酔っぱらいのおつる

お話してたら三宅博先生もご参加。
以前は、デモでお世話になりました、またデモやるんですーと
お話していたら
「あんた、ジャンヌダルクやね? 和服の」



「はい、おつる、鶴姫ですー」と言うと
お二人は笑ってくださいました。

おつるは酔っぱらいで
デモがんばりまーすとか
意味不明なこと話してたような・・

西村先生が 自民党のこびきくんはええやつやー
左傾化のカトリックは けったいなやっちゃーと
言ってくださったのがうれしかった

少しお話してそして・・・

青山さんが拍手とともに帰られました。


玄関を出られて、タクシーに乗りこもうとする暗がりで

Jellyさんがいきなり青山さんに駆け寄って突撃!!
民主党のことなど、思い切り思いを語り握手、

そのあと、おつるも思いきって近づいて

「札幌医科大学高田教授の日本シルクロード科学倶楽部 
 副会長の中曽千鶴子と申します。
 どうか、中国の核実験について、アピールお願いします!!!」


青山さんはじっと目を見てうなずいて握手くださいました。

やったーJellyちゃんのおかげです。
勇気をくれて有難う

そしておつるとJellyちゃんとJellyちゃんのお友達と
三人で手をふって、お見送り

そのあとは、西村慎悟せんせいが出てこられて

仲間で 西村先生がんばって!! と万歳三唱でなく
万歳十唄ぐらいしてお見送り。

最後に三宅博先生を 万歳でお見送り


この一日は、私にとって

カトリック教会での祈りとオルガンと
アルベルトさんとの再会にはじまって

青山さん 西村慎吾先生、三宅博先生

そして護国神社お参り

そして大切な素晴らしい仲間の方々との出会い

すべて神様がめぐりあわせてくれた、私に宝物をくれたと感謝します。

あさなぎの皆さま 久野潤先生 有難うございました!

 追記です

青山さんのお話の中で、「武士道」とイエスキリストの「一粒の麦」
のお話も素晴らしかったのです。
武家に生まれた青山さんのおっしゃる武士道精神とは、
他人のために死ぬことという精神

そしてイエスキリストの「一粒の麦」
一粒の麦は、そのままでは、一粒の麦でしかない。
けれども地に落ちて、自分を殺しすことにより
多くの実を結び、多くの麦、種となる・・

この利己主義を捨て、他人のためにいかに生きるかという
武士道とキリスト教精神の共通点のお話は、
武士道を愛し、クリスチャンである私にとって
とても大切なお話でした。 ここに書きくわえます。

9/26三民族連帯デモと10/3中国建国60周年デモを
大阪で行います。自分のことよりも、他民族のために声を
あげる武士道とキリスト教精神の人々の行動だと思います


  
2009-09-21 15:26 | 記事へ | コメント(19) | トラックバック(2) |
| 日本シルクロード科学倶楽部 / 青山繁晴 |
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2009年09月20日(日)
イザヤの預言 箕面カトリック教会のミサ
先週の日曜日、朗読はイザヤの預言でした。

私は旧約聖書の預言が大好きです。

勇気とチカラをもらえます。

明日 9/20(日)のごミサは、オルガン担当です
心をこめて、オルガンを弾いて祈りたいと思います。




イザヤ 50・5−9a


イザヤの預言

主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。
わたしの正しさを認める方は近くいます。
誰がわたしと共に争ってくれるのか
われわれは共に立とう。
誰がわたしを訴えるのか
わたしに向かって来るがよい。
見よ、主なる神が助けてくださる。
誰がわたしを罪に定めえよう。


**********************************************

私はこの言葉をいつも胸に抱いて、いたい。


そして
明日は、年間第25主日(9月20日)

 知恵の書
神に逆らう者は言う。「神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。
我々のすることに反対し、律法に背くといって我々をとがめ教訓に反するといって
非難するのだから。
彼の言葉が真実かどうか見てやろう。
生涯の終わりに何が起こるかを確かめよう。本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。
敵の手から救い出されるはずだ。暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。
その寛容ぶりを知るために、悪への忍耐ぶりを試みるために。
彼を不名誉な死に追いやろう。
彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ。」




9/23は、カトリック大阪教区 北摂地区大会です。

箕面の聖母被昇天学院で行われます。

北摂西 箕面・池田・豊中川西日生中央
北摂東 吹田・高槻・茨木・千里ニュータウン

 8教会合同のごミサです。

子供たちや新しく洗礼を受けた方の堅信式があります。
私の母親の堅信式でもあります。

池永大司教様が司式されます。

 私は、この日もオルガン担当です。

聖歌は他教会の実行委員の方がお決めになり、
開会と閉会の歌などは、わたしのあまり好きではない曲ですが
神様から与えられた役目ですから、頑張ります。

北摂大会の曲は

 開会 アレルヤ豊かな愛を 
 入祭 よろこびに  典163
 あわれみの賛歌    203 
 栄光の賛歌      204
 聖霊の続唄     典352

 そして堅信式を数十人が受ける間ずっと オルガン伴奏

 奉納 キリストはぶどうの木 カ典310
 感謝の賛歌     典205
 平和の賛歌     典206

 聖体拝領マラナタ カ典325
 愛といつくしみのあるところ 典322
 アヴェマリア       カ典302

 閉祭   主は水辺に立った

 

堅信式と聖体拝領は、私のオルガンと箕面の聖歌隊で
ラテン語聖歌やグレゴリオ聖歌、私の大好きなアヴェマリアを
何曲も捧げることができそうです。

前日も聖歌隊は練習です。



そして・・・

9/26は、チベット・ウイグル・南モンゴルのために
三民族の中国建国60周年に向けた東京と連帯した
大阪デモです。 また祈りの声をあげます。

その日は、私がちょうど 5年前に洗礼をうけて
ジャンヌダルクの名前をいただいた記念日です。
 

私は イザヤの預言の言葉を胸に

チベット・ウイグル・南モンゴル そして日本の子供たちのために
戦います。 
2009-09-20 03:13 | 記事へ | コメント(7) | トラックバック(0) |
| キリスト教 カトリック |
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●高田教授の 10.1発売の新刊 アマゾンにて予約販売開始
10.1発売の新刊 アマゾンにて予約販売開始

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核の砂漠とシルクロード観光のリスク

─NHKが放送しなかった楼蘭遺跡周辺の不都合な真実─
(高田 純の放射線防護学入門シリーズ)


内容紹介

“核爆発災害は隠せない”という放射線防護学100年の成果をもとに,ウイグル人居住区での世界最悪の核爆発災害を報告した前著
『中国の核実験』は,英米有力誌にも衝撃的事実として報じられた。

本書は,その事実を報じないばかりか,シルクロードの歴史ロマンを喧伝し続けるNHKの公共放送としての姿勢を問う。

また,そのロマンに魅せられ,核爆発が継続する1996年までに現地を訪問した
推定27万人,その後を含めると84万人もの日本人観光者の,
核放射線による健康被害調査は急務である,とする。

著者について


札幌医科大学教授
カバー作成  J博士





  カバー裏に、 日本シルクロード科学倶楽部顧問一押しの
         トルファンの美女が!
  挿絵作成には、倶楽部会員たちが協力!

******************************************


あわせて、中国の核実験

中国の核実験─シルクロードで発生した地表核爆発災害─
〔高田 純の放射線防護学入門〕

¥1,260

こちらを 大阪の9/26(土)の三民族連帯デモで
販売いたします。
デモに来られない方で購入希望の方は、おつるまでご連絡を

2009-09-20 03:11 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(2) |
| 日本シルクロード科学倶楽部 / チベット・ウイグル・サウスモンゴル 三民族 / 中国の核実験 |
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入会案内書ができました

 日本シルクロード科学倶楽部の入会案内書が出来ました。


 会員のみなさん、ご活用ください。

 札幌事務局、顧問、副会長の三箇所にあります。

 お近くの会員は受け取ってください。

 なお、遠方の会員へは郵送します。

 


9/26(土)三民族連帯大阪デモと

10/3(土)中国建国60周年抗議大阪デモで 配布します。

デモに来られない方で、ほしい方はおつるまでご連絡ください。

2009-09-20 03:10 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(1) |
| 東トルキスタン ウイグル / 中国の核実験 / 日本シルクロード科学倶楽部 |
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★FC大阪 大人のサッカークリニック
先日、平日の夜、FC大阪大人のサッカークリニックがありました。

今回は大好きなZOEちゃん、(ゆうこりん)と久しぶりに会えるので
とっても楽しみ

到着したらすでにはじまってました。

女性が前回とは違うメンバーで8人もいて、女性グループは、近藤 祐輔 コーチに
指導していただきました。

基礎、パスやドリブル、リフティング、シュートまで丁寧に教えてくださいました。

おつるは、リフティングが苦手で・・・・恥ずかしい・・

今回の若い女性たちは、フットサルの経験者で うまい人ばかり

パスも鋭くて、トラップするのがたいへんでした。

試合は、女性VS女性

おつるはシュート一回だけできましたが、

負けちゃいました。

コーチVS女性8人のゲームでは、勝ったらTシャツがもらえる
ってことで、頑張ったけど・・・・

さすがコーチ・・・

でも ZOEちゃん、(ゆうこりん)と久しぶりに
練習できて楽しかったー

終わってから、

高橋コーチと写真撮影お願いしました 



高橋健史 FC大阪選手

1997 ガンバ大阪ジュニアユース
2000 ガンバ大阪ユース
2003 立命館大学
2007年 - 2008年 徳島ヴォルティス





近藤コーチとも写真撮影してもらいました



北海道文教大学明星高校

前所属:ザスパ草津

    パンディオンセ加古川



そして
森岡茂先生 FC大阪選手

八幡浜工高から1992年にガンバ大阪
1996年にはU-23アトランタオリンピック日本代表
 ブラジル代表を破りマイアミの奇跡と呼ばれる

1999年は京都パープルサンガ
2000年からヴィッセル神戸
2002年から再びガンバ大阪
2006年からは関西リーグ1部・
バンディオンセ神戸
(現・バンディオンセ加古川)に加入

現在 FC大阪 監督



そして吉澤さん、いつもありがとうございます!!!

とっても優しいイケメンコーチさんたちです。

参加者さんとも仲良くなれて、楽しかったです。
男性の試合は、すごく熱くて見ごたえありました!!

次回は、10月は14日(水)と28日(水)です。

ぜひぜひ、ご参加を

FC大阪オフィシャルサイト
 http://fc-osaka.com/



FC大阪 オフィシャルブログ

http://ameblo.jp/fc-osaka/
2009-09-20 01:40 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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2009年09月18日(金)
9月 箕面教会 和田幹夫神父様の言葉 「神の聖性と人間の罪深さ」
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、

万軍の主、主の栄光は天地に満つ。

ーイザヤ書 6の3- 


      カトリック箕面教会   主任司祭 和田 幹男


預言者イザヤは、その活動の始めにエルサレムの神殿で神である主の顕現を体験しました。
そのときセラフィムたちが言い交わしていたのが、
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、 万軍の主、主の栄光は天地に満つ」
という賛美でした。

3回繰り返される「聖なるかな」は、 ヘブライ語で最上級をいう手法です。

「至聖なるお方」ということです。

ここでは文語調で 翻訳しましたが、セラフィムたちの賛美の引用として許していただきたい。
口語ではほとんど翻訳不可能です。
そのとき、預言者イザヤが体験したのが聖なる神、至聖なる神でした。
その後、預言者イザヤは、「イスラエルの聖なるお方」と呼んで、その神の聖性を強調しました。

この聖なる神の顕現に出会った預言者イザヤは、どのような反応を示したのでしょうか。
それがきわめて重要です。

「なんと不幸なことか、わたしは黙るほかない。わたしは唇の汚れたもの、唇の汚れた民の中に住むもの、そのわたしがこの目で万軍の主である王を見てしまった」 (イザヤ6の5)

と嘆きました。聖なる神を前にして、自分の至らなさ、不相応さ、罪深さを自覚させられたのです。

これが聖なる神の顕現に対する当然の反応です。
モーセも神の顕現にあって、 「神を見ることを恐れて顔を覆った」(出エジプト記3の6)とあります。
キデオンも主の御使い を見てしまって、「ああ、主なる神よ・・・」と嘆いています(士師記6の22)。

神の聖性と 人間の罪深さは相関関係にあるのです。
したがって、罪とは単に掟を破ることにあるのではなく、掟をお命じになる
神の意志に背くこと、 その意志に対する侮辱にほかなりません。
掟は基本的にどの人間にもその良心に刻み込まれていますが、 さらに啓示により
教会に明らかにされたものもあります。
その神の意志に絶えず忠実に従おうとした聖人たちもその聖性の高みあっても、
神の聖性を前にしては自分の罪深さを死ぬまで自覚せざるを得ませんでした。

最近、世の中のみならず、教会の中でも罪の意識が薄れてきているように思われます。
そこに神の聖性の感覚の欠如があるのではないでしょうか。

昔、信者は毎日朝夕の祈りを唱え、その夕の祈りのときには良心の糾明を行ったものです。
現在、どれほど朝夕の祈りが唱えられているでしょうか。
聖なる神の厳粛な意志が軽んじられる向きがあるようです。
他方、大きな罪を犯した信者がゆるしの秘跡を受けるとき、
その心に神の聖性の自覚があ ると言わざるを得ません。
神の聖性を前提とし、それに照らして、罪を犯してしまったとの自覚と痛悔の心があるからです。

それゆえ、罪人はけっして軽蔑されてはならないのです。こ

のような罪人で教会がいっぱいになってほしいと思います。




Catholic Minoh Church
2009-09-18 23:28 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(29) 進学先としての陸軍士官学校
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(29)              荒木肇
『進学先としての陸軍士官学校−(上)』
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□はじめに

 世間の秀才が集まったといわれる陸軍士官学校、海軍兵学校。
 満洲事変(1931年)から、軍人人気は大きく高まったといわれます。中学校の秀才たちは、こぞって陸海軍学校に志願した、そのような理解は、とりあえず間違ってはいないでしょう。
 前回では、大正中期では陸士人気が落ちていたという数字を出しました。今回と次回は、偕行社記事や教育史のこぼれ話などから拾った陸士受験についてのさまざまな話題をお知らせします。

 ところで、陸海軍将校の最上位は大将です。海軍の大将は77人、陸軍大将は134人でした。その数の差は、組織の大小をみごとに表しています。陸軍大将のうちで士官学校を出た人は96人になります。それ以前の人たちは、近代陸軍の正規士官養成教育を受けずに、陸軍将校になった人たちです。

 最初の陸軍士官を養成する学校は大阪におかれた「陸軍兵学寮」でした。ここは青年学舎と幼年学舎に分かれていました。その頃のさまざまな混乱や、興味深い話題は柳生悦子さんの『幻の陸軍兵学寮』にくわしく書かれています。ここの生徒たちは、各藩からの推薦を受けて入校した人たちがほとんどでした。

 また、教導隊(のちに団)に入る人もいました。もともと士官は上等士官と下等士官に分かれ、それほどの身分上の差はなかったと思われます。ただ、国家の様子が整備されてくるにつれ、西欧式の組織が作られてきます。そうした中で、士官と下士の間には深い溝ができていきました。
 明治の中期になり、1890年代になれば、学校教育の制度も整ってきます。そうした中で、下士から士官になることも難しくなり、陸軍士官学校の入試も、正統な学歴コースを歩んできた人が選ばれるようになりました。


▼陸士を出ない陸軍大将たち

 西郷隆盛、有栖川宮熾仁(ありすがわのみや・たるひと)親王、山縣有朋、小松宮彰仁親王、大山巌という人たちが、維新の実績で大将になりました。すでに戊辰戦争では、高・中級指揮官クラスをつとめた人たちです(皇族は除く)。したがって、士官学校教育は受けていません。

 次の世代は、野津道貫(のづ・みちつら:1841〜1908)たちです。野津は薩摩藩下士の子。戊辰戦役に参戦。71年に少佐。これに似たような経歴が佐久間左馬太(さくま・さまた:1830〜1915)になります。長州藩士の子。その初陣は「蛤御門」だといいますから、すごいものです。戊辰戦争に転戦。71年に大尉心得。

 そして、戊辰戦争では成人するか、しないかの世代。川上操六(かわかみ・そうろく:1848〜1899)は薩摩藩士の子。薩摩藩洋式歩兵の分隊長として戊辰戦争に参加。71年に中尉、同年のうちに大尉。
 兵学寮の修行者で大将に初めてなったのは、桂太郎(かつら・たろう:1847〜1913)です。1869(明治2)年に横浜語学所に入ります。ここが兵学寮に吸収されてしまう。そこで中退。維新の戦いの功績でもらった賞典禄は250石でしたが、これを元手にドイツに私費留学しました。
 桂太郎というと明治、大正の軍政家として有名です。
 長州閥で山縣有朋に引き立てられ、「ニコポン」というあだ名で人心掌握術を心得ていたとか、「十六方美人(八方美人の倍)」とか悪評があります。誰に会っても、ニコニコとしてポンと肩をたたく、それが由来でした。総理大臣もつとめました。
 しかし、戊辰戦争の功績で賞典禄(しょうてんろく)をもらうくらいです。実は戦歴が豊富で、幕府軍を迎え撃った四境戦争から始まり、秋田藩攻撃などで中隊長として豊富な実戦歴がある人でした。1873(明治6)年に帰国すると、木戸孝允の推薦で陸軍大尉になりました。

 黒木為!)(くろき・ためもと:1844〜1923)は薩摩藩士の出身で戊辰戦争では東北で指揮官をつとめ、古屋作左衛門の幕府陸軍衝鋒(しょうほう)隊を潰走させたこともある。「御親兵」になり、1871(明治4)年、陸軍大尉。
 奥保鞏(おく・やすかた:1846〜1930)は小倉藩物頭(ものがしら)で、幕末の四境戦争で長州軍と戦いました。物頭の家柄ですから、堂々たる上士でした。1871(明治4)年、大尉心得に任官。

 山口素臣(やまぐち・もとおみ:1846〜1904)は長州藩士。奇兵隊教導役で東北地方を転戦。1870(明治3)年に大阪第2教導隊に入り、翌年4等軍曹。その後、めざましい進級ぶりで1873年には少佐になりました。
 岡沢精(おかざわ・せい:1844~1908)は長州藩の下級武士。1870年、山口と同じく第2教導隊入隊。4等軍曹から翌年少佐。
 長谷川好道(はせがわ・よしみち:1850〜1924)は初めての大阪兵学寮青年学舎の出身でした。1871年に少尉心得。長州藩の支藩である岩國家中の出身。やはり戊辰戦争に従軍。西南戦争では歩兵第1連隊長。
 西寛二郎(にし・かんじろう:1846〜1912)は薩摩藩士。戊辰戦争で遊撃隊長。1871(明治4)年、中尉任官。
 児玉源太郎(こだま・げんたろう:1852〜1906)は徳山藩士。戊辰戦争では東北を転戦、函館五稜郭攻撃にも参加。陸軍兵学寮に69年入校。71年少尉。
 乃木希典(のぎ・まれすけ:1849〜1912)も長府藩士。四境戦争では報国隊士。ケガのため戊辰戦争では戦歴なし。71年、少佐。この世代では、乃木の初任の階級が高いことと戊辰戦争での実戦経験がないことが目立ちます。
 伏見宮貞愛親王(ふしみのみや・さだなるしんのう:1858〜1923)は歴戦の宮様です。72年に大学南校へ。翌年、陸軍幼年学校へ転校。在学中の75年1月に中尉。2月に士官学校第1期士官生徒として士官学校に入校。78年、大尉。
 小川又次(おがわ・またじ:1848〜1909)は奥保鞏と同じく小倉藩兵。長州兵と交戦。70年に兵学寮生徒、翌年、権曹長心得(ごんのそうちょうこころえ)に任官。72年少尉。
 川村景明(かわむら・かげあき:1850〜1926)は薩摩藩士。薩英戦争が初陣。戊申戦争でも歴戦。72年に少尉。
 大島義昌(おおしま・よしまさ:1850〜1926)は長州藩士。戊辰戦争に従軍。70年に兵学寮青年学舎に入校、翌年、少尉任官。
 大島久直(おおしま・ひさなお:1848〜1928)は秋田藩士の子。父親は奥羽越列藩同盟からの脱退を藩主に勧める。長州藩兵を率いる桂太郎と出会う。71年、中尉任官。
 立見尚文(たつみ・なおぶみ:1845〜1907)は桑名藩士。幕府の昌平黌で学ぶ。鳥羽の戦いで敗走しながら戦上手という定評を得る。江戸から幕府脱走陸軍と行動する。西南戦争で招かれ陸軍少佐任官。
 寺内正毅(てらうち・まさかた:1852〜1919)は長州藩軽輩の子。戊辰戦争に転戦。71年、権曹長から中尉に任官。
 井上光(いのうえ・ひかる:1851〜1908)は岩國藩士。戊辰戦争では仙台・会津と転戦。兵学寮に入り、71年大尉任官。
 大久保春野(おおくぼ・はるの:1846〜1915)は静岡県の神官の子。70年、兵学寮幼年生徒となり、フランスへ留学。75年、帰国して陸軍省7等出仕(文官:中尉相当官)、77年に武官になり少佐。
 土屋光春(つちや・みつはる:1848〜1920)は岡崎藩士の子。72年、少尉。
 鮫島重雄(さめしま・しげお:1849〜1928)は薩摩藩下士の子。戊申の役で転戦。ご親兵銃卒。73年、教導団に。すぐに伍長、その後、仮設士官学校へ。75年、工兵少尉。
 上田有沢(うえだ・ありさわ:1850〜1921)は徳島藩上士の子。秀才で藩主に愛されて200石取りになる。71年に大尉心得。

 以上が明治時代に大将に進んだ人々です。兵学寮には行っていないか、あるいはわずか在籍しただけで、将校になっています。日清・日露戦役では各軍軍司令官や師団長をつとめている世代です。年齢も1850年前後の生まれですから、戊辰戦争ではたいていが成年、あるいはそれに達しようとしていて、指揮官経験ももっています。
 将校になってからは、「佐賀の乱」や「台湾征討」(1874)、「新風連」、「秋月」、「萩」の乱(1876)そして西南戦争(1877)に参加する。その間に佐官になり、日清戦争では師団長などを務めています。
 

▼陸士士官生徒の時代

 1875(明治8)年、士官学校は正式に発足し、士官生徒の1期生たちが入校します。
 のちに大将になった人たちは2期生から多く出ました。
 大迫尚道(おおさこ・なおみち:1854〜1934)は鹿児島出身、79(明治12)年に砲兵少尉。日露戦中は少将でした。井口省吾(いぐち・しょうご:1855〜1925)、静岡県の農家出身、沼津兵学寮(徳川軍の幹部学校)幼年生徒。同じく砲兵少尉。大谷喜久藏(おおたに・きくぞう:1855〜1923)、若狭国小浜藩士の家に生まれ、藩校に学び、陸士入校。同期といっしょに歩兵少尉に任官。この3人が旧制2期といわれます。

 旧制3期からは、のちに元帥になった上原勇作(うえはら・ゆうさく:1856〜1933:工兵)、内山小次郎(うちやま・こじろう:1859〜1945:砲兵)、秋山好古(あきやま・よしふる:1859〜1930:騎兵)、本郷房太郎(ほんごう・ふさたろう:歩兵)、柴五郎(しば・ごろう:1859〜1945:歩兵)といった面々です。日清戦争では少佐クラス。日露戦争では少将クラスでした。

 士官学校の制度が変わり、士官候補生の1期生は1888(明治21)年に入校します。この期の人たちからは、鈴木宗六(すずき・そうろく:1865〜1940:騎兵)、白川義則(しらかわ・よしのり:1868〜1932:歩兵)、宇垣一成(うがき・かずしげ:1868〜1956:歩兵)が大将になりました。いわゆる「御一新後の育ち」とされる世代の始まりです。日清戦争では中尉の階級になり、10年後の日露戦争では少佐クラスとなっています。

 鈴木荘六大将といえば、昭和初期の参謀総長。白川は1932(昭和7)年、上海派遣軍司令官として出征、爆弾テロで受けた傷がもとで亡くなります。宇垣といえば、大正末期の軍縮の立役者であり、恨みをかっていたからでしょう。組閣の大命が降下したのに、内閣をもてませんでした。拓殖大学長や、参議院議員も務めた人です。生まれはまさに明治元年で、昭和の30年代初めに亡くなったのですから、戦後の復興も目にしていました。


▼新しい教育制度と世代

 将校の候補者を選抜するとき、わが国ほど学力を重んじた国はないでしょう。お手本にしたドイツや、イギリスでは、学力より人格や品性を重んじる傾向がありました。品性もしばしば貴族の血筋とか、ユンカー(地方貴族)の家柄と結びつけられたのでした。それに対してわが国では、学力重視という言葉で、主にペーパーテストの出来・不出来が士官学校の受験結果を左右してきました。

 もちろん、明治の時代、とくに制度を整えた頃のことです。士官生徒は一般の志願者からでなく、部内の下士や、教導団の生徒から選ぶべきだという主張もありました。教導団というのは下士を養成する専門学校でした。
また、人格は試験では測れない。受験予備校の中で、合格テクニックばかりを磨いてきた者が増えてきた。合格させてみると、幼年学校の授業料が払えないなどという階層の者もいる。あるいは、家庭的におかしな者が混じってきた。こういう批判も、1880年代にはされていました。しかし、以上の批判は力になりませんでした。むしろ、将校の品位を高めるには、より高い学力を要求する方法をとってきたのです。

「明治15(1883)年以後の生まれ」が言われるようになったのは、彼らが成人に達した頃からでした。1908(明治41)年に朝日新聞に連載されていた『三四郎』の中に、主人公の友人が語る言葉があります。この友人は三四郎とはことなって、帝大の選科学生でした。つまり、高等学校からの進学ではなく、専門学校出身の傍系です。
『ボクは丸行灯(まるあんどん)だの、キセルの雁首(がんくび)などというものが、どうも嫌いですがね。明治15年以後に生まれたせいかもしれないが、なんだか旧式でいやな心持ちがする』
と言っています。

 そうです。明治15年以降の生まれの人は、明治19(1887)年に制定された「小学校令」、同23(1890)年の「新小学校令」にのっとった制度の教育を受けていたのです。小学校を尋常科と高等科に分ける。それまでの漢文を教える、漢学塾の後身のような小学校ではなくなりました。

 あわせて、中等教育も整備されました。同時に出された「中学校令」では、尋常(5年)と高等(2年)と分けて、尋常中学は府県立・私立、高等中学は官立とします。高等中学校は後に高等学校(3年)になりますが、全国を5学区に分けました。
 東京大学予備門を第一高等中学校、大阪の大学分校を第三高等学校(京都)に再編し、第二(仙台)、第四(金沢)、第五(熊本)の各高等中学校が開設されます。岡山の第六高等学校は明治33年に官立で設置されました。

 藩閥のせいだなと感じる施策は、山口と鹿児島の2つの高等中学校です。どちらも寄付金によって設置維持し、文部省が管理する学校でした。のちに、鹿児島高等中学校は第七高等学校造士館になり、明治38(1905)年から官立高等学校になります。不思議な運命をたどったのは山口高等中学校です。明治27(1894)年に大学予科のみを作りますが、同38年に専門学校令によって官立になり、山口高等商業学校に改編。戦後は山口大学経済学部です。

 尋常中学校は明治24(1891)年の改正で設置制限をゆるめられ、量的にも発展します。入学資格は高等小学校2年修了程度とされました。つまり、尋常科4年+2年で、小学校の課程を6年間でおえて入学できる。しかし、実際には、高等科3年、もしくは4年をおえて進学する者が多かったと資料に残っています。

 ついでに、1894(明治27)年の公立中学校卒業者の進路状況をみてみましょう。全国の卒業者数は949人にしか過ぎません。高等中学校へ進んだ者は377人(39.7%)、専門学校技芸学校123人(13.0%)、士官候補生及び兵役70人(7.4%)、学校教員就職70人(7.4%)、官庁就職34人(3.6%)、自家及びその他業務従事118人(12.4%)、死亡2人、未詳及び方向未完155人(16.3%)となっています。方向未完の中には、かなり多数の高校浪人が含まれていると思えます。

 士官学校に入校する、すなわち士官候補生になる若者は、明治36(1903)年までは、すべてが尋常中学校卒業者とは限りませんでした。学歴指定はなかったのです。だから、さまざまな経路で士官候補生になることができました。先週号でお知らせしたとおり、府県立中学を出ていなくても、学力が同等と認められれば入隊する「各兵」隊の隊長が許すことで士官学校へ進めたのです(1920=大正9年から、ふたたび、陸士予科に学歴制限はなくなりました)。


▼教導団出身の福島歩兵大尉

『八甲田山死の彷徨』でふれた福島泰蔵歩兵大尉の経歴をふりかえってみましょう。彼は1866(慶應2)年に生まれました。生家は群馬県の廻船問屋です。もちろん、豊かであったとはいえ、身分は平民でした。近所の漢学塾で漢文素読(そどく)を5歳から学び、公立小学校へ入学します。明治7(1874)年から同11年まで下等小学で学びました。上等小学に進めなかった理由は、この頃、家業が傾いたからといいます。
 同15(1882)年、変則中学校の認定を受けていた行田市の「啓沃校(けいよくこう)」という私塾に進みます。しかし、1年で退学。その後、寺にこもって読書にうちこんだそうです。

 1884(明治17)年、福島は司法省の司法学校を受験します。正則科の8年を希望しました。司法官を官費で養成する学校です。のちに帝国大学法科大学になります。採用試験科目は漢学のみ。福島が受験したのは正則科第四期生で、受験者総数は1,500名あまり。入学者は64名だったというので、倍率は23.4倍になっていました。この合格者の中には、のちの総理大臣若槻礼次郎(わかつき・れいじろう)や鉄道大臣小川平吉の名前があります。

 官吏への道をあきらめた福島は小学校の教員になろうとします。群馬県の師範学校へ入学しました。秋山好古も士官学校へ入る前に師範学校へ入っています。1886(明治19)年、卒業して現在の太田市の第一高等小学校へ赴任しました。半年で辞任。陸軍教導団を目指します。このとき、福島少年は士官学校を受けられませんでした。

 それは、1885(明治18)年12月に陸士の入試規定が改まったからです。これまでの試験は読書(よみかき)、作文、算学だけでした。ところが、19年の試験から、科目が和漢文・数学・代数学・平面幾何学・地理・物理・化学・図学・画学・歴史および希望者には外国語というように変化したのです。また、『中学初等科以上及ヒ之ニ準ズル学校卒業ノ者』で、卒業証書があれば、和漢文・歴史・算学のみを試験するという但し書きがあります。つまり、尋常中学校の前身である中学を出ていれば、ずっと受験の負担がへるのです。

 このことは、ようやく整備されてきた中等教育で行われた「普通学」が軍事科目履修の基礎になると陸軍当局が考えたことによるでしょう。卒業者でなければ、あれだけの科目を受験しなくてなりません。

 教導団にいた福島生徒は1887(明治20)年の夏、教官会議の決定で、士官候補生の受験許可が出ます。9月、面接と学科試験がありました。学科は漢文でした。すでに教導団で普通学の実力は試されていたからでしょう。なお、この年の尋常中学校卒業者で士官候補生試験を受験した者はわずかに5名で、うち3名が合格(60%)。同等の学力と見られる者の志願者は855名で合格者は37名(合格率4.3%)でした。福島のような下士卒及び生徒からは333人が志願し、合格はわずかに3名(同0.9%)です。志願者の合計は1,193名で採用者は43名。競争率は約27.7倍、合格率3.6%でした。

 気がつくのは尋常中学校の卒業生の少なさです。この前年、一県一尋常中学校政策がとられましたが、まだまだ卒業生はめずらしかったといえます。その数は93(明治26)年には全国で1,218人、97(明治30)年でも1,824人でした。また、学力同等と認められる人が855人もいます。これは、当時の監軍部の報告からみると、士官候補生になるために中学を2年から3年通うと退学してしまう。そうして都会の受験塾で勉強して来る者が多かったそうです。有名な成城、海城などは、そうした軍学校の予備校が中学になったものです。

 1902(明治35)年になると受験者の中では、中学を卒業した人の方が増えてきます。これは遠藤芳信氏の指摘による、当時の中学校開設ブームによるものでしょう。とくに1900年から1903年の間には、卒業生が全国でも4,206人、7,787人、9,444人、11,131人とうなぎ登りに数が増えていきます。

 士官学校志願者の中の中卒者数を、当時の卒業生数と単純に照らし合わせます。すると、97年(明治30)年には、中学卒業生の3.47人に1人が、02(明治35)年では6.23人に1人が陸士を志願していたことが分かります。実際には浪人が含まれていますから、正確な数字とはいえませんが、人気のある進路だったことは間違いありません。

では、次回はいよいよ志願者の出身府県を考えてみましょう。






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◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。


◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(28)『陸軍兵科将校の人事計画』
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(28)              荒木肇
『陸軍兵科将校の人事計画』
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たくさんのコメントへのお礼

 前回の「壮丁学力調査」についての拙文に多くのコメントを頂戴しました。あつくお礼を申し上げます。軍隊と教育には切ってもきれない関係があります。時代ごとの教育制度は、軍隊の制度とも深く関わっていると私は考えてきました。
 また、師団や聯隊などの編制や定員をお話しせよというコメントもいただけました。ありがとうございます。ご要望に応えるように務めます。これからも、そうしたリクエストもよせてくだされば幸いです。

□心配なのは防衛政策

 今回の衆議院選挙での「民主党の大勝利」。びっくりしました。ほんとうにマスコミの予想どおりになったのですね。恐ろしいばかりの適中度でした。これほど「時代の波」、「民意の力」を思い知ったことはない。これもまた、「素人による玄人への異議申し立て」なんだろうなと感じました。

 官僚、財界、古くからの政治家などの「玄人集団」に物申すなのでしょう。私は戦後政治が目指してきた体制は、経済効率を追求した結果の玄人優先社会だと考えています。それは、戦前(とりわけ日露戦後)のわが国の世間が素人社会だった反動だと思えます。
 政権が交代すれば、役所のトップも、県知事までも替わりました。指導者が替わっても、それを支える実務者集団がしっかりしていた。でも、その都度の混乱はいつも起きていたようです。

 戦後社会には、そうした混乱は少なかったのでした。官僚のトップは、官僚内部で選出されました。地方自治体でも、内部の話し合いで行政マンのトップは選ばれてきたのです。世間のおおかたで、玄人、プロが優先されました。専門の領域について、素人は口を出すな、そうした気分が戦後社会全部をおおってきたとしては言いすぎでしょうか。
 誰がどうみても、落選された多くのベテラン議員の方が、若い1年生議員より玄人としての政治的能力は高いでしょう。でも、有権者は、今回の選挙では素人を選びました。

 戦前社会では、国防・軍事は玄人集団の専管事項でした。天皇による「統帥権」を諸悪の根元のように語る人がいます。軍人たちが勝手に戦争を起こし、国民の声をきかなかったなどと、検討が不十分なままの「常識」が作られてきました。
 でも、わが国の大正時代の政党政治は清潔ではありませんでした。議員たちが、党利党略に明けくれ、金脈問題などで騒がれ、地元へ利権の誘導をし、支持者に有利な口利きをしていたことなどが新聞記事などでうかがわれます。

 さて、わが国独自のシビリアン・コントロールを振りかざす人たちの時代です。軍事に素人の文民たちが国防・軍事にどういうプランをもっているか。どんな見識をもち、具体的にことを進めていくのか。しっかり見きわめて行くしかありません。
 素人の意見の中には、玄人が聞くべきことがたくさんあるでしょう。でも、最低のルールとして、素人は無茶を言わないということがあります。玄人から素人への「異議の申し立て」を快く受け入れる度量もなくてはいけません。



▼陸軍将校とは

 軍制の上から厳密にいえば、陸軍将校とは兵科(砲・工・歩・騎・輜重・航空の各兵科と憲兵科)の高等武官だけを指した言葉です。戦闘兵科ではない各部には、終戦時では技術、経理、衛生、獣医、軍楽、法務の6部がありました。

 軍医や歯科医、薬剤官、衛生官の衛生部、主計がついた経理部、建技もあった技術部、獣医と獣医務官の獣医部、軍楽部、法務と法事務の法務部などの高等武官は、将校相当官であって、厳密には将校そのものではありませんでした。

 つまり、指揮刀をつり、長靴をはき、私物の軍装をしている高等武官がいても、兵科将校と各部将校相当官という2種類の人たちがおりました。
 階級の呼び方も1936(昭和11)年にならなければ、各部の高等官は、兵科なみの少尉、中佐、少将などと言えませんでした。

 2.26事件の前、免官された磯部浅一氏は陸軍1等主計でした。のちの制度では、陸軍主計大尉ということになります。事件の時には磯部さんはどんな軍装をしていたのでしょう。もし、主計の軍装だったら、両襟に銀茶色の経理部の定色があったと思えます。もっとも、「免官」でしたから、階級章のついた軍装をするだけで違法でした。

 また、「砲兵大尉」などの言い方がなくなり、憲兵をのぞく各兵科がすべて統合されたのは1940(昭和15)年のことでした。軍装の胸についていたM字型の兵科章がなくなったのも、この時です。だから、これ以後に任官した学徒出陣の方々は、兵科なら、みな「陸軍少尉」から始まりました。
 もっとも、人事管理などでは、依然として兵科は生きていたようでした。


▼陸軍現役将校になるには

 もっとも真っ直ぐのルートは、陸軍士官学校を卒業して任官する。つぎに、現役下士官から士官学校の課程をへて少尉になる。ただし、これは平時(1920年から)に限ってのことです。
 日露戦争(1904〜05)年には、下級将校の不足から、現役下士からの特別進級が認められました。

 さて、将校補充制度について、かんたんに書いてみましょう。
 まず、1890(明治23)年7月には士官候補生制度の第1期生が士官学校を卒業しました。陸士○○期という言い方の始めです。
 1897(明治30)年から1920(大正9)年までの制度は、次のようでした。
 士官候補生は中学などを卒業した人が受験しました。1896(明治29)年の『陸軍補充條例』によれば、士官候補生に採用されるのは、次のいずれかを満たす人でした。
1、中央幼年学校の生徒で卒業試験に合格した者
2、官立府県立中学校、もしくは文部大臣の指定した中学校を卒業し、校長の保証と、入隊する予定の部隊の長が認めた者
3、中学校卒業者と同等の学力があり、入隊予定部隊長が認め、召募試験に合格した者

 中央幼年学校とは、地方幼年学校の3カ年の課程をおえて進学する1年8カ月の修学期間がある学校です。官立府県立中学校とありますから、商業や工業、師範学校の生徒は受験ができません。入校したければ3の規定にある「召募試験」を受けることになります。

 採用された士官候補生には、各「兵隊」での実習期間があります。これを隊付といい、原隊(げんたい)とも呼ばれました。この段階で、兵科が決まったわけです。歩兵隊に入った者は歩兵に、砲兵隊なら砲兵に決まりました。補充條例には、候補生の配当先について、『砲兵隊、工兵隊、鉄道隊には数学優等者』をあてることという記載もあります。また、『学術優等者の平均を顧慮せよ』ともあります。ある兵科ばかり、学力が偏っても困るということでしょう。

 候補生は、入隊後、ただちに1等卒になり、6カ月後に上等兵、その2カ月後には伍長の階級に進める。満1年が経ったときには軍曹になり陸軍士官学校に入校する。これに対して、中央幼年学校卒業者は、隊付も6カ月でした。入営後、ただちに上等兵、2カ月後には伍長、最後に軍曹になり士官学校へ入りました。ここで初めて同期生は顔を合わせました。
 つまり、大正9年までは士官学校は、まったく軍事専門学校でした。

 地方幼年学校とは3年間で中学校相当の教育を授けるところで、中央幼年学校は中学校後期の普通教育をする機関でした。こうした学校がおかれた背景には、外国語教育との関わりを考えるべきでしょう。当時の中学校のほとんどは英語教育がふつうでした。
 陸軍と関係が深い、フランス、ドイツ語については、ごく一部の私立中学だけが教育を行っていただけでした。どうしても幼いうちから英語だけではない外国語教育をしておかなければならなかったのです。

 外国語教育の中でも英語が主流になったのは、明治の学制を立てるにあたったときのことでした。師範学校を整えるにあたって、英米の制度を採用したからでしょう。法律はフランス、医学はドイツとしたものの、中等教育までは英米を参考にしたからです。


▼中央幼年学校が廃止され、士官学校予科になる

 1920(大正9)年に、中央幼年学校がなくなります。その代わり、士官学校予科という学校に生まれ変わりました。中学校にも制度改革があり、4年修了でも上級学校へあがることができるようになったからです。

 この大正中期には大きな「学制改革」がありました。高等教育の拡充です。1919(大正8)年4月1日に施行された「大学令」は、官公私立の専門学校を大学に昇格させました。慶應義塾大学や早稲田大学をはじめ専修大学、國學院大學などの旧制私立大学は、ここから地位を高めたといっていいでしょう。

 同じく施行された「高等学校令」も前期高等教育の拡充をめざしたものでした。
 それまで高等学校(明治27年まで高等中学校)は全国で官立の八校、すなわちナンバースクールだけでした。それが、1919(大正8)年には新潟、松本、山口、松山が開校し、翌9年には水戸、山形、佐賀、弘前、松江の各校、10年には東京、大阪、浦和、福岡、11年には静岡、高知、12年には広島、姫路という「地名高校」が発足しました。

 なかでも府立東京高校は尋常科(4年制)を併設し、私立武蔵(大正10年)、同成蹊(同14)、同甲南(同12)、同成城高等学校(同15)は7年制高等学校といわれました。注意したいのは官立東京高校につづいて1929(昭和4)には府立東京高校が開校したことです。これも7年制で、のちに都立大学、現在は首都大学東京になりました(官立高校は第1高等学校と合わさって東大教養学部)。
 大正12(1923)年に開校した県立富山高校(昭和18年官立移管)も、同15年の府立浪速高校(現大阪府立大学)も同じく尋常科を併設しています。

 また、実業専門学校も大増設されました。1920(大正9)年には、官立横浜高等工業、広島、金沢の各官立高工とつづき、翌年は官立仙台、現在の北九州市戸畑区には官立明治専門学校、同東京高等工芸、同神戸、同浜松、同徳島の各高工、さらに翌年は長岡、福井と官立高工があいついで開校します。鳥取、三重、宇都宮、岐阜、宮崎の各官立高等農林もこの時期の開校です。また、官立高等商業も名古屋、福島、大分、彦根、和歌山、横浜、高松、高岡などが開設。

 そして、いわゆる専門学校とされる官立学校も大増設です。富山、熊本の両薬学専門学校、大阪外国語学校、そして気象技術官養成所もこの時期でした。
 私立専門学校にいたっては数えるのも大変です。官立のほとんどは、現在の国立大学や学部になり、名門といわれる私立大学も、ほとんどこの時期が設立です。

 なお、ついでに文部省所管外の学校も書いておきます。台湾総督府所管の台北高等学校、関東局所管の旅順工科大学、そして私立の満洲医科大学は1922(大正11)年の開学でした。

 こうした流れは士官養成教育にも影響しました。中学4年修了者と、幼年学校卒業者をいっしょにして、高等学校の理科に相当する教育をする予科が必要になったのです。世間一般の修学レベルが上がっているときに、陸軍士官だけが中学校卒業だけの教養では足りないということです。
 卒業した生徒たちは、いよいよ士官候補生として部隊に隊付(たいづき)に出ました。今度は全員がそろって半年でした。この予科卒業時に、兵科が決まり、原隊が初めて分かりました。
 この頃の生徒が歌った歌詞の中に楽しいものがあります。「浜田か、鯖江か、村松か」というのが不人気のワースト3歩兵聯隊です。

 現在の陸自でも、北海道の遠軽(29普連)や美幌(6普連)というと、人口も少なく、大都会に出るのも不便な所でしょう。それでも、現在の若者たちには車があり、その気になれば飛行機を使えば東京だって遠くはありません。文化はテレビで流される。
 大正時代の半ばのこと、県庁所在地でもなく、鉄道の便もあまりなかった頃のことです。当時の若者たちの本音のところだと微笑ましくなりませんか。

 候補生たちは6カ月間で上等兵、伍長、軍曹と各階級の実務を習い、士官学校へ帰ってきました。本科では1年10カ月の教育を受けて、原隊に再びもどります。このときの階級は曹長であり、見習士官を命じられ、2カ月間の勤務をします。その後、将校団の銓衡(せんこう)をうけて少尉に任官しました。

 1920(大正9)年からの制度では、先に書いた「少尉候補者」があります。これは、現在の陸上自衛隊でも、部内幹部候補生やSLC(3尉候補者)として残っていますが、優秀な下士を士官学校に入校させ少尉にするシステムです。これは、現役の曹長や軍曹から試験で選抜しました。しかし、この制度では、少尉に任官したときには、すでに30歳くらいになっています。平時ではなかなか佐官にはなれなかったそうです。大東亜戦争末期、蒋介石軍を感嘆させた拉孟(らもう)守備隊長だった金光少佐もこの出身でした。


▼軍人人気大暴落と進級停滞

 大正のこの時期の「偕行社記事」をみると、自由投稿欄や意見表明の中には、へーえと思わされる記事が載っています。
 まず、軍人という職業への不人気です。女学生へのアンケートによると、結婚したくない相手は陸軍士官、開業医、自営業者などがワースト。逆に人気のベスト3は高商出のサラリーマン、大学出の官吏、高工出の技師など。
 これは、と唸らされたのが、陸軍士官の夫人たちに娘はどんな相手にやりたいかと聞いたら、トップはサラリーマン、学校教師、官吏の順番という回答。絶対にやりたくないという職業のトップは陸軍士官。

「将校生徒志願者召募状況」(教育総監部)からの数字です。この将校生徒というのは、幼年学校生徒、士官候補生、士官学校予科生徒のことをまとめています。この志願者の数が1917(大正6)年をピークにして、それ以後、減少、また減少です。
 士官候補生といえば中学卒業生。6年度は採用者220に対して応募倍率9.3倍。7年度同じく220に対して同6.9倍に減少。8年度は130の採用に対して8.9倍になりました。

 加登川幸太郎氏という元陸軍中佐がおられます。その方の著書にあるのですが、実は採用数を減らしたのではない。採れなかったのだ。例年どおり220名を採用しようとしたら、104名が入校までに辞退した。不合格者からやむを得ず補欠採用したというのです。そんなことがあるのかと調べてみたら、その通りでした。9年度には当初から130名と予定したら、60名が他の学校へ行ってしまったというのが事実らしい。

 そして、陸軍将校たちの世界は「進級停滞」という難問も抱えていました。それは、日露戦争でゆがんだ人事計画のおかげでした。士官学校19期生、20期生が合計で1,300名もいたのです。この20期生は特別で、幼年学校出身者ばかりの276名。19期生は、実は同期生あつかいの一般中学卒業生でした。戦時中に動員で入った予備役や後備役の将校は復員すればいい。召集が解除されて、民間の仕事に戻りました。ところが、士官学校の生徒は現役です。解雇というわけにもいかずに、戦後の陸軍は初級将校の多さに大変なことになりました。

 1907(明治40)年、陸軍は将来のロシアによるリターン・マッチを予想して、平時25個師団計画を立てました。それだけで歩兵聯隊は100個にもなります。各聯隊が12個中隊ですから、各中隊に少尉が2名、中尉が3名としても所要数は6,000人となる。毎年、歩兵科の候補生を500名採用しても、病気退職や自己都合の予備役志願が出る。ざっと450名余りが毎年部隊に出ていっても何とかなりそうと考えた。

 ところが、軍備の充実は明治の末から大正になっても進みません。ようやっと朝鮮に2個師団が置かれたのみ。近衛師団もいれて、ようやく21個師団ができただけでした。初級将校があまってきます。そこで、陸軍は1914(大正3)年、士官候補生採用数を前年比27%に近い減員をしました。
歩兵科将校では、18期が920名、19期生が1,068名、士官学校を卒業しています。このまま事態を放置したら、19期生以後の人はほとんどが大尉で停年を迎えてしまう。どころか、一部は中尉で終わってしまうという分析もされました。


▼士官学校出を減らそう

 この減員になった年の採用数をあげてみます。当時の軍隊の規模がわかります。歩兵353名、騎兵39名、野山砲兵84名、重砲兵31名、工兵39名、輜重兵28名。合計は574名になりました。

 中・少尉の数が多いのだから採用数を減らす。若い将校の不足は、ベテランの特務曹長出身者を代用しよう。こうしてできたのが「准尉」です。この准尉は、のちの准士官ではなく、「少尉に準ずる尉官」でした。階級章の星の下には丸い座金がついています。でも、これもわずか2年間の実施でおわりました。

 中隊の中尉・少尉の定数があります。歩兵聯隊では2.2人。つまり聯隊全部では2.2×12=26.2人。歩兵でも独立守備隊は2.0。騎兵聯隊は2.4。野砲兵聯隊は3.3。工兵、航空大隊と鉄道聯隊は3.1。電信隊は3.1。輜重兵大隊は4.2。
 准尉と合わせると、歩兵、騎兵、山砲兵、工兵は中隊ごとに4人。野砲兵は5人、電信隊は6人、輜重兵は7人となっています。輜重兵は戦時になれば、輸卒が召集されて規模がふくらむでしょうし、教育にあたらねばならない数も多いからでしょう。

 こうして昭和陸軍に向かっていきました。将校たちの世界は士気が下がり、元気を失っていったのです。さらに追いうちをかけたのは、山梨、宇垣の軍縮でした。(了)







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◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。


◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
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| 荒木 肇 先生 / 戦争 / 自衛隊 |
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(27) 「学力と軍隊」
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(27)              荒木肇
『「学力と軍隊」−文部省の壮丁教育調査』

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□はじめに

 文部科学省が全国一斉に行った学力調査の結果が出ました。大阪府の知事さんも、結果が前回よりよくなり、一安心というところでしょう。

 ところで、こうした調査は一部の「教職員組合」などにとっては、最も憎むべきことのようです。「児童・生徒の序列化につながる」とか、「学力はテストの結果ではない」とか、はては「国家教育につながる」とか、さまざまな意見があるものですね。

 でも、どこかで序列化をしてくれないと、人は安心しないものかも知れません。テストができる子どもにとっては、順位がつかない曖昧な評価では、自分の位置がはっきりしない。「十分に目標をみたしている」、「おおむね目標をたっしている」、「努力を必要とする」などという3段階の評価で、人が満足するものでしょうか。それに、努力とか、頑張りとかいわれても、努力でなんとかなるものでしょうか。
「何十人中、○位です」。こうしたすっきりした評価をされる方が良いのではありませんか。偏差値という言い方に人気が出るはずです。

 競争はいけないとされ、それぞれが「よさ」を伸ばせばいい。そんな世迷い言を誰が言い出したものでしょうか。個性を伸ばせといわれても、私も全くそうですが、たいていが他人に誇れるような個性などありません。個性とはクセです。クセは誰にでもありましょうが、ほめられるクセなどめったにないでしょう。

 自分の位置が明確にならないことへの不安は、テストができない子でも同じです。
 私たちは他人と自分を比べ合うことで成長してきました。違いを知り、それが努力によるものか、はたまた遺伝や環境によるものか。あきらめていい所はどこで、がんばれば伸ばせるところはどこか。それを学んで成長してきました。

 もちろん、自分ではどうしようもないことを欠点にされたり、不当な競争をさせられていると思わされたりすることもあるでしょう。
 でも、不条理なのが世の中というものです。私たちは「緩やかに」あきらめてきたからこそ、ささやかな希望を持って生きて来られたのではないでしょうか。
 今回は、「軍隊と学力」というテーマで、戦前の学力調査を紹介しましょう。


■お詫びと訂正

 前回に平時編制のお話の中で、「懲治隊」について間違いをしました。これはのちに「教化隊」とされた軍隊です。『陸軍兵にしてしばしば刑罰、懲罰に処せられても容易に改悛の状ない者を収容し、教導、感化するところ』という規定があります。したがって、私が書いた「刑務所に入れる程でもない兵を収容した」というのは全くの誤りです。お詫びして、訂正致します。


▼徴兵検査の日に行われた学力調査

 徴兵検査を受ける若者を「壮丁(そうてい)」と呼びました。よく知られているように、兵役の起算日は12月1日です。一家の戸主は、家族のうちに満20歳になる対象者がいた場合、その前年の11月の末日までに「徴兵適齢届」を役場に出しました。詳しい手続きは省きますが、若者たちは前年12月1日から、その年の11月30日までに満20歳に達した者、達する者が検査を受けたのです。学校の学年とは違いますので、注意がいります。

 検査は朝から始まり、徴兵官から合格者は「役種」の指定と、兵科の区分を言いわたされ、午後からは「学力調査」を受けなければなりませんでした。その当時としては常識の部類に入る、この事実が記録になかなか残らなかったことには理由があります。それは、受験者が中等学校を出ていない人だけだったからです。
 戦後になって軍隊のこと、陸軍のことを書いた人は、「学歴所有者」が中心でした。だから、彼らは調査を受けていないのです。作家三島由紀夫も、本籍地で検査を受けましたが、身体虚弱とされたせいでしょう。宣告を受けたあと、検査場から少しでも早く遠ざかろうと父親といっしょに足を速めたといいます。小学校しか出ていない人、中退している人などは午後にはテストを受けていました。

 ご紹介するのは、1932(昭和7)年の「壮丁教育調査」の結果です。
『壮丁教育調査要項』によれば、その目的は、『道府縣壮丁の教育程度及學力状況を調査し、一般教育、特に青年教育の改善進歩に資する』ためとされています。
 まず、受験人員は634,759人です。もっとも多いのが東京の39,732人、続いて大阪の28,749人、兵庫の25,394人、愛知の24,556人、福岡の23,741人となっています。
 少ないところでは、沖縄の4,551人、鳥取の4,934人、島根、山口、福井、山梨、佐賀、高知、徳島の各県が7,000人台で並んでいます。

 また、適齢者の割合も興味深いものです。適齢者が91.7%、越えている人が4.4%、達していない人3.9%でした。越えている人は身体の状況で遅れた、あるいは学校にいて徴集猶予だったなどと考えられ、達していない人は志願兵(満17歳から志願できた)ではないでしょうか。


▼「教育程度」の別

 いわゆる単なる「学校歴」ではありません。当時、地方にあった青年訓練所の入所なども教育程度になっています。青年訓練所とは、市区町村にあった夜学です。
 実業補習学校(前期・後期)という制度もありました。小学校を出た人たちが男女共学で、夜、小学校の教室を借りて授業を受けました。男子たちは、補習学校の在籍生とほぼ同じメンバーが、青年訓練所に所属し、在郷軍人の指導のもとに訓練を受けています。

 壮丁たちは、次のように教育程度を分けられました。
1,不就学 2,尋常小学校半途退学 3,尋常小学校卒業 4,実業補習学校前期修了 5,高等小学校卒業 6,実業補習学校後期修了 7,中等学校在学及半途退学 8,中等学校卒業 9,専門学校卒業及在学  10,大学学部卒業及在学
 これを全体の中の割合でみます。1,不就学者は0.6%、以下区分順に4.2%。25.2%、1.7%、32.3%、18.8%、3.8%、9.9%、2.6%、0.7%です。もっとも多いのが、高等小学校卒業者の32.3%、続いて尋常卒の25.2%。幹部候補生の受験資格がある中等学校卒業者は9.9%、専門は2.6%、大学は0.7%になります。

 道府県別の割合をみてみましょう。不就学者の割合がもっとも高いのは、沖縄県3.2%で、宮崎1.5%が2位。鹿児島1.4%、福島1.2%という順位がみえます。兵士の主流をしめる高等小学校卒の割合がもっとも高いのが大分43.4%です。北海道や岩手、栃木、山口、徳島、福岡などもみな40%以上の高率でした。
 では、低かったところはといえば、青森、山形、島根、香川、熊本、沖縄などです。いずれも20%台となっています。


▼試験問題の実際

第一部 国語(45分間)

一、火の熱は、初め主として食物を調理するのに用いたもののようであるが、時代が進んで燃料の種類が増すに連れて、火の用途もだんだん広くなってきた。木炭や石炭や石炭ガスの火は、部屋を暖めたり物を煮たりするに用いられ、石炭の火は木炭の火よりずっと熱度が高いので、汽車や汽船や工場の重い機械を動かすのに大切なものになっている。
問一、時代が進むにつれて、火のつかいみちはどうなって来たか。
問二、木炭の火と石炭の火と、どちらが熱度が高いか。

二、 三は略します。

四、明治維新後の社會に大なる影響を與えたるものは、西洋思想の輸入にして、其の思想の紹介者として、最も名あるは、福澤諭吉なり。彼は大いに書を著して、或は西洋の事情を述べ、或は理科の知識を與え、處世の道を説きなどして、善く國民を導きたり。而して其の文章は多く平易なる言語を使用したりければ、人よく之を了解することを得て、其の著書廣く行はれたり。
 問七、福澤諭吉は何の紹介者として最も有名であったか。
 問八、彼は書物をあらはして、だれをみちびいたか。
 問九、彼の著書が廣く人に讀まれたのは、その文章にどんな言語をもちひたためであるか。

第二部 算術

(1)我ガ國ノ面積ハ下ノ通リデアル。合計幾方里カ。
内地24763方里 朝鮮14312方里 台湾2332方里 樺太2340方里
(2)10銭ニ三ツノミカンハ1圓50銭デ幾ツ買ヘルカ。
(3)午前5時9分ニ日ガ出テ、午後6時14分ニ日ガ入ルト、日ノ出カラ日ノ入リマデ、何時何分カ
(4)略
(5)或町ノ青年團ノ昨年度ノ経費ハ375圓デ、ソノ3割6分ヲ團費トシテ團員225人ガ負担シタ。團費1人アタリ幾ラデアッタカ。

第三部 公民科

 次の文で、括弧の中の四つのことばのうち、どれを選ぶと正しい文になりますか。一つだけを選んで、その右側に線を引きなさい。わからないのはそのままにしておきなさい。

一、「萬機公論ニ決スヘシ」とは(軍人に賜はりたる勅諭・五箇条の御誓文・教育勅語・戊申詔書)の中にある御言葉である。
二、略
三、國の豫算は毎年(會計檢査院・帝國議会・政府・樞密院)の協賛を経て定められる。
四、五、六略
七、我が國の陪審制度は(行政裁判・軍法會議・民事裁判・刑事裁判)について行はれる。
八、九略
一〇、我が國の貿易の最も重要な取引先は(イギリス・アメリカ合衆国・支那・フランス)である。

 公民科だけ正解をあげておきます。一は五箇条のご誓文、三は帝国議会、七は刑事裁判、一〇はアメリカ合衆国です。
 なお、中等学校以上を出た人、中退者、在学者は、この公民だけを受けました。受験場所も違うし、時間も別だったので記録している人はめったにいません。


▼正答率はどうだったか?

 平均正答率です。国語は63.6%、算術55.6%、公民科47.3%でした。中卒以上の人の公民科のそれは77.2%でしたから、差は大きいものです。

 学校歴による大きな差は、小学校尋常科卒(6年)と高等科卒(6+2年)でした。
 国語では、前者の正解率が49.6%だったのに、後者は70.9%です。ちなみに中学は86.5%。算術でも結果は似ています。尋常卒が43.8%なのに高等卒は60.8%。中学は77.9%でした。公民科でも、順に32.4、52.6、66.5となって、4年間と6年間の差は明らかです。ただし、これが学校の教育成果のおかげだけかというと簡単にはいえません。
 大正中期以降、高等科への進学率は大きく伸びました。国民生活は豊かになったのです。また、せめて高等科くらいという気分があった時代でした。ひと頃のわが国の「せめて高校くらいは」という気分と似ています。

 でも、実際に進学できた人は32.3%だったのは見てきた通りです。もともと、比較的豊かな家に生まれ、地元で高等科へ進学できた人というのは、尋常科でも成績が良かった人たちではなかったでしょうか。そういう見方をしてみると、高等科への進学率も、豊かさの一つの指標になります。低い県はどうしても近代産業が発達していない。出稼ぎや奉公で都会に出るしかないといった状況も見えてきます。


▼道府県の正答率が示す学力差

 さて、国語の全国平均は63.6%でした。これを越すのは、山形県、福島県、栃木、福井、岐阜、静岡、愛知、三重、滋賀、京都、兵庫、島根、岡山、広島、山口、香川、佐賀、熊本、大分、鹿児島です。中でも山形の74.6%、静岡の71.0%、愛知70.6%、佐賀70.7%、熊本の70.9%は立派な数字でした。

 算術の平均は55.6%です。これも越えているのは、青森、岩手、山形、栃木、岐阜、静岡、愛知、三重、滋賀、京都、兵庫、和歌山、島根、広島、山口、香川、佐賀、熊本、大分、宮崎、鹿児島でした。やはり山形の66.7%、静岡61.5%、愛知63.0%、佐賀62%はたいしたものです。

 公民科の平均は47.3%と低いのですが、これも平均以上を並べます。岩手、宮城、山形、栃木、埼玉、富山、長野、岐阜、静岡、愛知、三重、滋賀、京都、兵庫、鳥取、島根、広島、岡山、山口、香川、佐賀、熊本、大分となっています。

 三つの教科の平均は55.5%ですが、上位を並べてみました。
 第1位山形県(68.2%)、第2位熊本県(64.0%)、第3位栃木、静岡、愛知(62.6%)で第6位は岩手(62.3%)です。第7位は佐賀(61.9%)、第8位は鹿児島(61.2%)、第9位は岐阜(59.9%)となっていました。
 気がつかれましたか。精強をうたわれたのは、東北や、名古屋、九州の各師団でした。それぞれには、たいへん学力の高い壮丁が入営していたことがわかります。


▼弱い師団は都会の師団

 大都会の兵隊は弱い。都会はインテリ師団だからだめだ、そんな声をきかされてきました。それでは、東京府はどうだったでしょう。東京の平均は正答率では52.0%。全国平均より3.5ポイントも低い。大阪府は平均49.6%、同じく5.9ポイントも低くなっています。福岡も低いのです。52.9%ですから、その差はわずかとはいうものの、平均以下なのでした。

 東京府の壮丁、中卒、在学者を除いた教育程度別の数字があります。不就学者の6.1%(全国平均は3.5%)という数字、高等科卒業の8.9%はまさにワースト5に入るのです。それでいて、中卒以上の学歴者の数は多い。いわゆる二極分化の典型だったのでしょう。大阪府も不就学4.7%、ただし、高等科卒は22.8%ですが、これも良い数字とは言いかねます。

 近代国家の軍隊というのは、近代的学力がものをいいました。読み、書き、算術です。資料をよみ、書いて考える、情報を伝える、数学的な考え方をするなどの基礎学力です。東北人はねばり強い、九州人は勇敢だとまとめることにも一理ありましょう。しかし、実態を調べれば、精強とされた師団の兵隊さんは「学力優秀」な人たちでした。

「貧困と学力」、以前にもお話ししたかと思います。わずか30年前までは、このテーマは教育社会学の世界では花形でした。みんなが中流になった(と、マスコミも評論家も語った)。それから誰も、貧しさについて学力との関係を言わなくなりました。ほんとうは、今も、問題は残っています。

 ある政党が言うように、子どもがいれば誰でも毎月、かなりの額がもらえる。そうなったら、きっと、学力は向上するのでしょう。もっとも、それが子どもの知的環境や、文化財のために使われるのなら……という話ですが。
 今回はちょっとめずらしい資料をご紹介しました。






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◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。


◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
2009-09-18 11:50 | 記事へ | コメント(3) | トラックバック(0) |
| 荒木 肇 先生 / 戦争 / 自衛隊 |
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2009年09月15日(火)
9/16 FC大阪サッカークリニック
9/16 FC大阪サッカークリニック告知



●FC大阪サッカークリニックに参加
http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/1008/

●FC大阪サッカークリニック動画
http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/1009/


●FC大阪オフィシャルサイト http://fc-osaka.com/
●FC大阪オフィシャルブログ http://ameblo.jp/fc-osaka/
大阪人は、FC大阪を応援しよう 



南港JOGABOLA
9月16日 (水曜日)20時〜
費用は 初回1500円   二回め以降は 2000円です。

ぜひぜひ ご参加を♪

コーチは
森岡茂先生 FC大阪選手

八幡浜工高から1992年にガンバ大阪
1996年にはU-23アトランタオリンピック日本代表
 ブラジル代表を破りマイアミの奇跡と呼ばれる

1999年は京都パープルサンガ
2000年からヴィッセル神戸
2002年から再びガンバ大阪
2006年からは関西リーグ1部・
バンディオンセ神戸(現・バンディオンセ加古川)に加入

現在 FC大阪 監督

高橋健史 FC大阪選手

1997 ガンバ大阪ジュニアユース
2000 ガンバ大阪ユース
2003 立命館大学
2007年 - 2008年 徳島ヴォルティス

そして 現在 FC大阪 選手近藤祐輔 FC大阪選手もコーチです、



ぜひぜひ ご参加を

子経験でも おギ気軽にご参加を♪ もちろんおつるも参加です、
2009-09-15 23:55 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| サッカー フットサル 大好き |
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緊急告知 今からです●プロジェクト初のラジオ番組  日本シルクロード科学倶楽部 




ラジオ番組 

シルクロード核ハザード 第一回




FM白石 ラジオ番組
http://www.830.fm/paso.html
  
 全国 インターネットで聴けます



●シルクロード核ハザード 第一回
「メガトン級核爆発が楼蘭遺跡の近くで」

出演 高田純理学博士
   札幌医科大学教授





放送日時 平成21年9月15日 火曜
     午後 8:00から60分
.
番組宣伝の音声はこちら
http://www.voiceblog.jp/bougojunta22/


番組は皆さまからの募金で制作されます。
ご協力ください。

●シルクロード科学プロジェクト基金
http://www15.ocn.ne.jp/~jungata/SSPFound1.html




シルクロード核ハザード 第一回
「メガトン級核爆発が楼蘭遺跡の近くで」
出演 高田純理学博士
札幌医科大学教授


放送日時 平成21年9月15日 火曜
午後 8:00から60分
.
番組の感想を次にお寄せください。
シルクロード科学プロジェクト 9.15ラジオ番組係り

メール先: bpgoprojectj2+j5@gmail.com

締め切り 9月20日
3名様に、10月1日発売予定のJ博士の新刊をサイン入りでプレゼントいたします。
「核の砂漠とシルクロード観光のリスク」
奮ってメールください。お待ちしています。
2009-09-15 20:00 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(6) |
| 日本シルクロード科学倶楽部 / 中国の核実験 / 東トルキスタン ウイグル |
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2009年09月12日(土)
NHK 抗議 京都デモ レポート
9/6 NHK抗議 京都デモ レポートです。


お仕事が忙しくて、なかなか更新できないでいました。動画ですでにアップしていますが、京都デモの報告です。

NHKの抗議への参加は、大阪で2回、今回は3回目

Kinaさんがいつも頑張ってくださっていておつるは便乗して、参加しているだけで、なにもお手伝いができていなくて心苦しいです。

京都は、わたしの大好きな街

母が京都の出身なので、子供の時から、十三まいりに嵐山
そして毎年、妹と私と母で着物を着て、お花見に京都のあちこちのお寺にお参りしたり・・・
妹が長く、京都で一人暮らしをしていたので何度も訪ねたり

思い出の場所なのです。

1000年前 源頼光が安部晴明に教えを乞い、京都で祈りをいただいて
鬼退治をしたというゆかりの地、京都

そんな京都で、中国の核実験について、台湾問題について NHKに抗議し、京都の人々にアピールする・・・

中国という鬼、NHKという鬼を退治するための京都への祈りです。

京都に着いて、新潟からの第一義さんと待ち合わせ。
彼の笑顔にいつも励まされます。

駅で、参加されると聞いていた元NHKの内部告発者 立花さんと出会い、ごあいさつして、三人で集合場所へ。


到着すると、もうすでに朝早くから、kinaさんと無名人が
用意して下さったプラカードや旗も並べられていて
すっり準備ができていました。
いつもなにもお手伝いできてなくてごめんなさい。

そしてトラの着ぐるみの大圓さんやたまさんとごあいさつ
最近、ブログの関係でお知り合いになった ご近所さんMさんとはじめての出会いで感激!!!

そして、たくさんの参加者さんとご挨拶をしました。
亀岡から来られた方、京都地元からの参加者さん
素敵な女性がたくさん ご参加されていて一人で来られていた方も
お見かけして感激でした。

石川県から来られた方ともご挨拶。

老人会の集まりを断ってきた、おれはまだ老人会じゃないとおっしゃるお元気な年配の方との出会い、
生中継をするとパソコンでご準備されている方、大きなスピーカーを
用意して下さった方・・・それぞれの参加者さんの心意気に感動です。

おつるの講演会に来て下さっていた 伊58さん、
そして、K様、稲田朋美議員のご両親様

本当に暑い中 ありがとうございます。

いつもの仲間のメンバーさんたちともご挨拶

天使のノア姫にも久しぶりに会えてとっても嬉しい。
美しい彼女の存在は、まわりに幸せと勇気を与えてくれます。

集会がはじまり、kinaさんは台湾研究フォーラムの永山先生の
メッセージを読みあげられました。

京都にお集まりの心ある関西の皆様

いかにNHKが沈黙を保とうと、番組の歴史捏造と、その隠蔽工作が次々と明るみになる中、この公共放送の大罪をさらに一層国民に認知させ、その解体を促すべく、全国各地の連帯を強化して参りましょう。

なおNHKは信頼と権威で支えられています。その権威が偽りであることを明らかにすれば、あの放送局の存在基盤には大きな衝撃が走るのではないでしょうか。

遠き関東より皆様のご健闘をお祈り申し上げます。

台湾研究フォーラム会長 永山英樹
 

続いて、おつるは札幌医科大学高田教授のメッセージを読み上げました。

9.6 NHKの大罪を告発する京都集会での声明
 みなさん、こんにちは、高田純です。

 日本とアジアの現状と将来を心配されているみなさん、みなさんの現状を打開したい熱い魂に、最初に、こころより敬意を表します。

 本日はNHKの大罪を告発する集会デモです。お忙しい中、多数お集まりいただき、ありがとうございます。今回もまた、日本シルクロード科学倶楽部の大和撫子・副会長の鶴姫に、私の声明を読み上げてもらいます。

 国民のために真実を報道すべきNHKが、嘘をついて国民を長年にわたり欺いています。全くもって、けしからんことです。みなさんもそう思いますか!?

 親日の台湾の人たちをも、番組「Japan デビュー」で裏切りました。国民を裏切り、受信料を強制徴収するNHKは、全くの独裁体制です。それはシナ・中共の独裁体制と同じです。国民の側に立っていません。

 NHKが放送しなかった楼蘭遺跡周辺の不都合な真実のことは、みなさんは既にご存知ですね。
中共がウイグルの人たちの土地でメガトン級の核爆発を強行したのです。それは実験と呼べるようなものではなく、核の蛮行、悪魔の蛮行です。 私が推定した3発の核爆発でも19万人が殺されています。中共の機密情報では、75万人が殺されているのです。

NHKの国民を裏切る大罪の源流は、中共軍に引率された1980年の楼蘭遺跡の取材にあったのでした。その後、シルクロード番組担当者は、NHKの中で出世しました。彼らがNHKの幹部になっているのです。これが、NHK大罪の源流です。国民裏切りです。中国には民主主義はありません。人道もありません。恐怖政治の横行、文化大革命では7千万人が虐殺されました。私たち真っ当な日本人が付き合える相手ではありません。

6月6日NHK会長に宛てたシルクロード犯罪番組に対する公開質問状に回答がありましたが、全くの嘘をついた呆れた内容でした。現会長は、公共放送の代表者として相応しくないことが明確になりました。

NHKには、シルクロードでの人権問題を正しく報道する力はありません。反省の全くないNHKは、解体するしかありません。みなさん、どう思われますか?
 
人権人道問題には国境はありません。シルクロードでの人権人道問題は、対岸の火事ではありません。NHKには、ウルムチの悲劇をまともに報道できません。幹部たちは、まるで中国中央電子台の職員のようです。

・ NHKは危険な偽装番組を作るな!
・ NHKは問題を引き起こした職員を処分しろ!
・ NHKの国民裏切りは許さないぞ!
・ ノーモアシルクロード!
・ NHKは国民に謝罪しろ!
・ 国民を裏切るNHKは解体するぞ!
・    受信料を返せ!
 
 ありがとうございました。

高田純 理学博士 日本シルクロード科学倶楽部会長

平成21年9月6日



そしてデモがスタートしました。
暑い暑い一日でした。

着物を着て コールし続けていると熱中症みたいになり
声が枯れて低い声しかでなくなってきました。

倒れるかもって、このまま死ぬかもと思いました。
それぐらい暑かった。

しかし気力でさけびました。

kinaさんや リコリスさんもコールがんばりました。

そしてノア姫が はじめてコールしました。
かっこよくて美しくて勇気がでました。

おつるは途中、参加者さんが熱中症にならないか心配で
列の前から後ろまで 見にいきましたが
みなさん、汗びっしょりになりながら、コールして下さり
胸をうたれました。

女性もたくさん参加していて、おつると同世代ぐらいの方も
たくさんおられました。
いつも来てくださり お見かけするウイグルtシャツの美女もおられました。  やはり関西ジャンヌダルクがいっぱいおられました。
涙でそうでした。

いまどきの女性なんて、やれグルメだ、ランチだ、
旦那の愚痴や自分の欲得のことしか思わず
人の悪口や噂話や不倫なんかで ストレス発散してるような 
汚い人がいっぱい。

でも このデモに参加して下さった女性は 本当に女神のように
美しかった

京都のNHKは小さな建物でしたが、窓からこっそりこちらを見ている職員がいました。
わたしたちの叫びが、NHKの職員さんのたってひとりにでも
届いて、そして考えてくださること、心いれかえてくれることを
望みます。

ひとりで企画、準備された kinaさん
そしてタナベさんや リコリスさん 大圓さん、たまちゃん

参加されたみなさん。

素晴らしい動画を撮影してくれたブレノさんや
体調が万全でないのに 頑張ってくれたノアちゃん

そしてすべての参加者さんに心から感謝します。

これからも ともに がんばりましょう


2009-09-12 01:27 | 記事へ | コメント(12) | トラックバック(3) |
| 東トルキスタン ウイグル / 日本シルクロード科学倶楽部 / 台湾 NHK抗議 |
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2009年09月09日(水)
9/6 NHK抗議運動 in 京都 動画 2/2
9/6 NHK抗議運動 in 京都 動画C出発です!! 9/6 NHK抗議運動 in 京都 動画D 9/6 NHK抗議運動 in 京都 動画E 9/6 NHK抗議運動 in 京都 動画F
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9/6 NHK抗議運動 in 京都 動画 1/2
レポートは後日になりますが、9/6 NHK抗議運動 の動画です 暑い中、ご参加下さった皆様有難うございました。 9/6 NHK抗議運動 in 京都 動画@ 9/6 NHK抗議運動 in 京都 動画A 札幌医科大学高田教授メッセージ・台湾研究フォーラム永山先生メッセージ 9/6 NHK抗議運動 in 京都 動画B元NHK 内部告発の立花孝志さんのお話  
2009-09-09 03:47 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(4) |
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2009年09月05日(土)
「南モンゴル学生運動」デモ オルホノド・ダイチンさん
モンゴル自由連盟党幹事長    オルホノド・ダイチンさんより

デモのご案内をいただきました。

9月12日に、私たちは1981年に70日間続いた「南モンゴル学生運動」を記念するデモ行進を行う予定にしております。

集合時間と場所などをフアイルでお送りさせていただきます。

お忙しいとは存知ますが、ぜひとも参加していただければ幸いです。お知り合いの方にもお声をかけていただいて、たくさんの方に参加していただきたいと思っております




関東の方はぜひ、ご参加くださいね



学生事件デモ行進のご案内


■日 時
 9月12日(土曜日) 14:00集合、14:30開会、15:30出発

■場 所
 六本木 三河台公園

■コース
 三河台公園 → 笄公園(流れ解散)

■主 催
 学生事件デモ実行委員会
        呼び掛け人 オルホノド・ダイチン(モンゴル自由連盟党幹事長)





●学生事件デモ行進のご案内


 1981年、南モンゴル(いわゆる内モンゴル自治区)で、
中国共産党政府の「内モンゴルへの漢民族入植」政策に反対した、
モンゴル人学生による学生運動が行われた。
中華人民共和国が建国された1949年から、南モンゴルへ大量に入植した漢人達が、
1966−1976年の間に、「内モンゴル人民革命党」事件当時、
最前線に立って、何十万人ものモンゴル人を内モンゴル人民革命党員として拷問、虐殺した。
中国共産政府は内モンゴルに対して、またも、大量の漢人が入植してくることを
止めてはいけない、と言う内容の共産党中央政府の「28号文書」を通達した。
学生運動は、その通達に対しモンゴル人学生が反対したことから始まり70日間続いた。

中国共産党は南モンゴルで、「文化大革命」時には何十万もの「反党叛国内モンゴル人民革命党員」の
掘り出しを行い、「学生運動」終結時には「膨大な民族分裂集団」を掘り出すことを行った。

それから28年、今日の南モンゴルでは「西部大開発」という政策を打ち出し、
またも南モンゴルに大量の漢人を入れている。その結果、南モンゴルの原住民で、
主人であったモンゴル人は、現在、僅か17%(モンゴル人:420万、漢民族:1900万)
しかない少数民族となった。

中国共産党政府の南モンゴルへの人口侵略,文化侵略,経済侵略から政治的侵略統治などが
進んだ結果、独裁権力を行使し、天然資源を強奪し、環境を破壊している。
また、モンゴルの土壌に合わない過農業を行い、草原の砂漠化をもたらしている。
そして、そのすべての責任をモンゴルの伝統文化・経済に転嫁し、「放牧禁止」、
「生態移民」などの政策を行い、南モンゴル人はモンゴル語で教育を受ける権利及び、
モンゴル文化に根ざした生活環境さえ失いつつある。

過去、そして現在の中国共産党による南モンゴル弾圧から言えることは、
「内モンゴル自治区」と言うのは、ただの見せかけに過ぎず、実は何の権利もない
植民地に過ぎないことが簡単に分かる。

 我々、南モンゴル人達は、28年前の南モンゴル人のために中国共産党と戦った、
勇敢なるモンゴル人の学生達とその運動を顕彰し、このことを世界に訴え、
この運動に続くべく南モンゴルのモンゴル民族の人権及び自決権取り戻したい。


                                   オルホノド・ダイチン

*******************************************

またMさんより、内モンゴルへ行かれた日本人の感想を
教えていただきました。


拝啓、ニュ―スありがとうございます。

先日、内モンゴルへ仕事で行ってきました。驚きました。草原は開発だらけの穴だらけ、
そのまま、中国人は帰ってゆきます。環境問題?そんなのは関係ないという話で、
とにかく利益ばかり追求の考えです。

まさに資源の略奪、自然破壊です。これは犯罪です。こんなに乱開発をしていても、
現地のモンゴル人性質には何らの恩恵はありません。
仕事がありません。内モンゴルにはお金は入りません。
モンゴル人は草原から、法律にもとずき立ち退きを迫られて都市に移り住んでいますが、収入がありません。

モンゴル人で定期収入がある人は恐らく誰もいないのではと思い、質問しましたら、
「誰もいません」

鉄道の職員も全部中国人、警察も全部中国人、公務員は全部中国人、立ち並ぶ商店が全部中国人。

ホテルの従業員も中国人しかいません。これはおかしい!これは内モンゴルの中心、地方も同じです。


確かに警察、軍隊にモンゴル人は入隊出来ますが、殆どの人間はいじめられて数年以内に退職するそうです。
定期収入が出るところは全部中国人が占め、闇市場、闇タクシーも全部中国人。
とにかく良いところは全部中国人で占められています。
これがなんとモンゴル全体の現状です。


少数民族圧迫、弾圧が中国の基本政策で、人道的見地から許されない!

内モンゴルのみなさんの話を密かに聞きましたら、どこの家族でも行方不明者(政治犯)が
必ず1名いました。
家族はその行方を忘れようとしていて、わたくしには涙乍ら話をしました。
行方不明者たちはモンゴル族の優秀な方、若者ばかりでした。(1970年代の終わり)

中には政治犯として密かに処刑され、処刑に使用した銃の弾薬代まで当局から請求がきて
支払わされた家族がいました。
これには驚きました。やることがあくど過ぎる。

文革の時の話:いわれなき罪を着せられて、110回も大衆批判され、刑務所へ入れられ、
盲目になり、脱走者が出るたびに責任を問われ、入り口に寝かされ、ようやく生きて出獄でき、
直ぐになくなりました。

理由は人民党を結成たから、党員の名前を云え!と言うことでした。全く知らないのでとうとう刑務所へ入ることになりました。かろうじて処刑は免れました。

この民族の恨みは累積し、必ず将来爆発します。私は、今、行動を起すな!

時を待て、必ず時がくる。人材を育てて将来に備えよ!と言いました。

日本が満州を建国たのには理想があり、発展に尽くしました。
これらに比べると中国のやることは人間のやることではない。

モンゴル人は中国人を全く信用していません。
中国語を話すのが嫌で、日本国籍になる若者が増えています。
私の知っているモンゴル人で絶対に中国語を話さない、学ばないと言う信念の人がいます。


以上。皆さんのご活躍を祈ります。私もできる限り支援します。


2009-09-05 23:54 | 記事へ | コメント(11) | トラックバック(5) |
| チベット・ウイグル・サウスモンゴル 三民族 / 日本シルクロード科学倶楽部 / 中国の核実験 |
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2009年09月02日(水)
★チャンネル桜 告知!NHK「JAPANデビュー」に抗議する国民大行動 京都
●kinaさんより、チャンネル桜のホームページ 動画で京都NHKデモの告知していただきました。 京都府京都市 NHK「JAPANデビュー」に抗議する国民大行動 in 京都 日時 : 平成21年9月6日(日) 13時00分〜15時10分頃 内容 :   13時00分 光徳公園 園内・滝の前 集合 (JR「丹波口」駅 徒歩4分、阪急「大宮」駅 徒歩15分)   13時20分 集会   14時00分 デモ出発           … 光徳公園 → 大宮通を北上 → 後院通を北上 → 千本通を北上 → 丸太町通を右折 → NHK京都放送局の角を南下 → 二条児童公園(二条城裏) 解散 主催 : きなの会 ご連絡先 : TEL 080-5707-7078 手嶋 (kina)  MAIL uighur_uighur_tm@yahoo.co.jp NHKの捏造・歪曲報道に対する抗議行動が、再び京都で予定され ています。一人でも多くの方の参加をお願いします。
2009-09-02 02:32 | 記事へ | コメント(4) | トラックバック(9) |
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2009年08月31日(月)
動画 ★中国の核実験 「大阪読書研究会」 鶴姫おつる講師第二弾 「講演会」 
8/29大阪研究会にて 動画は、とても 恥ずかしいので 最後のほうのほんの一部分だけ公開します まだ科学的データがなく、ほとんど報道されずしられざる 「チベットの核被害の実態」の可能性 (チベット亡命政府情報・国際関係省環境開発部(EDD)発行 「グリーンチベット」1998年ニュースレターより) チベットのアムド地方の核実験、核廃棄物による影響と被害 の資料を読み上げているところです。 熱く語ったあとで、お着物が乱れておりますが失礼 となりにいらっしゃるのは、沖縄冤罪訴訟の南木先生です
2009-08-31 11:52 | 記事へ | コメント(14) | トラックバック(3) |
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●中国の核実験 「大阪読書研究会」にて 鶴姫おつる講師第二弾 「講演会」レポート
平成21年8月29日(土)午後6時より

旧大阪市立梅田東小学校あとの梅田東学習ルームにおいて

第67回「大阪読書研究会」

演題:中国の核実験の犯罪性、
   女性の目から見た中国の実態

 
 として 鶴姫おつるの講演会を

南木先生の主催で、開催していただきました。


会場には、レオさんご夫妻、大圓さんが駆けつけて下さり相方も参加してくれました。
レオさんご夫婦と大圓さんが、また来て下さり本当にうれしく思いました。

 主催:南木隆治先生/沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会
           自由主義史観研究会理事
           新しい歴史教科書をつくる会本部評議員
           大阪の教育を正す府民の会常任幹事


会場は廃校となった学校。講演会場は教室をそのまま使ったものでまるで授業をするような雰囲気のお部屋

 最初に 南木先生よりご紹介され 話をはじめました。
前回の殿岡先生主催の中国民族問題研究会とはまた違った参加者さんの顔ぶれでした。全部で20人ほどの人数でしたが大阪府の教育を正す会の教育の荒廃を憂う教師の方もたくさんおられました。


前回の中国民族問題研究会と同じ内容でという依頼でしたので
ほぼ同じ内容でお話いたしました。


@私と中国問題

私のような一般人の女が、チベット問題や東トルキスタンの問題に
関わるようになった、昨年2月をキーポイントとしたいきさつ

カトリックのクリスチャンであり洗礼名をジャンヌダルクとつけてもらったこと

●それに絡めて、日本人の戦前までの自然な信仰深い生き方、
「悪いことしたら神様のバチがあたるよ」とか道端の御地蔵さんには手をあわせるとか・・・その自然な信仰心が、戦後失われてきつつあること・・
中国共産党のいう、共産主義・マルクス・レーニン主義のいう信仰の否定、宗教を麻薬や悪魔とよぶ民族性に現代の信仰心を失った日本人は洗脳されているのではないか・・

●カトリック正義と平和協議会への問題視と戦い

前回よりも詳しく カトリック正義と平和協議会の問題点反靖国・反自民・憲法9条・玉造教会の状況などもお話しました。

●中国の宗教弾圧
バチカンに従わない中国天主愛国教会400万人と弾圧されているカトリック地下教会7000万人の関係
中国が地下教会の信徒を弾圧し、逮捕・拷問していること。
カトリック正義と平和協議会の司教が、バチカンに背き、わざわざ中国で中国共産党側の天主愛国教会でミサを行ったことに対する疑問

●聖母マリアの嘆きと日本の守護の関係と祈り

●チベットの雪山で銃撃されている亡命者の動画を
はじめて見た時の衝撃
その亡命者が少年僧や尼僧、6歳〜10歳の子供にむかって動物を漁師が狩猟するかのように中国兵が狙撃し殺していること

●中国のサッカーの試合における民族性
「犬を殺せ」と叫び、日本の国旗を燃やし日本のサポーターにペットボトルをぶつける一般の中国人
日本のサポーターの礼儀正しさとの比較

●ウイグルの少女による昨年2月の飛行機爆破事件を
テロリストと報道した中国の報道の欺瞞

●チベット騒乱

●そしてチベットデモ・ウイグル・NHKデモへの参加

●米流時評さんのご提案のフリーチベットブロガーズへの参加
オリンピック開会式のキャンドルイベントの呼びかけ

私のブログからの発信、日本中のブロガーとの連携でアメリカ・カナダ・10万人の亡命チベット人のいるインドスペイン・リトアニア・オランダ・アルゼンチン・ベルリン・ロンドン・・・ 100万人を超える人々が全世界の抗議と祈りのキャンドルとあわせて日本中の
一般の人々がキャンドルをともしたこと。




高田教授との運命的な出会い

A札幌医科大学 高田純 理学博士について

  核爆発災害、放射線防護学の専門家で、米ソの核実験災害を中心に世界の核災害地を調査し、最初に中国の核実験災害の科学報告をした日本の科学者です。核災害の被災者の立場に立つこと、核放射線に関わる国民保護課題に取り組み将来の危機に備えること、医療・エネルギーなどの分野での核放射線技術の正しい利用を強く意識して研究教育そして啓蒙に取り組んでおられます。

中国の核実験災害調査は、2000年の隣国カザフスタン国境調査に端を発しています。その後、2002年に開発した核爆発災害を予測する計算方式RAPSを、楼蘭周辺でのメガトン級地表核爆発事例に応用されました。。その結果を2008年7月に日本語図書「中国の核実験」を出版し、同年10月ブエノスアイレスでの第12回国際放射線防護学会IRPA12で報告し、その時アメリカでラビア・カーディルさんとも出会われたのですがそして、英語・ウイグル語併記版の「中国の核実験」が2009年3月に、多くの人たちの支援を受けて刊行されました、2008年10月に世界ウイグル会議総裁ラビヤ・カーデル氏、同年12月に日本ウイグル協会会長イリハム・マハムテイー氏、2009年1月にダライ・ラマ法王日本代表部事務所代表ラクパ・ツオコ氏と会談し、被害者である彼らの祖国を、核被災調査で応援することを表明されました現職は札幌医科大学の物理学教授で、大学院医学研究科で放射線防護学を指導されていまして前職は 広島大学原爆放射線医科学研究所国際放射線情報センター助教授、京都大学原子炉実験所助教授、第19期日本学術会議研究連絡員、主著に「世界の放射線被曝地調査」講談社、「核爆発災害」中公新書、「中国の核実験」医療科学社などがあります。現在、放射線情報センターを主宰、国民保護を中心課題とした放射線防護医療研究会の代表世話人を務めています。


 中国の核実験
 高田教授のあゆみ、

●東京新聞の記事
 http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/612/

 http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/613/


●日本シルクロード科学倶楽部について

中国共産党が強行したシルクロードでのメガトン級大型核実験災害および核兵器関連施設周辺の公害に対する科学・医学調査を主とした人道的科学プロジェクトです
20世紀半ばに中国共産党に侵略された東トルキスタン、チベット、南モンゴルの人命を無視した恐怖政治下での、人権・人道に関わる様々な自由がそれらの社会で欠落しています。148万人以上が死傷したと考えられる楼蘭周辺でのメガトン級大型核実験と広範囲に持続する健康被害と残留する核汚染、そしてチベットの地にある核兵器関連施設からの公害による周辺の人々の健康被害が放置されたままとなっています。
2008年の中国の核実験報告の出版後、著者は世界ウイグル会議ラビア・カーデル総裁理解のもと日本ウイグル協会との共同で東トルキスタンでの核災害を調査してまいりました。さらに、ダライ・ラマ法王日本代表部ラクパ・ツオコ代表の理解を得て、チベットの地での核災害の調査を開始することとなりました。これまでの調査プロジェクトを、中央アジアのシルクロード地域に拡大し、全貌を解明し人道支援することを目的とするプロジェクトにまとめることになりました。これが、今回、新たな形で始められるシルクロード科学プロジェクトです。プロジェクトは中国政府がシルクロードに隠してきた未曾有の核災害を、国内外の人道的関係諸団体および個人の協力を得ながら解明が目的です被災者側の立場から、客観的に核災害の全体像を解明する姿勢です。人道と科学を原則に、シルクロード科学プロジェクトを推進してまいります。みなさまの応援、よろしくお願い申しあげます。


 ●高田教授の著書「中国の核実験」のご案内

Bシンポジウムにおける
 アニワル医師のひつじ飼いのおじいさんのお話
 http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/751/

C女性、クリスチャンの眼から見た
 イスラム教徒の女性への強制中絶の悲劇

 日本のジェンダー、フェミニズムの洗脳による戦後の現代女性の中 絶への安易な考え方では理解できないだろう
 信仰心のあるカトリックやイスラム教の女性の中絶の苦しみ、神様 に背くことは人間性を破壊すること

Dほとんど報道されずしられざる「チベットの核被害の実態」の可能 性(チベット亡命政府情報・国際関係省環境開発部(EDD)発行
「グリーンチベット」1998年ニュースレターより)
 チベットのアムド地方の核実験、核廃棄物による影響と被害
 このチベットの科学的調査が必要であること
 科学的データがなければ、

 中国の隠蔽と日本の中国寄りの報道 NHKの中国共産党にだけ配 慮した変更報道に立ちむかうことが不可能。
 今後の、高田教授の調査の必要性・ダラムサラの子供たちの健康調 査などの必要性

Eまだ立ち上がったばかりで会員も少ない
 今後の日本シルクロード科学倶楽部への支援のお願い

 そしてご参加への呼びかけ・・・ 

******************************************

終了後、質問と議論の時間となり、南木先生や南口先生 チャンネル桜の方より「中国の民族性」「歴史教育」のお話 
学校の人権教育・平和教育の中で、8.6平和投稿日など、フランスの核実験などの教育がなされるが中国の核実験に対しては、取り上げられないことなどなど・・これからの世界への日本人の取り組みなど

貴重なお話をたくさんいただきました。

また参加された方にはNHK問題で高田教授が公開質問状を出したあとNHKからの答えに核実験について知らないという嘘の回答が
あったが取材班の本が出ていて、そこに知っていたことが書かれているという事がありましたが

そのシルクロード取材班の証拠の本を読み上げて下さる方も
おられました。

カトリックの英知大学をご卒業された 和田神父様・井上神父様の
教え子である美しい女性も 私のブログを見て参加してくださり
またNHKデモで何度もお見かけした方がいらして固く握手をしました。

他にもいろいろな年代の方が参加してくださいました。

私の拙い話を一時間以上も聞いて下さり、本当に感謝いたします。

日本シルクロード科学倶楽部に入会の約束をして下さった先生も
おられました。

この講座の前には、午後三時からの歴史講座も
あったのですが、明智光秀について非常におもしろい講演をなさった黒田先生も スタッフとしてお手伝い下さいました。

終了後、懇親会があり、美味しい美味しいビールをいただきながら 参加者さんと熱く語り合いました。


レオさんご夫妻や大圓さんも ねぎらって下さり
他にも素敵な女性や男性方との出会いに感謝いたしました。


憂国の志士である参加者さん、南木先生

本当に 有難うございました。

ご用事で参加できないが応援してますよと
言ってくださった皆様にも励まされました。


今後とも 日本シルクロード科学倶楽部の応援をよろしくお願いいたします。

選挙では、マルクスレーニン主義、共産主義を
根本とした政党が勝利するという異常な結果となり、日本の危機ともいうべ事態ですが



でもこれは、日本国民のことを本当に考える政党は結局は
どこだったのかという真実に、戦後60年自虐的に洗脳され
マスコミに踊らされ、自分の頭で考えることのできない人々の

めざめのための 布石でしょう。

きっとこれから、本物の志士がたちあがることでしょう。

今日は関東地方を台風が襲っています。
日本の神様もお怒りなんでしょう。


私は、ともに歩む人、出会いの感謝し、お力をいただき
勉強させていただき、日本の子供たちのために 愛のために
苦しい状況の チベット・ウイグル・内モンゴル・台湾などの
子供たちの未来のために これからも戦っていきます
2009-08-31 03:24 | 記事へ | コメント(14) | トラックバック(2) |
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2009年08月28日(金)
★「講演会」 中国の核実験の犯罪性、女性の目から見た中国の実態
おつる講師 第二弾です

第67回「大阪読書研究会」

日時:平成21年8月29日(土)午後6時より

講師:日本シルクロード科学倶楽部副会長

   中曽千鶴子(なかそ ちづこ) おつる

演題:中国の核実験の犯罪性、
   女性の目から見た中国の実態

場所:梅田東学習ルーム

大阪市北区茶屋町1-40(旧大阪市立梅田東小学校) 

   TEL:06-6359-5832

    http://www.kyoiku-shinko.jp/sisetu/08/index.html

会費:金1,000円



************************************************
少しおつるが自分のブログに載せるのは、
非常におこがましく、お恥ずかしい限りですが・・
身に余る嬉しいお誉めの言葉をいただきました・・・・↓


主催 沖縄集団訴訟、歴史教科書の 南木先生より 


 日本シルクロード科学倶楽部
(札幌医科大学教授 高田純先生会長)  

副会長 中曽 千鶴子先生は、シルクロードで行われた中国核実験の想像を絶する非人間性と、その被害について、研究、啓発を続けて来られた気鋭の、そして非常にチャーミングな女性です。

 つい先日まで特段の社会活動はしておられなかった彼女が、事実を知って動き始めたその勇気と、純粋な気持ちを私は高く称えたいと思います。

社会運動はウイグル人の人権を擁護し、中国の核実験の非道さを告発することで始められましたが、彼女の活動範囲は急速に広がりつつあります。もともとこれら社会運動以外に、彼女は非常に多彩で、多方面で活躍して来られました。その経験が全て現在の運動に注がれ、大きく実っている事を少し彼女の話を聞けばどなたもすぐに理解される事と思います。

一度話を聞けば、誰も彼女を仲間にしたいと思うでしょう。

大変難しい日程で、しかも急なご案内ですが、多数のご参加と、
熱心な議論を期待しています。

なおこの日、黒田君の歴史講座が大阪読書研究会の前にあります。

黒田君からまた別途案内があると思いますが、併せてご出席賜ると幸甚です。

全て終わってからいつものように居酒屋で2次会をいたします。

安いですので、是非こちらにも皆様参加してください。


***************************************

大阪 黒田さんより↓

大阪の黒田裕樹です。

南木先生から既に案内をいただいておりますが、今週土曜日の8月29日の午後6時より第67回「大阪読書研究会」が行われます。
選挙前の忙しい一日ではありますが、「愛する我が祖国を何とか立て直したい」と思う気持ちは皆同じです。
我が国の未来のために、思い思いの場所で心をひとつにして頑張っていきたいと思いますので、是非とも多数の皆様のご参加をお願いいたします。

尚、同じ8月29日の午後3時からは、同じ会場で
第4回「黒田裕樹の歴史講座」を行ないます。
今回の内容は「明智光秀 〜謀反人(むほんにん)の言い分」についてですが、
ブログをご覧になった読者の方が初めて参加下さる予定になっております。講座の主宰者として、またブログの運営者として大変喜ばしく思います。

第4回「黒田裕樹の歴史講座」
日時:平成21年8月29日(土)午後3時より
内容:「明智光秀 〜謀反人(むほんにん)の言い分」
講師:黒田裕樹


場所:梅田東学習ルーム

大阪市北区茶屋町1-40(旧大阪市立梅田東小学校) TEL:06-6359-5832

    http://www.kyoiku-shinko.jp/sisetu/08/index.html

会費:無料(カンパを受け付けておりますので、ご協力をお願いします)




尚、予約の都合上、当日の教室一覧(午後)の掲示板に「大阪読書研究会」と書かれているのが「黒田裕樹の歴史講座」の会場となります。ご注意下さい。

黒田裕樹 rocky96@nifty.com
「黒田裕樹の歴史講座」
http://rocky96.blog10.fc2.com/

2009-08-28 00:27 | 記事へ | コメント(7) | トラックバック(1) |
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2009年08月27日(木)
◆パラオ ペリリュー島 と パラオのジャンヌダルク その愛B/3
私の洗礼名 ジャンヌダルクは、フランスを救った聖人

今では、勇敢な女性のことを「ジャンヌダルク」と呼びますね。
関西にもノアちゃん、さくらちゃん 愛媛のジャンヌダルクさん
はじめ、多くのジャンヌダルクと呼ぶべき美しい関西女性が
日本を守るために活躍しています

また私が、憧れてやまない、瀬戸内 三島水軍のジャンヌダルク
鶴姫伝説も有名です。 鶴姫の名はそこから頂きました。

しかし、日本パラオ協会の黒岩様に教えていただいた

パラオのジャンヌダルクのお話は胸をうちます

三島水軍の鶴姫ジャンヌダルクも このパラオのジャンヌダルクも

愛する人のため、愛のために、

そして国を守るため

戦って亡くなりました。


私は彼女の死を悲劇だとは思いません。
彼女は何よりも幸せだったはずです。


私は彼女の真実の愛、純粋さと 美しさ
そして何かを守るための勇気と一途さに 感銘いたしました。

パラオのジャンヌダルクは パラオに当時花街として存在した
「鶴の家」という料亭の遊女でした。
ここにも「鶴」という名が出てくることに 偶然ですが
わたしは感慨深いものがあります。

●黒岩様に頂いた、「鶴の家」のお写真です。

昭和14年ごろ?の「鶴の家」
久松がペリリューに渡ったのは昭和19年夏頃と思われます
久松は、ここから出征したそうです。

女性の名前は遊女名「久松」。コロール島料亭「鶴の家」の遊女だった人だ。一人の日本軍将校と恋仲になったが、ペリリュー島へ出撃と決まった将校は、私財をすべて処分して「久松」を身請けし、帰国するよう説得した。しかし、自分も日本兵として戦う、一緒に連れて行ってほしいと引き下がらず、日本兵として戦った。サイパンの看護婦青野千恵子に、父母妹無しのその後の「人生」が無かったように、「久松」には、愛しているこの一人の将校との「人生」以外の「人生」は、存在しなかったのだ。



 
パラオのジャンヌ・ダルク

 昭和19年11月24日ペリリュー島(パラオ)での壮烈な戦いが終わり、硝煙残る戦場を見回った米軍は、大山(オオヤマ)の頂上に
一人の日本人兵士が機銃を抱えて斃れているのを見つけました。

何とそれは、頭を丸刈りにして日本兵の軍服を着装した日本人女性だったのです。

この女性はコロール島料亭「鶴の家」で「久松」という名の
遊女でした。

(彼女は日本軍将校と恋仲になりましたが、
ペリリュー島へ米軍を迎え撃つため出陣する将校は、私財を投じて彼女を身請けし、故郷日本へ帰るよう諭しました。

しかし彼女は

「自分も日本兵として戦う。連れて行って欲しい。」

と引き下がらず、

将校の後を追ってペリリューに渡り、
日本軍将兵とともに米軍に立ち向かったのです。

 後にこの話を聞いた米軍兵士たちは、この勇敢健気な女性を

パラオのジャンヌ・ダルク

と名づけ、敬意を表すことになりました。


パラオのジャンヌ・ダルク

本名 梅澤(梅田?)せつ、

源氏名 久松(ひさまつ)

鹿児島出身で大阪へ出て、後パラオに渡った。
料亭「鶴の家(つるのや)」は、コロール島料亭では
規模では2番目だが、客は上級将校クラスが多く、
最高格だった、と(通った人から)黒岩様は
聞いておられるそうです。


**************************************
  黒岩徹様の 「映画靖国」肖像権侵害訴訟に ご支援
  お願いいたします


      ●「映画靖国」肖像権侵害訴訟
      http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/910/

      ●映画「靖国=YASUKUNI」肖像権侵害訴訟
      http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/1003/




2009-08-27 15:05 | 記事へ | コメント(9) | トラックバック(1) |
| 「靖国=YASUKUNI」肖像権侵害訴訟 / 戦争 / パラオのジャンヌダルク |
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◆パラオ ペリリュー島動画 と パラオのジャンヌダルク A/3
日本とパラオ 〜歴史を越えた友情〜 パラオのペリリュー島にあるペリリュー神社には、1万余の守備隊の英霊が厚く祀られて います。日韓友好や日中友好などという実りがなく、 国を滅ぼすような政策ではなく、東南アジア、インド、中東、パラオ等の親日の国を中心 に交流を深めていくべきだと思います。 ●日本パラオ協会 理事長の黒岩徹氏 映画「靖国」肖像権親愛訴訟 原告  反日映画「靖国」の制作会社等を相手に  「肖像権侵害訴訟」を提起、原告  御支援お願いいたします。 「映画靖国」肖像権侵害訴訟 http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/910/   (日本パラオ協会 http://npojpa.org/index.html)
2009-08-27 14:59 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
| 戦争 / 「靖国=YASUKUNI」肖像権侵害訴訟 / パラオのジャンヌダルク |
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