国や言語を乗り越える
とはどういうことだ?
僕はずっと、各国の演劇が、親交の懸け橋として上演されることに物足りなさを感じてきました。確かに、完成されたものを見る意義はあるでしょう。互いに異文化の薫りを感じることは出来るかもしれない。でも、それで何が分かるのかと思うのです。僕だって感動して拍手をすることは何度もありました。俳優たちとの懇親会に出て、素晴らしかったとたたえもします。
でも、そこまでなのですね。それは弱いさざ波のような交流に思える。本当はもっと互いに押し寄せて、分け入って、何か変形しそうだというほど交じり合うべきではないのかと思っています。それには日本でいま起こっている文化をぶつけることではないでしょうか。
かつて「赤鬼」という話を書きました。これは一つの共同体に放り込まれた異形の鬼が、異邦人として生きなければならない物語ですが、1997年の暮れに、現在は座・高円寺の芸術監督をやっている佐藤信さんから思わぬ相談をいただきました。
「タイの役者と、いわゆる文化交流をやっているが、いつも上滑りで本腰が入った感じがしない。何とかできないだろうか」
では、以前に上演した「赤鬼」をタイ語に訳してやってみようということになったのです。僕も上っ面の文化交流にはしたくないので、数日タイへ出向いて役者に会いました。
すると、いわゆる西洋演劇的な技術、つまりリアリズムはないけれど、もっと別の芝居の本質を感じたのですね。もともとは4人芝居だったものを、あまりにも向こうが熱心なので15人くらいの芝居で上演しました。タイでは「赤鬼」以前はほとんど現代演劇がなく、伝統演劇が中心でしたが、やがて「赤鬼」がきっかけで現地の若い演劇人のネットワークが育っていきました。
タイの次にロンドンで「赤鬼」上演を実現した時には、まるで歯が立たない岸壁にしがみついては振り落とされるような、長くつらい体験でした。西洋演劇こそ演劇だと信じている相手ですからね(笑い)。でも、僕は彼らの文化と「混流」した気がする。そこまでやらなければ、分かり合えないものです。
若い演劇人たちが
向こうからやって来る
タイでの出会いからもう12年がたち、青年だった彼らは演劇界の中堅となるほどに成長しています。彼らは12人の演出家を中心に、それぞれの演出家が自ら率いる劇団をまとめてチームを編成する自由なスタイルで活動を展開している。伝統演劇から現代演劇へと、新しい世界を自分たちの手で切り開いてぐいぐいと歩いています。
そのバンコク・シアター・ネットワーク(BTN)が、原作「赤鬼」や「農業少女」をリメークし、それを引っ提げて日本にやって来ます。タイの人々は、日本の都市生活が忘れ去ってしまった生活のシンプルさを、いまも体で知って生きている。そのシンプルさは、せいぜい目の前30センチの複雑な世界を作ってそこで完結しようとする現代日本人の心に、きっと何かを残すと思います。(談)
のだ・ひでき ●劇作家・演出家・役者。多摩美術大学教授。1955年長崎県生まれ。東京大学在学中に劇団「夢の遊眠社」を結成し、数々の話題作を発表。92年劇団解散後、ロンドンに留学。93年に企画製作会社「NODA・MAP」を設立、精力的に作品を発表し続ける。歌舞伎やオペラの脚色・演出、海外では現地演劇人と交流し、ロンドンと東京で全編英語による「THE BEE」「THE DIVER」を上演。2008年4月から多摩美術大学教授。09年7月から東京芸術劇場の初代芸術監督に就任、作・演出・出演を務めた「ザ・ダイバー 日本バージョン」など記念プログラムを展開した。現在「芸劇が注目する才能たち、芸劇eyes」にて劇団ハイバイ「て」上演、野田秀樹原作「赤鬼」「農業少女」をタイの劇団が演じる国際共同制作事業などを展開。
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