鼻毛の長い人生 RSSフィード

2009-10-09

信仰すること、探求すること

科学と信仰は脳のなかでは同じ、あるいは極めて同じ〜極東ブログ

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/10/post-e6ae.html

ケプラーの「宇宙の調和」のラテン語版完訳なるものが工作舎でているという驚きですが、あとがきで余りよくわかっていないケプラーのプロフが載ってました。なんというかお前は会ったんかい?って感じです。彼の祖父は貴族なのですがものすごく攻撃的だったらしくかなりやばい感じだったようです、そしてその子供の中でも一番粗暴だったのがケプラーの父親で、なんか戦争いったまま消えたそうです。母方もなかなか豪傑だったらしく、叔母さんは薬の調合などして魔女狩りで死にました。母親その叔母からそういう、おそらくゲルマン土俗信仰的医術を継承していて、危うく魔女狩りで火あぶりなりそうだったのはご存知の方も。。。いますか?とにかくみんな「攻撃的」です。っていうかゲルマン族の野蛮だけど力技な感じなんでしょうね。

科学黎明期の17世紀の天才達はみんな、極端な人が多いです。特に中世以後、ゲルマン系、ケルト系の人たちは日本でいうと知識人なのですが、内実はかなり断言的なものいいでトンデモな(だから面白いのですが)こともたくさんいいます。ドイツ人のケプラー自身が攻撃的だったどうかしりませんが、惑星が音楽を奏でているという神秘主義的な発想と数理的な発想のとにかくものすごく強固な信念がすばらしい。松岡正剛さん的に言うと9割空論なのに1割が近代科学の金字塔なわけです。。

ニュートンも本当は異端でしたが(キリストの神性を否定していました。つまりイスラムと同じ、絶対神性は神のみ、キリストは優秀だけど予言者にすぎない)ものすごい信仰者でした。ボイルなんかも。ラテン系ガリレオなんか意外に常識な現実主義者だったんでしょうね。フランス人のデカルトは貴族でなんというか、俺が一番みたいな自信満々で、数学はできたけどあとは己の想像力で書くところがある、これまたある意味「野蛮」な人です。デカルトも実は結構な信仰者だったようです(親父さんがブルターニュの人かもしれず、もしかするとちょっとケルト系なのかもしれない。。)。野蛮だけどエネルギッシュでエネルギーでビシバシ事実を漁るというゲルマン人ケルトアイルランドの人は中世初期から修道院などいろいろ大陸の学術的復興に力を発揮しましたが(アルクインとか、聖パトリックとか)、粗野というより「向こう側いっっている」感じ。アイリッシュは「現実はもういいや」っていう人がいて最高ですな(知っとるんかい!。。この人とかアイリッシュhttp://cruel.org/onebook/dfs.html)。

問題は事実として実証されるかどうか、というところになるのではなく、現実に対して信念をもって果敢にアプローチするところが信仰と探求の同質性ではないでしょうか。同じ自然を神のものとみなして、頭ごなしに惑星軌道を「円」と思っていた古代人よりも、チコのデータではどうしても円軌道にならないことが、神の業であることの否定にはならず、まさに神の業であるとの固い信仰が故に、そこに見いだすべき「真理」があるのだという確信をもって突き進むケプラーこそが「楕円」を発見するわけです。

へたすると「思い込み」なのですが、何らかの現実的な技術など(ケプラー数学者として図抜けていました)に裏打ちされると俄然力をもつ。もとからものすごくエネルギーがあるのでとにかく何ページも書いてしまうとか、片っ端から実験するというような、そんなパワーで己の思い込みを実現したりするわけです。

科学と戦闘系。。ケプラー家系にみる。信仰と科学の気概における同質性ですか。。

やっぱりサッカーフォワードが育たないところは基礎科学創造もだめですな。。でも平和なわけです。科学と銭湯ですか。。

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