「聞き書き 南京事件」より
(略)
昭和五十九年十二月二十日、松本氏を六本木の国際文化会館に訪れた。
(略)
―十二月十八日の慰霊祭出席のため南京にいらしてますね。
「十八日の朝、南京に着きました。南京の街は人通りが少く、静まりかえっていました。それが印象的です。
支社に行きましたが、記者は取材にでかけていて誰もいませんでした」
―『上海時代』によりますと、慰霊祭の松井大将の訓示に、ある師団長はせせら笑った、とありますが、その師団長とは中島今朝吾中将のことですか。
「慰霊祭の時ではありません。
慰霊祭はせせら笑うというようなものではありませんでした。非常に厳粛でした。そこで松井大将は居並ぶ将兵をきびしく叱っていました。誰も黙ったままでした。宮様をも叱っていました。それは凄いもので、誰も口をはさめませんでした。その時、松井大将は皇后陛下からいただいたという襟巻をしていたと思います。
中島師団長が笑ったというのは、第十六師団だけの慰霊祭の時といわれています」
―松井大将が叱ったのは、なにかを見たからなのでしょうか。
「部下から報告をうけたのでしょう。それで叱ったのだと思います」
―中島師団長は陸大も出た教養のある人ですが、どうしたのでしょう?
「私も疑問に思っていました。当時の中島師団長の日記が発見されて、その時のやり方に、『捕虜とはせぬ方針』とあります。今まで中島師団長がそう考えていたとは思ってもみませんでした。
―「捕虜はせぬ方針」とは、抽象的で、いろいろな解釈ができると思います。敵を撃退しろというのか、つかまえた捕虜は処刑しろというのか、捕虜の一部は釈放しろというのか、いったいどうなのでしょう?
「追っ払ったこともずいぶんあったでしょう。捕虜にして殺したことが若干あったことを前田(雄二同盟記者)君や深沢(幹蔵同盟記者)君が目撃してます。十六師団は捕えた数千人の捕虜をその後解放した、とも聞いてます。どの様にもとれるのではないでしょうか」
―「捕虜はせぬ方針」を、捕虜は殺す、ととるなら、松井大将の言動からみて、それは中島師団長の考え、命令となりますね。
「松井大将や宮様から出た命令ではありません。中島師団長の命令になるでしょう」
―同盟通信は慰霊祭の松井大将の訓示を海外に流していますね。
「東京にも流しました。中国や海外の新聞には載りました」
―松本さん自身、南京で日本軍の残虐行為を見てますか。
「私は、なにも見ていません。南京の様子は『上海時代』に書いてあるとおり、南京を取材していた前田、深沢、新井(正義)の三人の同盟通信の記者に聞いて確かめたことを書いたのです。書いてある以上のことはわかりません」
ここで、しばらく南京の様子の話となるが、その話は『上海時代』に書いてあることの繰り返しである。
「万を単位とする虐殺はありえないということです。慰霊祭が終わったあと、十九日か二十日に十六師団が南京の残留師団となり残敵掃蕩をやったが、この時、民家から略奪したり、女の子まで強姦したりした、という。この時、数十人か数百人かのそういうことがあったと聞いています。
難民区には便衣の者の他、中国の将校が軍服のまま逃げ込んで、協定違反で難民区委員会が困っているという話を聞きました。兵士はいくら便衣となってもわかるということです」
―難民区委員会で活躍していたベイツ氏はどんな人ですか。
「金陵大学の教授をやっていましたが、普通の大学教授です。
金陵女子大学に日本の将校が来て、収容されている女の子を出せといった、それを学長の呉貽芳が断ったら彼女が殴られた、とベイツ教授がいってました。呉貽芳は私もよく知っている人です」
―ベイツ教授は極東軍事裁判で、南京事件について証言をしていますが、証言の信憑性はどうでしょうか。
「ベイツ教授が自分で見た、といってることは本当でしょう」
―ティンパーレーの『戦争とは何か』を読むと、反日的で、非常に意図的なものを感じますが・・・。
「ティンパーレーは、年令は私より少し上ですが、本当に良心的な人です。学者肌の人でした」
―例えば南京の難民委員会に参加できず、腹いせにああいう本を出したとか・・・。
「そういうことはないと思います。
ベイツ教授は普通の大学教授ですが、ティンパーレーはまれにみる良心的な新聞記者です」
―ティンパーレーは南京のデータを集めていますが、当時、どこにいましたか
「上海の記者でしたから、上海にいたと思います」
―「ニューヨークタイムズ」のアーベント記者をごぞんじですか。
「アーベント君も私の友達です。仲良しで、よくゴルフをしました。最初はそうでもありませんでしたが、一九三三年頃から反日的になり、宋美齢とは特に親しくなりました。いつかもゴルフをやろうとしていましたら、宋美齢からお茶の会によばれているといってゴルフをやらずにいったこともありました」
―南京には何日いました?
「一日泊ったような気もします。一九日には上海に帰りました」
(阿羅健一氏「聞き書き 南京事件 P231〜P235)
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