まだ一・二試合残っている球団もありますが、今年のセ・パ両リーグの順位が確定しましたね。
さて、今年も私は
4月3日のブログ記事で順位を予想したわけですが、いったいどれだけ的中したでしょうか?
まずはセ・リーグ。
一位は読売ジャイアンツ。
今年もぶっちぎりの独走でしたね。
正直強かった。
私の予想も一位は巨人でした。
二位は中日ドラゴンズ。
なんだかんだ言って無難にまとめてきました。
巨人との直接対決がちょっと分が悪かったようで、ゲーム差が付いてしまいましたですね。
私の予想は広島でした。
はずれました。
三位は東京ヤクルトスワローズ。
後半の失速が響いて熾烈な三位争いになりましたが、最後はヤクルトが三位になりました。
抑えの不安定さが響いたかもしれません。
私の予想は阪神でした。
これまたはずれました。
四位は阪神タイガース。
実質的な上積みがないので三位あたりかと思いましたが、予想以上に力が落ちていたようです。
投手陣打撃陣ともに建て直しが必要でしょう。
私の予想はヤクルトでした。
はずれました。
五位は広島カープ。
もう少しのびてくるかと思いましたが、意外とのびませんでした。
ブラウン監督も退団となり、来期の建て直しが急務でしょう。
私の予想は中日でした。
はずれました。
六位は横浜ベイスターズ。
戦力的にきびしいこともあり、予想通りの結末になってしまいました。
ここも来期の建て直しが必要でしょう。
私の予想も横浜でした。
ここは戦力的に見ても予想通りとなりました。
セ・リーグは一位と六位が当たりました。
予想しやすいところが当たった感じですね。
ではパ・リーグです。
一位は北海道日本ハムファイターズ。
ダルビッシュ投手頼みの所があるので優勝は難しいかと思いましたが、まとまったチーム力を発揮して優勝旗を手に入れました。
正直優勝できるとは思いませんでした。
来期は育成の年になりそうです。
私の予想は西武でした。
残念ながらはずれました。
二位は東北楽天ゴールデンイーグルス。
後半の追い込みは見事でした。
まがりなりにも三本柱が揃い、投手陣が充実したことが大きいのではないでしょうか。
CSでは脅威です。
私の予想は日本ハムでした。
優勝してくれたのでうれしいですが、予想ははずれました。
三位は福岡ソフトバンクホークス。
日本ハムにずいぶんとお付き合いしてくれたのが印象深いです。
一位と二位が七試合ほど勝ち負けが同じという試合が続きました。
そこで勝ち星を伸ばせなかったのが痛かったと思います。
私の予想もソフトバンクでした。
これは当たってくれました。
四位は埼玉西武ライオンズ。
予想外の伸び悩みでした。
発展途上の悪い面が出てしまったということでしょうか。
もう少し上に行くと思いましたが・・・
私の予想は楽天でした。
はずれました。
五位は千葉ロッテマリーンズ。
バレンタイン監督の退団が既定事項としてのしかかり、枷になってしまったのかもしれません。
実力を発揮できなかったような気がします。
私の予想はオリックス。
はずれました。
六位はオリックスバファローズ。
昨年の二位から予想外の転落でした。
今年はけが人が多かったのも響いているかもしれません。
私の予想はロッテでした。
はずれでした。
パ・リーグはなんと三位しか当たりませんでした。
難しいものですねー。
ちなみに父の予想はすごかったです。
セ・リーグは二位と三位のヤクルトと中日が入れ替わっただけで四つが的中。
パ・リーグも一位と四位の西武と日本ハムが入れ替わっただけで、こちらも四つが的中です。
驚いたなー。
皆様の予想はいかがでしたか?
予想って難しいですよねー。
それではまた。
- 2009/10/10(土) 21:08:24|
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19世紀末、ドイツのモーゼル社のボルトアクションライフルの優秀性に目を付けたイタリア陸軍は、銃の機関部をモーゼル社のライフルのコピーにしたマンリヘル・カルカノライフルを作りました。
このライフルはM1891ライフルと呼ばれ、口径6.5ミリと小さく、全長は1285ミリ、重量3.8キロのライフルでした。
このM1891ライフルは、第一次世界大戦でのイタリア軍の主力小銃として使われ、大量に生産されたのですが、あまりにも大量に作られたため、第二次世界大戦にいたっても、多くのM1891ライフルが倉庫に眠っているありさまでした。
ところが、第一次世界大戦で6.5ミリの口径では威力不足が指摘され、1930年代に入ってアビシニアでの戦いなどで再度威力不足が指摘されると、イタリア陸軍も重い腰を上げざるを得なくなりました。
そこで6.5ミリ弾の薬莢の先に7.35ミリの弾頭を付けるという変な弾薬を作って対処することになり、M1891ライフルの銃身を7.35ミリ用に合わせ、それと同時に長さを若干短くして使いやすくしたM1938ライフルを作ります。
6.5ミリ弾を撃ち出す火薬の量で7.35ミリ弾を撃つのだから、当然弾頭はまっすぐ飛ばなくなりすぐに落ちてしまうことになりますが、これも弾頭部分に軽いアルミニウムを一部使用することで、6.5ミリ弾頭と同じ重さにすることで無理やり解決します。
M1938ライフルは全長が1020ミリとなり、重量も3.4キロと軽くなった上、7.35ミリ弾を撃ち出せるというライフルになったわけですが、イタリアの工業力の力のなさか、旧式のM1891ライフルとの更新はなかなか進みませんでした。
1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まります。
当時のイタリアは軍備的にはとても戦争などできる状態ではありませんでしたが、1940年にオランダやベルギー、ノルウェーなどがドイツに征服され、フランス戦が始まると、指導者だったムッソリーニは勝ち馬に乗るべくフランスに宣戦を布告します。
こうしてなし崩し的に戦争に突入したイタリア軍でしたが、そうなると使用するライフルが問題でした。
新型のM1938ライフルで統一したいところなのですが、とても数が足りません。
弾薬も変な弾薬なので製造が追いつきませんし、倉庫にはM1891ライフル用の6.5ミリ弾がいっぱい眠っておりました。
そこでイタリア陸軍は決断します。
6.5ミリに戻しちゃえ!
なんとM1891ライフルだけじゃなく、M1938ライフルまでも7.35ミリ型の生産を打ち切り6.5ミリ弾用にしちゃったのです。
銃身を6.5ミリ用に変更したM1938ライフルは重量が少し重くなって3.45キロになりましたが、今度はこの変更が大変でした。
すでに作られた7.35ミリ型のM1938ライフルを全部6.5ミリ型にする力もイタリアにはなく、結局前線では6.5ミリと7.35ミリの両方が使われることになり、M1891及びM1938の6.5ミリ型用の6.5ミリ弾と、M1938の7.35ミリ型用の7.35ミリ弾の二種類の弾を供給するはめになったのです。
補給の面では悪夢だったことでしょう。
1943年、イタリアは連合国に降伏しました。
そこでイタリアに駐留していたドイツ軍がイタリアを制圧し、イタリア軍の武装解除を行ないます。
そのとき確保した武器はドイツ軍がありがたく使わせてもらうことになるのですが、M1891もM1938もまとまった数がドイツ軍の手に落ちました。
そこでドイツ軍としては自軍で使用する上で6.5ミリ弾だの7.35ミリ弾だの紛らわしいことを避けるために、ドイツ軍の7.92ミリ弾を使えるようにしようと考えます。
そうすれば、ドイツ軍のライフルを使おうが、確保したイタリア軍のライフルを使おうが、弾薬供給の面では7.92ミリ弾だけですむからです。
ところが、M1891もM1938も銃身を変えて7.92ミリ弾を使えるようにしてみたところ、銃本体の強度不足から暴発の恐れがあるということで、結局このアイディアは使えませんでした。
ドイツ軍もあきらめてそのまま使うしかなかったようです。
あまりいいライフルとの評価を受けなかったM1938ですが、戦後ある事件に関与したことで脚光を浴びました。
1963年11月に発生したアメリカ大統領ジョン・F・ケネディ暗殺事件です。
この事件でケネディ大統領を暗殺した犯人といわれるリー・ハーヴェイ・オズワルドが使用したとされるのが、このM1938ライフルでした。
もちろんこの事件は謎が多く、M1938ライフルが大統領を本当に撃ったのかどうかは定かではありませんが、最初から最後まで異色の経歴を持つ銃だったのではないでしょうか。
それではまた。
- 2009/10/09(金) 21:36:09|
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台風の被害が各所ででているようです。
札幌も風雨が強まってきました。
何事もなく通り過ぎてくれることを祈ります。
「西南戦争」の29回目です。
そろそろ終わります。
延岡の北に長尾山という山があり、そこから東南に張り出す山並みが北川の下流にある無鹿付近の山並みと合流するあたりが和田越と呼ばれるところでした。
この和田越に辺見、村田の両隊が布陣し、そこから無鹿に向かって中島、貴島、河野の隊が布陣します。
薩軍は、この和田越で最後の一戦を挑むつもりでおりました。
これに対し官軍は、和田越正面に別動第二旅団を充て、無鹿方面には第四旅団、その右翼に新撰旅団を配置。
第一、第二、第三旅団が左翼から大きく迂回攻撃を行なう計画でした。
明治10年(1877年)8月15日。
この日は朝から濃い霧が立ち込めておりました。
その霧も午前8時ごろには綺麗に晴れ、夏の朝の日差しが降りそそぎます。
薩軍は西郷隆盛自身が和田越の戦場に姿を現し、桐野、村田、別府らとともに全軍を指揮します。
西郷自身が陣頭指揮に立つのは、開戦以来初めてのことでした。
この西郷自身の督戦に薩軍の兵たちの意気は上がりました。
ふもとを埋め尽くす官軍の兵士たちにも臆することなく、山上から銃撃を行い抜刀して切りかかりました。
この薩軍の攻撃に、別動第二旅団は苦戦を強いられたといいます。
一方の官軍も、実質的指揮官である参軍の山県有朋が、和田越からわずか二キロの樫山に陣取り、この戦いを眺めておりました。
距離的に言って西郷自身を見ることができたかどうかは不明ですが、両軍の大将格が戦場に姿を現したことからも、この戦いが最後の決戦であるという認識だったと思われます。
官軍は北川の河口に軍艦を遡上させ、そこから艦砲射撃で支援砲撃を行ないます。
また、和田越ばかりでなく無鹿山を含め全線で攻勢を開始。
その兵力にものを言わせて薩軍を圧迫します。
山上から撃ちおろす薩軍は地の利を得てはいるものの、やはり官軍との兵力差はいかんともしがたく、じょじょに薩軍は追い詰められていきました。
やがて西郷自身の付近にも銃弾が飛び交い始め、桐野や村田が後退するように進めましたが、西郷は頑として動きませんでした。
ですが、西郷を死なせてはならないとばかりに周囲の者が抱きかかえるようにして戦場を離脱。
西郷の後退とともに薩軍の気力も尽き、昼ごろには総崩れとなりました。
薩軍は北にある長井村に退却。
ここに薩軍最後の組織的戦闘は終わりました。
翌8月16日、西郷は長井村で残った全軍に解散令を布告します。
「諸隊にして降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり卒の士となる。ただその欲するところに任ぜよ」
西郷自身の筆による書は、薩軍全員に行動の自由を許すものでありました。
解散令を発した後、西郷は陸軍大将としての軍服と全ての書類を焼却しました。
また負傷していた長男とも別れ、常にそばに寄り添っていた愛犬二頭も鎖を解き放ったといいます。
身辺整理は終わりました。
解散令により薩軍兵士は行動の自由を許されました。
官軍への投降が相次ぎ、一部は自決して身を処しました。
それでも西郷の周りには、鹿児島士族を中心に約六百名が残りました。
彼らは最後まで西郷と行動を共にするつもりだったのです。
長井村は官軍の包囲下に置かれておりました。
西郷らのいる本営のそばにも砲弾が落ち始めておりました。
そんな中で、今後どうするかの会議が行なわれておりました。
降伏か、玉砕か、再起を図るために脱出か、会議は紛糾します。
まず決まったのは突破でした。
ここから脱出して落ち延びることに決します。
だがどこへ行くかがまた問題でした。
桐野は熊本へ、別府は鹿児島へ、野村は豊後へとそれぞれが主張します。
いったんは豊後方面ということに決まりかけましたが、北の熊野が陥落したとの報が入り、豊後案は断念されます。
8月17日になっても結論は出ませんでしたが、辺見と河野が主張する可愛岳(えのだけ)からの突破を西郷が受け入れ、西郷の裁定によって可愛岳突破に決しました。
とりあえず現状の包囲を可愛岳で突破して、三田井で次の策を講じようとなったのです。
可愛岳は、標高728メートルの山で断崖が続く険しい山でした。
その高さ以上に見る者には威容を感じさせ、思わず圧倒されるほどだったといいます。
西郷らはこの山を越えようというのでした。
17日午後10時ごろ、突破の前のささやかな酒宴を終え、薩軍残存部隊は地元猟師の案内のもと可愛岳に登り始めます。
部隊を前軍、中軍、後軍の三つにわけ、西郷自身は中軍で負傷した別府ともども山かごでの登坂でした。
さすがに私学校からのつわものたちは軍律を守って粛々と行動し、夜間行軍で困難を極めつつも午前4時半ごろには前軍が山頂付近に到達。
ここから北斜面を見ると、断崖の南斜面とは違ってなだらかな斜面になっており、屋敷野と呼ばれる台地に官軍部隊の天幕があるのが見えました。
官軍の警戒部隊であると思われましたが、意外にもその防備は手薄のようであり、前軍の辺見らは中軍後軍の到着を待ってこれを攻撃することに決定。
到着後に突撃を開始します。
不意を突かれた形になった官軍は混乱し、なすすべなく逃走を開始。
実はここにいたのは警戒部隊ではなく第一、第二旅団の本営でした。
総攻撃に備えて食料や銃砲弾を運び上げて集積していたところを襲われたのでした。
旅団長以下は命からがら脱出し、薩軍残存部隊は銃弾三万発と大砲一門を捕獲して、さらに部隊を進めます。
可愛岳を突破した薩軍残存部隊は、その後も官軍の小部隊と小競り合いを繰り返しながら、8月21日に目的地である三田井に到達いたします。
蟻の這い出る隙間もなかったはずの官軍の包囲網は、予想もしなかった可愛岳突破という薩軍残存部隊の行動により、抜けられてしまったのでした。
官軍の山県参軍は、包囲網を抜けられたことに大いに悔しがったと伝えられます。
官軍はまたしても西郷に逃げられたのでした。
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- 2009/10/08(木) 21:43:18|
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北海道日本ハムファイターズの優勝から一夜明けました。
今朝はしっかりスポーツ新聞買って来ました。(笑)
今後はクライマックスシリーズ、さらには日本シリーズです。
再度引き締めてがんばってほしいものです。
さて、今日は趣味の話。
第一次世界大戦中のロシア革命によって生まれた新生ソ連は、その後のロシア内戦やフィンランドとの冬戦争などで拳銃の弾をばら撒くことのできるサブマシンガン(SMG)の有効性に注目いたしました。
そこで、拳銃のデザインで定評のあったトカレフや、機関銃をデザインしていたデグチャレフなどにサブマシンガンの製作を依頼しますが、なかなかモノになるサブマシンガンはできませんでした。
そんな時、ゲオルギー・セメノビッチ・シュパーギンはデグチャレフのデザインしたサブマシンガンを基に一つのサブマシンガンをデザインします。
シュパーギンのデザインしたサブマシンガンは、ライフル銃のような木製の銃床を持ち、銃身のカバーの先に50メートルから500メートルまでのサイトを付け、71発も入る円形のドラム型弾倉を引き金の先の部分に取り付けたもので、大雑把にはデグチャレフのサブマシンガンとほぼ同様のものでした。
このシュパーギンのサブマシンガンは、1940年12月に正式採用となり、「PPSh1941(PPSh-41)」という形式番号が与えられます。
PPShはペー・ペー・シャーと呼ばれ、溶接やプレス加工で製造されたため、大量に製造されることになりました。
そのすさまじさは、1942年の一年間だけで約150万丁も作られたほどで、ソ連軍とPPSh-41は切っても切れない装備となったのです。
一般の歩兵中隊にはSMG小隊が付随し、偵察兵や戦車随伴兵にいたっては、全員がこのPPSh-41装備ということも珍しくありませんでした。
終戦までにはなんと500万丁以上も作られたといいます。
サブマシンガンは基本的に短距離で弾をばら撒く兵器であるため、後期型ではサイトも500メートルまでではなく100メートルと200メートルの二種類だけにしてしまったり、銃身も精密なものである必要はないということで、ドイツ軍との戦いで一丁でも多くのPPSh-41がほしかった時期には、なんと倉庫で眠っていたライフル銃の銃身を途中でぶった切って、一丁のライフル銃から二丁分の銃身を取り出して使ったなどという逸話も残ってます。
大戦後半になると、もっと省資源型のサブマシンガンが求められ、実際に製造も開始されますが、すでに大半の部隊にはこのPPSh-41が配備されてきてしまったため、逆に新型の製造が抑制されるということまで起きました。
ドイツ軍もこのPPSh-41を「バラライカ」と呼んで鹵獲使用しており、71発と装備弾数が多かったため自軍のシュマイザーMP-40よりも好んだ兵士も多かったといいます。
ソ連製兵器の特徴として、製造は粗雑で見た目はよくないのですが、とにかく頑丈で故障も少なく実用的なサブマシンガンだったといいます。
戦後も中国や北朝鮮などでは製造され、朝鮮戦争やベトナム戦争でも使用された息の長いサブマシンガンとなりました。
戦争映画などでもソ連兵が出てくれば、そのうちの誰かは持っているという銃なので、おそらく皆様も目にしたことがあるでしょう。
まさにソ連軍を代表する兵器の一つだと思います。
それではまた。
- 2009/10/07(水) 21:44:13|
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やりましたー!!
北海道日本ハムファイターズ、優勝ですー!!
延長12回、最後は金子選手のサヨナラ犠牲フライで勝利ですー。
楽天の敗戦で優勝は決まってましたけど、やはり勝っての優勝はうれしいですよね。
今、ビールかけやってますけど、日本ハムの選手の皆様、一年間お疲れ様でした。
おめでとうございます。
今日はここまで。
それではまた。
- 2009/10/06(火) 23:56:17|
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日本ハム負けちゃいました。
今日の優勝はなくなっちゃいました。
残念。
ところで、昨日読んだ30年前のタミヤニュース1979年january号の「模型ファンを尋ねて」のコーナーに、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の作家秋本治氏が出ていてびっくりしました。
ちょうどペンネームを山止たつひこから変えたばかりの頃だったようで、山止たつひこ改め秋本治と紹介されておりました。
プラモは写真と違って立体的に形状を捉えることができるので、作画には非常に役に立つとのこと。
ですが、当時すでにこち亀で忙しかったらしく、プラモを作る暇が無いと嘆いておられますね。
1/6のオートバイのプラモを手にした写真も載っていましたが、やはり若いですねぇ。
今日はこんなところで。
それではまた。
- 2009/10/05(月) 21:59:29|
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いよいよ北海道日本ハムのマジックが1になりましたね。
明日には優勝が決まるかも。
さて、1941年にソ連に侵攻したドイツ軍は、T-34/76やKV-1などの強力な戦車に遭遇しました。
装甲師団の三号戦車や四号戦車も歯が立たず、対戦車砲も37ミリでは役に立たない状況で、ドイツ軍歩兵は吸着地雷や集束手榴弾で肉弾攻撃を行なうしかありませんでした。
当然ドイツ陸軍上層部もこの状況をよしとしていたわけではなく、歩兵用の対戦車兵器を研究させます。
そこでライプチヒにあるHASAG社は、研究中の成形炸薬を使った対戦車兵器を考えます。
最初は成形炸薬を使った対戦車手榴弾を考えましたが、やはり手榴弾では投擲距離が短いため、簡易発射機を使った投射兵器を考案します。
これは、パイプを利用した発射筒に発射火薬をつめた筒をはめ、その先に成形炸薬の弾頭を付けるというもので、発射時の反動を噴射を後ろに逃すことで無くす一種の無反動砲とすることで、歩兵単独で撃ちだせるようにした物でした。
この簡易型成形炸薬弾投射機は「パンツァーファウスト」(戦車拳骨)と呼ばれ、1943年8月に最初の5000発が引き渡されました。
初期の型は炸薬量1.3kg.の小型(クライン)と呼ばれるタイプで、装甲厚140ミリを撃ち抜く威力を持っておりましたが、T-34の傾斜装甲にはじかれる事態が多く、早々に大型弾頭のタイプに切り替わることになります。
大型弾頭のパンツァーファウストは、炸薬量2.9kg.で装甲厚200ミリを撃ち抜く威力があり、当時の連合軍戦車全てを撃破できる威力を持っておりました。
これほどの威力を持っておりながら簡易な構造のパンツァーファウストは、たちまちドイツ軍の装備として広まり、各地で敵戦車に向けて火を吹きます。
しかし射程距離が30メートルと短く、射手が危険ということで射程の延伸が望まれました。
1944年8月には射程距離が60メートルに伸びたタイプが交付され、さらには1944年11月に射程距離を100メートルにまで伸ばしたタイプが登場します。
また、発射装置も安全性が高められ、暴発の危険を大きく低下させました。
パンツァーファウストは、大戦後半のドイツ軍にとってなくてはならない兵器でした。
数の少ない味方戦車に代わり、敵戦車を迎え撃つ貴重な戦力だったのです。
1944年12月の時点でパンツァーファウストは約130万発が引き渡され、その後も終戦まで生産され続けます。
国民擲弾兵にいたっては、ただこのパンツァーファウスト一本のみを渡されて前線に送られた者すらおりました。
1945年には射程距離を150メートルに延ばし、使い捨てではなく弾頭を交換して使えるようにしたタイプも作られましたが、これはほとんど前線には届かなかったといいます。
のちにこのタイプはソ連でRPG-2という携帯対戦車兵器へと発展して行きました。
有力な対戦車兵器とはいえ使い捨ての一発兵器であるパンツァーファウスト。
それをたった一本だけ渡されて放り出された兵の心境はいかばかりだったのか。
戦争末期の悲惨さが現れているようですね。
それではまた。
- 2009/10/04(日) 21:42:55|
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人吉が陥落したのち、薩軍は後退する兵を取りまとめ、大畑(おこば)・漆田(うるしだ)方面で官軍を迎え撃ちますが、ここも持ちこたえることはできませんでした。
薩軍はじょじょに都城方面に追い込められ、村田新八はこの都城で官軍と対峙することに決します。
大口方面から後退した辺見十郎太率いる雷撃隊や、鹿児島奪回に向かい果たせず後退してきた振武隊も続々と都城へと集結し、薩軍はこの都城にその残存兵力の多くをそろえます。
村田はこの兵力の指揮を取り、都城から西に向かって半円を描くように防御陣を敷きました。
福山方面を正面として、振武隊と奇兵隊の一部を配し、左翼の岩川・末吉方面には雷撃隊と行進隊、右翼の庄内方面に破竹隊が布陣して官軍に対します。
これに対し官軍は、国分に第三旅団と別働第三旅団を、敷根には第四旅団、高隈の別働第一旅団、高原の第二旅団、小林に別動第二旅団を配し、薩軍のさらに外側から包囲する態勢を取りました。
6月下旬から7月中旬にかけ、薩軍はこの官軍の包囲網に対して各所で攻撃を仕掛けます。
薩軍は、攻撃を仕掛けた場所では局所的優勢を見せ官軍に多大な損害を与えますが、包囲網を突破することはならず、官軍は一時的後退をすることはあっても全面崩壊には至りませんでした。
官軍は薩軍が窮鼠猫を噛むような追い詰め方はせず、薩軍の疲弊を待つ形でじわじわと攻めあげます。
薩軍はいくら損害を与えても回復してしまう官軍に徐々に疲弊せざるを得ませんでした。
7月下旬になり、薩軍の陣地は次々に陥落して行きます。
粘りに粘っても、もはや薩軍には官軍を防ぐ力はありませんでした。
7月24日、薩軍はついに都城も放棄。
本隊を宮崎へと後退させるしかありませんでした。
宮崎には5月下旬から桐野利秋が拠点作りを進めており、人吉陥落直前には西郷隆盛も来ておりました。
北方には野村忍助の奇兵隊が布陣し、南西方向には大口の辺見の雷撃隊がまだがんばっていた頃、この宮崎は官軍の手が届いてない一種の後方地区でした。
薩軍はこの宮崎を占領して拠点とし、ここに小さな地方政府を築きます。
そしてこの宮崎で兵員の補充や物資の調達を行なうため、西郷札という紙幣を発行し、資金不足を補いました。
しかし、この宮崎の平穏な状況もすぐに破られてしまいます。
北方こそ奇兵隊ががんばっていたものの、南西の大口は落ち、今また都城も落ちました。
薩軍は残存兵力を宮崎に集めますが、官軍はすぐに薩軍を追撃し、7月31日には増水した大淀川を渡河して市街に突入します。
増水のために官軍の攻撃はないと見ていた薩軍は混乱し、なすすべなく官軍に追い立てられ、宮崎はさほどの抵抗もできずに官軍に占領されてしまいます。
西郷も宮崎から佐土原へと落ち延び、そこから高鍋へと移動します。
ですがその高鍋も8月2日には官軍の攻撃に晒されて陥落。
薩軍はさらに美々津へと後退し、本隊は延岡に入りました。
南から追い立てられた薩軍は、いつの間にか豊後方面に布陣していた野村の奇兵隊と背中合わせになっておりました。
官軍はここでもやはり力攻めはせず、じわじわと戦線を押し上げます。
さらに薩軍の側背に別動第二旅団を迂回させ、薩軍をはさみ撃つ体制をとることで薩軍の兵力を分断しました。
薩軍にはもはやどうすることもできず、8月9日には美々津が陥落。
8月14日には本隊のいた延岡も官軍に占領されました。
薩軍はここにいたって全ての部隊を集結。
野村の奇兵隊も合流し、延岡北方の山地である無鹿山から和田越、長尾山に連なるラインで官軍に最後の抵抗を試みることにします。
2月下旬の決起からすでに半年あまり。
薩軍の兵士もすでに疲労の色濃く、その士気も低下していたが、奇兵隊などとの合流でまた士気も盛り上がり最後の決戦に臨もうとしておりました。
薩軍最後の組織的抵抗である「和田越の戦い」が始まろうとしておりました。
(29)へ
- 2009/10/03(土) 21:26:41|
- 西南戦争
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舞方雅人さんって意外にいいところがありますね♪でもココロはそこが好きですよ。
*このエントリは、
ブログペットのココロが書いてます♪
- 2009/10/03(土) 10:54:27|
- ココロの日記
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どうにもテンションの上がらない舞方です。
なんだかスランプですねー。
困ったものだ。
今日は雑誌の紹介。
いつも購入している「グランドパワー」の11月号です。
こちらが表紙。
今月はアメリカの軽戦車、M3/M5シリーズの特集です。
37ミリ砲を搭載したM3/M5軽戦車は、大戦中期には米英両軍で活躍しました。
特に英軍は、信頼性の高さから「ハニー」と呼んで親しみました。
このM3/M5系列の発展を特集しています。
また、「フィンランドの三号突撃砲」では、なんと一両一両の三号突撃砲の履歴が掲載されてます。
ほかには日本の列車砲についても掲載されていて、これまた貴重な資料となってます。
今号も楽しめそうです。
じっくり読むことにいたします。
それではまた。
- 2009/10/02(金) 21:10:53|
- 本&マンガなど
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