「捕虜ハセヌ方針」をめぐって

 
 1983年、第十六師団長・中島今朝吾中将の評伝を書くべく取材を続けていた木村久爾典氏(ジャーナリスト、青山学院短期大学教授)は、遺族から中島中将の日記の提供を受けました。この日記の、南京占領当日12月13日の項には、こんなことが書かれていました。

中島今朝吾日記 (第十六師団長・陸軍中将)

◇十二月十三日 天気晴朗

(略)

一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる(れ)共千五千一万の群集となれば之が武装を解除すること すら出来ず 唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものの之が一端掻(騒)擾せば始末に困るので

  部隊をトラツクにて増派して監視と誘導に任じ
  十三日夕はトラツクの大活動を要したりし 乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速に出来ず 斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり

一、後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大(太)平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千あり尚続々投降し来る

一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず 一案としては百二百に分割したる後適当のけ(か)処に誘きて処理する予定なり

(「南京戦史資料集」旧版P326)
 


 素直に読めば、「片端より之を片付くる」というのは「殺す」ことである、と理解できます。すなわち「捕虜はせぬ方針」というのは、「中国兵が投降してきても受付けずに殺害してしまう方針」ということでしょう。日記を発掘した木村氏を含め、「南京戦史」のような右派グループも、この解釈を当然のこととしてきました。

木村久邇典「個性派将軍中島今朝吾」より

  いずれにせよ、中島今朝吾の「陣中日記」(十二月十三日の項)に、<大体捕虜ハセヌ方針ナレバ>とあるところから、この"方針"すなわち捕虜処分が、中島師団の専断に出たものではなく、さらに上級司令部(上海派遣軍から方面軍司令部)から発せられたものと解することができるのではなかろうか、と私は思う。

(P220-P221)

 

「南京戦史」

  中央部は「捕虜と呼ぶな」といい、現地軍の最高司令官は「釈放せよ」といい、参謀長は「俘虜を作れ」と言っているのである。

 これと全く反対に「捕虜を取るな」といっているのが中島師団長であった。

 中島師団長の十二月十三日の日記には「捕虜にはせぬ方針なれば片端より片付くることとなし・・・」がある。この方針が次官通達の「捕虜と呼ぶな」を「捕虜を取るな処分せよ」と誤って解釈したものか、或は師団長独自の見解をもって決心したものかは判然としない。

(「南京戦史」P341)
 

  
 それを前提にして、「佐々木部隊」の「一万五千」、「仙鶴門付近」の「約七八千」などが本当に虐殺されたのか、という議論に発展するのですが、そもそものところでこの解釈に敢て異議を唱えたのが、東中野氏・田中氏の、いわゆる「まぼろし派」の人々です。

東中野修道氏『南京「虐殺」の徹底検証』より
 

 従って、「捕虜ハセヌ方針」とは、「投降兵は武装解除後に追放して捕虜にはしない方針」という意味になる。

(同書 P119)


「釈放方針」説の嚆矢は東中野氏であるようで、氏の議論は同書第六章に9ページにわたって詳述されています。ただし私見ですがこの部分の記述は冗長であり、「論理」としてはほとんど理解不能、また実際問題として東中野氏の「論理」を援用して「釈放方針」説を主張する議論も見かけず、その影響力はほとんどないと思われます。「結論」以外の詳細をここで取り上げることは省略しますので、関心のある方は、直接同書をご参照ください。

田中正明氏『南京事件の総括』より

 洞氏にかぎらず、虐殺派はおしなべてこの中島中将の「捕虜ハセヌ方針」というのを一般に誤解して、南京の捕虜はかたっぱしから殺害したかのごとく主張するが、決してそうではない。これについて大西一上海派遣軍参謀はこう述べている。

それは、銃器を取りあげ釈放せい、ということです。中国兵は全国各地から集っていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」 ( 「正論」61.5 阿羅健一著「日本人の見た南京陥落」 ) 。

 さらに大西参謀は軍命令、師団命令で、捕虜殺害命令など絶対に出ていないと断言している。
(P184)


 つまり、「捕虜はせぬ方針」というのは、実は「追放」あるいは「釈放」であった、とする解釈です。

 その後東中野氏は「再現 南京戦」の中で上の解釈を修正しましたので、論議自体は決着したものと見られます。ただ、掲示板などでは今なおこの無茶とも言える「解釈」に固執する方も見受けられますので、以下、この「解釈」の無理について説明していきたいと思います。


 

 「大なる壕」の使い方



 さて、この東中野説に対しては、当初からその「トリミング」が指摘されてきました。東中野氏は最初、上の「中島日記」を引用する時、次の部分を全く無視していたのです。

中島今朝吾日記 (第十六師団長・陸軍中将)

◇十二月十三日 天気晴朗

(略)

一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず 一案としては百二百に分割したる後適当のけ(か)処に誘きて処理する予定なり

(「南京戦史資料集」旧版P326)
 

 
「釈放する」のになぜ「大なる壕」が必要なのか。常識的には「殺害方針」と見る方がはるかに自然ではないか。この部分を読むと、当然そのような疑問が生じます。

 これに対して東中野氏は、苦し紛れにこんな「解釈」を打ち出しました。

『諸君!』座談会 「問題は「捕虜処断」をどう見るか」より

東中野 しかし、そういう状況下であったことを考慮しつつ、第十六師団長だった中島中将の日記も見るべきでしょう。それに、「処理」というのを、「銃殺」のような響きで解釈するのもちょっとおかしい。
参謀将校の話によると、あのあたりでは土を掘った壕があったので、「処理」というのは、その壕に捕虜を入れて監視保護するというニュアンスだったとのことです。

(『諸君!』2001年2月号 P140)


 しかし次項で見るように、現実に現場指揮官たちが「殺害」命令を受けている以上、この東中野氏の強引な解釈は、到底説得力を持ちえません。むしろ、「壕」が「死体処理」の場であったことを窺わせる資料が、多数存在します。

石松政敏氏の証言 (第二野戦高射砲兵司令部副官)

 西大門という呼称がよくわからないが、、もし、紫金山の天文台へ通ずる門とすれば、太平門ではないかと思う。太平門には深い壕や地隙があるので、地形上からみて状況が合致するように思う。

 「二千の虐殺死体」とかいわれておりますが、門の外側で見ましたのは千にも足らなかったと思います。一部の死体は人に踏みつけられ、気の毒な状態でしたが、この人たちは、紫金山の戦闘に敗れて城内に逃げ込まうとしたか、あるいは、城内から脱出しようとしたかは判らないが、太平門まで来てやられたのではありますまいか。

 ここには、門外に深い大きな壕があり、この壕の中に死体が入れられて、土で覆われていました。門の正面で城壁の曲折部の下方には、一〇〇近い死体が土もかけずにありましたが、これは爆弾を投げられたようでした。

 この状況から見まして、戦闘行為による死者であると思います。門の入口に立っている歩哨に尋ねましたが、ここの戦闘に参加していないのでわからない、と言いました。

 (「証言による『南京戦史』(9) =『偕行』1984年12月号P8)
 

 

西浦節三氏の証言 (歩兵第九連隊中隊長)

  「十三日右側支隊の紛戦救援のため急派され翌十四日歩九に復帰する途中太平門外を南進するとき地隙内にかなり多くの中国兵の死体が集められていたのを見た。しかし、それらは丁重に並べられていたことから紫金山の戦闘で戦死し、後送収容されたものであろう」

(「南京戦史」P164)


 有名な「佐々木少将手記」にも、同様の表現が見られます。

佐々木到一「ある軍人の自伝」増補版 歩兵第三十旅団長・陸軍少将

  守将が逃げた後にのこされた支那兵ほどみじめな存在はないのである。彼らに戦意の程がありや無しやは自明の理であるが、彼らにはもはや退路がなかったので死にもの狂いに抵抗したのである。

 敗残兵といえども尚部落山間に潜伏して狙撃をつづけるものがいた。したがって抵抗するもの、従順の態度を失するものは容赦なく即座に殺戮した。終日各所に銃声がきこえた。

 太平門外の大きな外壕が死骸でうずめられてゆく。

(P329〜P330) 


 以上、「大なる壕」は、そのまま「死体処理の場」と考えて、何の不審もないでしょう。東中野氏の解釈は、いささか強引に過ぎます。



 「殺害せよ」との命令



 現実に第十六師団の現場指揮官がどのような命令を受けていたかを見ていきましょう。
 

児玉義雄氏の述懐古 (歩兵第三十八連隊副官)

 聯隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として「支那兵の降伏を受け入れるな、処置せよ」と電話で伝えらた。私は、これは、とんでもないことだと、大きなショックをうけた。

 師団長・中島今朝吾中将は豪快な将軍で好ましいお人柄だと思っておりますが、この命令だけは何としても納得できないと思っております。

 参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず、その責任は私にもあると存じます。

 部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告はありませんでした。激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。


(「証言による『南京戦史』(5) =『偕行』1984年8月号P7)

 

沢田正久氏の証言 (独立攻城重砲兵第二大隊第一中隊、観測班長、砲兵中尉)

  第一中隊(十五センチ加農砲)の任務は、太平門に突進する佐々木支隊(38i 基幹)に協力することであったが、南京が陥落した12月13日、仙鶴門鎮付近で「首都防衛決死隊の夜襲」をうけ、かつ多数の投降捕虜を得たので、その状況を略述します。

(略)

 (「ゆう」注 12月14日) 敵は山の反対斜面に移るとともに、稜線上の観測隊に向かって、チェコ機関銃で盛んに射撃してきましたので、われわれは墓地を利用して、接近する一部の敵と相対しました。やがて友軍増援部隊が到達し、敵は力尽き、白旗を掲げて正午頃投降してきました。

 その行動は極めて整然としたもので、既に戦意は全くなく、取りあえず道路の下の田圃に集結させて、武装解除しました。多くの敵兵は胸に「首都防衛決死隊」の布片を縫いつけていました。

 俘虜の数は約一万(戦場のことですから、正確に数えておりませんが、約八千以上おったと記憶します)でしたが、早速、軍司令部に報告したところ、「直ちに銃殺せよ」と言ってきましたので拒否しましたら、「では中山門まで連れて来い」と命令されました。「それも不可能」と断わったら、やっと、「歩兵四コ中隊を増援するから、一緒に中山門まで来い」ということになり、私も中山門近くまで同行しました。

(略)

 ちなみに、私が陸士を卒業する直前の昭和12年6月、市ヶ谷の大講堂で飯沼守生徒隊長から記念講演「捕虜の取扱いについて」を聞き、捕虜は丁寧に取扱わねばならないと教えられました。その生徒隊長は、いま、上海派遣軍の参謀長であります。卒業後僅か五ヵ月の今日「直ちに銃殺せよ」とは、一体誰が決定し、誰が命令を下したのか。当時、私の胸の痛かった印象は、従軍中はもとより今日に至るまで、私の脳裡から離れません。


(「証言による『南京戦史』(5) =『偕行』1984年8月号P7)


宮本四郎氏の遺稿 (歩兵第十六師団司令部副官)

  これもまた、狐につままれたような話であるが、私はその時、”一万の捕虜をどのように収容するか”を考えなければならなかった。南京城内には刑務所があるだろうから、そこに入れるとしても食わせるものがない。我々自身がイカモノを食いつつ、その日を過ごしているのに如何ともなし難い。しかし、人間は水さえ飲んでいれば十日や二十日は保つというから、食飼のことは何とかなるだろう。

 参謀長に指示をうけようとしたが、参謀長は即座に「捕虜はつくらん」と言われたので、後方参謀に話した。

(「証言による『南京戦史』(5) =『偕行』1984年8月号P8)


助川静二証言 (歩兵第38連隊長)

  僕は、深くおたずねするのも気がひけて、捕虜の件だけをきいてみた。しかし、助川氏は、

捕虜は師団長から出すなといわれていたから、そのように命令したような気がしますなア。捕虜がいた記憶は・・・いなかったと思いますが、どうもはっきりしませんなア」といった。

(鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』P249)
 


  いずれの事例でも、捕虜もしくは投降兵について、軍司令部なり師団なり参謀長なりが明確に「殺せ」という指示を出しています。


 この「方針」については、早くも1938年、石川達三氏が中島師団長麾下の「第十六師団」に取材して書いた小説、「生きている兵隊」に登場しています。

石川達三「生きている兵隊」より

  こういう追撃戦ではどの部隊でも捕虜の始末に困るのであった。自分たちがこれから必死な戦闘にかかるというのに警備をしながら捕虜を連れて歩くわけにはいかない。最も簡単に処置をつける方法は殺すことである。しかし一旦つれて来ると殺すのにも気骨が折れてならない。「捕虜は捕えたらその場で殺せ」 それは特に命令というわけではなかったが、大体そういう方針が上部から示された。

 笠原伍長はこういう場合にあって、やはり勇敢にそれを実行した。彼は数珠つなぎにした十三人を片ぱしから順々に斬って行った。

(P114〜P115)
 


 なお、「捕虜収容事例」の代表例として語られる「仙鶴門鎮捕虜7200名ないし4000名の収容」は、沢田氏の証言にもある通り、「軍司令部」の「銃殺」命令に現場指揮官が抵抗した結果であったに過ぎない、ということは注意しておくべきでしょう。いずれにしてもこの事例は、「殺害」でも「釈放」でもない、第三の道「捕虜収容」を選択したものであり、「釈放」説の助けにはなりません。

*実際にこの「仙鶴門鎮」の捕虜全員が助命されたかどうかということには疑問の余地がありますが、この点については別項で論じることにします。

**金丸吉生軍曹の捕虜使役事例のように、捕虜を助命しても「お咎めなし」であった例も見られます。しかしこのような「例外」をもって、「捕虜はせぬ方針」とは「殺害」のことではない、というのは強弁でしょう。



 「釈放」説を唱える元軍人たち



 さてそんな中で、一部の元軍人に「釈放」説に同意する意見が見られます。「釈放方針」説の大きな根拠としてよく持ち出されるのは、田中正明氏も取り上げている、次の「大西証言」でしょう。

上海派遣軍参謀・大西一大尉の証言

―第十六師団の中島(今朝吾中将)師団長の日記に「捕虜はせぬ方針なれば」とあり、これが捕虜虐殺の証拠だとも言われていますが・・・。

これは銃器を取り上げ、釈放せい、ということです。中国兵は全国各地から集っていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」

―軍の命令ということはありませんか。

「そのような命令は出していません」

(阿羅健一氏「南京事件 日本人48人の証言」 P182)

 
問題は、大西氏が、どのような根拠に基いてこのような発言を行なっているのか、ということです。この発言だけを見ると、大西氏が中島師団長の「真意」を知りうる立場にあったのだろうと錯覚しますが、直後にこのような発言が出てきて、唖然とさせられます。

上海派遣軍参謀・大西一大尉の証言(2)

―中島第十六師団長もいろいろ言われていますが、どんな人ですか。

当時中島師団長は中将、私は大尉。とても話をしたりするような間柄ではありません。直接にはほとんど存じ上げていません」

(阿羅健一氏「南京事件 日本人48人の証言」 P182)

 
師団長の方針は「釈放せい、ということです」とまできっぱりと断言しておきながら、どうもこれは、氏の勝手な「憶測」でしかなかったようです。


 さらに言えば、この大西氏は、どうやら師団の内部事情にあまり詳しくなかったようです。同じインタビューの中で、氏は、「自分の上官の役職さえも知らない」ことを、披露してしまっています。

上海派遣軍参謀・大西一大尉の証言(3)

―昭和六十年三月号の『偕行』に、松井(石根)大将の専属副官であった角良春少佐の証言があり、それによりますと、長参謀が虐殺を命令したとありますが・・・。

「私は長参謀の下にいましたが、長参謀が命令を出したということは、見たことも聞いたこともありません。

角証言については、長参謀が命令したという第六師団は第十軍隷下で、上海派遣軍ではありません。上海派遣軍が第十軍の師団に命令することはありえないことです。また、情報担当の長参謀が命令するというのもおかしい話です。長参謀は中支那方面軍の参謀も兼任したと言う人もいるが、私は聞いたことはありません

(阿羅健一氏「南京事件 日本人48人の証言」 P179〜180)

 

 念のために、K−Kさんのページの「編成表」を掲げておきましょう。

 

【 中支那方面軍 司令部 】

司令官 松井石根大将(9期)
参謀長 塚田攻少将(19期)
参謀副長 武藤章歩兵大佐(25期)
参謀
西原一策騎兵大佐(25期、兼任)
長勇歩兵中佐(28期、兼任)
公平匡武砲兵中佐(31期)
本郷忠夫騎兵少佐(32期、兼任)
二宮義清工兵少佐(34期)
吉川猛砲兵少佐(35期)
芳村正義歩兵中佐(28期、兼任)
寺垣忠雄歩兵中佐(28期、兼任)
光成省三航空兵中佐(31期)
中山寧人航空兵少佐(33期)
河村弁治工兵少佐(34期)
国際法顧問 斉藤良衛法学博士


 長参謀は、ちゃんと「兼任参謀」として名前が登場します。


 なお大西氏は、実態以上に「否定」の方向を強調する人物であるようです。偕行社内部からも、このような批判を受けていました。

高橋登志郎氏「南京戦史の総括的考察に反対された方へのお答え」より

 大西サンの一ページ余の論文ではシロだシロだというだけだから、これでは20万、30万説は破砕できない。遺憾ながらあったものはあったとして30万の数的虚構の解明に当たるべきであると、土屋サンは述べておられるのである。これが正に偕行が本問題をとりあげた目的である。 

(「証言による「南京戦史」」(番外)=『偕行』1985年7月号P9)
 

 以上大西氏は、「南京事件」の規模を少しでも小さく見せたいという動機から、知りうるはずもない中島師団長の「真意」を勝手に憶測していただけ、と考えられます。  



 さらに、この阿羅氏の本の中で、もう一人、「釈放」解釈を行なっている人物がいます。こちらのインタビューも、見ておきましょう。

参謀本部庶務課長・諌山春樹大佐の証言(1)

―第十六師団長の中島今朝吾中将の日記に「捕虜はせぬ方針なれば」とありますが、どんな意味なのでしょうか。

「武器をとりあげて釈放せよ、ということでしょう。捕虜は釈放するということなのですが、そのまま釈放すればまた敵となりますから武器を取り上げます。

(阿羅健一氏「南京事件 日本人48人の証言」 P232)

 

 諌山氏が南京に出向いたのは、南京での戦闘終了から2週間近くであり、「第十六師団」の「南京戦」を実見したわけではありません。また、中島中将と会話を行った気配もありません。こちらの方も、特に根拠のない「憶測」に過ぎない、と考えられます。

 さらに、諌山氏の「南京事件」に関する知識も、心もとないものです。 

参謀本部庶務課長・諌山春樹大佐の証言(2)

―当時南京事件は全然言われていなかったのですね。

「事件ということは全然知りませんでした。敗戦の時、私は台湾軍の参謀長をやっていて、引揚げが終わった時B−29搭乗員処刑の件でアメリカの裁判にかけられ、終身刑となりました。それで上海にいて後で巣鴨にかわりました。ですからその頃南京事件が話題になっていることは知りませんでした。最近言われてから知るようになりました」

(阿羅健一氏「南京事件 日本人48人の証言」 P232)


 諌山氏はインタビュー当時93歳とのことですので、この証言を問題にするのは、あるいは酷なことかもしれません。しかしそれにしても、「南京事件」の存在自体を「最近言われ」るまで知らなかった、というのでは、当時の中島中将の心中を正しく推定することなどできそうにありません。



 以上、「捕虜はせぬ方針」を「釈放」もしくは「追放」方針である、と考えることには、明らかな無理があります。

 いずれにしても、「追放」説の中心人物であった東中野氏がこの説を諦めてしまった以上、論争には決着がついた、と判断するべきでしょう。

(2007.9.17)


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