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【私の正名論】評論家・呉智英 「支那」は世界の共通語

 投稿者:甜菜  投稿日:2009年10月 9日(金)07時40分5秒
  2008.5.14 03:08

 必ずや名を正さんか。孔子の言(げん)だ。名は言葉。言葉が正しくないと社会も文化も混乱してしまう。迂遠(うえん)なようでもまず名(ことば)を正す(正名)のがすべての基本である。

 その孔子の故国に批判が噴出している。農薬まみれの野菜、毒入りギョーザ、少数民族抑圧、過剰な愛国主義…。批判も当然。私はこれに同調する。しかしまず名を正すべきだと思う。

 昨夏、中国食品という会社が倒産した。健全な経営の食品会社であったが、農薬汚染食品の輸入会社だと誤解されて製品が売れなくなったのだ。この会社は広島にある。社名が中国食品で何の不思議もない。中国放送、中国新聞、中国電力、中国ガス、中国銀行…これらは全部日本の中国にあって、支那にあるわけではない。知名度の高いこれら公共企業であれば特に誤解も起きないが、それ以外の、岡山や広島や山口など中国にある中国何々といった会社や団体がみんな迷惑している。中国は「中国」、支那は「支那」とすれば、こんな混乱は起きるはずはない。中国食品も倒産などせずにすんだのだ。

 この混乱の責任はどこにあるのか。第一に「中国」を日本に対してだけ強要する支那。第二に、この異常な主張に諾々(だくだく)として従い、言論機関にこれを強制した昭和二十一年当時の外務省。第三に、この言論抑圧に屈するのみならず、これをなにか「民主的な」改革だと正反対に勘違いしている自称良識人たち。この三つが連動して混乱をもたらしているのである。

 詳論(しょうろん)しよう。

 まず第一の点。「支那」禁止は理不尽な言いがかりである。「支那」という言葉は最初の統一王朝の「秦(しん)」に由来し、世界中でその近似音で支那を呼んでいる。支那人自身が支那を「支那」と呼んだ記録もあり、清朝の公的文書にも「支那」は出てくる。しかし、かつての朝貢(ちょうこう)国である日本には自分たちを世界の真ん中にある国「中国」と呼ばせたいのである。

 第二の点。「支那」が抹殺されたのは、戦後の混乱期である昭和二十一年六月の外務省次官・局長通達による。支那は形式上アメリカを中心とする連合国の一員であり、日本に対して戦勝国である。その力関係を背景に「中国」を強要してきた。外務省は従順にそれを受け入れ、各言論・報道機関に「支那」を禁止し「中国」を使うように通達を発した。その中にこんな文言がある。「今度(このたび)は理屈抜きにして先方の嫌がる文字を使はぬ様(やう)に」。占領下では、正当な理屈さえ禁じられていたのである。

 第三の点。明白な言論弾圧を、自称良識人たちは、侵略戦争への反省や民族差別解消の名目で歓迎した。二十世紀末まで支那を植民地支配していたイギリスでもポルトガルでも「チャイナ」「シーナ」と呼んでいることを知らないふりで。また「中国」が差別的な自国中心主義を意味することも知らないふりで。そもそも外務省通達の存在を、これは本当に知らないのである。

 私は四十年前の全共闘の学生だった頃(ころ)からこの不合理を批判し、支那は「支那」だと言い続けてきた。最近やっと「支那」解禁の動きが出てきた。六十二年前の言論抑圧通達は無効だと外務大臣に言わせる議員はいないのだろうか。(くれ・ともふさ)

http://s02.megalodon.jp/2008-0514-2216-58/sankei.jp.msn.com/world/china/080514/chn0805140310003-n1.htm

 

ネルへ

 投稿者:旅人君  投稿日:2009年10月 9日(金)07時13分43秒
  TOM2じゃねえだろww  

>伊藤じゃねえだろww

 投稿者:nelu( かわふくG)  投稿日:2009年10月 9日(金)06時43分12秒
  伊達純さん申し訳ありません。ずつと間違えていたようです。

「伊流★達流掲示板」しかし、この文字を読んだときには、「伊達流掲示板」にしないのは「伊達」という言葉には以下のような意味合いがあるから、嫌みになるので、そうしないのかなあと私は思ったわけで、伊藤じゃなくて、ちゃんと「伊達」という認識もしたことがあるはずなんですねえ。
>>
だて【伊達】
(一説に、「立つ」から。人目につくように形を表す意)
 ことさら侠気(キヨウキ)を示そうとすること。人目をひくように、はでに振舞うこと。浄、雪女五枚羽子板「さつても―なお侍と、どつと都にほめにける」。「―や粋狂じゃない」
 好みがいきであること。あかぬけて洗練されていること。さばけていること。浄、鑓権三「さすが茶人の妻、物ずきもよく気も―に」
 見えを張ること。外見を飾ること。浄、曾我五人兄弟「是さ大罪人の堕獄人、この袈裟衣は―に着るか」。「―めがね」
 ―の薄着
<<

 私は、なんかの霊にハッキングされたんだとおもいます。

イノセンスで、・・

脳だけが自分の脳だけど、後は擬体、まあサイボーグの主人公のバトーに、同僚の伊藤という人から、犬の餌いつも同じコンビニで買っているから、マークされていらしいことに気がついていて、バトーに、別の店で買った方がよいとアドバイスするのだけど、バトーは別の店のドックフードは味が不味いからだめだ。しかし、伊藤は執拗にアドバイスするので、バトーは「伊藤、このごろ口数が多いぞ」・・会話は終わって、沈黙。
 しかし、伊藤が心配していたことか、次にバトーがコンビニにドッグフードに行ったときに起こる。そこで、ハツキングされたわけだ、ある仮想現実を現実と思い込み、もう少しのところて、コンビニの店主を殺してしまうというミステイクを犯してしまうところだった。

 キアヌ・リーブス主演のマトリックスはこのイノセントから実に多くのものを学んで創られているということ尾道の友人が話していました。
 

じゃあな!

 投稿者:旅人君  投稿日:2009年10月 9日(金)06時15分56秒
  ♪新しい朝がきた〜

希望の朝〜
 

福島瑞穂

 投稿者:旅人君  投稿日:2009年10月 9日(金)06時12分54秒
  わがまま言い放題

とことんやったれ!


おらしんねえ
 

ほほほ

 投稿者:旅人君  投稿日:2009年10月 9日(金)06時09分32秒
  天皇がEXILEだとよww

こりゃいいや

まったく
腹いてえww
 

大笑い

 投稿者:旅人君  投稿日:2009年10月 9日(金)06時06分6秒
  伊勢神宮の巨木倒れる

夫婦岩の大しめ縄5本ぶっち切れる
 

ああ これは指摘しておいた方がよい。

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年10月 9日(金)04時42分18秒
  猫君は差別主義者であること。
(そんなことはみんなご存知かもしれないが)
まっぺんさんたちが党派史観を振り回そうが、それは個々人の思いや歴史から来るものだから
仕方ない。(人間というものは保守的なのだ。)
だからといって、反日や在日などと相手に対して言いはしない。

 そもそも、反日であるからどうだというのか
 在日であるからどうだというのか…がよくわからない。

そんなことは自由主義の下では意味のないことである。

 右翼にしても左翼にしても党派性の違いだけで党派ということでは同じである。
 どちらも極端に進めば「思想統一」を目指している。あるいは、主流派を目指している。
 ただそれだけである。
 そんなやりとりができるのも自由主義だからである。

韓国の軍事独裁政権下ではそんなことはできなかった。今、ミャンマーではそんなことができ
ない。北朝鮮でもそうだろう。それに比べれば日本は平和である。相対主義的な平和であるが。

 自由主義の下にしか平和はないのか…といわれれば、、、、そうとばかりもいえないと答える
 しかないが。

猫君の差別主義的な発言については、いくらなんでもそれじゃネトの人すぎる。とだけ指摘して
おきたい。

 後、まっぺんさんも、伊達さんも、事実(統治などの)を上げての発言ではなく、態度論に
 なってますよ。左翼用語を使わないという縛りをかけて書いてみるとよいと思います。

左翼ってすぐ「意義」を使いたがるんです。制度変更の意義はなんですか?(これって目的を
たずねているのに意義って使うんですよ。なぜかは知りません。ともかく「意義」なんてこと
ばを目的をたずねるのにつかったりするのは左翼気味です。右翼は「本来」を使いたがります。
伝統=本質=価値みたいなことなんでしょうか?)

後、neluさん。

 ご指摘の中国、親、朝鮮 兄、日本 弟なる考え方こそ一番問題なんです。これは儒教的史観
です。日本国内においては「国体」につながっていった考えです。天皇の赤子ってやつです。
天皇は私の親ではありません。また、主でもありません。ですから、忠も孝も本来は必要があり
ません。それを「国家=家族」という比喩で儒教的道義で無理やり感情的正義を作り出したもの
です。

 同じように対等であるはずの国同士を主従の関係に固定化する作用としてその儒教的史観というものがあります。(例、中華思想)親を食い物にするなんて…兄を虐げるなんて…ということ
ですね。ふざけちゃいけません。中国が無くたって日本の領土も国民も歴史も存在しえます。
(それがどんなものになるかはわかりませんが。)

 そのような儒教史観を中国も朝鮮ももっている。(もっていた。)という指摘をすることは
 なぜ彼らがしつこく謝罪を日本だけに求めるのかという意味を問うためには必要ですが、そ
 の史観を正しいなどとはいえません。(朝鮮は封柵した中国に対しても謝罪せよといえば、
 その歴史観を一つの系として認めてもよい。中国はアヘン戦争などで植民地化のきっかけを
 作ったイギリスに謝罪せよというなら、同じようにその歴史を一つの系として認めうる。)

 あまりにも中、韓、朝は内向きの目的に歴史を使いすぎています。
 

旅人さん

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年10月 9日(金)02時13分44秒
  猫さんに俺の連絡先を聞きな。  

ネルへ

 投稿者:旅人君  投稿日:2009年10月 8日(木)23時12分22秒
  伊藤じゃねえだろww


相変わらずだな



おやすみ
 

今日は一応、10・8羽田ですけど、措いといて、・・あ太郎先生 VS まっぺんさん、伊藤さん (+招き猫さん)

 投稿者:nelu( かわふくG)  投稿日:2009年10月 8日(木)22時57分45秒
 
の議論が噛み合わない理由について思うこと。
(以上が一応、題です。)

何度も言っていることですが、頭が良い悪いというのは、比べる人、存在によるもので、相対的なものです。TOM2さんは一人称を「小生」としているけど、廣松さんは「書簡の形式に託した」この弁証法の論理では「迂生」としています。
 これを広辞苑で引いてみます。
>>
う‐せい【迂生】
自分の謙称。世事にうとい、おろかな人間の意。
<<
 廣松さんがこんな一人称を使うと、もの凄い嫌みに聞こえますが、高橋巌先生の「若きシュタイナーとその時代」のなかで、シュタイナーが生涯名前を明かさなかったグルがいるという話がでてきますが、廣松さんなんかもう私はあんまり人間じゃないように思うけど、超人というか、当たり前だけど、廣松さんより進化した存在はずっといるわけですね。廣松さんにも明かさないグルとかがいて、その存在とくらべて、廣松さんでさえも案外「世事にうとい、おろかな人間」と自分のことを思っているというのも本当かもしれません。
 実は、弁証法の論理での一人称は正確にいえば「迂生」ではないのです。之繞は二点之繞なのですが、そして、それは「う」じゃなくて「かん」という音読みになるようですが、コードとかにないものですからパソコン上に表記できないのです。

 で、ねえ。弁証法というのはある意味「クネクネした」感じだと思いますがね。
 これは質的問題というより量的問題ですが、もっとも、この話は何度も言っていますが、レーニンが哲学ノートで量的問題が一定の限度で質的問題に転化するというヘーゲル哲学の引用を禿げの話に喩えていますが、私は力量がないので、情報処理能力が劣るので各パーソナリティどうしのやりとりをあまり正確に追うことができない。言うならば天然ボケです。生まれつきのものもあるけど、霊障のせいでもあります。この霊障のせいで憑依することができるようになりましたが、ここでのやりとりの事実関係を相対的には曖昧にしか把握、理解できていません。そういうことを前提にして、一応「議論が噛み合わない理由について思うこと」について、ほとんど、「弁証法の論理」からのヘーゲルの獣引ですけど・・述べてみたいと思います。
 第五信 「方法論的展開相」の構図 p130〜131の辺を引用させていただきますが、「さて、そこで、概念の自己運動の在り方ですが」で始まるのですが、レーニンの哲学ノート、三国の自前の関西前進社の階段の踊り場あたりの隠れ家みたいなところで、マスターベーションしながら読んだ記憶があるけど、哲学ノートで「物質の自己運動」ということをレーニンは言っていると思うけど、ここに書いてあるよって示すことができません。「唯物論と経験主義批判」もまだ読んでないけど、そういうことが積極的に書いてあるのだとおもう。「唯物論のレーニン的段階」とかいって、梯明秀さんとか黒田寛一さんはレーニンに依拠して、いいだももさんに「底抜けバケツ」とかいわれた哲学をこさえることできたんだから。レーニンはそれでも「唯物論的主体性論」なんてものまでは土竜、もぐりこんでないけど、梯明秀さんはまだ大地の哲学止まりかもしれないけど、黒田寛一さんは「底抜けバケツ」だから、大地さえも突き抜けて、ブラックホールに行ってしまっているようですね。エンゲルスは・・・反デューリング論、少し読み始めた・・・神津陽さんって、なんかやっぱりデューリング氏という気がしました。エンゲルスの反デューリング論・・・悪しき反映論の典拠とかいわれるんですか、レーニンはこれに依拠しているんですね・・時代が下がるにしたがって大地の方に下がって行く感じ、ええっ、廣松渉さんは、「マルクス主義の地平」の第一章 「マルクス主義的唯物論とは何か」の最初のページで「〃ロシア・マルクス主義〃によって流布された、いわゆる(「いわゆる」に傍点あり)〃弁証法的唯物論〃なるものでは、弁証法の形骸(「形骸」に傍点あり)を伴ってはいても、十八世紀の俗流唯物論と逕庭(けいてい)がない、と言わざるをえない。」と言っていて、そういうこともそうだとは思う。エンゲルスに依拠してもいるんだけど、レーニンの弁証法は物質の反映論のようなものにしかなっていない。廣松さんはマルクスの弁証法は反映論と構成論の対立の地平そのものをアウフベーンした構成になっているとかいっています。廣松さんがそういうこともそうだと思うけど、・・ええと
 黒田寛一さんの「実践と場所 第一巻」の「予備的考察」の冒頭
>>
《自然史的過程の哲学》こそが、マルクス思想の核心をなす。注1 ―― 若き梯明秀が、一九三五年ころから探究しはじめ『資本論』研究を通じて必要に諦(あか)らめることに努めてきたのが、まさにこの命題であった。注2

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
注1 カール・マルクス『資本論』第一巻、「第一版への序文」―― 「経済的な社会構造の発展を自然史的過程と解する私の立場」。

注2 梯明秀『資本論の弁証法的根拠』(高桐書院版一九四八年、有斐閣版一九五三年)。同『社会の起源』(日本評論社版一九四九年)、同『ヘーゲル哲学と資本論』(未来社版一九五九年)。
<<

 廣松渉さんはマルクスの「経済的な社会構造の発展を自然史的過程と解する私の立場」というベクトルについては無視しているとおもいますね。(私、最近、『資本論の弁証法的根拠』『ヘーゲル哲学と資本論』を買うだけ買いましたし、著作集第一巻「総括的序論 物質の哲学的概念」かあ、は持ってます。)

 私にはマルクスの文献を読破するなんてことは到底およばないのですから、断言はできないですけど、マルクスはレーニン(あるいはエンゲルスを含めてもいいと思いますが)、自己運動する物質なんてことまでは言ってないと思うんです。
 しかしながら、ご承知のように、と言っても、といつても人民食堂のレベルでは、そんなことに問題意識を持っているような人はほとんどいないと思うけど、ああっ、いや、柄谷さんの「マルクスその可能性の中心」はこの話が最初の方ででてくるんですよね。軟便もいうけど私は柄谷さんは招く猫さんが好きな、あ太郎先生によれば、正しく理解しているかは疑問だそうですが、カントだとおもいますが・・・・マルクスの学位論は「デモクリトスとエピクロスの自然哲学の差異」でありまして、デモクリトスというのは「物質の自己運動」だけで宇宙のことを全部説いた、イオニアの自然哲学者の親玉ですよね。
「この型の思想が唯物論と無神論に通ずる危険思想として、やがて思想史の背景のなかに沈み、アリストテレス型のものが前景に立ちはだかったのは、古代社会の没落と、キリスト教の支配する中世封建社会の出現という社会事情から、当然のことでもあったろう。」でも、あるわけですが、・・・・
 ですから? マルクスだってデモクリトスでもって、物質の自己運動を言っていると言えないこともないと思うわけですね。

 まだ、本題に入れませんでしたが、11時になるし、頭が痛いし、とりあえずギブ・アツプします。
 

けらけら

 投稿者:旅人君  投稿日:2009年10月 8日(木)21時21分14秒
  俺は湯川君と将棋してたの<嘘>

俺が言いたいことがわからねえのか?

京大や東大なんてたんなるオタク集団ってことだよ


馬鹿丸出し!
 

さてと

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年10月 8日(木)21時03分16秒
  だいぶできあがったので街にでます。

あさん。
 

イスラム教的。

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年10月 8日(木)20時43分14秒
  とすると。


インドからみて西にいた人々が関与している可能性を考慮にいれて考えてもいいとなりますか。?。
 

まっぺんさんへ

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年10月 8日(木)20時32分44秒
  意義ということばで問うことができないと言っているんですよ。
<是非>ならいいでしょう。

価値というものは相対や絶対にしろ、誰にとって、何にとってということがついてまわります。

猫君は読めない君ですから、

 善意は支配する日本人がそう思ってもっているもの
 日本が統治してよくなったのは<朝鮮におけるインフラや経済活動>
 統治がよかったわるかったと論議することは不毛である。

という意見が同じ系列に見える既得な脳みそらしいので、なんともしがたいですが、
まっぺんさんも同じ系列の脳みそなのでしょうか?
 

法華経は

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年10月 8日(木)20時28分13秒
  釈迦が説諭したものでも、語ったものでもありません。
原始仏教集団の中で教義として生み出されたものです。
(つまり、イデオロギーです。)

そして、実はイスラム教的ではないでしょうか?
 

旅人さん。

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年10月 8日(木)20時26分31秒
  〇大卒、

アフォしかみたことないけれど・・・。


僕のおじいちゃんは、湯川秀樹のお兄ちゃん相手に、上座で囲碁を打ってるんだよ。


だからどうだってことじゃないんだけどね。


ぼくの、おやじの姉貴は○大に留学してた中国の人と結婚したんだよ。


だから、どうだ、じゃないんだよ。
 

すごいなあ。猫君。

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年10月 8日(木)20時21分21秒
  カントのその文章を読んで、私と違う結論を出せるキミはさすがに読めない君だ。
お見それした。

ここで、その文章の正しいつながりと意味を説明してもよいが、キミのためだと思うとバカらしいのでやめておく。

いや、びっくり。
 

あさん

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年10月 8日(木)20時11分1秒
  台風が過ぎてからでいいよ。  

今のうちに

 投稿者:ヤマさん  投稿日:2009年10月 8日(木)20時07分21秒
  質問。




あさん。

法華経は、仏陀の、「あだばな」、なのか、それとも、「必然」、なのか、?。

どう、でしょう。
 

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