今回は、西村vsコシミズの決戦について触れながら、宿題遺棄事件シリーズ前半のおさらいと絡めたお話をします。
雑感としては、案の定まともなお話し合いは出来なかったし、ご近所迷惑でしたね。
西村修平さんの宣戦布告文からすると、『統一教会から資金提供を受けている』と誹謗中傷された事が発端だったはずです。瀬戸弘幸さんの工作で、「そよ風」への誹謗中傷への抗議にすり替え。
コシミズさんは脇が甘い上におバカさんだったようで、この挑発に乗って、「そよ風」の女性陣の写真にコラージュして誹謗中傷。黒田大輔さんと同じような幼稚なことをしてたらダメでしょう。瀬戸弘幸さん達は勝ち誇っていますが、相手が自分たちと同じレベルに堕ちただけなので、あまり自慢にはならない。
で、当初の抗議理由については全く解決していません。それをすっかり忘れたかのように瀬戸弘幸さんは、鳩山由紀夫総理の献金問題の追及をすると息巻いています。
例えば、小沢一郎氏が会計責任者を連れてきて『西松建設との関係は無問題』って説明させたら疑惑は全解消したと瀬戸弘幸さんは認めますか? 『国民を舐めるな!』と仰るんじゃないでしょうか。
鳩山由紀夫総理の場合でも、『秘書が処理したことですから』で済ませたら、やはり許さないんじゃないですか?
西村修平さんが、会計担当者を連れて行って、その場で口頭で統一教会との関係を否定させて胸を張って見せたパフォーマンスは、それと何が違うのでしょうか? 国民を舐めるのも大概になさった方が宜しいかと。
あれでは、何も説明しなかったのと同じですね。ゴネて穏やかに討論するのを拒む。そよ風コラ問題発生より前から街宣許可を取って居たことも判明しているようです。瀬戸弘幸さんの虚偽説明も破綻しています。
最初から、脅したり嫌がらせをすることで、『統一教会から金をもらっている疑惑』を蹴散らしに行ったんですね。そうとしか解釈のしようがありません。
瀬戸弘幸さんは、現地で穏やかに話をしようという姿勢が若干見られたものの、西村修平さん登場後は完璧に嫌がらせ街宣で相手を黙らせる作戦に終始していました。瀬戸弘幸さんは、終了後も西村修平さんの姿勢について何ら疑問を呈することもなかったようです。
もちろんコシミズさん達の態度も全く褒められたものではないですが、「行動する保守」の金銭面の疑惑はますます濃厚になったと言わざるを得ません。
『まともに情報を開示して話し合うことは出来ず、嫌がらせや脅し、家族まで狙って押しかけるという行為で黙らせる方法を取るしかない程、裏側は真っ黒なんじゃないか?』と多くの人が再認識したと思います。
また、「犯罪報道被害者の会」主催の瀬戸弘幸さんは、この分野においては卓越した知見や倫理観を持ち合わせていることが期待される「みなし公人」です。そういう基準で評価し、批判させて戴きます。
加害者にも人権があり、報道の過熱によって、家族に対する行き過ぎた取材などを制限しようという動きが一時期あって、「人権擁護法案」にマスコミ規制条項として盛り込まれかけた時期もありました。
現在は、報道業界が自主規制の枠組み内で行き過ぎをなくす取り組みをしています。瀬戸弘幸さんは、もちろん立派な趣旨の会を主催しているんですから、こうした流れをご存知ですよね?
然るに、『写真を使って名誉毀損する』という、黒田大輔さんと同種の犯罪ですが(※コシミズさんの方が悪趣味だとは思います。)、これに対してコシミズさんの実家に押しかけて嫌がらせをするのは行き過ぎだとお思いになられませんか?
マスコミの取材過熱による『加害者家族に対する取材』ですら、人権侵害の疑問が持たれている昨今だというのに、殺人事件等の重大犯罪ではなく、誹謗中傷レベルで実家に押しかけてご近所様に迷惑が最大限かかるように抗議街宣。マスコミによる人権侵害の比でないことはお分かりになるはずです。
加害者の人権にも配慮するよう求める団体の主催者として、どう思われるのですか? これが許されるなら、黒田大輔さんのご尊父の事務所に抗議街宣なども当然許されることになりますよね?
また、コシミズさんの実家が日中友好協会と縁があるとの誤報が飛び、それを根拠にコシミズさんのご尊父に暴言を吐いている方まで居られるようですが、こういうのを放置しておいて許されるんですか?
だったら、こういう情報は如何でしょうか?
瀬戸孝一さんの自伝の巻末に「わが人生の足跡」という年表があります。昭和53年8月22日、「日中友好県民の翼訪中(副団長)」と書いてありました。
私は県議として日中友好の架け橋となられた瀬戸孝一さんは間違ってないと思いますけど、コシミズさんの実家を襲撃した暴徒の方々の理論だと、国賊という事になりますから、ご子息である現福島市長の瀬戸孝則氏宅辺りが街宣対象になってしまいそうな気がします。
実際は、似非愛国者でしょうから、瀬戸弘幸さんの親類は襲わない。コシミズさんのご尊父は誤報でも襲う。日中友好は口実に過ぎないってところでしょう。
(※似非じゃない証拠に福島市長を襲えと言っているわけではありませんので誤解なきよう。法治国家日本で人様を襲おうなどとは絶対に考えてはいけません。)
私は、偏狭なナショナリズムで煽動を持ち込んで、自分が抗議したい人の家族まで巻き込んで『お灸を据える』だか何だか知りませんが、無茶苦茶な私的制裁を加える「ならず者」には、問題があると感じています。
こういう「ならず者」に限って、自分たちが加害者側になっている時は、無茶な事をする正当性ばかり説き、同じ事を自分たちがやられそうになった途端に泣き言を並べ立てたりする情けない人達だったりするものです。
どうしても、あれは西村修平さん達が勝手にやった事という扱いにしろというなら、客観的に見て、あの行動をどう思うのか「犯罪報道被害者の会」主催、または普段からジャーナリストを名乗る瀬戸弘幸さんの報道倫理が、どの程度のものか世間に知って戴くためにも、きちんと表明して戴きたいものです。
ノーコメントでは、あまりにお粗末でしょう。それこそ何も答えられないのは「逃げた」と言われても仕方がない。
また、リアルの衝突が済んだ後も、瀬戸弘幸さんは言論でコシミズさんに追い討ちをかけようと考えたのでしょう。色々言い始めましたが、虚偽説明のオンパレードになっています。
統一教会の文鮮明氏が金正日と会談したのは1991年の12月で、それ以前に民族派右翼活動している時期に勝共連合と関係があったからと言って文句を言われる筋合いはないというような事を言いたいのでしょうが・・・
宿題遺棄事件シリーズ(その2)で説明させて戴きましたが、瀬戸弘幸さんは2006年01月26日付のエントリーで、セマウル運動について紹介しつつ、勝共理論丸出しで、『私は韓国における「反共・自由の青年戦士」達との共闘を呼びかけたい。』と呼びかけています。
文鮮明が北朝鮮訪問をした後も、瀬戸弘幸さんは勝共理論を捨てていません。その後のエントリーで嫌韓に転じた理由を盧武鉉政権などに押しつけています。
反日教育は、李承晩軍事政権以降ずっと行われて来ました。瀬戸弘幸さんが反共パートナーと認めてきた歴代政権がどれもやって来た事です。盧武鉉政権が急に反日教育を始めたかのように紹介しても騙されませんよ。
そして、セマウルに居るのが統一教会に思想洗脳された農民たちだという事はネトウヨに教えずにオルグしようと画策。文鮮明が金正日と会談した後にこういう事を平然とやっていたのが瀬戸弘幸さんです。
次回は、瀬戸孝一さんの自伝から天野光晴さんに関する話、更に選挙違反を天野光晴氏が豪腕で処理した話、瀬戸弘幸さんが発行していた「月刊ルポルタージュ」などの紹介に充てたいと思います。
【追記】
新エントリーを起こすほどの事ではないので追記にしておきますが…
瀬戸弘幸さんがコシミズさんへの反論として、「北朝鮮偽装右翼説と左翼偽装転向説に反駁する」なんて事を言い出しました。
『ヒトラー思想のススメ : 自然と人類を救済するナチス・ヒトラー世界観の120%肯定論』によると、瀬戸弘幸さんのネオナチの師匠であり、児玉誉士夫系民族派団体として師事した「民族思想青年会」代表の篠原節さんは、社民党系… つまり左翼からの転向組ですよね?
瀬戸弘幸さんも、この本で対談していて共同執筆しているんですから重々承知しているはずです。非常に身近なところじゃないですか。どうして自分と遠そうなところから左翼転向組の話題を持ってきて「他山の石」みたいなフリをなさるんですか?
そういうみっともない真似は、やめた方が宜しいかと。国会図書館の蔵書にある瀬戸さんの著書は、時間がある時にパラパラと読み始めてますから、ウソをついてもすぐ分かりますよ。
徐才喜さんという在日韓国人が限りなく架空の人物らしい事は、福島県立図書館での調査でも確認できました。
そうなると、瀬戸弘幸さんが匿名のルポ記事で警察が不当逮捕や不当捜査をしているといった怪しげな印象操作をして世間に何を伝えたかったのかという点に興味を持った人も居るでしょう。
フカシ記事を書いても、ライターとしてもらえる原稿料はたかが知れているでしょうし、お小遣い稼ぎとしては妙な感じがします。
私は、この事件について調べるために昭和51年10月末~昭和52年の春先辺りまでの新聞をしらみつぶしに読んでいました。偶然、この時期には調べてみたかった事柄が集中的に起こっていたという事もあり、かなり丁寧に眺め回していました・・・
すると、遠藤文子さんの名前をとても意外なところから拾ってしまったのです。
新聞記事のコピーをとって来たので、興味のある方はコチラを見て下さい。
昭和52年1月14日 福島民友新聞 夕刊
瀬戸弘幸さんの親族(多分、いとこおじ)の瀬戸孝一氏が、天野光晴氏選挙違反に絡んで任意出頭という記事が出ています。この中で、運動員の百川六郎氏という方が逮捕されたという記事があるのですが・・・
百川の自宅は福島駅西口の東北新幹線高架橋工事現場の近く。太田町の元女性校長殺しの現場から約五百メートル離れた住宅地の一角にある。
被害者宅と500メートルしか離れていないところに住んでいて疑われた太田町内の住人というと、徐才喜さんと全く条件が同じですね。逮捕された時期と、瀬戸弘幸さんが、「徐才喜冤罪事件」に取り組み始めたという時期はピッタリ同じです。
瀬戸弘幸さんは、天野派の県議会議員で、当時は県議会副議長だった瀬戸孝一さんの親族。そして、遠藤文子さんが殺害されて半年もしない時期に日本刀で傷害事件を起こして9ヶ月も拘留されています。
出所して早々、瀬戸孝一さんが任意出頭となり、天野派運動員の百川六郎氏が逮捕され、天野派と遠藤文子さん殺害が何となく関連づけられている空気が見えるや否や、全く違う作り話をこさえて世間に発表しようと動き出しています。
架空の在日韓国人である徐才喜という人物が冤罪でハメられて逮捕され、警察に人権を無視した不当な捜査をされているというフカシ記事を匿名ライターとして寄稿。
この「徐才喜冤罪事件」を瀬戸弘幸さんが実名で書いていたら、警察はどういう動きをしたでしょうか? また、山本弘幸というペンネームのライターの正体が、天野派県議の瀬戸孝一さんの親族で前科者の瀬戸弘幸さんで、迷宮入りしかけている遠藤文子さん殺しの捜査をかく乱するような記事だと認識したとしたら・・・
第一級の容疑者として浮上したんじゃないでしょうか? 絶対に堂々と実名で書けるわけがない連載だったはずですよ。誰が考えたって怪しすぎます。瀬戸弘幸さんが遠藤文子さんを殺したとまでは断定出来ないものの、何が事情を知っている可能性があると警察に判断されてマークされてもやむを得ないでしょう。
これは、「東村山の闇に光りを」などとバカげた事を言っていられませんね。東村山市議転落死問題と違い、遠藤文子さんは確実に殺害事件です。事故死や自殺といった疑問が入り込む余地は皆無です。
カビが生えたような古い話の裏を取る物好きが居ると瀬戸弘幸さんは考えなかったのでしょうし、万が一調べられても遠藤文子さん殺害事件は時効が成立していますから気が緩んだのでしょうか。記事が掲載された雑誌名や時期を得意げにお話してしまったのが運の尽きでしたね。
また、瀬戸弘幸さん達の東村山での活動を見ていると殺人事件等の重大犯罪については時効撤廃を求める姿勢のようです。
どれだけ古い問題であっても巨悪は眠らせてはならないと仰っているようですから、私が福島市太田町の殺人事件について何十年経っても追求し続けようと考えても一切文句を言うことはありませんね?
私が本件について拾ってきた情報は、まだ終わりではありません。むしろ序の口だと考えてください。まだまだ掘り下げていけるネタを持ち帰っていますので、追々取り上げて行きます。
瀬戸孝一さんは、この選挙違反問題を県議会で野党に徹底追及されて副議長の罷免要求まで出されますが辛くも否決。翌日に辞任して、福島県政は何とか平静を取り戻したようです。
これが、私が福島に行く前の調べ物で見つけていた、昭和52年3月5日の辞任の真相でした。色々ご苦労なさっていたんですね。
それにしても、この天野光晴氏の選挙違反問題、全国紙で拾おうとするとほとんど情報が見つからないんですね。福島に行って初めて色々知りました。
それまでは、木村守江県知事の逮捕劇の余韻が1年後もくすぶっていて・・・ くらいの予測しか出来ていませんでしたが、天野派が片っ端から逮捕や任意出頭という事態にまで追い込まれ、県議会がストップし、蜂の巣をつついたような大問題になっていたとは・・・
地元新聞を読まないと分からないことってあるんですね。
次回に続きます。
瀬戸弘幸さん達、今度はリチャード・コシミズさんと揉めているようですね。
セマウル問題を取り上げ始めた時に、コシミズさんのところらしき掲示板にウチの記事の要約が貼られてるのを見て、コシミズさんたちの路線とは違うんだよなぁと微妙な気持ちになったのも確かなので、肩入れする気は更々ないですが、みなし公人である瀬戸弘幸さんには少し言っておきたい事があるので触れておきます。
地裁の判事が創価学会から金品をもらって創価有利な裁判進行をしたに違いないからと、訴追請求までしたのは他でもない瀬戸弘幸さん達だったはずです。
『証拠もなく、カルト宗教団体からお金をもらっていると決めつけてクビにしろと具体的処分まで求める』という暴挙に出た上に、虚偽告訴の類にならないかと私が聞いたら『表現の自由だ』と突っぱねたのも、瀬戸弘幸さんです。
「犯歴報道被害者の会」という立派なお名前の会の主催者である瀬戸弘幸さんの倫理観はその程度のものですから、他の方が西村修平さんの活動資金が不透明だから『統一教会からお金をもらっているんじゃないの?』と口先で言ったくらいで目くじら立てて『堪忍袋の緒が切れた』と言う資格などないでしょう。
西村修平さんも瀬戸弘幸さんも、政治活動資金が不透明すぎるからあらぬ誤解をいつまでも持たれるのではないですか? 怪しげなカルト宗教からお金をもらわなくても健全に活動できる事を示すためにも、収支報告をきちんとなさっては如何でしょうか。
自分たちは証拠もなく他人様がカルト宗教からワイロをもらっていると言っても『言論の自由だ』と言えば許されると主張したんですから、コシミズさんに『統一協会から金をもらってる証拠を出せ』としか言えないなら世間にバカにされます。
自分たちの資金の収支状況を進んで全公開して、『アヤシイ宗教などから金をもらわなくても困ってないぞ!』とカッコイイ啖呵を切る位でないとお話になりませんよ。
何しろ、瀬戸弘幸さんは「犯罪報道被害者の会」の主催者ですから、世間一般の人々よりは高い倫理観を持ち合わせていることが期待されます。世間に対して恥ずかしくない振る舞いをなさるよう期待しております。
脱線し過ぎましたね。ボチボチと福島県立図書館で拾ってきた情報を交えたお話に入って行きたいと思います。
まず、福島行きのきっかけになった「徐才喜冤罪事件」の元記事。図書館に到着してすぐに閲覧させて戴きました。
「政経東北」という月刊誌の昭和53年6~9月号に掲載されたもので、すぐ見つけることができました。瀬戸弘幸さんは28歳の頃と自己申告していたのですが、25歳の頃の執筆ですね。
瀬戸弘幸さんは、ヤクザ者との刃傷沙汰を起こして9ヶ月間拘留されている間に、徐才喜さんが(殺人罪について)無罪を勝ち取って出所した事、那須さんの冤罪事件などのニュースを聞いて心強く思ったとブログに書いています。
この記事に取り組んだのが昭和53年の正月頃からのようですから、逮捕拘留されたのは、昭和52年の3月以前という推測が成り立ちます。ここまでは良いですね。
この徐才喜さんという方が疑われた原因であるという、福島市太田町婦人殺害事件というのが発生したのが昭和51年10月20日です。瀬戸弘幸さんが刃傷沙汰を起こした時期とかなり近いですね。恐らく半年の開きはありません。
図書館で複写を取らせて戴くことが出来ましたので、「徐才喜冤罪事件」の記事を公開します。
徐才喜冤罪事件-1回目
徐才喜冤罪事件-2回目
徐才喜冤罪事件-最終回
迫真のルポですね。流石はジャーナリストデビュー作。よく調べて書いています。 ・・・と申し上げたいところですが、実はそうではありません。
この記事にざっと目を通し終えた私は、すかさず記事の裏を取り始めました。まず、「福島市太田町婦人殺人事件」の概要を知るために、地元紙の記事を読むことにしました。
福島県の有名な新聞は、「福島民報」と「福島民友」があります。昭和52年の新聞を図書館にリクエストすると、『福島民報はマイクロフィルムしかありませんが、福島民友なら紙のままで保管してありますよ。』との事。
時間がないので、「福島民友」を先に見せてもらいました。事件発生の翌日には大きく1面を飾り、遠藤文子さんについても詳しく書かれていました。それから10日間くらい、連続して記事が続いています。アタリが取れたので、「福島民報」のマイクロフィルムもざざっと目を通しました。
結論を言いますと、瀬戸弘幸さんが遠藤文子さんについて自分がルポしてきたみたいに書いていることは、ほとんど地方紙に書いてあった内容の引き写しです。新聞の引用だと書かなかっただけで、目新しいことなど何も書いていません。
新聞では遠藤文子さんを良い人だと書いているのを、勝手に悪人にしようと小細工している以外の部分は、ほぼ丸写しと言って差し支えありません。
次に、徐才喜さんが詐欺で逮捕された時に新聞社がこぞって書きたてたと主張している点が気になったので、逮捕されたとされる時期、起訴されたとされる時期など重点的に、しらみつぶしに新聞記事を読みました。1日も飛ばさずに紙面を読みましたが、それらしい人物の逮捕を報じる記事はありませんでした。
「徐才喜冤罪事件」のライターは、遠藤文子さんについて自分が調べてきたように書いた部分が新聞の引き写しであることを書かない。遠藤文子さんに金貸しの疑惑がある等のネガティブな記述だけ信憑性を上げようと必死に新聞紙名と日付を書く。徐才喜さんが逮捕された際、新聞がこぞって書きたてたと言いながら、どの新聞がいつどのように書いたかという点は全く引用しない。
こういう事をしていれば、ジャーナリストとしての信用はいつまでたっても醸成されないでしょうね。こういう姿勢で好き放題書くライターが放置されるなら、犯罪報道被害もバンバン出るでしょう。出版社は、持ち込まれた記事の裏くらいは取るべきだと思います。
私は限られた時間内で記事を読んでいますが、複数紙を読んでも全く詐欺で逮捕されて遠藤文子さん殺しを疑われた人が見当たらないという事は、徐才喜さんの存在自体がフカシであるという疑念はきわめて濃厚です。
通名報道云々と言い出す人も居られるでしょうが、「徐才喜冤罪事件」で日本人名とされている姓も見ましたし、姓名や人種にも拘らず、太田町界隈で詐欺容疑で逮捕された人ということで記事を一生懸命読んでもそれらしいものが見つけられませんでした。
更に、昭和52~54年版の福島市住宅地図を閲覧させてもらうことにしました。連載2回目にある地図と見比べてみると、確かに電気病院(※紛らわしい名前ですが、家電系リサイクルショップだと思います)は存在しますし、遠藤文子さんの家も新聞記事の住所をそのまま地図上で探すとこの位置です。しかし、玉川食堂は確認できません。地図上でこの辺りは空白です。
徐才喜さんを詐欺で訴えた人を仮名にしているのも巧妙ですね。民事なら、原告と被告の実名が分かっていれば、事件番号等がすぐに判明しますが仮名では確認が取れません。
いくら丹念に探しても徐才喜さんが実在したと思える情報に全く辿かない。渾身のルポの裏を取っているはずなのに不思議なことです。
これでは、私はフカシ記事を読むためだけに福島までノコノコ出てきたことになってしまいそうです。
それ以上に、実在しそうもない在日韓国人の徐才喜さんが冤罪で警察に吊し上げられていると瀬戸弘幸さんが匿名ルポまで書いた意図が実に不可解です。
新聞記事を始め色々な資料と「徐才喜冤罪事件」を見比べていた私は、やっぱりこんなもんだったか・・・ と予想通りな展開になった事については、それほど落胆しませんでした。
福島に来る前は、ある程度調べて『かなり濃厚な線でガセッっぽかったです』という結論を報告できる程度の目処がついたところで次の調べ物に移る予定でした。
ところが、そう捨てたものでもありませんでした。事前に予習をしておいたのが良かったのでしょう。「徐才喜冤罪事件」の裏を取っている最中に、新聞記事の中から瀬戸弘幸さんの過去の素性洗いの方で調べるつもりだった全く別件と本件が直接リンクしている記事に気づいたのでした。
瀬戸弘幸さんは、『冤罪がどのようにして生み出されるのか』をテーマにしたがっていましたが、私はこの事件を通じて『でっち上げ記事がどのようにして生み出されるのか』という勉強をさせて戴いたように思います。
次回に続く。
瀬戸弘幸さんが、「犯歴報道被害者の会」という団体を立ち上げたようです。まだ活動内容がよく見えませんが出来るだけ立派な会にして戴きたいものです。
社会活動家として、公人に近い影響力の行使をしようとするなら、瀬戸弘幸さんを「みなし公人」扱いして批判しても何ら問題ないという事になります。特に「犯罪報道」によって生じる被害について、世に問う活動をなさるようです。
そういう事ならば、その分野における倫理観を正しく持っておられるかという点について、世間一般の人たちよりも厳しい基準で評価されるのは当然の事です。そうした批評に耐えられないなら最初からそうした看板を掲げたりすることは間違ってもないでしょう。
瀬戸弘幸さんは、ご自身がなさってきた事に絶対の自信があるから、「犯罪報道被害者の会」を立ち上げて、その看板を背負ったのですよね?
私がこれから批判しようとしていた事柄の根底には、正に瀬戸弘幸さんの報道姿勢に対する疑問があります。
それに気づいたのかどかは分かりかねますが、このような会まで立ち上げて、この分野で堂々と看板を掲げて「みなし公人」として扱えと宣言なさるとは、実にご立派な姿勢だと感服しました。
もちろん、瀬戸弘幸さんのご希望に沿って公人並みに厳格な目線で評価した上で批評させて戴きます。素晴らしい看板を掲げていらっしゃるんですから。
では本題に移ります。前回の続き。
昭和48年末の石油ショックで、資金繰りが苦しくなった東亜相互企業が、白河高原開発の一環でゴルフ場の一部を分譲住宅地に計画変更した事と、その計画変更の受理については生殺与奪の権利を福島県の「生活環境部」が握るような事態になって行ったことまでお話しました。
昭和49年末、更に追い討ちをかけるように国土利用計画法が制定されます。
今までの「福島県自然環境保全条例」が届出制だったのに対し、「国土利用計画法」は許可制で、更に足枷の度合いが強まります。ただし、内容は県条例に近いため、県条例のうちに「届出」を通しておけば、「許可」も同一手続きで通りやすくなるということから、駆け込み申請が殺到しました。
ちなみに、この「国土利用計画法」は、福島1区選出の衆議院議員、天野光晴氏の肝入りで作られた法律です。この方の名前は、これからもちょくちょく出てきます。
そろそろ生臭い話になってきます。
「東亜相互企業」営業の黒沢利勝氏は、「生活環境部」部長の赤井重雄氏と、木村守江県知事が4選目の懸かった選挙に出馬に関する話をしている時に、こんな事を言われたそうです。
『木村知事も今度は資金がなくて困っている。県議一人に三十万ずつ出しても一千万ずつかかる。』
黒沢氏は、赤井氏が現金を要求していると思い、日頃から面倒をみてもらっていると感じていたことからお礼をしようと考えました。木村氏と赤井氏が白河高原の開発に理解を示してくれていれば、これほど心強いことはありません。
上司とかけあって1千万円用意した赤井氏(※誤記のため訂正します)黒田氏ですが、上司の判断ミスで県庁に直接届けに行って一度は受け取りを拒否されてしまいます。こんな大金を人目があるところに持ち込んでは当然です。
上司を退場させて場を改めて設定し、木村氏と赤井氏に500万円ずつ分けて渡すことにしました。
赤井氏の分は、実際には300万円がラジウム卵という土産物の中に忍び込ます形で受け渡されましたが、これは、赤井氏がステレオ、株券、ゴルフ会員権、飲食費などに使ううちにあぶく銭として消えました。
木村守江氏の支持母体は「豊かなふるさとづくり県民会議」といいいます。
この副会長を務めていたのが、「福島県農協五連会長」の斎藤初四郎氏です。福島県の農協は、単協と呼ばれる158の組合が目的別に5つの連合組織を作る「五連制」を敷いていて、そのトップがこの人です。
木村守江氏は元々は医師で、旧軍では軍医、そして五連会長の斉藤初四郎氏は軍曹で、同じ戦場に居ました。そして、斉藤氏は木村氏の目の前で重症を負い、適切な救命処置と看護のおかげで命をとりとめ、以後命の恩人として、木村氏のためなら命を賭けられると公言するほどの間柄になります。
第077回国会 農林水産委員会 第16号などを見ていただいても良いのですが、『この五連の会長の斎藤初四郎は知事木村守江と地獄へ一緒に行ってもいいと言っている男なのです。どんな選挙をやったか、選挙違反で逮捕されている。この事実をどう見るか。』
といった厳しい追及もなされています。
木村守江氏も斎藤初四郎氏も、「木村王国の崩壊」を読めば必ずしも単なる悪人として書かれてはいないので機会があれば読んでみて欲しいのですが、兎に角、木村守江氏の最後の花道として『4選目の知事選を大勝させてやりたい』という想いが斎藤氏を突き動かします。
「福島県農政刷新連盟」という政治結社があります。農民たちの政治参画意識を集結して政治を変えようという団体で、委員長は五連会長。つまり、斎藤氏です。「盟友」と呼ばれる組織員は20万人。家族などを含めると30万票とも40万票とも言われる、非常に大きな集票能力を持っています。
この知事選は、木村氏の勝利が楽観視されていたのですが、斎藤氏は有終の美として大差で勝たせてやりたいと考えていたので、投票の棄権を少しでも減らすために農協という大票田のひきしめをしようと考えました。
農協幹部職員や県内の158の農協役員その他実弾(=ワイロ)をばら撒いて、役員から選挙は棄権せず投票しに行くように働きかけをさせようと考えました。そうなると、必要な額は1千万円。この裏金の用立ては、自民党福島県連幹事長の大野正一氏に依頼されました。幹事長のところには様々な政治献金等が集まってくるからです。
大野氏は、2つの工務店から500万円ずつ裏金を回してくれました。
1つは、元々農協との取引がある工務店でしたが、もう1つは木村氏との接点はあるものの農協との接点はほとんどありません。実は、これが「東亜相互企業」の黒田利勝氏が木村氏にワイロとして贈った500万円が偽装されたものでした。
こうした事実は、末端から頂点に向かって次々と明るみになって行くんですが、皆が一様に木村守江知事を守ろうと懸命になります。農協五連トップの斎藤初四郎などは、農協全体が組織ぐるみで選挙違反、票の買収といったことをやっていた事、この選挙だけでなかったことなども認めていました。
それを認めてでも、木村守江知事個人の刑事責任は免れさせようとした・・・ すごいことですね。農協トップが農協崩壊につながりかねない選択をしてまで守ろうとするんですから。
また、自民党福島県連幹事長の大野正一氏も矛盾を突かれて追及が福島県内の与野党県議全員にまで及ぶくらいのところまで追い込まれるギリギリのところまで、木村守江氏を守り抜こうとしていました。
あらゆるところに、トップである県知事の刑事責任追及を阻む否認の壁があり、それを突破するための地検の戦いがありました。
かなり端折りましたが、何が起こっていたかの把握だけならこの辺までで十分だと思いますので、興味のある方は本を探して読んでみて下さい。
「木村王国の崩壊」は、有罪になった人たちの事も必ずしも一方的に悪人としてなじるような書き方はしていません。機会があれば図書館などで探して下さい。
もう1冊紹介したい本があると、前回お話していました。
福島市太田町婦人殺人事件の被害者、遠藤文子さんの件で「ふくしま教育データベース」を見ていて、木村守江県知事の他にもう1人気になる人を見つけていました。
教育年報1966年(S41)-134/194pageの中を見ると、「福島県PTA連絡協議会長」という肩書きで瀬戸孝一さんという方がいらっしゃいます。
たまたま苗字が一緒なだけかもしれませんが、福島県PTAで一番エライ人だったみたいです。このお名前でGoogle検索してみると・・・
JA新ふくしま 試行錯誤のリンゴ物語
福島で初めてリンゴを栽培したのは、瀬上町の阿部又兵衛氏で、同氏は明治21年、阿武隈川の向かい側に「倭錦」(やまとにしき)というリンゴを初めて栽培したとされています。実施的に福島県のリンゴの栽培の歴史が幕を開けるのは、同じ瀬上町の阿部勉治氏が、明治40年、山形県から苗木を購入し植栽しました。4年後には5人の賛同者とともに瀬上果樹組合を発足させ大正年間までは自己流の栽培技術で試行錯誤を繰り返していたようです。
終戦後の昭和22年、既にリンゴ栽培の中心になっていた阿部健次郎(瀬上町)を会長、瀬戸孝一氏を事務局長とする瀬上リンゴ技術研究会が発足し、以後はこの組織を中心に広く県内各地にリンゴ栽培が普及しました。
当時、本県のリンゴは倭錦で始まり、その後は祝(いわい)と旭(あさひ)が栽培の主流でありました。戦後はこれにスターキングが加わり、昭和30年~40年までは、この3品種の全盛期が続きます。現在は「ふじ」が主流となっていますが、その理由はなんといってもおいしく、貯蔵性にたいへん優れていたからです。ふじは、まさにリンゴの代表格であり市内の約70%が「ふじ」で占められています。
リンゴ栽培の草分け的存在の方ですね。更に検索してみると、この方が書いた自伝がネット古書店で見つかりました。著者の紹介を見ると大正8年生まれとの事。(※私が本を購入したので、もうネット上では情報を読めません)
瀬戸弘幸さんのブログを読み返すと、瀬戸弘幸さんのご尊父も丁度同じ年齢のようでした。
更に検索してみると、福島県議会議員に何度も当選なさっている片だということが分かったのですが興味深いことが・・・
県議会ふくしまWeb 県議会議員の紹介 議会、副議長紹介というページを見ていくと、昭和52年3月5日に福島県議会副議長を「辞職」なさっています。
私が瀬戸弘幸さんが刃傷沙汰を起こしたと予想している時期がこの辺りだったので、この情報を見つけた時は、瀬戸孝一さんが、瀬戸弘幸さんのご尊父なのではないか? と思い込んでしまうほど色んな条件がピタっと当てはまっていました。
誤解が先行するとまずいので、順序が前後してしまいますが先に少しお話しておきます。この予想はハズレでした。
瀬戸孝一さんの自伝をネット古書店で発注して手元に届いたのは福島県立図書館から帰って数日経ってからです。また、図書館で拾ったいくつかの情報からも、この事前予想は間違いだったと気づくことになりました。
瀬戸孝一さんは、福島市長・瀬戸孝則氏のご尊父でした。そして、瀬戸孝一さんには同い年の「いとこ」が居ます。恐らく、この人が瀬戸弘幸さんの父親という事になると思います。
そうでなかったとしても、福島市の瀬上(せのうえ)地区あたりからリンゴ栽培は始まっていて、その辺りに居た瀬戸一族の中で育ったという点はほぼ間違いありませんから、瀬戸弘幸さんの家柄はほとんど特定されている事になります。
なお、家柄まで掘り下げるのは下世話に見えるかもしれませんが、次回から指摘していく事項を見れば恐らくはそうも言っていられなくなるでしょう。むしろ、瀬戸弘幸さんがやらかしたことを説明するためには伏せておけないので最小限触れることについてはご容赦戴きたいと思います。
瀬戸弘幸さんは、福島県議の瀬戸孝一氏と親戚だという程度の認識はしておいて下さい。また、瀬戸孝一氏とご子息の瀬戸孝則氏は、先述の、「国土利用計画法」の天野光晴氏の派閥、いわゆる天野派と言われています。
興味のある方はWikipediaなどを見て下さい。
次回に続きます。
前回に引き続き、書籍を中心に当時の福島県政全般の汚職について少し触れてみたいと思います。
『ドキュメント自治体汚職 福島・木村王国の崩壊』という本は、朝日新聞社から出ており、当時の紙面で長期に渡って連載されていたものをまとめなおしたものです。
福島県の天栄村で起こった水道管工事に村長選挙が絡んだ贈収賄事件が発端となり、福島県内のあちらこちらで、芋づる式に汚職が明るみになって行き、思いもかけないところに飛び火しながら逮捕者を出して行きます。
遂には福島県知事選挙で票のとりまとめに使うための裏金1千万円が猛牛(ファンソ)こと町井久之氏の東亜相互企業から引っ張り出されて、大票田の農協に流されていることが明らかになり・・・ といった内容です。
ドキュメンタリーの流れとしては、末端で起こった小さな事件から順々に大きな贈収賄事件の立件を追う形になって行きます。出来れば図書館などで探して皆さんにも読んでいただきたい良書ですが、簡潔に紹介するために、一番大きな部分のみ紹介します。
なお、この本だけでは、町井久之氏サイドの事情について若干情報量が不足気味なので、まずは『猛牛(ファンソ)と呼ばれた男 「東声会」町井久之の戦後史』という本で少し補っておきます。
昭和36~37年頃、河野一郎氏が農林大臣の時に、福島県西白河郡西郷(にしごう)村の白河高原の国有地を一部払い下げに出しました。農林省から坪百円程度でした。児玉誉士夫氏と河野一郎氏は懇意で、二人で土地を見に行っています。
町井久之氏は下見から帰った児玉誉士夫氏の薦めでこの土地を購入。何人かの方がひとり何万坪かを購入したようです。
この一帯は旧陸軍の軍馬補充部や演習場として、終戦まで使われていました。戦後は、旧満州から引き揚げてきた開拓団の一部七十七戸が再入植して、酪農を主体とする開拓地とされていました。
しかし、那須火山帯の裾野に位置する痩せた土地で、しかも福島県下で最も寒冷な土地のため、耕作に適さず・・・
開拓農民たちは借財を膨らますばかりでした。
昭和39年の暮れに、この開拓農民たちが困窮して町井久之氏の東亜相互企業に泣きつきます。町井社長は開拓農民たちの土地を担保に快くお金を貸します。返済も農民たちが困らないよう無理のないよう配慮する旨指示をしています。
この一帯は掘れば温泉が出ることも東北新幹線のルートになることも分かっていたようです。また、開拓農民たちの酪農は、それ自体が健全な黒字体質になっていませんからいくら温情をかけてお金を貸しても、いずれ返せなくなることは薄々分かっていただろうと思います。
案の定、開拓農民たちは借りていたお金が返せなくなり、土地の買取を町井久之氏に持ちかけるようになります。
こうして、東亜相互企業は、白河高原の二百五十万坪もの広大な土地を買収して、近代農場を中心に、乗馬、ゴルフ場、テニス、射撃などのスポーツ施設と、ホテルや温泉を組み合わせた壮大なリゾート構想を打ち立てました。
この土地買収に必要な資金が160臆円、更に施設の総工費が150臆円、しめて310臆円が必要でした。
ここで町井久之氏の出自が問題になります。在日韓国人である町井氏に日本の銀行は融資したがらず、かといって流石にこんな大金を融資抜きでは用意できません。会社の資本金は5臆円そこそこです・・・
町井久之氏は、韓国のコネクションに頼ります。大統領警護室長、「ピストル・パク」こと朴鐘圭(パクチョンギュ)氏と懇意だったので、そこから朴正煕(パクチョンヒ)大統領に話を通しました。
前述のとおり、戦前には西郷村には軍馬補充部白河支部があり、演習場がありました。そして、朴正煕大統領は、旧日本陸軍の士官学校を卒業し、白河での演習に参加したことがありました。
朴大統領にとってはなじみの深い土地だったことが幸いし、後押ししてもらえることになりました。(後に、朴大統領が隠居後に暮らす土地として町井久之氏に大規模買収と開発をさせたのではないかという批判がされたようです。これが事実なら、まさに「売国」という事になります。)
昭和43年、朴大統領は、韓国外換銀行が東亜相互企業に融資することを許可。この融資によって白河高原の土地は順調に買収されて行きました。
『対馬の土地がコリアンマネーで買われている』と大騒ぎしていた方々、これを見てどう思いますか?
町井久之氏はこういう経緯で福島県の西郷村一帯を大規模買収して巨大資本を突っ込んで開発を進めて行きました。
こういう前提がまずあって、そこに、『ドキュメント自治体汚職 福島・木村王国の崩壊』で克明に描写されている賄賂漬けの選挙、県政、公共事業などの問題につながって行きます。
昭和47年、白河高原の開発に足枷をはめる事態が起こります。まず、県は開発規制を目的に6月に「生活環境部」を設置。更に10月には福島県自然環境保全条例が制定しました。
田中角栄の列島改造論は空前の土地ブームを引き起こし、地価の高騰や乱開発に対して野党や世論から批判が相次いでいました。そうした声に応えるために作られたものです。
この条例により5ヘクタール以上の開発は60日以上前に県への届出が義務づけられ、知事が開発行為に対して助言、勧告、の権限を持つことになりました。
昭和48年、更にこの権限が強化されます。県当局(つまり、「生活環境部」)との「事前協議」が制度化されました。これを経ないと開発の届出が出来ないため、事実上はかなりの強制力を持っていました。
こうして、「開発」したい業者を生かすも殺すも「生活環境部」との「事前協議」のさじ加減ひとつという状態が作り出されました。自然を守るための条例が、いともたやすく利権を生み出せる構造を生み出しました。
昭和48年の暮れ、石油ショックが起こります。東亜相互企業もこの煽りで資金繰りが少し苦しくなり、ゴルフ場開発計画を一部変更して分譲地造成に変更しました。
この申請を少しでも早く済ませて着工したかったようです。ところが生かすも殺すも「生活環境部」次第・・・ とにかく円滑に申請を通して戴きたいという陳情を東亜相互企業は慌しくするようになります。
これで、町井久之氏側が福島県知事に付け届けをしたくなった背景事情は、大体理解できると思います。
次回は、県知事やその支援者側の事情などに触れます。それに加えて、もう1冊紹介したい本があるので、そのお話も少しだけ入れるかも知れません。
その辺りが大体片付いたら、福島県立図書館で拾ってきた情報についてお話します。
当時の福島県で何が起こっていたのか、大まかな知識を持っておかないと、目の前に宝の山があっても気づかずに通り過ぎてしまうことになります。少し退屈に感じる人も居るでしょうが、気長におつきあい下さい。
瀬戸弘幸さんは無事に退院されたようで何よりです。
入院されたという報告を受ける直前に少々取り扱いがデリケートな情報を入手していたのですが、退院されるまでは触れないでおこうと考えて、資料整理等の時間に充てさせて戴きました。
時間を空けた理由は主に2つです。
入院中は、十分な反論もできないだろうという事で、退院をお待ちしたというのが第一点。また、私が追求する問題の範囲が瀬戸弘幸さん個人の問題では収まらなくなる見通しになって来ていたので慎重に取り扱おうと考えたというのが第二点。
瀬戸弘幸さんの過去を調べていく中で、どうしても実名を出さざるを得ない一部の人たちの名誉なども考えると、調べずにフカシ記事を適当に書いて、間違っても訂正しない、謝らない、そのまま投げっぱなしにするといった、報道倫理のカケラもない態度は避けるために、ある程度、手元に集めた情報について更に調べて整理する時間が必要でした。
それでも完全に裏が取れていない部分はあります。そういう部分は正直にそのように書きます。相手の実名を出して批判をする以上は、その程度の配慮は当然するべきだと思うのですが、瀬戸弘幸さんには、そうした倫理観が欠如しているように見えます。
また、今後調べていく中で、私の推論に誤りがあることが分かれば速やかに訂正します。疑惑を並べるだけ並べて間違っても(故意にミスリードする記事の方が多いみたいですけどね)謝罪しない無責任な詐称ジャーナリストと一緒にならないためにも。
では、本題に移って行きたいと思います。
『徐才喜冤罪事件』の全文を読むにはどうしたら良いだろうかと、前回エントリーを書き終えてから何となく考えていました。「政経東北」という雑誌はマイナーで、国会図書館に行ってもそれほど古いものまで遡って探すことは出来ませんでした。
これはさすがに手詰まりだろうかと思いつつも、色々探してみました。東北地方の経済雑誌なんだから、向こうの図書館には置いてあるんじゃないだろうかという発想で、瀬戸弘幸さんのお膝元で探してみると・・・
福島県立図書館の蔵書には、かなり古いバックナンバーから全部揃っています。ついでに、この図書館の蔵書から瀬戸弘幸さんの著書を探してみました。割と良く見かける著書に紛れて、初めて見かけるものがありました。
[郷土資料の雑誌詳細表示]
月刊ルポルタージュ 昭和54年8月15日[号] 特集記事:なぜ?小針批判キャンペーンなのか!!
二本松タイムス 昭和54年9月1日[号] 特集記事:淀む市政・驕る石川市長!
こんなものを出していたんですね。これも是非読んでみたいと思いました。
また、瀬戸弘幸さんが徐才喜冤罪事件と称している事件の引き金になった、福島市太田町婦人殺人事件についての当時の福島の新聞報道がどうなっていたかも、この図書館に保管されている新聞を見れば調べられそうです。
もう1つ、調べてみたいことがありました。瀬戸弘幸さんは、ヤクザ者との刃傷沙汰で9ヶ月獄中に居ました。その間に、徐才喜さんが(殺人容疑についての)無罪を勝ち取って出所した事を聞かされて出所後の正月頃から取材し、記事の売り込みをしてジャーナリストデビューしたと自身で述べています。
また、この傷害事件について市議会で追求されたために福島市役所を懲戒免職になったということだったので、当時の市議会会議録を見れば、傷害事件のあらましが分かる可能性があります。福島県立図書館には昭和52年3月分以降の議事録が保管されている事が分かりました。
これより古いものは、福島市立図書館に保管されているのですが、そこまで回るとさすがに時間がありません。
こうして下調べをして行くと、福島県立図書館だけでもかなりの情報が得られることが判ってきました。東村山の街宣や裁判傍聴などに欠かさず出かけているブロガーの方々の労苦などを考えると10回分の金銭や時間の出費を1~2回でまとめて注ぎ込んだと思えば、そんなに無茶な事をするわけでもありません。
2日間ばかり悩みはしましたが、福島行きを決断しました。
首都圏在住の私は、自分の生活を崩さずに日帰りで調べものに行くとなると5~6時間の滞在が限界です。出来るだけ効率よく調べものを片付ける必要があります。
どんな情報を掘り出すか、ある程度のアタリをつけるため、現地に行く前に拾える情報の手探りを開始しました。
遠藤文子さんについては、ネット上で情報があまり拾えないのですが皆無というわけでもないので、ここから有力情報が手繰り寄せられないかトライしてみました。
遠藤文子さんは、福島県内の小中学校の何校かの校長を務められて定年退職しました。退職金を有効に使おうと、海外視察の旅行に出かけて、日航機ドバイハイジャック事件(昭和48年7月20日発生)に巻き込まれて生還。
この貴重な体験を度々公演でお話なさっていたようです。
というわけで、Google先生で検索してみると、「ふくしま教育データベース」内で何度か遠藤文子さんのお名前が出て来ます。そこで、このデータベース内の情報を色々読み漁っていました。
すると、ハイジャック事件が少し前、福島県教育委員会の主催で、こんな公演があったことに気づきました。
昭和48年5月14日(月)~5月16日(水) あずま荘
福島県知事 木村守江 「海外を視察して」
対象者は、県立学校長全員となっていました。遠藤文子さんが前年度末あたりで定年退職して福島県教育委員会の関係者になっていたら、この公演を聴いていたのではないでしょうか。
また、木村守江知事は教育畑で熱心に活動していて政界に引っ張りあげられた人です。この公演抜きにしても、折に触れて教育問題、海外に目を向けた話をされていたはずなので、これに感化されて遠藤文子さんは定年後に海外を見に行こうと考えたのではないかな・・・ と私は感じました。
そこで、木村守江県知事に関心が移って少し調べ始めたんですが・・・ 昭和51年に贈収賄で逮捕され県知事を辞任しています。その後有罪。現職の県知事が立件され辞職というのは異例中の異例です。
そして、この贈収賄の相手というのが、セマウル運動に絡んで何度も私が取り上げてきた猛牛(ファンソ)こと、町井久之氏の東亜相互企業でした。
またしても、町井久之氏の影です・・・ 気になったのでWikipediaを見直すと確かに、この件について書いてあります。もっとしっかり読んでおけって事ですね。
早速、この贈収賄事件についてもっと掘り下げて調べることにしました。ネット上で詳しく調べてみたかったのですがあまり詳しく解説しているところがないようなので書籍を探してみたところ、「木村王国の崩壊」という本が見つかりました。
近所の図書館に置いてあったので早速借りてきて読みました。福島県に対する私の印象は、この本を読んでかなり変わりました。実際に出向く前にこの本を読んでおいて良かったと思います。
少し長くなりそうなので、続きは次のエントリーに回します。
28歳の頃の瀬戸弘幸さんが一生懸命書いて高い評価を戴いたという「徐才喜冤罪事件」という短期集中連載記事。ブログ上にアップしていただいている画像では細かい文字はほとんど読み取れませんし、全文が見られるわけでもないのですが、色々と貴重な情報を読み取ることが出来ました。
徐才喜さんという人物がどんな人なのか知りたくなったので、google先生に質問してみたところ、瀬戸弘幸さんのブログ以外では、Whois検索の結果らしき残骸が引っかかり、中国ドメインで登録者というか団体というか・・・ その辺りが徐才喜さんになっているものがある。
どうも韓国ではなく、中国と縁がある人物名ではないかと思えて来たので、中国版のgoogle先生とお話してみると、「徐才喜烈士」について書いてあるサイトが沢山ある様子です。
これは一体どうしたことでしょうか? 偶然の一致なんでしょうか?
割と似たような説明が多かったので、そのうちの1つを拾って来て、エキサイトさんに訳してもらいました。
【原文】
互动百科的词条资料来自网友贡献,供您查阅参考。一些和您切身相关的具体问题(特别是健康、经济、法律相关问题),出于审慎起见,建议咨询专业人士以获得更有针对性的答案。
【excite 中→日 翻訳】
1933年革命に参加して、任紅の3人の軍団の戦士、北上して音信がなくて、時の年の24歳。
【ネットで関係ありそうな情報を補足】
1933年、瑞金の紅軍を包囲、毛沢東らは脱出し、以後、延安までの12000kmに及ぶ長征と呼ばれる大行軍を行った。毛沢東は延安を革命拠点とした。
これは随分とマニアックなところから名前が出てきたものですね。一般的な日本人なら絶対に気づかないでしょう。特にネットが発達していない時期なら中国人名と韓国人名の見分けなど絶対につかない。
もちろん、韓国人に徐才喜という名前の方が絶対居ないとは断言出来ませんが・・・
別の観点でもう少しお話をさせて戴きます。『福島市太田町婦人殺害事件』という大きな見出しが躍っていますね。実は、これが大きなヒントです。この事件を丹念に追いかけている人をネット上で見つけました。
2006年 4月 3日 名探偵マッシー ~一枚の写真から~ 『 魔 手 』(第五十八回) ・・・メヒカリ・・・ [AIBO]
2006年 4月 4日 名探偵マッシー ~一枚の写真から~ 『 魔 手 』(第五十九回) ・・・メヒカリ・・・ [AIBO]
2006年 4月 5日 名探偵マッシー ~一枚の写真から~ 『 魔 手 』(第六十回) ・・・メヒカリ・・・ [AIBO]
2006年 4月 6日 名探偵マッシー ~一枚の写真から~ 『 魔 手 』(第六十一回) ・・・メヒカリ・・・ [AIBO]
(第五十八回)の記事から引用
【事件の概要】
福島市の元校長、遠藤文子さん殺しが起きたのは昭和51年10月20日午前11時から午後4時までの間。元校長で同市社会教育委員の遠藤さんが自宅応接間で、工事用の特殊ハンマーで顔や頭、胸などをメッタ打ちされ、死んでいた。
翌21日に親類の人が無残な遠藤さんの死体を発見、福島署へ届け出た。
部屋は荒らされていたが、現金や高価装身具(指輪・ネックレス等)は無事。満六年が過ぎた現在も犯人の動機も絞りきれず、捜査員の間では物取り説、偽装工作によるえん恨説の二つに意見が分かれたままである。
唯一の手がかりであるハンマーは福島市の工事業者が紛失したものと判明している。
この特殊な金づちが、なぜ遠藤さん宅に残されていたのか、道路などに落ちていたものを遠藤さんが持ち返るということも考えられない。犯人があらかじめ持ち込んで凶器として犯行に使用して応接間に残し、あわてて逃走したという見方が強い。
『 絶対に迷宮入りの事件ではない。確かに新しい事件で捜査が中断することはあっても、粘り強い捜査を続ければ必ず犯人に行き着く 』 と捜査本部の解散には反対意見もある。
六年間の歳月は市民の記憶を薄め、新情報はほとんどない。
『 これまでの捜査方法で見落としはないかどうか。念には念を入れる捜査を続けるだけだ 』 というが・・・・・。
昭和57年(1982年)10月19日(火曜日) 福島民法新聞 社会面より参照
ざっと探した感じでは4回分のエントリーでしたが丁寧に情報を拾ってありました。好感の持てるブログです。
記事を全部読んでいただければ分かるんですが、誰も逮捕されていないようです。瀬戸弘幸さんが仰るには真っ先に徐才喜という中国の烈士と同姓同名の在日朝鮮人の方が疑われて即座に不当逮捕されたって事になっています。
瀬戸弘幸さんは『私はこの年(1978年)の正月頃から、福島市で起きたある強盗殺人事件で逮捕された在日朝鮮人の冤罪事件に取り組んでいました。』と説明なさっています。
つまり、昭和53年(1978年)の時点で容疑者や逮捕者が出ていれば、『昭和57年(1982年)10月19日(火曜日) 福島民法新聞』において、全く犯人像が特定されていないといった記事が出てくるはずもなく・・・
これは一体どういう事なんでしょうか?
瀬戸弘幸さんの記事全文の詳細が読めるように公開して戴ければ判断が覆る可能性もありますが、現時点で拾える情報からは… 瀬戸弘幸さんのジャーナリストデビュー作は、架空の在日朝鮮人が逮捕され、不当捜査されていると、警察を批判する怪文書の類であったのではないかと判断せざるを得ません。
もちろん、これらから裏を取る作業に着手して行きたいと考えています。名探偵マッシーさんが紹介している情報の正確さが新聞記事などからある程度読み取れれば、どちらの主張が正確か大よその判断はつくはずです。
ただし、古い新聞記事を図書館等に読みに行く時間をすぐには取れないので、確認は少し先送りになります。
お暇な方、『福島市太田町で昭和51年10月20日に発生した殺人事件』について、新聞記事漁りのお手伝いなどをして戴けると助かります。これだけ特徴的な事件だと地方紙ではなく全国紙にも載ったはずなので、事実関係の裏取りくらいは可能なはずです。
で、瀬戸弘幸さんがこんなアヤシイ記事を書いた動機なども色々想像してみましたが、今回は長くなってしまったので続きは次回に回します。
【お詫び】
今回も予告とは全く違う流れになってしまいました。毎度の事だと笑って流して戴けると幸いです。セマウム問題でまだ触れていない部分はタイミングを見て必ず紹介します。
【追記】
今回のエントリーを公開してから数時間後、google先生に「徐才喜」さんについて再度お尋ねしたところ、今までは表示されなかった中文版の情報が大量に表示されるようになっていました。
流石はgoogle先生、お仕事が早い。今後は、私の批評とは関係なく、瀬戸弘幸さんのブログを見た人が『徐才喜さんってどんな人かな?』と疑問を持つと、漏れなく中国の革命烈士の情報に辿り着く事になりました。
もちろん、在日朝鮮人に「徐才喜」というお名前の方が絶対に居ないと断言するものではありませんが、私と同じ疑問を持つ方が当然のように出て来るでしょう。
瀬戸弘幸さんは、ジャーナリストデビュー作である「徐才喜冤罪事件」の全文公開に踏み切らない限り、こうした疑念を払拭することは困難だろうと思います。
PCが不調で用意していた原稿と資料が2回分ほど飛んでしまいましたので、資料を集めなおすところからやり直していました。
その間に、でぶちんさんがデタオタらしい観点の資料を探して下さったり、松沢呉一さんが新しいヒントを下さったり、色々思うところもありで、当初用意していた原稿の時点では気づいていなかった事を掘り下げて調べなおすのに時間を使わせて戴きました。
前回予告したとおり、大枠としては、韓国復興史全般に視野を広げて行こうという方針ではありますが、「セマウル問題」から軸足は外さない事にします。また、本シリーズ終了後に補講扱いでと考えていた「セマウム(新しい心)運動」について、これから少し紹介して行きます。
なかなか予告どおりに進行させられなくて申し訳ありません(今後は予告はやめた方がいいかも知れませんね)。
では、気を取り直して、セマウム運動の説明から始めます。
表向きの「セマウム(新しい心)運動」は、在日韓国青年会(民団の青年会)が主導して行ったボランティア活動で、『在日同胞60万人のセマウム(新しい心)をキムシ(植樹)しよう』という事で、平たく言うと韓国に里帰りして「セマウル(新しい村)」に植樹ボランティアをするものです。
『韓国農村部(セマウル)と在日同胞(セマウム)をつなごう』という事ですね。せっせと植樹ボランティアをします。この際、津々浦々のセマウルに対して在日同胞から募った「セマウル支援誠金」(募金)を配布します。
ここまでは、美談として語れる部分。では、裏側に切り込んで行きます。
まず、この「セマウム運動」は、植樹ボランティアにかこつけて(大半が不法入国者であったはずの)在日韓国人が大手を振って韓国に一時帰国するためのイベントでした。
民団のHPに非常に興味深い一文があります。
民団の歴史より一部抜粋
また、祖国のセマウル運動に歩調をあわせて73年にセマウム運動を提唱し、祖国の山々に苗木を植えることを通して在日同胞60万人のセマウムシムキ運動に発展させ、祖国の150カ所の郷土集落とセマウル姉妹結縁に結びつけた。
75年7月には朝鮮総連傘下の同胞に母国を訪問させる省墓団事業を開始し、これによって民団と総連の人口比率が逆転することになった。
不思議なことに、植樹ボランティアを端緒に、お墓参りなどの母国訪問事業を充実発展させた結果、民団と総連の人口比率が見事に逆転しているんですね。
不法入国して永住許可を得た在日韓国人たちが、セマウム運動という植樹ボランティアで里帰りして家族に会い、日本に堂々と連れてくる。そのうち省墓団事業なども認められ、その枠が拡大して行く・・・
もしかしたら、実際は家族でない者を入国させる事例もあるのかも知れませんね。私はその辺りの事情を詳しく把握しているわけではありませんが・・・
ちなみに、この「セマウム運動」で里帰りに使われたのは、下関-釜山を結ぶ「関釜フェリー」です。こんなものを参考に紹介してみます。
第080回国会 法務委員会 第7号 昭和五十二年四月一日(金曜日)より一部抜粋
本年の集団不法入国事犯のうち、特異なものとしては、関釜フェリーを利用(通関済みのコンテナー搬送用車両の車軸の上に潜伏)した事案が、昭和四十五年回フェリー就航以来初めて検挙されたほか、日韓双方の密航ブローカーが緊密な連絡をとり、密航者を洋上で日本船に積みかえた上、自動車を利用して搬入した大がかりな組織的事案が二件検挙されている。すなわち、十月十日福岡県博多港において、対馬から入航した定期フェリーに積込まれたトラックに潜伏中の密航者三十三人が、また十一月十一日大阪市内において、福岡県苅田港から大型保冷車で搬入された密航者四十人がそれぞれ検挙されている。
となっております。
韓国からの密入国は「関釜フェリー」だけで行われているわけではないのでしょうが、確実にこれも利用されていることは分かると思います。
この「関釜フェリー」の社長は、瀬戸弘幸さんの大恩師である児玉誉士夫氏の側近中の側近、町井久之氏です。本名は鄭建永(チョン・ゴニョン)、「銀座の虎」、「雄牛」という通り名で呼ばれた人です。
民団の中央本部顧問であり、東声会(東亜会の前身)という反共団体(実質的に暴力団)の組長という人物でもあります。
朴政権が「セマウル運動」を開始する少し前「関釜フェリー」の事業認可を受けて社長に就任、「セマウル運動」開始直後には、民団の中央本部顧問に就任。ほどなく、「セマウル運動」と連携する形の「セマウム運動」が始まります。非常に良く出来たお話ですね。
「下関-釜山」ルートがつながり、韓国内は朴政権がセマウル号が「釜山-ソウル」ルートを中心に各地を鉄道網がつないでいるので「セマウム運動」に参加する在日同胞の方々は、その交通網を使ってボランティアにいそしんだわけです。
瀬戸弘幸さんたち民族派右翼有志の方々が「セマウム運動」と同行していたかどうかまでは定かではありませんが、少なくとも交通手段はほとんど同じものを使っていたと思われます。
ネトウヨの皆さんが『日韓海底トンネル構想に賛同する日本の政治家は売国奴だ!!』と騒いでいるのを良く見かけますが、瀬戸弘幸さんは、児玉誉士夫氏と町井久之氏がつるんで「関釜フェリー」を開通させたと重々承知の上で児玉門下生になってると思います。何も疑問を感じないんでしょうか?
せっかくなので、もう少しいじってみましょうか。本シリーズ第1回目の赤報隊襲撃事件に絡んで、瀬戸弘幸さんが義勇軍創設に関わっていたと手柄横取り発言をしている件について触れた時に紹介した記事内にこうあります。
『昭和56年頃、私は東京・東銀座の合同環衛ビルという所を事務所兼住まいとして、日本憂国会という名称で右翼活動をしていました。』
東京都中央区で検索したところ、現在は「合同環衛ビル」は存在しないようです。近所を探すと、お隣の台東区は浅草に「環衛商事有限会社」というのがありました。産廃業者のようです。
ですが、「環衛」で検索してみると、これが意外にも大量にヒット。どうやら産廃業者には割とありがちな名前だという事が分かりました。ところで、瀬戸弘幸さんも「環境と施設」という謎の雑誌を出版されていましたね。
興味深かったので少しだけ検索してみました。在日関係や右翼関係で、何故か産廃業者をやっている方や、それとつながっている方々が結構居られるようですね。今後、松沢呉一さん辺りが掘り下げて下さるかも知れません。
少し横道に逸れました。私は私らしい路線でもう少し踏み込んで行きたいと思います。
瀬戸弘幸さんは25歳の時(昭和52年頃?)にヤクザを右翼に誘ったと因縁をつけられて斬り合いになり、相手に重傷を負わせて、傷害と暴行の容疑で逮捕。即、実刑。共産党の市議に市議会で追求されて、市役所は懲戒免職になったんでしたよね?
実刑でどれ位の刑期を過ごされたかは存じ上げませんが、とりあえず1年程度と見ておきましょうか。
市役所を懲戒免職になったということは退職金はゼロ。25歳ですから元々ほとんどもらえなかったでしょうが・・・ 前科持ちで懲戒免職になった人は、なかなか通常の会社は雇ってくれませんから、どのように生計を立てて居られたのか気になるところですが・・・
兎に角、真っ当な収入があまりなかったはずの瀬戸弘幸さん(山本弘幸という名前で在日同胞の人たちをたくさん助けてお金を稼いだかも知れませんが・・・)、何故か娑婆に出て3年かそこらで東銀座に事務所を出すという異例の出世です。
それが丁度、「セマウル運動」への参加を始めた頃と重なるわけです。何故ボランティアに参加すると羽振りが急によろしくなるのか・・・
東銀座や築地界隈は、稲川会のシマなので松沢呉一さんが児玉誉士夫の人脈つながりで瀬戸弘幸さんを見て行く時にも、ついつい稲川会のラインで見てしまい勝ちになるのは分からないでもない気はします。そちらのラインも間違ってはいないのかも知れません。
ですが、熱心に「セマウル運動」に参加している瀬戸弘幸さんを見ていると、すぐお隣の銀座で牽制を誇っていらっしゃった猛牛(ファンソ)こと、町井久之氏の存在感の方に目が行ってしまう私です。
「セマウム運動」の第一人者、言いだしっぺとして名を刻んでいる尹隆道(ユンユンドウ)という人がいます。この人は、民団青年部の創生期を引っ張った草分け的存在のようですが、もうひとつ別の顔がありました。
大島渚監督の映画「絞死刑」という映画で、少年R役で出演していました。Wikipediaの紹介文を転載しておきます。
主人公の在日朝鮮人死刑囚"R"は強姦致死等の罪で絞首刑に処せられた。しかし信じられないことに絞縄にぶら下がったRの脈はいつまで経っても停止せず、処刑は失敗する。縄を解かれたRは刑務官たちの努力の末に漸く意識を取り戻すが、処刑の衝撃で記憶を失い心神喪失となっていた。刑事訴訟法により、刑の言い渡しを受けた者が心神喪失状態にあるときには執行を停止しなければならない。刑務官たちは再執行のために彼に記憶と罪の意識を取り戻させようと躍起になるが、Rの無垢な問いかけは彼らの矛盾を鋭く抉ってゆく。忠実に再現したという死刑場を舞台に蜿蜒と続くやりとりは、死刑制度の原理的な問題から在日朝鮮人差別の問題、さらには貧困を背景とした犯罪心理にも及ぶ。
Rは1958年の小松川事件の犯人をモデルにしている。
小松川事件は在日少年に対する冤罪事件ではないかと当時色々言われたもののようです。興味がある人は検索してみて下さい。
尹隆道氏もまた、山本弘幸というペンネームで在日韓国人の冤罪を晴らそうとした瀬戸弘幸さんと同じ立場でもあったようです。尹隆道氏や彼に近い考えの民団関係の人が、山本弘幸名で書かれた「徐才喜冤罪事件」を目にしたら、さぞかし喜んで、民団内で話題にしたでしょうね。
そして、民団の中央本部顧問であり、「セマウル運動」や「セマウム運動」の根っこの部分を押さえてコントロールしていた町井久之氏の耳に入って、その人物が児玉誉士夫門下生だと分かったら、在日同胞と仲良くする事業を通じてフトコロを暖かくしてやろうって配慮してくれそうな気がするなぁ・・・
・・・と、この辺はワールドワイドウェブの勝手な想像です。具体的な証拠を突きつけて糾弾しているわけではありませんよ。
退職金ゼロの懲戒免職になった瀬戸弘幸さんが、3年やそこらでどうやって東銀座の事務所を借りられるほどリッチになったのか、支持者の方々に説明すればこんなバカ話はすぐに吹っ飛びます。ジョークで流せますよね?
さて、これ以降は冗談抜き。児玉門下生の瀬戸弘幸さんは、東銀座に事務所を構えていたんですから、すぐお隣の銀座で権勢を誇っていた児玉誉士夫の側近中の側近である町井久之氏の事は十分ご存知ですよね。
「セマウル運動」にせっせと参加なさっていたんですから、「関釜フェリー」の社長であることもご存知だったはずですし、民族派右翼が、日本側から「セマウル運動」に連帯しようとしたのと同じように、民団もまた「セマウム運動」という形で連帯しようとした事も知らなかったはずはないですね。
その結果として、「民団」が「総連」より力をつけたことも恐らく知っているはずです。それが日本国内における「反共」の闘いのために必要なことだと信じて助けてきたはずですし、積極的に関与しなかったと言い訳するにしても、少なくとも知っていながら見逃してきたはずです。密入国や、密入国者が堂々と家族を呼び寄せていることなどについて。
反共イデオロギーのために民団が力をつける事に力を貸してきた瀬戸弘幸さんたちが、そうした事実を隠して在日批判をしているのを見ると、つくづく汚いなぁと思います。批判するなら自分たちが何をしてきたのかまず正直に全部吐き出すべきです。
次回も「セマウム運動」についての指摘を続けます。
何故、私は嫌韓派に転じたのか!(前編)
日本オリンピック委員会は抗議せよ!
日本は韓国によって覆い隠されている!
先般も書きましたが、私はお隣の韓国には何度も行ったことがあります。私が右の活動に参加した頃、韓国は旧ソ連や北朝鮮、中共からの共産主義の侵略を食い止める同盟国と捉えていました。
今で言えばボランティア活動のようなものにも参加しました。セマウル運動と呼ばれた農村生活改善運動です。私にとって韓国とは反共の砦であり、日本人が死守しなければならない国でした。
そのような考えを長い間持ち続けて来ました。それが少しづつ揺らぐようになったのは、金大中大統領の頃からでした。しかし、冷戦崩壊後においても、決して敵性国家との考えはなかった。
私はノ・ムヒョン大統領は、日本で言えば左派勢力であり、韓国の中にも保守派、或いは右派と呼ばれる人達が親日派として存在しており、政権が変われば、また仲良くやれる国であると思っていました。
しかし、どうも私の考えは甘かったようです。近代化を成遂げ経済的にも成功すると、その自信は日本に対する反抗心というか、対抗心剥き出しの反日ナショナリズムへと向かっていきました。
それは明らかに日本を蔑視する誤った排外的なナショナリズムです。それは政治・経済の分野に留まらず、スポーツの分野にまで及んでいます。
スポーツの祭典といわれるオリンピックなどにおいては、その異常なまでの日本を敵視する排外的なナショナリズム一色に覆われてしまう。スポーツの勝ち負けや、優劣で何事も解決しないのは、分かり切ってはいても、勝たなければと血道をあげる様は、もう常道を踏み外している。
例えば、下記は韓国の正式な冬季オリンピックのHPです。
http://www.pyeongchang2014.org/eng/main.html
見て驚かれたでしょう。日本が見当たらない。そうです、日本という国は韓国によって覆い隠されてしまっています。日本人はこのようなことはしないでしょう。いくらなんでも酷過ぎますね。
これが今の韓国の姿なのです。日本と仲良くやろうなどという気持ちがまったく感じられない。何故なのか?その意味を問わなければならない。
日本オリンピック委員会は正式に抗議すべきである。もし、このような侮辱を続けるなら、開催地の資格があるのかを、公式に国際社会に訴えなければならないであろう。
ここまで色々見て来ましたが、表向きは「セマウル運動」というボランティア活動のようなものに参加してきた瀬戸弘幸さんが、韓国の青年たちとの共闘を呼びかけたところ、ネトウヨ・嫌韓厨たちの猛反発を食らい、その後しばらくやり取りを続けた結果、彼らの熱意に押されて自らも嫌韓路線に切り替えた事になっています。
そして、これまで30年近く続けてきた親韓路線との決別をこのようなエントリーで説明しようとしたわけです。
韓国の冬季オリンピックHPに『日本が見当たらない』と激怒している瀬戸弘幸さんですが、東京都がオリンピックを招致しているHPなどを見て戴きましょうか・・・
Tokyo 2016 - 東京オリンピック・パラリンピック招致委員会 日本だから、できる。あたらしいオリンピック!
『なんと、韓国が覆い隠されている!! これは明らかに韓国を蔑視する拝外的なナショナリズムです。経済的に成功した日本は、その自信を反抗心というか、対抗心むき出しの嫌韓ナショナリズムへと向かわせました。』
アホらしい・・・ 瀬戸弘幸さんの脳内世界をそのまま持ち込むと、韓国で日の丸燃やしてる人たちが量産できそうです。
もちろん、こんなものが瀬戸弘幸さんが嫌韓になった本当の理由でないことは明らかです。
このエントリー内に本音は見え隠れしています。
『金大中は気に食わなかった。盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権でそれが決定打になった。』という点は恐らく本心です。ただし、理由が完璧にウソ。(※次回以降、この理由について検証して行きます。)
瀬戸弘幸さんは、全斗煥政権下のセマウル運動に参加していました。ところが、ソウルオリンピック直後に全斗煥ファミリーがセマウル運動の公金を横領していた事が発覚し、韓国の国民が大いに怒ります。
この事が原因で、全斗煥大統領は失脚し、16年ぶりに選挙が行われ、民主的に大統領が選出されます。盧泰愚(ノテウ)政権の始まりでした。
盧泰愚大統領は国民の怒りや不満を受けて、セマウル疑惑を究明。光州事件(民主化要求デモ鎮圧で民間人を多数虐殺)の追求などもあり、全斗煥元大統領は、一時は死刑を言い渡されます。その後、減刑と特赦をされてはいますが・・・
このように、韓国の国民から見た全斗煥大統領の評価は、公金を横領して私服を肥やしたり、民主化を要求した民間人を大量虐殺した軍事独裁者。評判は芳しくありません。
やがて、盧泰愚大統領も光州事件の責任追及などをされて(彼もまた軍人出身でした・・・)、民主化政権も文民政権の時代へと移って行き、金大中や盧武鉉の時代へ。
瀬戸弘幸さん自身の立場に立って考えてみても、『中共からの共産主義の侵略を食い止める同盟国と捉えて、真面目にボランティアしていた』のであれば、その裏で公金横領していた大統領だと知って腹が立たないわけがない。
瀬戸弘幸さんと立場が近い、勝共-統一原理の民族派右翼の「亜細亜民族同盟」(旧柳川組 ※在日系)が、在日フィクサーの許永中氏と組んで、この大規模公金横領のマネーロンダリングを手伝っていたとなれば、更に腹立たしい思いがしたはずですが、全くそうした気配がない。
瀬戸さん自身が、この横領に加担したのかどうかは知りませんが、彼らとグルだったのか、似たような不正や利権の吸い上げを「セマウル運動」でやっていたので言えた義理ではないのか、『反共のためなら、これほどの悪事すら許されると考えてしまう恐るべき1ビット脳』なのか、いずれかであるとしか考えられません。
いずれにしても、正常な日本人の思考ではありません。
「セマウル運動」で私服を肥やしたり、韓国で民主化要望する民衆を弾圧して大量虐殺したため、忌み嫌われる大統領が大好きで、正当な政権だった、仲良くやっていける政権だった考えている瀬戸弘幸さん。
韓国人たちは、好きで軍事独裁政権下で暮らしたかったわけではないはずです。反共のためにやむを得ず我慢していた側面はあるにせよ、喜んで受け入れていたわけではありません。
瀬戸弘幸さんは、韓国人が望んで手に入れた政権は悪い政権だと必死にケチをつけ、オリンピックHPまで持ち出しておかしな難癖をつけています。しかし、そこには瀬戸弘幸さんの本心はありません。
こういう政治的スタンスの人が、その数ヶ月前には「セマウル運動」の正体を隠して、ただのボランティアのように紹介しながら、韓国の青年たち(実は統一協会に思想洗脳された人々)と共闘しようと、ネトウヨ・嫌韓厨をオルグしようとしていた。
これで大体の事情が飲み込めて来たと思います。瀬戸弘幸さんは、韓国の事情をよく把握しています。分かっていながら間違った情報を発信してミスリードを繰り返します。
「セマウル運動」の話題は、このシリーズ中でまた触れると思いますが、まとまったボリュームで取り扱うのはここまでにします。
瀬戸弘幸さんが嫌韓になった本当の理由をうまく説明するためには「セマウル運動」だけではやや間口が狭いので、次回以降は、韓国の復興全般に主眼を移して行きます。
【追記】
2ちゃんねるのウォッチ板で貴重な情報が寄せられていましたので、元ソースの方を転載しておきます。
創価と統一教会は韓国でもカルト より一部抜粋
韓国には、統一協会の男性信者と結婚した日本人女性が数千人いるという。彼女たちの多くは農村で「新しい村運動」を主導しており、模範的女性との評判がある。日本語も教え、村掃除などのボランティアも行う。韓国人の若い女性が農村を去って行くなか、日本人の女性が、しかも韓国の農村に嫁いで働くというのは理解しがたいことだ。だが、これが宗教の力だと思う。とはいっても、正統な宗教ではないカルトの行う善行は不安であり危険だ。終末は異端の時代であるし、異端はいつも政治的、経済的な力で人々を誘惑する。韓国キリスト教総連合会では統一協会からの挑戦を憂慮し、3月3日から特別祈祷会を行う。
他にも統一教会系の書籍にセマウル運動、セマウム(新しい心)運動について触れられている事も紹介して下さっていましたが、こちらの本には気づいていました。いずれにしても貴重な情報ありがとうございました。
セマウム(新しい心)運動についても、1回分を割いて書きたいことがあったのですが話が膨らみすぎているので、本シリーズが完結してから補講的に別枠でやるかも知れません。
瀬戸弘幸さんは、現地で生の情報に触れています。もっと色々な事を知っているはずなんですが残念な限りです。
ねらーや、その他ネットで情報を拾って来られる方、統一協会(統一教会)の合同結婚式で身内の方が被害に合ったという方、あるいは元信者の方などで、当時のセマウルなど韓国農村部で何が起こっていたのか断片的にでも情報を持っている方がいらっしゃれば、コメント欄に書き込みでもして行って戴けると助かります。
または、2ちゃんねる内で適当に話題にして戴ければちゃんと拾い上げて行きますのでよろしくお願いします。
そうした情報が蓄積されて行けば、瀬戸弘幸さんの宿題遺棄が少しは解消されて行くと思われますし、情報の共有によって、現在困難な状況に陥っている方々の助けになると思います。
また、情報がなくても、ちょっとしたコメントを残して行くだけでも結構です。色んな人の気持ちがそこに交錯しているんだと、瀬戸弘幸さんにも見て戴く必要があると私は考えています。
ちょっと脳内でフェムト波動復調回路が働いたので、Googleさんで色々と検索してみましたところ、面白いものを拾い当ててしまいましたので、前回予告とは違う方向に走ります。
『韓国・全斗煥大統領の実弟、全敬煥が3月18日に来阪、藤田永中や日本土地の木本社長ら6人と日航ホテルで密談している。そして全敬煥は帰国後、韓国当局に逮捕された。』
前回も検証していたこの文章の、『日本土地の木本社長』についても調べてみました。山口組系旧柳川組の金庫番を努めていた方だったというネタが拾えたので、柳川組や右翼について更に検索。
2ちゃんねる「何故多くの弟子が大山の元を離れたのか?part2」より一部抜粋
336 :柳川組 :2001/03/31(土) 19:57
1967年から始まった大阪府警の柳川組集中
取り締まりを経て、69年組を解散。その後78年5月
、右翼政治結社、「亜細亜民族同盟」を結成している。
それまでの名前「次郎」を「魏志」に変えたのも、
このころからである。
337 :柳川組 :2001/03/31(土) 20:04
以降、日韓親善友愛会名誉会長を務め、許と同じく、
韓国民主平和統一諮問会議の、委員、さらにはソウルオリンピック
支援活動など、一転して表の社会に身をさらしてきた。
柳川は、91年に68歳で病死するが、同民族同盟の会長
を引き継いだのは、元公安調査庁の調査官で、スパイ工作に従事
してきた経歴を持つ佐野一郎だった。(佐野は99年11月に
事故死)
338 :柳川組 :2001/03/31(土) 20:10
旧柳川組系の「亜細亜政治連盟」と「極東民主同盟会議」
(以降極民同)は、ともに歴代の韓国政権中枢部と深いつながり
を持っていることで際立っていた。
霊感商法で知られる、統一教会の政治組織「国際勝共連合」
などと一緒に大挙して訪韓し、韓国側に歓待され、
中でも「極民同」は軍事訓練まで受けている。
339 :柳川組 :2001/03/31(土) 20:15
「亜細亜民族同盟」は、現在の韓国大統領・金大中が、
KCIAによって東京のホテルから拉致され、殺害されかかった
いわゆる、「金大中事件拉致事件」の際、日韓を股にかけ、
さまざまな謀略工作を行ってきたことでも、
知られている。
340 :極東民主同盟会議 :2001/03/31(土) 20:32
91収入金額18億6千万円
代表 芳也武志
芳也は旧柳川組幹部
見事にヒットしました。
『統一教会の政治組織「国際勝共連合」などと一緒に大挙して訪韓し、韓国側に歓待され、中でも「極民同」は軍事訓練まで受けている。』
Wikipediaで勝共連合の項目を見ると(※面倒なので今回はリンクを貼りません)、軍事訓練は勝共が結成された当初が一番活発だったようです。その後は穏やかな訪韓で、韓国側の統一協会のお膝元である農村部、つまり「セマウル運動」を中心に行われたんじゃないでしょうか。
それにしても、「金大中事件」まで浮上して来てしまいました。ソースが2ちゃんねるwとは言え、話は大きくなる一方です。
瀬戸弘幸さんは、民族派有志一同で「セマウル運動」で熱心に参加されていたそうですね。どう見てもただのボランティアには見えませんし、ネトウヨや嫌韓厨が大嫌いな韓国のエッセンスの集大成がそこにあるようです。それを隠してのオルグはやはり不健全です。
ところで、仲良くご参加なさっていた有志の中には「亜細亜民族同盟」や「極東民主同盟会議」といった名前はなかったでしょうか?
また、その中に「金大中事件」(1973年)について武勇伝のように語る人などは、いらっしゃらなかったでしょうか?
週刊新潮の記事に対するレビューも、どうも瀬戸弘幸さんが通ってきた道を考えると評論として浅すぎる気がするのですが、わざと知っていることに触れないようにブログ記事を書いているんじゃないでしょうか?
たかが「セマウル運動」と瀬戸弘幸さんは軽く考えていたのかも知れません。その後も軽々しくボランティアに参加していたとブログ内で書いておられますし、街頭でもそのように発言なさっているようですね?
ところが丁寧に見ていくと、瀬戸弘幸さんの人生が透けて見えてくるし、知っているはずのことをあえて誤魔化していることがちゃんと分かって来ます。
少し予定が狂いましたが、次回でセマウル問題は一段落つけたいと思います。
この宿題遺棄事件シリーズ冒頭で、瀬戸弘幸さんが赤報隊襲撃事件に絡んで「統一戦線義勇軍」との関係について回想?している記事を紹介しました。
また、瀬戸弘幸さんが「セマウル運動」に参加していたのは1980年代初頭からで、これは全斗煥政権の頃だというお話を何度か念押しして来たことに読者の方々は気づいておられると思います。
「セマウル運動」は統一協会が韓国農村部に反共宗教として浸透していった事以外にも、利権問題その他きな臭い部分が眠っているようです。
私が紹介した回だけでなく、『日本よ何処へ』の連載・『赤報隊』と『日本民族独立義勇軍』シリーズは、確か12回ほど続いたのですが、週刊新潮の実名告白手記に対して、再三懐疑的な論調の評論をしています。
そこで、週刊新潮の記事内容が読めるように紹介してくれている日々研鑽さんのブログ記事などを眺めて戴きたいと思います。
朝日新聞阪神支局“襲撃犯”が週刊新潮で実名告白
1987年5月に、朝日新聞阪神支局に何者かが押し入り、散弾銃を乱射して記者1人が死亡した「警察庁指定116号事件」(時効)の実行犯を名乗る男が、29日に発売される週刊新潮に、実名で犯行を告白する手記を寄せていることが分かった。
記事によると、男は都内の元右翼団体構成員で、誰もが知る“公的な組織に属する人物”から「朝日を狙ってくれ」と金で依頼され、東京本社、阪神支局、名古屋本社寮、静岡支局の順で 襲撃したと告白している。動機については、怨恨や思想的背景はなく記者1-2人を殺害するのが目的だったとしており、「赤報隊」を名乗る犯行声明は、別人に書かせたという。
同事件は、87年5月3日午後8時すぎ、朝日新聞阪神支局で男が散弾銃を乱射し、居合わせた小尻知博記者(当時29)が死亡。もう1人が重傷を負った。2002年5月3日に公訴時効が成立している。
―――――
1987年5月、朝日新聞阪神支局を襲撃し、一人を殺した実行犯が、実名告白した記事を、日付変わって今日1月29日発売の『週刊新潮』2月5日号に掲載されているという。
先ほど私は、近所の潰れそうな本屋に行ってみたら、なぜか既に1月29日発売の『週刊新潮』2月5日号が置かれていたので、早速購入した。
ほんの一部だけ紹介しよう。
―――――
『週刊新潮』2月5日号
[第1回]【実名告白手記】島村征憲
私は朝日新聞「阪神支局」を襲撃した!
私が実行したのは、「東京本社」「阪神支局」「名古屋本社寮」襲撃と、「静岡支局爆破未遂」の4つ。それに続く中曽根元首相脅迫や、リクルート元会長宅銃撃事件というのは、私は関係ない。そして、「赤報隊」を名乗る声明文を書いたのも、私ではない。背景は追ってお話ししますが、私が頼んで、ある人に書いてもらったのです。それから、一番大事な点は、私はあくまで「実行犯」だということ。私は、ある人物から「朝日を狙ってくれ」と頼まれて実行しただけ。頼んできたのは、ある公的な組織に属する人物です。誰もが知っているその組織とは、何なのか。朝日を狙えと頼まれたのは、いつだったのか。なぜ、殺人という大それたことを引き受けたのか。その辺りのことは後で詳述しますが、正直に言うと、動機は金だった。そして、別に小尻記者や犬飼記者を狙ったわけではない。さらに言えば、阪神支局でなければない理由もなかった。ともかく、私は結果を出す必要があったのです。記者を1人か2人殺す、という結果を。
P29
―――――
ということで、実行犯の実名などは判ったのだが、肝心の首謀者である「誰もが知っている公的な組織」が何かは今回判らない。
しかし、これに関しては、外国の組織であることが以前より指摘されている。
次に抜粋するのは、1994年に書かれた木村久著『疑惑人らがつくった関西国際空港』という本だ。
―――――
朝日新聞襲撃事件
本の画像
http://gazoubbs.com/general/img/1208014228/27.jpg
http://gazoubbs.com/general/img/1208014228/28.jpg
http://gazoubbs.com/general/img/1208014228/29.jpg
http://gazoubbs.com/general/img/1208014228/30.jpg
http://gazoubbs.com/general/img/1208014228/31.jpg
http://gazoubbs.com/general/img/1208014228/32.jpg
(一部抜粋)
こうした想像を巡らせると、ある1つの結論に達した。犯行グループは日本人ではなく外国人の可能性という結論だった。グループを外国人とした場合、さまざまな問題がクリアできた。
(中略)
このように日本の右翼が演じた過去の事件と比較してみると朝日新聞襲撃事件は、犯行グループが右翼を装いながら、右翼らしくない犯行の手口をのぞかせている。はやり、これは、日本人ではない犯行と考えられた。そして、この偽装がどこからきたものかを併せて考えてみた。結果はある組織に近いグループになった。
坂上のこの意見と同じ見解を示したのが東京在住の政治評論家だった。評論家は某政治家の話として、朝日新聞襲撃犯は”ある組織”という意見を述べた。もっともこの話は坂上が直接聞いたわけではなく、東京の出版社を通じてのものだった。しかし、評論家が同様の見解を示していたことで坂上は自信を持ち、記事を書いた。
それでも夕刊紙の連載には、余計な危険を避けるため、このある組織を、ある組織ともせず、また固有名詞を全く使わないで表現した。しかし、ある組織がこの記事を読んで怒った。逆鱗に触れたのだ。そして夕刊紙の役員室に殴り込む結果を招いたのだ。
戦闘服をまとったある組織の男らは、榎本社長と激論を交わした末、「坂上を2週間以内に組織の本部へ出頭させろ」と言い残して建物から去った。朝日新聞襲撃事件の発生後、1週間目の5月9日のことである。
そして約2週間目の同20日、坂上は東京都内の、ある組織の本部を予告なしに訪れた。ある組織は大きなビルの1室に本部があった。予告なしに訪れたのは、危害を恐れてのことだった。つまり、危害の準備ができない内に出頭したのである。
部屋の中には数人の男がいた。緊張した坂上には、その男らのどの顔も赤報隊に見えた。ある組織の追及は厳しかった。「何の根拠である組織のことを書いたのか」など、あらゆる怒声と罵詈雑言が浴びせられた。その場で危害が加えられるのを待つ以外に方法はなかった。救われたのは、その組織の中に幹部として1人の日本人が居たことである。
その日本人は「ただでは済まさないぞ」とたけり狂う男らを制して「二度とこんなことは書くな」という警告を発してその場を収めた。救われたのである。
当の日本人は、額に収められた外国大統領の写真の下で、
「私は大統領からの信任を得ている。この時計は大統領からいただいたものだ」と、得意そうに腕時計を見せた。しかし、左手の小指の先はなかった。
(中略)
――韓国・全斗煥大統領の実弟、全敬煥が3月18日に来阪、藤田永中や日本土地の木本社長ら6人と日航ホテルで密談している。そして全敬煥は帰国後、韓国当局に逮捕された。
『疑惑人らがつくった関西国際空港』木村久著(1994年)
―――――
これらの情報から、「誰もが知っている公的な組織」は韓国に関係する組織のようだ。
具体的に何かを推測するに、いくら何でも「韓国大使館」ということはないだろうから、そうなると、民潭(在日本大韓民国民団)か、統一教会(世界基督教統一神霊協会)あたりのことを言っているのだろうか。
統一教会を「公的な組織」というのも考え難いので、おそらくは、「民団」だろう。
ちなみに、現在は多くの日本人が「在日韓国人=極悪人」と認知しているが、この本が書かれた1994年当時はまだそれほど広く認知されていない時代だったかもしれない。
「どうして朝日新聞が韓国批判?」
「どうして韓国が朝日新聞にテロ?」
などと不思議に思う人も多いかもしれないが、事件当時の1987年はまだ冷戦真っ只中であり、北朝鮮を「地上の楽園」と讃えていた朝日新聞と韓国(民団)は対立することもしばしばあったようだ。
(参考)
告
われわれは日本人である。
日本にうまれ 日本にすみ 日本の自然風土を母とし日本の伝統を父としてきた。
われわれの先祖は みなそうであった。
われわれも われわれの後輩も そうでなければならない。
ところが 戦後四十一年間 この日本が否定されつづけてきた。
占領軍政いらい 日本人が日本の文化伝統を破壊するという悪しき風潮が、世の隅隅にまでいきわたっている。
およそ人一人殺せば死刑となる。
まして日本民族全体を滅亡させようとする者に いかなる大罰を与えるべきか。
極刑以外にない。
われわれは日本国内外にうごめく反日分子を処刑するために結成された実行部隊である。
一月二十四日の朝日新聞社への行動はその一歩である。
これまで反日思想を育成してきたマスコミには厳罰を加えなければならない。
特に 朝日は悪質である。
彼らを助ける者も同罪である。
以後われわれの最後の一人が死ぬまで この活動は続くであろう。
日本人のあるかぎり われわれは日本のどこにでもいる。
全国の同志は われわれの後に続き 内外の反日分子を一掃せよ。
二千六百四十七年 一月二十四日
日本民族独立義勇軍 別動
赤報隊 一同
http://www.mii.kurume-u.ac.jp/~tadasu/essay_303111.html
『韓国・全斗煥大統領の実弟、全敬煥が3月18日に来阪、藤田永中や日本土地の木本社長ら6人と日航ホテルで密談している。そして全敬煥は帰国後、韓国当局に逮捕された。』とあります。
全斗煥大統領の実弟、全敬煥氏は、全斗煥大統領が新設した「セマウル運動本部」の理事長に就任してました。彼を始めとして、全斗煥大統領の親族5名で計78億ウォンの横領が発覚。この記事にあるのは、その端緒になった逮捕です。
そして、この大規模横領事件のマネーロンダリングは藤田永中氏(許永中氏と言った方が通りが良いでしょう。イトマン事件でも有名な、在日大物フィクサー)が行っていたとされています。
金で頼まれて動く、外国の公式団体(統一協会or民団)に依頼されるような、民族派右翼を自称する人物で、「セマウル運動」などを通じて、許永中(在日フィクサー)や全斗煥大統領の実弟、全敬煥氏あたりとつながって居そうな人物・・・ さてはて、誰だろう(笑)
瀬戸弘幸さんが、「統一戦線義勇軍」の名づけ親は自分だと手柄横取りの名乗りを上げたロジックを使うと、何だかとっても・・・
冗談です。日本刀でヤクザ者(※私はヤクザ相手ではなく非勝共な民族派右翼さんだと思ってますが)と斬り合う血気盛んな頃の瀬戸弘幸さんだったとしても、丁度この頃警察にいろいろ聞かれたと御自身で書かれていたとしても、やはりそこまでする度胸をお持ちだったと私は考えてはいません。
ともかく、したり顔で週刊新潮の記事を検証なさっている以上、全斗煥大統領や、実弟の全敬煥氏の名前が書かれているのを見たときに胸にズキンと来るものはなかったのでしょうか?
瀬戸弘幸さんが全くの善意・善行として「セマウル運動」に熱心に参加していたという仮定で想像してみますね。
瀬戸弘幸さんが熱心に参加していた「セマウル運動」を裏側で不当に食い物にしていた大統領で、そのために失脚し、日本でも大々的に報道されました。熱心に参加していただけに、その経緯が胸に深く刻み込まれていたはずですね?
だったら、週刊新潮が指摘している事の背景に「セマウル資金横領疑惑」がそのまま直結していることに気づかず読み飛ばすわけがありませんね。自分の善意を食い物にした悪い大統領や、その弟を忘れるわけがない。
瀬戸弘幸さんは、「セマウル運動」自体が決してクリーンなものではなく、裏には不透明なお金が流れていたことも知っていたはずですし、瀬戸弘幸さんはタッチしていないのかも知れませんが、民族派右翼や民団あるいは在日などが絡んだマネーロンダリングなどの問題があることもご存知だったのではないでしょうか?
少なくとも、「セマウル資金横領疑惑」で全斗煥政権が失脚する大スキャンダルに発展したのを見守って来たはずですから、それ以降については、そうした事実があることを知ったはずですよね?
ネトウヨや嫌韓厨たちが最もヘイトするエッセンスが、瀬戸弘幸さんが愛した「セマウル運動」の裏側にはドロドロと流れている事も、その本質も、瀬戸弘幸さんは確実に知っていたはずです。
ところが、それら一切合財を隠して、『セマウル運動は反共のために韓国の農業を近代化する運動で、ボランティアみたいなものです。』としか紹介しない。クリーンなイメージだけを流して、韓国の反共戦士(=統一協会)とオルグしようぜと呼びかける。
実際のセマウルでは、様々な利権問題が渦巻いていて、民族派右翼の皆さんにとっては格好のビジネスチャンスが転がっていたはずです。
瀬戸弘幸さんは確実に汚い部分を知っていて、それを隠して勧誘行為を行っています。韓国の反日感情の源流、統一協会というカルトの問題、在日や右翼が結託して不正利益を得たりマネーロンダリングしている実態。
そういうもの一切合財を知らせずに仲間に誘うのが、瀬戸弘幸さんという人のやり方です。
どこか間違っていたら、反論して戴きたいところです。
瀬戸弘幸さんが誠実にこのテーマに向かい合うことで、これまで光が当たらなかったこの分野の解明が進むので、私の指摘に間違いがあったなら、それはそれで素直に受け入れますし。
セマウル問題は、次回で取りこぼした分の紹介と軽いまとめをします。
前回は、瀬戸弘幸さん達を受け入れたセマウル(新しい村)の人々だけが特殊な思想の持ち主の集まりだったから、反日感情が薄く感じられたに過ぎないという事を少しお話しました。
瀬戸弘幸さんが嫌韓に鞍替えして以降に、そ知らぬ顔で勝共思想や統一協会の内情について講釈しているエントリーがあるので紹介します。
せと弘幸Blog「統一教会」と「国際勝共連合」より引用
これは統一教会ウォッチャーの間でもあまり知られてはいませんが、故久保木氏は一人で統一教会に入信したわけではありません。かなりの人数(三桁以上)を引き連れて移籍しています。
現在の日本の統一教会の幹部は、この時の人達によって占められています。韓国の教組の下に入ってまで、彼らがやろうとしたことは一つしか考えられません。
それが『国際勝共連合』の結成へと結びつくのです。彼らが当初から考えていたのは、宗教の衣をまとった政治活動でした。当時、創価学会、生長の家などの新興宗教は政治活動に力を入れ始めていた。
立正佼成会はその頃はあまり政治には熱心な方ではなかった。だからこそ、青年部長を務めたほどの彼(久保木)は、出遅れたことを焦り、新天地を求めたのである。
彼が始めた国際勝共連合は事実上、彼の死去によって幕を閉じた。私はあの統一教会というカルト宗教が日本社会に与えた深刻なまでの害毒と、国際勝共連合の日本の政治に与えた影響力を分けて考えています。
確かにそれは同一の母体ではあったが、詐欺事件まがいの商法や集団結婚式などという反社会性の裏側に、日本の赤色革命に抗した運動があったことも事実でした。
その考えはとても日本の民族思想とはかけ離れたもので、受け入れ難いものだった。しかし、彼らの擬似愛国心を見抜けなかった日本の保守勢力の多くが、彼らに取り込まれたことは事実でした。
久保木の早過ぎる死がなかったら、彼らはまた統一教会から離れ、独自の道を進んだかも知れない。なぜならば、国際勝共連合の理念は文鮮明の北朝鮮訪問によって終焉したからです。
笹川良一氏が彼らを応援したのも分からなくもない。彼は児玉誉士夫と並んで右翼のフィクサーだった。児玉が任侠系団体を右翼に引き込み組織化する中で、笹川はそのような動きには批判的だった。
笹川は国際勝共連合に集う若者の純真さに心を動かされた一人だった。その純真さは洗脳によって作られたものだったが、笹川もまたそれを見抜けなかったのである。
国際勝共連合の成功とは、表向きには真面目な青年が私利私欲を捨て、共産主義の魔の手から日本を救おうと立ち上がっているように見えたことでした。
現在その精神は唯一『世界日報』に引き継がれているようにも見える。しかし、彼らが文鮮明と明確に袂を断たない限り、誰も信用しないでしょう。
後段部分のみ引用しておきましたが、瀬戸弘幸さんが国際勝共連合の内部事情にかなり明るいのが見て取れますね。統一教会ウォッチャーの間でもあまり知られてないことを、さらっと言えるくらいには。
国際勝共連合の結成を協力にプッシュしたのは笹川良一氏と、それに協力したのが児玉誉士夫氏。
ちなみに、瀬戸弘幸さんが右翼デビューするきっかけになったのは、ワイロを大量にばら撒いた糸山英太郎氏の金権選挙の応援でしたよね。
糸山英太郎氏は、笹川良一氏の姪と結婚して縁戚関係にあります。そこで笹川良一氏と児玉誉士夫氏のツテが出来たので、児玉門下生というルートを辿ったものと思われます。
この辺りの人脈は、完璧に国際勝共産連合を作った人たちが後ろに居るんですが、読者の方々の判断に任せます。
wikipedia - 国際勝共産連合 の項あたりを読んで、足りない情報は補完しながら読んで下さい。全部説明すると長くなってしまいますので。
瀬戸弘幸さんは、『笹川は国際勝共連合に集う若者の純真さに心を動かされた一人だった。その純真さは洗脳によって作られたものだったが、笹川もまたそれを見抜けなかったのである。』と、冷めた批評をしていますが、瀬戸弘幸さんがセマウルで出会った韓国の農民たちは、正にこの洗脳によって作られたものだったはずです。
『笹川良一氏が見抜けなかった』と突き放すor手のひら返しすることで、自分だけキレイな場所に居ようとする逃げが、ここに炸裂しています。自分は内部事情に異常なまでに詳しいことを、ここで晒してしまっていながらです。
勝共に異常に詳しい瀬戸弘幸さんならば、「セマウル運動」の基礎的知識もなく、しかも現地に行きながら、そこに居た農民たちが一般的な韓国人の国民感情と違う特別な思想洗脳を受けていることに気づかなかったはずがないですよね。
国際勝共連合の問題点も、今回紹介したエントリーでは批判的に扱っています。ところが、そのほんの少し前には、そ知らぬ顔で「セマウル運動」の正体をぼかして韓国の青年(明らかにこの青年たちは勝共思想で洗脳された統一協会信者の農民たち)との共闘を呼びかけています。
ネトウヨ・嫌韓厨たちにやりこめられて、それが不可能だと悟り、嫌韓に切り替えると宣言したほんの数年前まで、瀬戸弘幸という人はそういう事を繰り返していたはずです。
こういうスタンスで民族派右翼をしてきたのが瀬戸弘幸という人ですから、『ヤクザを右翼にさそったと因縁つけられて日本刀での斬り合いになった』という御本人の説明だけでは、『勝共に否定的な民族派右翼さんを内緒で勝共にオルグしようとして刀傷沙汰』の可能性も否定できない。
もう少し違う観点のお話もしてみたいと思います。
1980年頃は、日本の農村との交流はほとんどなかったはずだと言いましたが、言い換えると、この頃から社会問題化した統一協会の合同結婚式問題で、当時の韓国農村部の状況を直接見て来た貴重な体験を持つのが、瀬戸弘幸さんだということです。
瀬戸弘幸さん自身が統一協会の信者だとは私も考えていませんが、当時、韓国農村部に浸透していた統一協会の実態をつぶさに見たはずですし、合同結婚式で日本から嫁いでいった女性に会った経験も、もしかしたらあるかも知れません。
仮になかったとしても、数年前までは韓国に頻繁に行き来しており、向こうに友人が居ると言っていた瀬戸弘幸さんは、そのツテを使ったり、1980年頃に訪韓していた民族派右翼の方々に聞き取り調査をするなどのジャーナリスト活動を熱心にすることで、合同結婚式後に消息を絶った日本人女性を探すという、瀬戸弘幸さんにしか出来ない尊い活動ができる可能性があります。
ご自分が、韓国で当時やって来たことにあまり触れたくないのでしょうが、せと弘幸Blog」:カルト・統一教会についてのような批評で満足していて良いのでしょうか?
一見、痛烈批判しているように見えますが、実際には全く踏み込んでいませんね。ご自分が見聞きしてきた本当の部分には全く触ろうとしません。
6500人の失踪者が居ることを紹介するのは良いことですが、だったら、その方々の安否を心配している人たちに、瀬戸弘幸さんが1980年代初頭の韓国農村部で見聞きしてきたことを情報として提供なさったらどうですか?
また、今でも農村部に友人が居ること、そのツテで情報収集ができるからと協力を申し出たらどうですか?
なぜ、北朝鮮の拉致が許せないとあれほど声高に言う瀬戸弘幸さんが、こんなにたくさん出来ることがあるのに何もせずに薄っぺらな批評だけでオシマイにするんでしょうか。
セマウル問題は、まだまだ、これだけではありません。次回に続きます。
私が、せと弘幸Blog『日本よ何処へ』の全記事を読み返す中で最も違和感を覚え、かつ最も重要そうだとずっと思っていたものが、「セマウル運動」に関するものです。
せと弘幸Blog『日本よ何処へ左傾化する韓国に危機意識を持とう!より引用
朝鮮半島は南北に分断され、「自由VS共産」というイデオロギーの厳しい戦いの中にあった。韓国は米国・日本と同盟関係にあり、日本も北朝鮮や・旧ソ連・中共との最前線に立つ韓国を支援してきた。
これは国家だけの話ではなかった。私が右翼の活動を始めた頃は、民族派の団体有志は韓国の反共団体と協力関係にあり、相互訪問で親交を深めていた。今から25年ほど前の旧い話になるが韓国の農村ではセマウル運動が盛んに提唱され、我々もその応援で韓国の田舎にまで行ったものである。
セマウル運動とは19世紀に二宮尊徳が行った農村改革運動と共通点が多く、故・朴大統領が尊徳の事績を参考にしたとは予てから指摘されていたが、日本側では「二宮尊徳の仕法とセマウル運動」には、両者の精神・手法には共通点があるとされ、日本においても韓国のセマウル運動と提携する農村があった。
当時は非常に韓国の国民は親日的であったと思う。とても今日のこのような反日的な気運は私などには正直言って信じられない。冷戦の崩壊や韓国が経済的に成功を収め自信を深めたことが、かつての植民地の歴史に対する反発とナショナリズムの勃興と重なり、現在の状況が生み出されたと考えられる。
だが、そのナショナリズムは韓国を誤まった方向に導きつつある。反米・反日はその裏返しとして北朝鮮への愛着となり、北朝鮮の共産主義体制の容認という取り返しのつかない思想的風潮が蔓延している。これに追い討ちをかけるような容共政策が次々に打ち出されてきた。
そのような容共主義を徹底する上で、かつての日本の植民地時代における様々な問題が蒸し返され、それを絶対に許さないとした反日思想を拡大している。その延長線上にあるのが「靖国批判」であり、これは現政権が進める左傾化と連動している。
現在、韓国社会において進行している左傾化は、武力を伴わないクーデターであり、もしこれが成功するなら韓国は北朝鮮に併合されてしまうだろう。これは信じられないが確率の高い予想である。銃声の音こそ聞こえないが、左翼共産主義革命は成功しつつある。
我々日本人はこのことに余りにも無関心過ぎるのではないか。朝鮮半島の共産化は日本にとっては死活とも言える程に重要である。日本の古くからの歴史を見ても、古代で言えば白村江の戦い。蒙古襲来、日露戦争など、その多くが朝鮮半島と深く関わってきました。
地政学的に見ても、日本がこの朝鮮半島の将来に無関心、或いは無関与であり続けることは、国益からみても大きな損失となるでしょう。ネット上では「韓国など北朝鮮に併合されてしまえば良い、ほっとけ!ほっとけ」という声もありますが、私は韓国における「反共・自由の青年戦士」達との共闘を呼びかけたい。 (瀬戸)
この記事に対する読者の猛反発で、やがて瀬戸弘幸さんはネトウヨや嫌韓厨らの熱意に折れるような形で、反共だけではなく、嫌韓も掲げると方針転換して行くことになるんですが、それほど美談ではなかったようです。
瀬戸弘幸さんは、恐らく故意に「セマウル運動」の情報を読者が正しく理解できないように紹介しています。実際、右翼のおじさんたちが野良仕事のボランティア作業をしに行くことのどこが共産勢力の阻止になるか理解できる読者は居ないと思います。
まず、『農業の近代化が何故、共産主義との戦いになるのか?』について、簡単に説明しておきます。
共産思想は、資本主義社会で搾取されている貧しい労働者階級の不満を苗床に成長します。
このシリーズの中盤以降で説明する予定ですが、『韓江(ハンガン)の奇跡』と呼ばれる韓国の復興事業は、1965年の日韓国交正常化の折に韓国に日本から渡された8億ドルが工業地帯や高速道路などのインフラ整備に重点的に投入され、農業は後回しにされました。
都市部と農村部の経済格差は激しくなり、共産主義者が農民たちの不満につけ込みやすい条件が揃ってしまっていたので、朴政権としては放置しておけなかった。
そこで、経済的に立ち遅れた農村部を近代化する。でも、それだけではなく半強制的に組織化、組合化することで農民同士を相互監視すること、更に共産主義に徹底的に対抗する思想を持った宗教を農村部に根付かせるという対抗策を取りました。
私のブログでも、江戸幕府が隠れキリシタン対策で仏教諸派の檀家制度を奨励し、事実上の戸籍制度とすることでキリスト教徒にならないようにした事などに少し触れたことがあります。
一時的にイスラム教が浸透した国家で、それを排除するためにあえて豚肉料理を奨励したというところもあります。異教徒を排除するために宗教を利用するというのは古今東西で見られる方法で、それを共産主義というイデオロギー対策に使ったということですね。
こうして、「セマウル運動」では農地開発や道路整備も行われましたし、伝統的なわらぶき屋根の家が近代的な家にどんどん建て替えられましたが、同時に、農民同士は共産主義に走らないようお互いを監視し合い、統一協会に入信するものも結構多く居ました。
で、統一協会と言えば霊感商法も有名ですが、悪名高いのが合同結婚式。
(何故か理由は紹介されないのですが)韓国農村部に信者が多い統一協会は、日本人女性を貧しい農村部の、嫁の来手がないところにどんどん嫁がせる。しばらくすると音信不通。行方不明。
New Presentation of Divine Principle, jap lang (※作業ミスでリンクが切れていたので修正しておきました)
統一協会の教義がプレゼンになっているもののようです。「セマウル運動」とのつながりを調べていて見つけたので、私は我慢してザックリ流し読みしましたが、気持ち悪かったので他の方々には全部読めとは言いません。ただ、394Pを見ると、セマウル運動は、しっかり統一協会の教義に組み込まれていることが分かります。
勝共理論ともバッチリ書いてあります。
これで、「セマウル運動」の概要は大体見えてきたと思います。瀬戸弘幸さんのエントリーを見ると、農業ボランティアに行ってきましたと書いてあるようにしか見えません。
そこには、かなり細かい誤魔化しのテクニックが使われているので、紹介していきます。
まず、エントリーが書かれた時期から25年ほど前の事らしいので1980年頃にセマウルに訪問していることになります。
2000年代に入って以降は、大分県の一村一品運動のように、セマウル運動と連帯する日本の農村と言えるようなものは出始めていますが、1980年頃は軍政が敷かれていましたね。
瀬戸弘幸さんたちが何度も足を運んだのは全斗煥政権の頃でしょうか? 軍政下の韓国では地方自治が長年凍結されていました。セマウル(新しい村)が自立的に他国の自治体と連動するのは無理ですね。
瀬戸弘幸さんは、むしろ「韓国の地方自治」でもお読みになって、勉強なさった方がよろしいでしょう。
瀬戸弘幸さん説によれば『盧武鉉のせいで左傾化した』ことになっていますが、このレポートによれば『盧武鉉のおかげで軍政から民主化が進み、特に地方自治の道筋がついた』と指摘されています。
『セマウル運動と日本の農村の連動は、朴政権以降、軍政下では見られない動きだったが、盧武鉉がその筋道をつけた。』と紹介しないと正確じゃないと思いますよ。
瀬戸弘幸さんは、『日韓の村同士でも交流があるくらいで、自分たちもそういうボランティアをしていたんだ』という印象を読者に与えたかったんでしょうが、軍政下の1980年前後にそれは絶対にあり得ない。
『当時は非常に韓国の国民は親日的であったと思う。とても今日のこのような反日的な気運は私などには正直言って信じられない。』と瀬戸弘幸さんは仰っています。
ですが、当時の軍事政権は、代替わりするたびに日本に謝罪と賠償を要求し続けてきたことを日本人は知っています。嫌韓厨は、反日教育の出発点が盧武鉉時代でないことも知っています。
瀬戸弘幸さんの盟友である桜井誠さん執筆の『嫌韓流反日妄言撃退マニュアル』を今回は参考にさせて戴きますね。
『一九四八年八月十三日の大韓民国建国以来、初代大統領李承晩から続く反日教育には、一応曲がりなりにも理由が存在した。もちろん極めて独りよがりの理由ではあったが、それなりに理解できる理由ではあった。つまり、韓国は建国当初から非常に貧しい国家であり、特に朝鮮戦争前後では世界最貧国の地位に甘んじていた。本来なら朝鮮半島は一つの国家として独立するはずだったmのを、李承晩らによる朝鮮半島南部地域だけの先行独立によって貧しさを強要されたとして国民の不満が鬱積しており、その不満のはけ口として徹底的に反日を打ち出し、自分たちの手によって引き起こされたはずの貧困の原因は「暴虐と非道、収奪の限りを尽くした」日帝によるものとして、政府への批判をかわそうとしてきた経緯がある』
如何でしょうか? 瀬戸弘幸さん。親日的と言われた朴政権ですら反日教育はせっせと行っていますし、全斗煥政権も反日教育をしていました。
軍政から民主化して、その後、北朝鮮と対話が進んでから確かに一気に反日教育の問題が表面化しましたが、下地づくりは瀬戸弘幸さんが熱烈に支持していた政権がせっせと作ったものですよ。
そして、『日本と韓国は反共の同士である!!』なんて日本からやってきた民族派右翼有志の方々を喜ばせそうなことを言う農民ばかり居たのなら、そのセマウルは、統一協会の勝共思想に完全に洗脳されていたと見て間違いありません。
瀬戸弘幸さんは、「セマウル運動」がどんなものか、正直に書きませんでした。また、セマウルで自分たちを歓迎してくれた人たちが、一般的な韓国人の国民感情とは別の思想を持った特殊な人々であることも、本当は承知しているはずなのに、そのように紹介しませんでしたね?
(その1)で一水会の鈴木邦男さんが、『われわれの仲間には何人か原理にオルグられたり、「合宿」に誘われて行ったことのある人間もいる。』という記事を書いているのを紹介しましたが、ネトウヨや嫌韓厨に対して、同じことをしていませんか?
自分たちの実態を教えずに誘う。一緒に闘おうと持ちかける。もちろんこれは大失敗に終わるわけですが・・・
だから、日本刀事件もちょっとアヤシイかな・・・? と私は思い始めているわけです。
まだ、「セマウル運動」については、さわりの部分しか語っていないので、次回に続きます。
少し時間がかかってしまいましたが、今回から新シリーズに入ります。
調べ物をしているうちに、話がどんどん膨れ上がって来ているので全10回程度を予定していたのですが、収まりきらないかも知れません。
主題にしたかった話題のために色々調べ物をしてたら、余禄で瀬戸弘幸さんが発信してきたウソがボロボロと見つかったので、そのうちの1つを導入部に使ってみたいと思います。初回ですし、まずは軽めのジャブです。
せと弘幸Blog『日本よ何処へ』:初めて明かす義勇軍創設と私の立場より引用
この中で、赤報隊の事にも触れられていたが、ここではナント、捜査当局が最後に絞り上げた十人の「赤報隊容疑者」がイニシャルとは言え、従来の報道よりも詳しく紹介されていた。
「新右翼I会創設者で文化人のS」や「新右翼T軍初代議長で現在I会のK」に混じって、・・・・・・・・「新右翼T軍の創設にも関与したジャーナリストのS」がいる。
はてさて、誰だろう(笑)
この「新右翼T軍の創設にの関与したジャーナリストのS」とは、これは私のことです。今日はこのことに関して初めてブログで書くことにします。
昭和56年頃、私は東京・東銀座の合同環衛ビルという所を事務所兼住まいとして、日本憂国会という名称で右翼活動をしていました。
当時、私の元に皇心塾、一水会、北方領土奪還青年委員会の若い活動家が集まっていた。
当時の私もまだ29才の若さでした。我々は既成の右翼団体の枠にとらわれることなく、先鋭的な運動を行なうことで意見が一致して、団体の名称を統一戦線義勇軍とすることにした。
※この昭和56年頃から・・・・・名称を統一戦線義勇軍とすることにしたまでの文章を正確を記して下記のように訂正しておきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昭和56年頃、私は東京・東銀座の合同環衛ビルという所を事務所兼住まいとして、日本憂国会という名称で右翼活動をしていました。
当時、私は皇心塾、一水会、北方領土奪還青年委員会などに所属する若い活動家と一緒に活動していましたが、そのような活動家が横断的に結合して出来たのが「統一戦線義勇軍」という組織でした。
資料「昭和59年1月・公安情報」を参照
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
当時の私もまだ29才の若さでした。我々は既成の右翼団体の枠にとらわれることなく、先鋭的な運動を行なうことで意見が一致して、
本部事務所を当時私が住んでいたそのビルの6階に置き、我々はすぐさま全国の若手活動家に対して「分裂混迷の状況にある日本民族運動を再生する道は、文字通り烈火のような運動の実践の中にしかない」として檄を飛ばした。
東京都内においても電柱などに統一戦線義勇軍のビラを張り出し、活動を全国的に展開しようとしていた。その我々の呼びかけに応じるように全国から多くの人が訪れてくることになりました。
関西方面からも何人もの人がやって来ては、時間の過ぎるのも忘れて議論して、朝になってしまったことも度々でした。私は関西からやって来た人にも、我々の統一戦線に加わるように積極的に呼びかけていました。
この位で十分でしょうか・・・ いわゆる「赤報隊事件」の手柄横取り炸裂と、2ちゃんねる界隈でも瀬戸弘幸さんの記事を揶揄する批評が多かったのですが・・・
瀬戸弘幸さん界隈にも人気の阿修羅で、こんな記事を見つけてきました。
(資料:民族派団体一水会代表、鈴木邦男氏 反統一教会 論文 昭和六十年、1985年、朝日ジャーナル )
勝共連合は民族主義運動の敵だ ―文鮮明王朝建設に利用される日本の若者 より一部抜粋
われわれ、戦後体制打倒をめざす「一水会」の機関紙『レコンキスタ』(スペイン語で”失地回復”の意味)でも何度か原理についての批判をしてきたし、原理運動研究家の第一人者である茶本繁正氏を招いて一水会事務所で勉強会をしたこともある。その時のテーマは「勝共連合は愛国者なのか」であったし、彼らは民族派の味方ではないこともわれわれは明らかにした。
また、われわれの仲間には何人か原理にオルグられたり、「合宿」に誘われて行ったことのある人間もいる。二年前、そんな一人に「私はこうして”原理研”が治った」という体験談を話してもらい『レコンキスタ』に載せた。当時は「こうして新左翼が治った」「べ平連が治った」「アナキストが治った」といった体験シリーズをやっており、それら左翼運動と同次元で原理も考えていた。さらには、われわれ一水会と連帯している統一戦線義勇軍の機関紙『義勇軍報』でも原理・勝共との戦いを呼びかけており、事実、一水会や義勇軍は他の民族派と共闘して彼らとの闘いを展開していた。
小さいながらもこうした反原理・反勝共の闘いをやってきたが、これは右翼全般からは不評で、「思いつきでやってる」とか「勝共は仲間なのに」「敵を利する」などと批判された。しかし、大学時代からわれわれは彼らを一度も味方だと思ったことはないし、民族運動の同志だと思ったこともない。学生の時、早大で知ってた彼らは決して右翼ではなかったし、反共でもなかった。「天皇なんて関係ない。文鮮明師がすべてだ」「憲法なんてどうでもいいし、興味はない」と、正直にいっていた。われわれとは立場は違うが、宗教団体としてはそれも当然だろうと思っていた。ところが最近、急激に「右傾化」した。「天皇制を守り、憲法改正、スパイ防止法の制定を」と言っている。
統一教会・原理研と勝共連合は別だと言う言い訳は通じない。やっている人間は同じなのだ。なぜ、急に右旋回し、豹変したのか。その右旋回は本物なのかどうか。すっと疑問に思ってきた。最近の派手な言動に幻惑されて、即「味方だ」と思ってる右翼に同調できない理由もそこのある。そんな疑問に答えてくれたのが副島、井上両氏の『文春』のレポート「これが『統一教会』の秘部だ」だった。そして、『原理講論』をはじめて通読し、両氏の告発が嘘でも誇張でもないことを知った。
長いので一部抜粋にしましたが、全文読んでおくことをお勧めします。
瀬戸弘幸さんのお話と違って、彼ら「統一戦線義勇軍」は原理・勝共と闘う立場の民族派右翼さんだった模様です。明らかに話が矛盾していますね。
当時の右翼界隈の空気では、ロッキード事件発覚直後の児玉誉士夫氏に師事しただけでも勝共扱いされて仕方ない状況だったと思います。瀬戸弘幸さんは、思想信条も完璧に勝共でしたよね。
瀬戸弘幸さんが、ヤクザと日本刀で・・・という件も、詳細が明らかになったら、瀬戸弘幸さんらが勝共産な民族派右翼さんをオルグしようとしてトラブルを起こして刀傷沙汰になっただけ、という可能性も否定はできません。
今のところ、瀬戸弘幸さんが一方的に相手がタダのヤクザ者だったことにしているだけで、本当は勝共系以外の民族派右翼さんだっただけかも知れません。少なくとも、瀬戸弘幸さんが勝共だということは、ほぼ間違いない事実です。(次回、詳しく説明します。)
憶測だけで深く突っ込んで非難しても仕方ないので、こんなもんにしときます。あくまでさわりです。
私が今回のシリーズを書き起こすために当初調べていたのは、1980年前後に瀬戸弘幸さんが、どのような民族派右翼の方々とおつきあいしていたかという事です。
その頃、瀬戸弘幸さんは、日本の民族派右翼有志らで韓国の農村を近代化するための「セマウル運動」というものに参加していたと、『日本よ何処へ』で紹介していました。一体、どんな民族派右翼さんと御同行なさったのか知りたくて調べていた時にたまたま見つけたのが統一戦線義勇軍との関係についての矛盾です。
私は、このセマウル運動支援のエントリーにずっと違和感を感じていました。
前回シリーズで、松沢呉一さんが、瀬戸弘幸さんの行動理念はカネではないかという趣旨の批評をスッパリとされているのを見て、『児玉誉士夫氏がロッキード事件以上の利権を得たのは何だったろうか?』と考えていて、もう一度「セマウル運動」や、韓国の復興全般と民族派右翼の関わりなどを見直してみようと思い直しました。
すると、瀬戸弘幸さんが大量のウソを発信していること、都合の悪いことを必死に押し隠していること、ネトウヨ・嫌韓厨たちに詰め寄られたときに言いかけてやめてしまったことが多分あるらしいことが見えてきました。
冒頭に示した矛盾は、その際たるものの1つです。
まずは、瀬戸弘幸さんがかなり最近まで勝共であったことを、瀬戸弘幸さん自身のブログ内の発言を中心に明らかにします。今回は「セマウル運動」に関する瀬戸弘幸さんの主張から、それを読み解いて行こうと考えています。
おそらくですが、今の瀬戸弘幸さんが嫌韓厨のアイドルみたいなポジションに居るのは『ナノゼリー販売はもうやめたから、商品の説明はもうしない!!』というのと同じ宿題投げ出しです。
瀬戸弘幸さん本人の方が上手に答えられること、瀬戸弘幸さん本人でないと全く答えられないことが大量にありますから、第三者であるワールドワイドウェブが、宿題の肩代わりを完全にできるわけではありません。
私は、自分の能力に見合った範囲で分かる事実は明らかにし、分からない部分は、『瀬戸弘幸さんが誤魔化して逃げてますよ。でも、実際は答えを知ってるはずですよ。』と指摘して行くスタイルを取ろうと考えています。
次回から、「セマウル運動」の話題に入ります。
師匠が師匠なら、弟子も弟子ということでしょうか。
「維新政党・新風」の副代表の座を追われた自称「右翼」の瀬戸弘幸さんの愛弟子、侍蟻 SamuraiAriさんが、『溢れんばかりの「日の丸」を林立させよ!』と新風に対して猛烈に抗議をなさっています。
既に瀬戸弘幸さんは極右の矜持すら忘れ去ったのか? (その9)で、「行動する保守」なる勢力が、他国の国旗(又は国旗に順ずる旗)に対して敬意を持った取り扱いをしていない事、自国の国旗を自国民、一般市民の恫喝に使用するという不見識極まりない態度で、日の丸や日章旗を汚していることを指摘しています。
「維新政党・新風」も、国旗の取り扱いについてそうした履き違えをする不心得者が居る以上、抗議の意思を示すような街頭活動に日の丸を使うなというお達しを出すのはごく自然な流れだろうと思われます。
それがケシカランと猛烈に抗議している有門大輔さんこそが、不見識な振る舞いを先頭に立って行ってきた非常に悪い意味でのオピニオンリーダーです。
オリンピック等、平和的な形で各国が国家の威容を誇り、かつお互いを称えあうような祭典で掲げる国旗の使用を、「維新政党・新風」は禁じてはいないでしょう。勝手に意味を書き換えて非難を浴びせる有門大輔さんのような態度こそ、党の精神や、党の名誉を汚しているのではないでしょうか?
加えて、党が発表した「民族差別を許さない」という公式声明にも唾を吐きかけ、土足で踏みにじっています。そんなに「維新政党・新風」が嫌いなら、出て行けば宜しいのではないでしょうか?
党の求心力を利用するだけ利用して、自分の思い通りにならない時は、全く尊重しない。しかも、党として自由闊達に話し合いをする場がないわけではないのに、正々堂々と議論をしない。
党の副代表を退いたとはいえ、師匠である瀬戸弘幸さんは、有門大輔さんの躾をどのようになさって来たのでしょうか?
今のところ、彼の口ぶりを見る限りでは、まだ新風内にとどまっているようですから、党に物申すのであれば、きちんと党内で必要な手続きを踏んで発言するよう適切に助言するのが年長者であり、長年彼の面倒を見てきた瀬戸弘幸さんの務めではないでしょうか?
瀬戸弘幸さんと有門大輔さん、更にお二人に同調してキレイ事を言う人たちに新風を任せられないと、まるで『新風乗っ取り』を企てているかのような発言をなさっている方々、新風側からは、このようなメッセージが以前から出ています。
新風青年:公式メールマガジン『週刊WIN』 vol.6 【巻頭言】政党としての主体性を意識せよ!より一部抜粋
我が党の主張は、正式な党内手続きを経て(機関誌やホームページなど)公式媒体に示されている。それに不満を持つ党員も存在するようだが、それは(役職の如何を問わず)個人的な意見に過ぎぬのであり、党としての公式見解でないことはいうまでもない。インターネット上で党声明の批判を行うなど論外だ。不満があるなら、このメルマガなどで議論すればよいのである。
(ひがしやま・くにもり)維新政党・新風全国青年部長
どうして、正しい手続きをもって党声明に対する意見を言わないのですか? 党員として諫言申し上げたいなら、妥当な手続きというものがあるはずです。
裏でコソコソと党の乗っ取りや転覆のハカリゴトをしているように見えるやり取りを残しておくことが、党員、支持者、一般の有権者の不信感を誘うことも理解できないのでしょうか?
特に、「行動する保守」を先頭でリードし続けている瀬戸弘幸さんは、元・副代表ということもありますし、その責任は小さくないはずです。
「極右」政党が育つことを喜んでいた瀬戸弘幸さんは、いつの間にか自らの手でそれをぶち壊そうとしていませんか?
さて、このシリーズも(その12)を迎えました。当初予定していたよりも大幅に長くなってしまいましたので一旦区切りとします。
実は新シリーズの構想もほぼ出来上がっています。恐らくですが、今回のシリーズよりは瀬戸弘幸さんにとっては苦々しいものになると思います。(※当社比)
『瀬戸弘幸さん人生最大の宿題やり残しにワールドワイドウェブが挑む』といった切り口で進めさせて戴く予定です。
資料等を整理しているところですので少々お待ちください。
松沢呉一さんにも取り上げていただけたようで恐縮です。相変わらずの乱筆乱文ですが、もうしばらく続けて行きたいと思います。
さて、自分たちの聖戦を、カルト同士の抗争に矮小化されるのは遺憾だと自称「極右」の瀬戸弘幸さんが吼えています。
私は傘の件はさほど深く突っ込む気はありませんが、ビラ撒き自体は、ごく素直に解釈すればカルト同士の中傷合戦レベルを超えるものではありません。
最初からそのように評価していますし矮小化とは考えていません。クダラナイカルト同士の中傷合戦に参戦しただけのおじさんが、それを正義の戦いであるかのように粉飾して大きく見せたがるのがおかしいだけです。
大真面目に考えると、瀬戸弘幸さん達がやっている事が『天皇陛下の国事行為に対する反逆行為』だったり、『議会制民主主義や法治国家の否定』だったり、『天皇陛下や国民が世界に対して恥をかくよう仕向ける国賊行為』と言えますが、そうした批判を切り離せば、犬も食わない醜い争いで、その片方に乗っかったアホなおっさんにしか見えません。
本当に「極右」としての矜持をもって戦うのであれば、「極右」としての政治的主張を、彼らの政治的主張にぶつけて見せるべきです。
瀬戸弘幸さんたちが主導する「行動する保守」は、こんな事を言うと『キレイごとばかり言うな!』と仰るかも知れませんが、瀬戸弘幸さんが今やっている事には、「極右」として国民に誇れるキレイな部分が全くないじゃないですか?
きちんと「極右」の正義を示しなさい。逃げるなチキン。って事です。キレイごとゼロで、汚い部分だけで世の中を回そうっていうのは土台無理なお話です。理想や理念がまずベースにあって、それを実現するために、キレイごとだけで通らない部分がありますよって言うなら、まだ理解のしようがありますが、瀬戸弘幸さんたちには、それすらもない。
昔なら「反共」という絶対正義を示しておけば、そのためのヨゴレ仕事は多少目をつぶる事が許されたでしょう。東西冷戦構造崩壊前なら、多少の荒事や汚い手段も、法令違反も、最終的には、国のため天皇陛下のために自分たちは泥をかぶる、汚名をかぶってでも最終的には国に奉ずると言い切れたでしょうが・・・
今のご時世に、瀬戸弘幸さん界隈の悪事を正当化できる言い訳は存在しません。
民主党批判をするときも、「コミュニスト」ではなさそうだけど、とにかく売国奴に違いないから自分たち愛国者を差別者として弾圧するに違いないといったおかしなロジックで、自分たちの支持者に危機感やプレッシャーを与えるような方法しか思いつかない。
宗教政党に対する姿勢を占めそうにも、彼らだって「コミュニスト」勢力ではないので、別のもっともらしい言い訳探しをしなければいけません。創価学会叩きで『カルトだから』という理由づくりに必死なのも、そのためですね。
間違った憲法解釈を広めようとしたり、『神のように崇める教祖を否定する人間を殺す危険団体』or『政敵を殺す危険な団体』というプロパガンダ作りくらいしか思いつけない。正攻法で戦う意思を今の瀬戸弘幸さんが持っていないからです。
そういう工作が許されるなら、そのロジックを「極右」に対してあてはめられるとどうなるか分かりますか?
『極右は天皇陛下や英霊を否定する人を狙って、放火や殺人を行い、それを褒め称える危険な団体!!』
こんな言われ方をしたら、瀬戸弘幸さんは絶対許せないでしょ? そういう事を創価に対してやっているわけです。
瀬戸弘幸さんが、創価学会を危険なカルトとして世間に認知させようとしているロジックを使うことで、そのまま「極右」思想を危険なカルトと断定することが可能になります。
こんな危険な団体は政治に参加してはいけない。あるいは、国家神道を国教にする「政教一致」の国づくりをしたがってるから違憲政党だと宣伝することもOKとなれば、「維新政党・新風」などは、永久に国政に出てはいけない事になってしまいますね。
つまり、瀬戸弘幸式の攻撃方法が一般的に「正当な言論」として認められてしまうと、「極右」思想や「極右」政党は、今後育たなくなって、後にはペンペン草も生えない不毛の大地が残されるでしょう。
しかも、東村山市議転落死の場合、瀬戸弘幸さんがこれまでに開示している情報や、裁判の結果から見るに、単なる言いがかりでしかないですね。
『創価学会が、池田大作を守るために朝木明代さんを殺した』と信じるに足る客観的な証拠はないのに、瀬戸さんはそのように宣伝したがっている。
それに対して、「極右」は、歴史を紐解けば、政敵の暗殺、天皇陛下や靖国に否定的な発言をした人物の暗殺、放火などの事件を度々起こしていますね。
瀬戸弘幸さんが、たびたび持ち上げる「大日本愛国党」は、『演説中の日本社会党委員長・浅沼稲次郎を17歳の少年・山口二矢に刺殺させる』といった事件も起こしています。
瀬戸弘幸さん自身も、二度ほど右翼構成員が起こした放火事件を賛美するコメントを書いておられますね。お忘れとは言わせません。
創価学会は、政敵を殺したかどうかも分からないのに、それが事実であるかのようにウワサを流してバッシングする。
「極右」である自分たちは、それよりもひどい事件を『実際に!!』起こしているのに意にも介さない。
簡単に言ってしまうと、そういうことです。
だからといって、天皇陛下が邪悪なわけでも、天皇陛下を尊敬する国民が邪悪なわけでもありませんので、誤解しないで下さいね。
『一部の右翼さんたちは、それで人殺しまでする。その犯人を賛美する人もいる。その界隈は邪悪かも。』というレベルのお話でしかないです。
瀬戸弘幸さんが、創価学会を邪悪なカルトだとする理由の1つを、固有名詞抜きにして汎用的な文章にすると、以下のようになると思います。
『ある団体が、自分たちが崇拝する神や人などを思うあまり、それを否定する者を許せなくなる。その度合いが尋常ではなく、相手の身体や生命にまで危害を及ぼしても良心の呵責を覚えなくなる。こうした団体は危険なカルトである。』
上記文章は、まぁ正論だと思います。特に反対する要素はありません。
で、瀬戸弘幸さんは、創価学会がこの定義にあてはまる団体だと決め付けているので、傘による目突き事件は創価学会の仕業だというウワサを広めたい。そういうことですよね?
ですが、この定義にピタリと当てはまる「具体的な事実」が前科等で残されているのは、むしろ瀬戸弘幸さんたちだったりします。
『創価を叩いているオレたちこそ正義』という宣伝は、滑稽そのものです。創価学会に何も問題がないとは言いませんが、証拠もなく叩こうとしている瀬戸弘幸さん達は、叩こうとしている理由に関して前科持ちじゃないですか?
正直笑えません。どの辺が正義なのか、ご説明願いたいところです。特に『極右として』思うところを正直に述べていただきたいです。
「維新政党・新風」という、選挙を通じて議席を得て公党になろうという目標を持つ集団の副代表を一時は務めていた、自称「極右」の瀬戸弘幸さんは、現在「公職選挙法」の抜け穴を探して、公平公正な選挙をぶっ壊そうと躍起になっています。
そもそも、衆議院選挙の公示が日本国憲法第7条第4項に規定される天皇陛下の国事行為であることも正しく理解されていないのではないでしょうか?
公平公正な選挙に泥を塗るということは、天皇陛下の国事行為に泥を塗るということです。それこそ「国賊」と言われる行為ですね。
公平公正な選挙ができない国は三等国家として諸外国に笑われます。天皇陛下や国民が、一部の狼藉者のせいで笑いものになる。「愛国者」を自称するものがやってはいけない事だとわかりそうなものです。
「公職選挙法」の目的は、『日本国憲法の精神に則り、衆議院議員、参議院議員ならびに地方公共団体の議員及び長を公選する選挙制度を確立し、その選挙が選挙人の自由に表明せる意思よつて公明且つ適正に行われることを確保し、もつて民主政治の健全な発達を期すること』です。
『選挙ポスターへの落書き』程度でも罪を問われるこの法律を前にして、『特定議員を落選させる目的で20万枚の中傷ビラ撒き』で逮捕されない方法を必死に探している瀬戸弘幸さん界隈を見ていると、この法律の立法趣旨や、その根本にある憲法の精神を守ろうという気は更々ないというのが分かります。
まず、ここまでの指摘で気に食わない部分がありますか?
東京12区だけを狙った事、事実上、太田氏狙いである事をHP上で包み隠さず表明してしまっている様子なので、特定候補に対する落選運動であるという判断は免れないでしょう。選挙後の手柄横取りのためだろうって方々で言われてますけど、太田氏のクビ狙いで落選運動してますよってもっと頑張って書き込むといいんじゃないでしょうか?
今頃あわてて削除したら、かえって違法性認識アリとなりますし、これからどうするんでしょうね?
逃げ切れるかどうかの要点は「公示前」というところだけでしょうね。黒田大輔さんがビラ配布の継続を表明していて、瀬戸弘幸さんらに止められなければアウトでしょうし、『ポスティングは公示前日にやめた』と主張しても、『有権者は公示当日に違法ビラを受け取った』という解釈で進められないとの保証はないですね。
留守宅の場合は、完璧に公示より後に有権者が違法ビラを見ることになるでしょう。ポスティングという手法を使うなら余裕をもって2日前くらいには配布を停止するべきだったと思うのですが。読み手の都合は知らないって瀬戸弘幸さん達は思うかもしれませんけど。ギリギリのタイミングの投函だと、本当に前日だったのか立証も出来ないでしょうしね?
りゅうさんのところで、刑事告発の話題が出ていたようですし、現時点で警察が受理する要件は既に満たしているようです。囲い込まれたのは、瀬戸弘幸さん達ではないかな、と私は思います。
仮に罪に問われずに逃げ切ったとしても、天皇陛下の国事行為に泥を塗った瀬戸弘幸さんは、「極右」として最低という非難は免れないと考えるべきですね。
ところで、瀬戸弘幸さんは右翼デビューなさった頃からクリーンな選挙がお嫌いだったんでしょうか?
瀬戸弘幸さんをウォッチして来た人達には機知の問題ばかりですし、新味のある話題は全くないですが、支持者の方々はいつもの如く『アーミエナイミエナイ』するでしょうか… ですが、少しだけ昔話をさせてくださいね。
自称「極右」の瀬戸弘幸さんは、本人の著書「ヒトラーの呪縛」で福島市役所勤務中に、糸山英太郎氏(自民党)の選挙に協力した際に、右翼団体のツテを掴んだとお書きになっているそうですね。その後、そのツテをたどって児玉誉士夫氏(戦後最大の右翼フィクサー)の民族思想研究会に入会という経歴。
まず、ここまで間違いありませんね?
糸山英太郎先生のHPで、瀬戸弘幸さんが応援した選挙についてご自身がお書きになっているコラムがありました。
ITOYAMA EITARO OFFICIAL HOMEPAGE PRIVATE COLUMN 「きれいな選挙などあり得ない」より一部抜粋
私は昭和49年7月の参議院選挙で戦後最大の選挙違反を出した。当時、私は田中角栄氏の推薦で自民党から立候補し、全国2000会場をキャンペーンして回り約80万票、全 国区13位で当選したが、その選挙活動は佐藤栄作氏の息子や山東昭子氏、宮田輝氏な どの有力な候補者が出ていたので苦戦が予想され、後援会や支援者達は票を取りまとめるために金を使った。その後選挙違反が発覚し、辞任要求を突きつけられた。が、 そのときに「殴られても蹴られても辞めない」と言い放って居直り、世論の圧力に屈 せず6年の任期を満了した。
ご自身が賄賂のばらまきを認めておいでです。瀬戸弘幸さんはこの選挙を応援なさったんですね。Wikipediaでもう少し事情を調べてみると『選挙期間中から金権選挙振りがマスコミの耳目を集めた。更に当選直後に大規模な選挙違反が発覚、選対本部長を始め経営していた会社の社員・ギャンブル関係者など142人が逮捕され、1287人が検挙されるという当時としては最大規模の選挙違反事件に発展した(特に義父の笹川了平は初犯だったにも拘らず、この選挙違反で実刑判決を受けた)。』といった事も書かれていました。
瀬戸弘幸さん自身は、この逮捕者には含まれていないのでしょう。含まれていたら、この時点で福島市役所に居られなくなったでしょうから。ですが、市役所職員が特定候補者の選挙応援をするのは、「地方公務員法」に違反していますよね? どちらにしても自慢できた話ではありません。
さて、そんな経緯で右翼デビューをなさった瀬戸弘幸さんは、田中角栄氏が、ロッキード事件後も政界引退しないことを糾弾するためと称して、静岡市長選挙に立候補した事があります。詳しくは、、我が回想録『静岡市長選挙出馬』というエントリーに武勇伝的に紹介されています。
読んでいただけば分かるのですが、この時の瀬戸弘幸さんは、あからさまに『バリバリの右翼』の格好で静岡市に乗り込んで、対立候補の田中派の候補者をバッシングしまくって大満足したようです。
これは当選目的でない立候補、市長になるためではない選挙活動ですね。どこか歪んだ「被参政権」の行使だったことは間違いないでしょう。「公職選挙法」に引っかからないように公示期間中に対立候補をバッシングするために立候補するという脱法行為の一種だったのではないでしょうか。
瀬戸弘幸さんの右翼デビューの契機となった糸山英太郎氏の金権選挙を吊るし上げたのは田中角栄氏でした。
ロッキード事件で田中角栄氏を追い込んでいたのは、瀬戸弘幸さんが右翼としてお世話になっていた児玉誉士夫氏でした。
右翼の世界の勢力図や人脈、派閥、対立、柵(しがらみ)などが、どこでどうつながっているか、私には分かりませんので、陰謀論ドップリで語っても仕方がないのですが、右翼内のご事情で静岡に恫喝遠征に行かれただけであって、静岡市民のための立候補でないのは確かですよね?
静岡市に定住して、静岡市長になるつもりは毛頭なかったでのではないですか?
『政治と金』に義憤を感じるのであれば、右翼デビューの足掛かりになった糸山英太郎氏の選挙が「金満選挙」だった事に何の憤りも感じなかったのでしょうか? 瀬戸弘幸さんは、それについて一度もコメントをした事がありません。
恐らく静岡市の有権者の皆さんにも、瀬戸弘幸さんが糸山氏の金満選挙を応援した過去などは一度も説明することなく田中角栄氏の批判をなさっていた事だろうと思います。(※間違っていたらどんどん反論して下さい。)
ですから、瀬戸弘幸さんは静岡市民のために立ち上がったのではなく、右翼の内部事情その他のために田中派バッシングしたくて静岡市に長期の恫喝遠征に行っていだけだと私は思っています。
民主党の小沢氏などの金の問題などを批判するのも結構なんですが、『政治と金』問題の原点として、是非とも糸山英太郎氏が今なお『きれいな選挙などない』と断言なさっている事なども視野に入れつつエントリーを起こして戴きたいものです。
瀬戸弘幸さんは、毎回カンパの使途を内緒にする体質なども問題になっていますが、右翼デビューの原点から『政治と金』問題がなんだかスッキリしない人だなと感じます。
少し話題が逸れましたね。昔話はこの辺で終わりにしましょうか。
「議席譲渡」という形で有権者を愚弄した左翼市議もそうですが、今回の選挙妨害も有権者や国民を舐めきっているからこそ出来る行為ですね。あるいは選挙をゲーム感覚で考えていて、常に裏技を探す感覚で遊んでいるんじゃないですか?
何よりも「極右」として天皇陛下に顔向け出来ないことをしている自覚をお持ちになるべきです。
【追記】
コメント欄で少し触れておいたのですが、『児玉誉士夫氏が田中角栄氏を追い詰めていた』という書き方は不適切でした。これでは児玉誉士夫氏が田中角栄批判の先頭に立っていた正義の味方だと勘違いする読者が居るかもしれません。
児玉誉士夫氏は、戦後の大物右翼かつフィクサーと呼ばれた人物で、ロッキード事件では、田中角栄氏とロッキード社の間を取り持ったとされています。このため、ロッキード事件発覚後は国民からも右翼からも集中的に非難を浴びていました。
で、その辺りを正確に伝えなおそうとロッキード事件の時系列を少し見ていたら、奇妙な事に気づいてしまいました。瀬戸弘幸さんの右翼デビューの頃と少し時期が符丁しているんですね。
少しご説明させて戴きます。
せと弘幸blog『日本よ何処へ』で瀬戸弘幸さんのプロフィールを確認しました。昭和27年生まれとあります。この時点では誕生日は未詳です。
瀬戸弘幸さんの、静岡市長選での武勇伝のエントリーを読み直して、その選挙がいつあったのかもネット等で色々と調べてみました。
昭和58年4月10日 第10回統一地方選挙。瀬戸弘幸さんは、32歳で静岡市長選挙に参加。
4月10日には32歳のお誕生日を過ぎていた。昭和27年1月1日~4月10日以前までのどこかが誕生日。大体のところが分かればいいので、お話を先に進めます。
瀬戸弘幸さんが、児玉誉士夫氏の民族思想研究会に入会したのは24歳の頃。昭和51年初旬よりは後の事と考えていいですね?
【昭和51年初旬:右翼界隈のニュース】
2月 4日 アメリカ チャーチ委員会の公聴会でロッキード事件が始まり、児玉誉士夫の事件関与が明るみに出る。
2月14日 大日本愛国党緊急時局懇談会 赤尾敏総裁が児玉誉士夫は「右翼の風上にも置けない」と非難。
3月23日 児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件発生。「特攻機」を操縦していたのは、かつての右翼運動家。
瀬戸弘幸さんは、ロッキード事件が明るみに出た丁度その頃に児玉誉士夫氏の民族思想研究会に入って、お世話になってるんですね。知らないとは言わせません。
で、田中角栄氏と児玉誉士夫氏はロッキード事件について一蓮托生じゃないんでしょうか?
せとblog内をくまなく検索しましたが、瀬戸弘幸さん自らがロッキード事件を理由に児玉誉士夫氏を批判した事はただの一度もありません。不思議なことです。ロッキード事件は許しがたい国賊行為ではないのですか?
瀬戸弘幸さんは、ロッキード事件で私服を肥やした児玉誉士夫氏の庇護の下で、右翼活動をしていた。間違いありませんね?
国民だけでなく、右翼の方々も児玉誉士夫氏を非難している時期に、そういう人物の門下生だったんですよね?
せとblogでも度々持ち上げ、静岡市長選のエントリーでもヨイショしている大日本愛国党の赤尾敏氏は、上記の時局懇談会において以下のような演説をなさっているようです。
『新聞などの報道によると児玉は「右翼の立看板」として紹介されている。これほど不愉快なことはない!赤化しつつあるわが国をまもるため滅私奉公するのが右翼としての本分である。しかるに政財界と癒着し寄生虫のごとくカネを吸い上げる児玉なる人物は右翼の風上にも置けない!児玉即右翼ではない!』
よりによってロッキード事件糾弾で静岡市長選に乗り込んだ赤っ恥記事の中で赤尾敏氏の名前を拝借して自分の権威を補強しようとしてしまったことについては、右翼としての良心の呵責や、恥というものを感じたりはしませんか?
田中角栄氏と一蓮托生だった児玉門下生だった瀬戸弘幸さんは、数年後には、そ知らぬ顔して田中角栄氏のロッキード事件を糾弾するという触れ込みで静岡市長選に殴りこみ。バリバリの右翼スタイルで対立候補をバッシングして回ったんですね。もちろんこの姿を見て、真面目に市長になりたくて演説をぶっていると思った市民は居ないでしょう。
どこまでもふざけた話だということが再確認できてしまいました。国民のための義憤、静岡市民のための義挙、そうした主張は一切通りませんね。
瀬戸弘幸さんは、静岡市の有権者の皆さんの前で田中角栄批判を展開するとき、ご自身が田中角栄と一蓮托生の児玉誉士夫門下の右翼であると正直に自己紹介なさいましたか?
また、当時を振り返るブログ記事も、政治と金の問題、不正を追及する正義の右翼の姿に見えるよう粉飾していますが、ご自分の右翼としての出自などを正直に書かないとペテン同然じゃないんでしょうか?
前回のエントリーでは若干消化不良気味な感がありますので、国旗の取り扱い、民族差別、国家観の在否、売国奴などといったキーワードともう少し向き合ってみたいと思います。
米国を侮辱するために柳生昴さんが用意した髑髏マークとハーケンクロイツ付の星条旗
この問題では、有門大輔さんが、他国の国旗を故意に侮辱しておきながら、『大したことはない』との声明を出して、保守層からの猛反発を買った。よもや、瀬戸弘幸さんもお忘れになったとは言わないでしょう。
チベット旗を「マント」代わりにする不見識極まりない西村修平さん
チベット救済を真剣に考えているなら、こうした振る舞いは考えられないと多方面から非難が殺到。反中反共の口実にフリーチベット運動を利用しているだけだという指摘が真っ当な保守陣営から寄せられたんでしたよね?「行動する保守」を自称する瀬戸弘幸さん達は、そうした反発を「キレイ事保守」の言として片付けてしまいました。
『旭日旗+メット+覆面』という異様な風体の男を引き連れた西村修平さんらが、東村山万引き被害店を襲撃
瀬戸弘幸さんは、この異様な風体を『街宣初参加の学生で、顔を隠したかっただけ』と説明。旭日旗は顔を隠すためには不必要です。この点について説明せず議論から逃亡しました。明らかに旭日旗を一般人を恫喝するために使用していますよね。
左翼団体の集会を威圧するために、日章旗を持って施設を取り囲むイベントを企画したり、別の集まりでは、主催者に迷惑をかけないように日章旗を持ち込まないように呼びかけている瀬戸弘幸さん界隈を見ていると、日章旗が脅しの道具になること、場合によってはそれを持ち込むことによって迷惑する人が居ることを十二分に認識していることは明らかです。言い逃れは出来ませんね。
さて、国旗等と「行動する保守」界隈の関係をダイジェストに見て来ました。その上で瀬戸弘幸さんのブログで「民主党」に対して展開された批判をもう一度読み返してみたいと思います。
瀬戸弘幸さんが、5W1Hを一切紹介しなかったので『民主党が日の丸を2枚ハサミでジョキジョキと裁断してつなぎ合わせて、民主党ロゴをこさえて使っていた』という問題が起っていた事に気づかず私は批判展開をしていました。
調べず記事を書く瀬戸弘幸さんを常々批判している私ですから、誤読させた瀬戸弘幸さんの書きっぷりを責める前に、まずは自分でそれらしい事件がなかったか探ってみようと考えなかった点について反省してお詫びしておきます。
その上で、瀬戸さんが言いたかったことは、国旗をぞんざいに扱う民主党は倫理観や国家観が不在である。そういう政党は共産主義勢力になびいていなかったとしても、売国奴である。彼らが調子づけば、保守勢力を、民族差別者だと攻め立てるに違いない。
大体のところ、こんな内容で宜しいですよね?
では、瀬戸弘幸さん率いる「行動する保守」にこの批判を当てはめるとどうなりますか? 「行動する保守」がマルクスレーニン主義と対決すると主張していようとも、他国の国旗をぞんざいに扱い、自国の国旗も自国民を恫喝するために平然と使う不見識さ。
「民主党」は、確かに今回不適切なことをしましたが、素直に謝罪しています。また、日の丸を侮辱することが目的でやったわけではありません。
それに対して、「行動する保守」は何度不見識な振る舞いで非難を浴びても一度たりとも誠意ある謝罪をしたことがありません。しかも、星条旗侮辱事件のように「故意に」国旗を侮辱するという事件も起こし、それを「大したことはない」で片付けようとした前科があります。
そして、まともな保守陣営から非難を浴びても「キレイ事保守」などと逆ギレ同然の罵倒を返すことが多いのも事実です。
このように、瀬戸さん界隈の「行動する保守」と真っ当な保守陣営は、氷炭相容れないものと言えます。
維新政党・新風が、「民族差別を許さない」という公式声明を出し、同党の渡邊昇さんが「攘夷と差別の違い」というコラムで非難しているのも、明らかに「行動する保守」界隈の人々が有する欠陥、問題点を憂慮してのものですね。
そうした流れを反映するように、同党の副代表という重要ポストに就いていた瀬戸弘幸さんは、そこに居られなくなって辞任なさっています。
『民主党は国旗をぞんざいに扱う売国奴だから保守を民族差別者として弾圧するぞ!』というロジックを、瀬戸弘幸さんが振りかざすのは、あまりに幼稚でお粗末です。
そもそも、瀬戸弘幸さんに「極右」の矜持があるのか?という疑問が払拭されない以上、創価学会を叩こうが民主党を叩こうが、保守が喜びそうなどのような勢力を叩いて見せようが、瀬戸弘幸さんが愛国者である、国士である、立派な保守言論者であるという評価はされないと思うのですが、如何でしょうか?
[※当方の誤解に基づく批判です]
自称「極右」の瀬戸弘幸さん、今度は「民主党」のロゴが、日本国旗を切り裂いたデザインだと言い出しました。
党のシンボルですから、常に目立つところに掲げているものです。ロゴのデザインが決まった時点で「民主党」を国賊だ売国奴だと非難して来たのなら理解は出来ますが、今頃になって何を仰っているんですか?
不勉強、不見識な瀬戸弘幸さんのために「民主党」のHPでちょっとロゴの由来を調べて差し上げました。
民主党のロゴマークは1998年4月に現在の民主党が結党されたときに作られたもので、デザインは数々の広告デザインで知られる浅葉克己さんです。デザインの意図について、浅葉さんから次のような説明がつけられていました。「2つの円。2つの球。それは、『民の力』の結合の象徴です。円は、球は、止まっていない。みなぎる力で動いてゆく。育ってゆく。生命体のように、成長しつつ、融合しつつ、新しい形を生み出していく。円は和でもあります。語り合い、論じ合いながら、一つの力になっていく。その無限大 ∞ の形に、未来への限りない可能性を示しつつ、真紅に、『民の力』は統合されていくのです」。
10年以上前からこのデザインで、堂々と掲げられているじゃないですか。分析評価に随分手間取ったご様子ですね。
こんなアホな理由で国家観の欠如と断言するなら、『霊界に居る明治天皇や昭和天皇は、天皇制はもう要らないと言っている』との霊言をもって、新しい国家を作ろうとしている政党に連帯を呼びかける瀬戸弘幸さんこそ、明治以降の日本人が大切にしてきた価値観を土足で踏みにじる売国奴と断言して差し支えないでしょう。
[※当方の誤解を是正した表現]
自称「極右」の瀬戸弘幸さん、今度は「民主党」が日本国旗を切り裂いたものを貼り合わせて党のロゴを作って集会で飾っていたと言い出しました。確かにこれは倫理観の欠如を示すもので非難に値するとは思います。
ですが、これをもって党全体が国家観が欠如したいかがわしい党だと断言できるのならば党の代表である教祖が『霊界に居る明治天皇や昭和天皇は、天皇制はもう要らないと言っている』との霊言をもって、新しい国家を作ろうとしている政党に連帯を呼びかける瀬戸弘幸さんこそ、明治以降の日本人が大切にしてきた価値観を土足で踏みにじる売国奴と断言して差し支えないでしょう。
『私は支持していません』では逃げられません。ストップ!ザ『政教一致』に参加を呼びかけたのは紛れもない事実ですからね。
保守思想と氷炭相容れない左翼市議や宗教政党と連帯して、明治以降の日本人が大切にしてきた価値観を土足で踏みにじって平然としている売国奴の瀬戸弘幸さん(こういう瀬戸さんが好んで使う表現は、適正な批判の範囲ですよね?)、国家観、歴史観、大事なものがかなり抜け落ちてますね。
保守言論家としてはお粗末すぎませんか? 私ごときに、こんな事を言われてるようでは、あまりにだらしないと思いますが。
特に今後の民主党の動きを予測して書いたであろうこの辺りですが・・・『敵は天下を取れば益々傲慢となる。保守主義そのものを偏狭なる民族主義として排撃するようになるかも知れない。』
瀬戸弘幸さんの場合、元々が『偏狭なる民族主義を保守主義と詐称している』存在ではないのですか?
維新政党・新風が出した「民族差別を許さない」という公式声明や、同じく新風の渡邊昇さんが書いたコラム「攘夷と差別の違い」で非難されているのは、瀬戸弘幸さんが主導している「行動する保守運動」そのものに見えますが。
況や自己の勉学を怠り自分の意見と合わない人間を『あいつは在日だ』『おまえは学会だ』とネットで書き記すのは見識が浅いどころの話ではない。
デモなどにおいても、『在日をたたき出せ』『ゴミはゴミ箱へ、在日もゴミ箱に』と絶叫するばかりでは、偏狭どころか関東大震災の後のデマゴーグ再来である。
どう見ても、瀬戸弘幸さんらに向けられた言葉ですね。「民主党」ではなく、「維新政党・新風」から見ても、瀬戸弘幸さん界隈は『偏狭なる民族主義』でしかないって事です。
[※当方の誤解に基づく批判]
『民主党のロゴは国旗を切り裂いたものっぽく見えるから、これから民主党がボクたちを弾圧しても売国奴が国士様を弾圧してるって思ってね』って主張をなさっているんでしょうが、こんな幼稚すぎるロジックを誰が支持するんでしょうか?
[※当方の誤解を是正した表現]
『民主党は国旗を切って党ロゴを作るくらい国家観倫理観が欠けてる売国奴だから、ボクたち愛国者を偏狭な民族主義者として弾圧するかも』って主張をなさってるんでしょう。ですが、瀬戸弘幸さん界隈は、「維新政党・新風」から見ても、民族差別をする偏狭なデマゴーグに見えているようですから、こんな幼稚すぎるロジックを誰が支持するんでしょうか?
毎度の指摘で恐縮ですが、瀬戸弘幸さんには「極右」としての矜持はもう微塵も残っていらっしゃらないのでしょうか? 空しい言を重ねて恥ずかしくはないのでしょうか?
【追記1】
せとblogコメント欄を見て、デザイン問題ではなく、国旗2枚を張り合わせて党旗を作った疑惑があるという話なのか、と現時点で批判の趣旨だけは合点しました。
ただし、諸事情を確認してからコメントすることにします。(こっそりエントリーを消すといった小ズルイ真似はしませんので。)
【追記2】
りゅうさんからの指摘で、元ソースになったニュースを確認できました。確かに国旗2枚を切って、貼り合わせて党のロゴを作ったようです。せとblogの記事が読みづらかったと言い訳だけして逃げるのは卑怯だと考えますので、この点は素直に謝罪しておきます。
記事の読み込みの甘さと、その甘さの上に立って批判してしまった事の2点はお詫び致します。
ただし、私が書いた批判文の骨子は何ら変更するつもりはありませんので悪しからずご了承下さい。
明日には、衆議院選の告示がされ、ヘタを打てば公職選挙法違反で逮捕という事態が待っています。急にビラまきの姿勢が変わったりするのかな?と思っているところですが、果たしてどうなることでしょう。正当な言論活動なら、これまでと変わらずせっせとビラ配布されるんでしょうが、出来なくなるんでしょうね。違法認識してるでしょうから。
瀬戸弘幸さんはこれまで、「幸福実現党」に、ストップ!ザ「政教一致」実行委員会への参画を呼び掛けてきました。今頃になって、彼らを支持していないと逃げるための布石を打っても全く無意味というものでしょう。
さて、明日以降は、あまり「幸福実現党」について踏み込んでご説明できなくなるかも知れないので、本当に「極右」ならシャレになってないぞ、激怒しなきゃならんぞってくらい看過できない主張をしている事を紹介しておきます。
まず、カルトめいた部分に少しだけ触れます。「風雲ケータイおじさんの日記」というブログで、「幸福の科学」代表の大川隆法総裁が、明治天皇、昭和天皇、天乃御中主神、天照大神の霊言を聞いて書いたとされる本の紹介をしています。Amazonなどでもレビューが出ているのですが、このブログに書いてある内容が一番参考になるようです。
自分は保守派だと自認している人は是非とも覗いてみて下さい。明治天皇も昭和天皇も、天津神も、みんな幸福の科学を応援してるし、もう天皇制は要らないって、大川総裁に霊界から語りかけたから、有難く拝聴しなさいって事らしいです。
まず、教義的にこういうことを信者に教え込んでいることを、「極右」の瀬戸弘幸さんは、どうお感じになられるでしょうか? 「靖国神社」は廃止して、戦没者慰霊施設にすべきであるって霊言を賜ったそうで・・・
日本には信教の自由が認められていますから、こんな教えでも信じる自由がもちろんあります。ただの宗教問題なら、ここまでで済む話で、信者が勝手に信じてる分には大した害もないかな・・・とも思います。
彼らがオカルトチックだという話でおしまいなら、瀬戸弘幸さんと同じ低俗さとの誹りを免れないでしょうから、これを踏まえて、『幸福実現党宣言』(大川隆法著)(論点要約)も読んでいただきたいと思います。
公党を目指す「幸福実現党」が、一体何を考え、どんな日本の将来像を描いて政治の舞台に立とうとしているのか分かります。
4 天皇制の問題点 天皇制自体は、何らかのかたちで遺しておいたほうが、日本の国にとってはよいだろうと思っている。ただ、外国から見ると、誰が元首なのか、誰が意思決定をするのかよく分からない。これが、日本が外国から信用されていない理由である。「内閣総理大臣に元首としての責任がある」と明確にするか、大統領制を敷くなどの、意思決定者をすっきりさせないと、日本という国は信用されない。
天皇陛下が居ることで日本は世界から信用されないんだそうです。「極右」として、こういう意見を持つ政党と協調して行けるんですか?
6 「信教の自由」に関する問題点 第二十条のつくり方は、かなり混乱を呼んでいる。「学問の自由」と同様に、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」だけでよいのであり、あとは法律でつくればよい。「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」というのは、もとは国家神道のことを意図してつくったものだが、条文を正確に読めば、天皇制自体も、これに当たる。また、第八十九条は宗教の範囲を制約して縛るものである。「信教の自由」の下に言うならば、政治的な宗教も、政治的ではない宗教も、当然ありうる。「政治は、宗教的なるものを、一切、反映してはならない」というならば、それは唯物論国家である。
国家神道を意図して「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」という規定が出来たと明確に言っていますね。「極右」さんの泣き所を明確に指摘しています。
そして、宗教団体が政治に参加することの正当性を説いています。こういう主張をしている「幸福実現党」が、ストップ!ザ「政教一致」実行委員会とかいう、ピントハズレな一団に加わってくれると思っているんですか?
あと、7や8辺りを御自分で読んでください。宗教が政治に入り込むことで、宗教の良識がそこに加わって補完しあうことができるとか何とか主張されています。「極右」である瀬戸弘幸さん、(瀬戸弘幸さん定義によるところの)政教一致政党である「幸福実現党」さんとの共同戦線が実現すると良いですね。
私が「極右」を自称する立場にあるなら、こういう政策を掲げたり、教義の中で天皇陛下を貶める宗教団体さんとは全面的に戦わなければと考えますけが、べったり仲良くしたがる自称「極右」さんも居るんですね。そこに「極右」の矜持は微塵も残ってないように見えますけど。
【追記】
早速、せと弘幸blog『日本よ何処へ』でチラシ配布終了のお知らせが来ました。
「表現の自由」として保証されている範囲の適正な言論活動をしているはずだったんじゃないんですか? 急いでやめないと逮捕が脳裏をチラついてしまうような事をやっていたと、そういう認識で宜しいですね。
『陽動作戦でした』とか『作戦勝ちでした』とか、何だか意味不明な勝ち鬨をあげてますが、「極右」としての矜持がズタボロになっただけの今回のビラまきの、どこに勝利があるんですか?
「極右」らしい正論を並べて戦うという事をせずに逃げて、どうでもいい所で戦っている風に見せるポーズ作りばかりしているから、真っ当な評価がついて来ないんじゃないでしょうか。
今回の落選運動っぽい中傷ビラまきは、大筋では創価学会自体を狙うもので無関係の洋品店狙いよりは随分とマシですが、それでも商店街で公明党のポスターが貼ってある店に脅しをかけたり、結局は自分たちより弱そうな一般人を狙うところに流れる。
どこまで行っても弱い者いじめ体質が抜けない困った人たちですね。
気になるブログ
Blog Archive
-
▼
2009
(34)
-
►
9月
(8)
- 瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その12)
- 瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その11)
- 瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その10)
- 瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その9)
- 瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その8)
- 瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その7)
- 瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その6)
- 瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その5)
-
►
8月
(16)
- 瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その4)
- 瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その3)
- 瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その2)
- 瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その1)
- 瀬戸弘幸さんは極右の矜持すら忘れ去ったのか? (その12)
- 瀬戸弘幸さんは極右の矜持すら忘れ去ったのか? (その11)
- 瀬戸弘幸さんは極右の矜持すら忘れ去ったのか? (その10)
- 瀬戸弘幸さんは極右の矜持すら忘れ去ったのか? (その9)
- 瀬戸弘幸さんは極右の矜持すら忘れ去ったのか? (その8)
- 瀬戸弘幸さんは極右の矜持すら忘れ去ったのか? (その7)
- 瀬戸弘幸さんは極右の矜持すら忘れ去ったのか? (その6)
- 瀬戸弘幸さんは極右の矜持すら忘れ去ったのか? (その5)
- 瀬戸弘幸さんは極右の矜持すら忘れ去ったのか? (その4)
- 瀬戸弘幸さんは極右の矜持すら忘れ去ったのか? (その3)
- 瀬戸弘幸さんは極右の矜持すら忘れ去ったのか? (その2)
- 瀬戸弘幸さんは極右の矜持すら忘れ去ったのか?
-
►
9月
(8)
Labels
- モラル (14)
- 左顧右眄 (4)
- HP/ブログの解析ごっこ (4)