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しっかり注目しましょう

 投稿者:されじお  投稿日:2009年10月 8日(木)01時29分41秒
返信・引用
  (管理人さんに注されたので、書き直しました)

maggieさん、突然の投稿、驚かれたでしょうね。小生急に思いついたのです。今の信仰上の義務と感じたからです。
         ────────────
初めまして。されじおと申します。ブログ主のmaggieさんとは別のブログで知り合いました。彼女は、反司教派の熱烈な闘士ですが、反対に小生は司教様絶対擁護派です。それでいつも激しい議論となります。

ご存じのように、カトリック正義と平和協全国大会が今月10日から13日まで埼玉で開かれます。昨年の大会は大阪で開かれましたが、一部の人たちが会場に乗り込んで、妨害じみた行動をしました。次のんのHPに大変詳しく掲載されています。

http://blogari.zaq.ne.jp/otsuru/article/527/

http://blogari.zaq.ne.jp/otsuru/article/528/

http://blogari.zaq.ne.jp/otsuru/article/529/

http://blogari.zaq.ne.jp/otsuru/article/530/

http://blogari.zaq.ne.jp/otsuru/article/531/

小生は次のように感じました。

「このように司教様に面と向かって反抗するのはよくない。しかも極めて執拗である──神様が罪と判断されれば、その罰は、当事者のみならず関係のない一般信徒にもおよぶ」。

それで当事者の一人に非難しました。

「まるで愚連隊のごとく殴り込みをかけ、はしゃぎ回って司教様方に喧嘩を売られましたね。ために、あなたがたを右翼呼ばわりする神父さまもおられたそうですね。今年も埼玉で行われる大会で、何か企んでおられるのですか」

今年の埼玉大会では、できるだけ防止することが必要だ、と思いました。防止策として、自分の属するメーリングリストに提案しました。

「埼玉で開かれる正平協全国大会を、しっかりと注視しましょう」と。このブログでも提案したいのです。

と申しますのは、人に注目される事は、罪悪や犯罪の大きな抑止力になります。自転車泥棒の男が、鍵を石でたたいて壊していました。近くの小さな子供が、「おっちゃん何をしているんやろ」と不思議そうに眺めていました。すると男は「あっちへ行け!」と、怖い顔で怒るのです。子供は、男の行動の意味が分からないのに、男は見つめられて罪悪感を覚えるのです。社会の犯罪も、新聞にほんの少し掲載されるだけでやむ場合があります。埼玉大会も、そうなることを期待したいのです。司教に反抗しようという人も、名誉を考えて身を慎み、表現が穏やかになるでしょう。
 
    (管理人) 再度の投稿、ご苦労様です。
しかし、されじおさんは妄想癖があるのでしょうか?
誇大妄想???凶暴な妄想で少々、危険な状態かと思います。
霊的指導をお勧めしましたが、そこを超えてしまったようにお見受けします。
カウンセリングを受けられてはいかがでしょうか?

私は反司教派ではなく、聖座忠誠派ですから、お間違いなきように!
聖座に忠実であることが、反司教となることがおかしいのですよ。
 

されじおさんへ

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月 8日(木)01時20分51秒
返信・引用
 
【警告】
公人でない方の実名は禁止です。
ここは掲示板で、MLとは異なります。

実名をHNに変更の上、再度お書き込みください。
 

maggie さんへ

 投稿者:おつる  投稿日:2009年10月 8日(木)01時17分7秒
返信・引用
  お心づかい ありがとうございます  

いかかいさんへ

 投稿者:maggie  投稿日:2009年10月 8日(木)00時11分31秒
返信・引用
  >ただ、良さそうな教会なので行ってみたいだけですぜ。

超〜〜笑えます。

だって、わが所属教会は、大阪教区ワースト5に入るような殺伐とした教会。
責任司祭が異常だと、信徒も凶暴になって行くようで、怖くて近寄れませんわ。
そんな教会、知っても意味ない残暑(笑)

http://blogs.yahoo.co.jp/st_cuore

 

Re: いかかいさんへ

 投稿者:いかかい  投稿日:2009年10月 7日(水)23時22分40秒
返信・引用
  > No.244[元記事へ]

> 所属教会に押し掛け、ネット上での不満から、
> 司祭に告げ口して指導を要請する人がいるので、
> 私は公表しないことにしています。

杞憂ですぜ。そんな心配無用ですぜ。
ただ、良さそうな教会なので行ってみたいだけですぜ。
教えてくれても予後残暑。
 

神に感謝!

 投稿者:おつるの相方  投稿日:2009年10月 7日(水)23時08分35秒
返信・引用
  何はともあれ、正平協大会第4分科会の中止はうれしい限りです。

この分科会のことを知った時に、「やめてくれ!」と声を上げずには居られず、少しでも多くの人に知ってもらおうと、この掲示板や他の掲示板、ブログなどで、第4分科会の問題性を書き込ませていただいておりました。
それがどれほどの影響力を持つのかは分かりませんでしたが、書かずには居られなかったのです。

どのように話が広がっていったのか、私の訴えだけではなく、たぶん、このことを同じように憂慮されるもっと積極的な他の方々の働きが大きかったのだと思います。
そして、神様もそれを見過ごされなかったのでしょう。

正平協の存在自体がカトリックの名を貶めるものではありますが、自分たちのサークルの中だけで勉強会だの何だのと好きなようにやってくれている間は、自分たち自身を貶めているだけなので、まだましで仕方のないことだと思います。
maggieさんは中止の裏をいろいろとお考えのようですが、カトリック以外の方々、特に今回、靖国の英霊や靖国を心の拠り所にする多くの方々に直接にご迷惑をかけずに済んだことは、私にはたいへん嬉しいことです。

神に感謝!!
 

いかかいさんへ

 投稿者:maggie  投稿日:2009年10月 7日(水)20時52分24秒
返信・引用
  突然、どうされたんですか?
どうして、所属教会をお知りになりたいんでしょうか?

おつるさんのブログでは、所属教会に押し掛け、ネット上での不満から、司祭に告げ口して指導を要請する人がいるので、私は公表しないことにしています。

知らないと、そんな気も起きないでしょうから。

何か特別の用件の時には、メールでお願い致します。
メールが時々、迷惑メールBOXに入ることがありますので、その時は、ブログの方から、非公開コメントを入れてください。

http://blogs.yahoo.co.jp/st_cuore

 

Re: 速報!

 投稿者:いかかい  投稿日:2009年10月 7日(水)18時03分58秒
返信・引用
  > No.242[元記事へ]

失礼ですが、maggieさんの所属教会は
どちらですか?

教えていただけるとありがたいです。
 

速報!

 投稿者:maggie  投稿日:2009年10月 7日(水)17時16分23秒
返信・引用
 
都合によりイグナチオ教会での第4分科会、及び靖国見学ツアーは中止いたします。

第4分科会参加者の皆さんには、大会事務局から追って連絡いたしますので、
しばらくお待ちください。

この件のお問い合わせは、

  正義と平和協議会事務局!!

http://web.mac.com/jccjp/justice_and_peace/home.html

これは何を意味するのでしょうか?
完全なる中止でしょうか?
それとも、場所を移動して目立たない教会での勉強会に衣替えでしょうか?

自分たちに正義があると言うなら、堂々と行えばいいのに。姑息ですね。
おそらく、靖国神社を大切に思う方々からの抗議と、イグナチオ教会あたりから危惧を伝えられたんでしょうね。
主日ミサに与りに来た多くの信徒が、落ち着いてミサに与れないようでは困りますから。

反対運動や抗議活動がイグナチオ教会に来るかもしれないのに、あんなにこそこそと速報を流していてすむものでしょうか?

混乱が起きないように、責任者はもっと力を尽くして、
「あの計画は間違っていた。申し訳ない」
と謝罪しないといけないんじゃないでしょうか?

謝罪会見はお得意なのに・・・正平協の責任者と、さいたまのトップとヨブさんあたりが3人そろっての会見などなさっては?

http://blogs.yahoo.co.jp/st_cuore

 

Pasさんへ

 投稿者:maggie  投稿日:2009年10月 7日(水)17時00分13秒
返信・引用
  少し調査してみます。

教会統廃合の陰では、信者の落胆、恨みつらみが渦巻き、それがきっかけで教会を離れた信者も多くいますから。

http://blogs.yahoo.co.jp/st_cuore

 

時間がないので手短に

 投稿者:Pas  投稿日:2009年10月 6日(火)21時34分10秒
返信・引用
  >またまた大阪教区ご恒例の必殺技・統廃合と言う名の間引き。
>今の教区長の間に教会をいくつ潰すんだろう?

過去十数年間の大阪教区の全事例をまとめて、いちどバチカンの福音宣教省に照会してみてはいかがでしょう?
時間があれば私がやってもいいけど今は超多忙だし、これは大阪教区の誰かがやるべきことでしょうね。
日本は福音宣教省の管轄で、カトリックにとってはこれからという国なのに、こんなことでいいのでしょうか、と。
 

やりたい放題なのだ!

 投稿者:Rick  投稿日:2009年10月 5日(月)20時14分4秒
返信・引用
  シナピス センター長の・・・林和則神父ですね。  

大阪教区 恒例行事 統廃合

 投稿者:maggie  投稿日:2009年10月 5日(月)15時43分16秒
返信・引用
  【泉尾ブロックに「なみはや教会」設立】   ― 大阪カトリック時報10月号より ―
 大阪南地区・泉尾ブロック(泉尾・市岡・住之江の3教会で構成。モデラートル:林和則神父)では、一部小教区建物の老朽化問題をきっかけにし、ブロックの将来のあり方について04年4月より検討を重ねてきた。その結果、小教区として住之江教会は継続し、泉尾・市岡両教会を一小教区共同体として泉尾教会敷地に新教会を置く、との結論に至った。
 新教会は「なみはや教会(守護の聖人:海の星の聖母)と命名され、9月27日(日)、旧泉尾教会聖堂での主日ミサにおいて、松浦悟郎補佐司教が設立宣言を行った。当分の間、泉尾・市岡両聖堂がそのまま使用される。



ちなみに泉尾教会信徒総数は230名、居所不明信徒78名、
市岡教会は信徒総数200名、居所不明信徒34名。

またまた大阪教区ご恒例の必殺技・統廃合と言う名の間引き。
今の教区長の間に教会をいくつ潰すんだろう?
そこは信徒のための教会というだけでなく、宣教拠点でもあるのに、政治活動に忙しくて、宣教なんてやってられないということだろうか?

『信者はコンパクトにまとまってミサにあずかって、司祭の手を煩わせるな!政治活動で忙しいんだから!』
ってこと?

まぁ、そういうところには、それなりの司祭がついています。
Rickさんブログで http://blogs.yahoo.co.jp/gh_punks/48571150.html
「これって、いいんですか?」ってところに登場していた方が責任者とのこと。
ドタバタ寸劇に忙しい・・・『司牧なんかやってられるか!』ってことでもないとは思いたいですが。

でも、こういう教会は信者が愛想を尽かして離れちゃうんでしょうね。
信徒総数の割に居所不明信徒が多すぎますよね。
そしてまた、この統廃合で、教会から離れる人、通えなくなる人も出るでしょうね。

http://blogs.yahoo.co.jp/st_cuore

 

跪き

 投稿者:サボテン  投稿日:2009年10月 2日(金)21時23分57秒
返信・引用
   あと30年たてば、もしかしたら、ひざや腰や首を痛めて、跪きたくても跪けないかもしれないから、せめて元気なうちは、跪きたいですよね。何も恐れることはない、ミサが始まるまでの時間、どの姿勢で祈るかまで指導されることはないですね。

 ロザリオの月、主日ミサ前にロザリオ1環祈ることになりました。これは、成功!
 

maggieさんへ

 投稿者:Rick  投稿日:2009年10月 1日(木)23時42分34秒
返信・引用
  山上の垂訓「真福八端」について色々考えていたところで、コメントを読ませていただいていたので・・・

>僅かな知識であっても、それを祈りの中で心身に刻み込んでいるんです。
繰り返し繰り返し祈ることによって体得していると思います。

前半と後半が気持ちよくつながりました。
ありがとうございました。
 

Rickさんへ

 投稿者:maggie  投稿日:2009年10月 1日(木)22時55分19秒
返信・引用 編集済
  まず、「純真さ」をいうとき、上(天であって聖職者ではない)からの出たものだから、知識に頼らなくても、与えられた状況で神様とつながって精いっぱい生きる中で発揮する「純真さ」だから、良き実を結ぶんです。

マルキシズムには聖霊が働かないから、良き実は結びません。

これは無学の勧めでもなく、与えられた環境で、知りうる知識があるなら、それを学ぶことは大切ですが、その時には識別の力も願わなくてはなりません。

「真理とことばへの尊敬の欠如」

信者や社会に警鐘を鳴らさなくてはならない聖職者が、真理とみ言葉を歪めている現在です。

正平協の方々の「純真さ?」はカルト的だと思います。
本田神父が説いた歪めた聖書解釈(冒涜)をそのまま受け取り、信じ、刷り込まれていく。
自分の頭で、考え、反証してみることもない。
司祭の口から出る言葉のフレーズに、酔っているように思います。

ここに祈りらしきものはあるのでしょうが、皆と一緒に口先だけの祈りか、自らを追い詰める祈りをしているとしか思えません。

識別の力を願う祈りは、イエズス様が人里離れたところで祈られたように、一人で静かに神に向かい、黙想することから生まれると思います。

「長崎の方は正しいカトリックの環境におられたから」と言うよりも、僅かな知識であっても、それを祈りの中で心身に刻み込んでいるんです。
繰り返し繰り返し祈ることによって体得していると思います。
長崎教区の祈祷書には、伝統的祈りが載っていて、ミサの前には、皆さん、祈祷書を使って祈ります。
天主の十戒、公教会の六つの掟、伝統的祈りの中には、要理教育にも等しく、網羅されています。

「『義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔(ま)かれるのです』(ヤコブ3・18)。けれども、平和のわざを『行う』には、平和の人で『ある』ことが必要です。『上から出た知恵』の学びやに入ることが必要です。それは、この知恵の性質を自分のものとして、実を生み出すためです。

その人のうちに真に平和があるなら、人をも平和にしますが、偽りの平和からは、心の荒廃しか生みだしません。
実体験から言えば、疑心暗鬼、争い、分裂を生み出すだけです。

「『上から出た知恵』の学びや」とはどんなところでしょうか?

私は、思います。
ミサ聖祭や聖体の前での祈り、霊的聖体拝領、ロザリオの祈りそれらの受け継がれてきた祈りこそが学びやで、その中で、私たちの心は上からの知恵を学んでいくんだと思います。
そして、聖霊によって識別の力も得られると思います。

たとえ、多くの書物を読もうとも、信仰の目で読み、心に定着させなくては、むなしい知識になると思います。

まず、大切なのは、神の前に跪くことだと思います。

この跪くことを、私たちから奪ったのは誰でしょう?
少し前までは、跪き台があり、聖堂に入って席について、直ぐに跪いて祈っていました。

ミサ聖祭での跪きを禁じられたように装い、跪き台を撤去して物理的に困難にし、跪きは必要ないものとして刷り込まれたのではないでしょうか?

http://blogs.yahoo.co.jp/st_cuore

 

maggieさん、教えてください

 投稿者:Rick  投稿日:2009年10月 1日(木)21時29分6秒
返信・引用
  maggieさん、ちょっと気になったので・・・

教皇様のお言葉と、maggieさんが書かれている↓前半の部分は「そうかぁ・・・」と素直に読ませていただいたのですが、後半の「これと共にもう一つ、感じたことがあります。」以下の部分が自分の中でわだかまりがあります。


>長崎の特に地方に住む高齢信者は、貧しさと弟妹の子守りなどで、学校にもろくに通えていない方々が結構いらっしゃいます。でも、その方々の信仰は、難しい言葉はいらない、「純真さ」という言葉がぴったりと当てはまります。


長崎の方は正しいカトリックの環境におられたから、正しい信仰に向かうことができた。でも変な環境の場合はどうなんでしょう?

たとえば「長崎の方」と同じような方が本田神父や補佐司教に「マルキシズム神学」や「9条教の神」を教えられたら「純真さ」ゆえに「私は従順に神父様の仰るとおりの神様を信じます」と邪教に走るということはないのでしょうか?

Rickは正平協などの活動は、ロザリオの祈りなどの「正統な信心業」の変わりに出てきた珍種の「信心業もどき」と捉えています。リベラルな聖職者が「正統な信心業」を否定しまくったから・・・。
正平協のシンパの方々の中には確信犯だけでなく、「純真さ」から体得した聖性のない信仰もどきに走っている人もいるのではないでしょうか?

正平協や昔の学生運動の闘士もきっかけは「純真さ」のような気がします。
聖性はないけど・・・ということで教皇様の≪「真の知恵」は、「第一の主要な性質として、「純真さ」を挙げます。「純真さ」とは、人間の魂の中でいわば神を透明に映し出す、聖性です」≫から考えると、正平協シンパの「純真さ」は無知ゆえ?

ピース9の献金の箱を持つのも神様への御奉仕、犯罪外国人を助ける事も神様への御奉仕、菓子パンの御ミサに「素晴らしいですよ」と他者を誘うのも神様への御奉仕・・・そう信じきっているのは、どう解釈しますか?
 

純真さについて

 投稿者:maggie  投稿日:2009年 9月30日(水)20時24分52秒
返信・引用
  Pasさん、ご紹介、有り難うございます。

「真の知恵」は、「第一の主要な性質として、「純真さ」を挙げます。「純真さ」とは、人間の魂の中でいわば神を透明に映し出す、聖性です」

この言葉を読んで、聖フランシスコの単純さを思いました。
そして、身近な存在として、ゼノ修道士が思い浮かびました。

彼は、無学でしたが、神様を思うとき、純真で単純でした。
難しい言葉は必要としませんでした。

「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、さらに、温和で、優しく、従順なものです。あわれみとよい実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」

ゼノ修道士は、人間的な個性、キャラクターは結構、ユニークでしたが、被災者や戦災孤児などにかける愛情は、ヤコブの言葉そのものです。

その彼の単純さを使って神様は、逆境にある人たちに愛の種を蒔くことを望まれたと思います。
彼が依頼すると皆さん、躊躇しながらも、物資を提供されたそうですが、そこには何も難しい言葉は必要としませんでした。

「知恵は力ずくで押しつけることを必要としません。なぜなら、知恵は真理と愛に基づく打ち勝ちえない力をもち、自明だからです。」



これと共にもう一つ、感じたことがあります。
リベラルな聖職者、信徒と話していると、長崎を場外に置くことです。
さも、自分たちとは関係ないと言わんばかりで、別の宗教者を見るような扱いです。

ずっと、違和感と言うか、いやな感じを受けてきたのですが、今回、よくわかりました。

長崎の特に地方に住む高齢信者は、貧しさと弟妹の子守りなどで、学校にもろくに通えていない方々が結構いらっしゃいます。
でも、その方々の信仰は、難しい言葉はいらない、「純真さ」という言葉がぴったりと当てはまります。

リベラルの方々がいくら理屈をこねて押し付けようとしても、その純真さから体得した信仰は揺るがないのでしょうね。

だから、リベラルの方々にとって、染め上げにくい、最も手ごわい相手となるのでしょう。

http://blogs.yahoo.co.jp/st_cuore

 

聖トマス大学

 投稿者:stu  投稿日:2009年 9月30日(水)00時52分32秒
返信・引用
  9月9日に聖トマス大学に労働組合ができました。9月27日付けの『兵庫民報』に詳しく掲載されています。  

教皇ベネディクト十六世の2009年9月20日の「お告げの祈り」のことば

 投稿者:Pas  投稿日:2009年 9月29日(火)20時03分25秒
返信・引用
  http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message445.htm

親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  今日は、いつもの主日の考察として、今日の典礼で示されたヤコブの手紙の箇所(ヤコブ3・16〜4・3)を出発点として取り上げます。特に、その美しさと現代的な意味のゆえに印象的なことばを考察します。このことばは真の知恵について語ります。使徒ヤコブはこの真の知恵を偽りの知恵と対比します。偽りの知恵は「地上のもの、この世のもの、悪魔から出たもの」です。それはねたみや利己心、混乱やあらゆる悪い行いをもたらすことから分かります(ヤコブ3・16参照)。反対に、「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、さらに、温和で、優しく、従順なものです。あわれみとよい実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」(同3・17)。聖書の語法に従った、この七つの性質から、完全な真の知恵と、この知恵が生むよい結果がもたらされます。聖ヤコブは、他の性質のいわば前提となる第一の主要な性質として、「純真さ」を挙げます。「純真さ」とは、人間の魂の中でいわば神を透明に映し出す、聖性です。そして、知恵がそこから生じる神と同じように、知恵は力ずくで押しつけることを必要としません。なぜなら、知恵は真理と愛に基づく打ち勝ちえない力をもち、自明だからです。だからこそ知恵は温和で、優しく、従順なのです。不公平である必要もなければ、偽りも用いません。いつくしみに満ちて寛大であり、それがもたらす豊かな実によって示されます。
  なぜいつもこの知恵のすばらしさを仰ぎ見ようとしないのでしょうか。なぜこの神の愛の汚れのない泉から、心の知恵を引き出そうとしないのでしょうか。このような心の知恵が、偽りと利己主義のかすからわたしたちを清めてくれるのに。これはすべての人にいえることですが、何よりもまず、宗教社会と市民社会の中で、そして社会・政治的連関と国際関係の中で、平和を促進し「つむぐ」ことを使命とする人々にいえます。現代において、おそらく大衆社会に特有のある種の力学のせいもあって、しばしば真理とことばへの尊敬の欠如が見られます。それとともに、攻撃、憎しみ、復讐を求める傾向が広く認められます。聖ヤコブはいいます。「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔(ま)かれるのです」(ヤコブ3・18)。けれども、平和のわざを「行う」には、平和の人で「ある」ことが必要です。「上から出た知恵」の学びやに入ることが必要です。それは、この知恵の性質を自分のものとして、実を生み出すためです。もしすべての人が自分のいるところで、思いとことばと行いにおいて偽りと暴力を退け、他の人に対する尊重と理解と畏敬の心を注意深く深めることができるなら、たとえ日常生活のあらゆる問題を解決することはできなくても、それらの問題にもっと落ち着いて有効に対処することができると思います。
  親愛なる友人の皆様。聖書は人間生活の道徳的な側面を考察するようわたしたちを導きます。しかし聖書は、道徳そのものに先立つ現実から、すなわち、真の知恵という現実から出発します。信頼をもって心の知恵を与えてくださるよう、神に願おうではありませんか。受肉した知恵である、わたしたちの主イエス・キリストを胎内に受け入れ、生んでくださったかたの執り成しによって。知恵の座であるマリアよ、わたしたちのために祈ってください。

(カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画訳)

http://www.youtube.com/watch?v=q0eNlFe_Xac&feature=channel

ANGELUS 2009-09-20
http://www.youtube.com/watch?v=SgZw30_pL2s&feature=channel
(......教皇様は何か国語を話されるのでしょうか?)
 

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