研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― 謝辞 ――

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Category: < つれづれ > | 2009.10.05 Monday 01:00

謝辞

http://www.yamagishism.org/
当サイトをいつもご覧いただき、誠にありがとうございます。
近頃とみに、アクセス数が増え、多くの方に繰り返し繰り返し、訪れていただき嬉しい限りです。
ヤマギシの村では、当サイトの記事をコピーして、インターネットを見ない人にも、閲覧して頂いているそうです。
サイトタイトルにある通り、「凡ての人の心に届くことを希って」これからも書き続けます。
 
特に、春日山の Kさんは若き日から長年共に生きた旧知のひとりですから、現在の彼の立場からの心境や心情など分かるような気がしますし、今も Kさんへの親しみの情は変わりません。
頭脳明晰な Kさんですから、自身の内心では・・・、
「組織や考え方を守ろうとしたり、統制的な運営は、持たない放す生き方とは逆方向だ」ということぐらいは、既に重々承知のことでしょう。
かつては、持たない放す生き方の代名詞のように崇められた組織ですが、今では、持って放せない人の組織のように見えます。
春日山に眠る山岸さんこそ、持たない放すの言い出しっぺで、物的には何の魅力も感じない人だったそうですから、カッチリと立派な春日山にして、綺麗なお墓に入れてもらっては、眠り心地も良くないかもしれませんね。

和貴さん曰く
杉江さんの、あんな控え目なブログであたふたしてるんだったら
僕のブログ見たら卒倒しちゃうじゃん。
 (彼のブログは、研鑽科学研究所 会員同士のブログですが・・・)

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Comments

 「守ろう」との心持ちが働くときの中身には、どんなものが有るのだろうか? 
 私の経験と観察によれば、外からは色々に見えても、やっぱり「怖い」という恐怖心が根底に有ってのことからではないだろうか、 と 思う。
 「守るものが有る」人の「人間観」がどうなっているのだろう。 立場だけでは「守る」は発生しないと思う。
 恐怖心が隔てを生み、隔てが恐怖心を煽る。 そんな心のからくりが、検べて見ると観えてくるのではないだろうか。
 
 いかなるものであっても、「守る」ものが有るということは、人間として心が安心状態に無いという事であり、本来・本質から逸脱しており、人間の生き様として間違いを犯しているのではないだろうか と 思う。
 
 解決の道としては、安心の心状態の人の側で時を過ごし、怖い心状態に安心の心が芽生えてくる時を待つか、人間の究明をしての深い理解が必要なのではないだろうか と 思う。

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