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中国戦線、沖縄戦を戦った元兵士の体験談

Esaman2009/10/01
 9月27日、名古屋市の東別院会館で、教科書市民の会と不戦兵士市民の会東海支部との共催による「中国戦線・沖縄戦の実相」が開催されました。
 実際に中国戦線(3年8ヶ月)、沖縄戦を経験した近藤一(はじめ)さんが、戦争での体験を話してくれました。
 中国戦線では、初年兵の訓練として、中国人を縛りつけて、それを刺すという訓練をしたそうです。
 「人間を突き刺した感触は、豆腐をはしでさすような感触だった。中国人は殺しても良いんだという教育でした」 と語ってくれました。

中国戦線、沖縄戦を戦った元兵士の体験談 | 近藤さん作成の中国戦線の地図。何度も使用してツギハギだらけだ。(撮影すべて筆者)
近藤さん作成の中国戦線の地図。何度も使用してツギハギだらけだ。(撮影すべて筆者)
 また、中国戦線で捕虜にした女性を暴行して、裸に靴だけで行軍に同行させていた。
 何十キロの荷物を持たされて歩かされていた近藤さんの目の前を女性が歩いていた。
 行軍の途中で休んでいるときに、女性の抱えていた赤ん坊を古参兵が取り上げて谷底に落とした。
 山の斜面をコロコロと転がっていく赤ん坊を追って、裸の母親も身を投げたが、ほかの兵士はそれを笑って見ていたそうです。

 迫撃砲で村落を攻撃している時も、数百メートル先の着弾地点でバタバタと人が倒れていく様子をも、近藤さんや仲間は「おもしろいな」とゲームのように見ていたそうです。
 そしてある時は、近藤さんの部隊が強力な中国軍に包囲されたのですが、上官は自分の手柄がほしいために見放されたこともあったそうです。そのような経験から、近藤さんは「軍隊を裏から見るようになった」そうです。

中国戦線、沖縄戦を戦った元兵士の体験談 | 近藤さん作成の地図。左から「捨石にされた沖縄戦」「独立歩兵第13大隊沖縄戦戦跡(沖縄での近藤さん部隊の戦跡)」「侵略の尖兵は東洋鬼だった(中国での近藤さんの部隊の戦跡)」
近藤さん作成の地図。左から「捨石にされた沖縄戦」「独立歩兵第13大隊沖縄戦戦跡(沖縄での近藤さん部隊の戦跡)」「侵略の尖兵は東洋鬼だった(中国での近藤さんの部隊の戦跡)」
 沖縄に配属になった時は、自分は4年兵で、配置になった兵士の中では古いほうだったので、早く内地に帰れるといって喜んだ。
 沖縄では、沖縄の人達の生活が見えた。
 当時の沖縄の人達は、主食としてサツマイモ、タピオカ、豆腐のようなものを食べていた。
 みんな味は良かったが、当時の兵隊達は「米を食べていないこと」から、差別意識のようなものをもっていたと思う。

 近藤さん達の部隊は沖縄に上陸してくる米兵をみてもすぐには攻撃しなかったので、アメリカ軍の様子がよく見えた。
 水陸両用戦車をはじめて見て、アメリカはとんでもないと驚いた。
 それと兵士の姿がとても大きく見えて怖かった。

 アメリカ軍の小銃は自動小銃で2キロほどで軽く、日本軍の小銃は手動で4キロと重かったので、こちらが一発打つ間に数十発撃ってくる。
 一対一では絶対に勝ち目が無い。軍の上層部はなにを考えて戦争をはじめたのかと思いました。

 沖縄戦では背中から肩に貫通する銃弾を受けて、戦場で一日、気を失ったり気がついたりを繰り返していた。周りには日本兵もアメリカ兵も沢山倒れていた。
 その時に肩にあいた傷口にみえる骨の破片の白い色をみて「きれいだな」と思った。

 戦場で沢山の兵士が亡くなるのを見たが、みんな亡くなる時には「おかあさん」と言ったり、子供の名前を言う。天皇陛下万歳と言ったのを、自分は見たことが無い。

 最後のほうでは、逃げ込もうとした豪に、先にいた日本兵に銃で脅されて入れなかったので、残った仲間と万歳突撃をしたが捕虜になってしまった。
 自分達が中国で捕虜にしたようなことをされるのか、とおもって覚悟していたが、アメリカ兵は水や食料をくれて、人を殺す練習に使ったりはしなかった。

 そのあとも、捕虜になった仲間のあいだでは「アラスカで炭鉱堀りをさせられて一生帰れない」という噂になっていた。
 ところが移送の船に乗ったら富士山が見えて日本にかえれると分かったが、捕虜になってはいけないと言われていたので、帰ってからどうしようか悩んだ。

 東京は焼け野原になっていて、故郷もどうなっているのか心配だったが、帰るのが不安だったので、兵隊に行く前に奉公に出ていた所に挨拶に行ったら「よう生きてたなあ」と言われて、あれ、捕虜になっても帰っていいんだということが分かって、やっとで実家に帰ることができた。

中国戦線、沖縄戦を戦った元兵士の体験談 | 近藤一(はじめ)さん。自作の地図の前で。
近藤一(はじめ)さん。自作の地図の前で。
 かなり興味深い話だったので、講演後、直接お話を聞きました。

Q:沖縄戦で日本兵が残虐行為をしたという話があります。 何故そのようなことが起こったと思いますか?

 残虐行為はあったと思います。
 私の隊ではありませんでしたが、それは最後まで指揮系統がしっかりしていたからです。
 沖縄にいた部隊の中には、追い詰められてゆく中で、上官が戦死したり逃げ出したりして、指揮系統がなくなってしまった部隊や、逃げ出してしまった兵士が相当数あったと聞いています。
 そのような部隊が住民に虐殺行為をしたり酷いことをしたりということは、あったのだろうと思います。
 ですが、沖縄戦を戦った日本兵は、そのような人ばかりではなく、私の部隊のように、本当に真面目に最後まで戦って死んだ人達もいることを忘れないでください。
 沖縄戦は、当時、沖縄を守るために戦うのだと聞いていましたが、結果として中国戦線で私たちが住民にしてしまったのと同じような被害を出してしまいました。

 『まじめに戦って死んだ人もいる』といっても、私は、あの戦争を肯定しているわけではありません。
 いろいろな意味で、間違った戦争だったと思っています。
 それなのに、現場の兵隊は命令どおりに無茶な戦闘をして死んでゆきました。
 数も装備も違い、勝ち目の無い戦いを命令されて、毎日沢山の兵士が死んでゆきました。
 内心はいやだなと思っていても口には出せず死んでゆきました。
 そうやて前線の兵士が戦っている間、上官たちは安全な所にいて、最後には逃げ出してしまいました。
 そんな兵隊達が、一部の兵隊の行為によって、全部沖縄の人たちにひどいことをした悪い兵士だといわれるのは、あまりにも浮かばれません。
 私の中隊200人のうち、生き残ったのは11人ですが、士官などの前線にいない人を除くと生き残ったのは2人です。
 みんな死んでしまいましたが、すくなくとも私の隊では、住民の人を殺したりはしていません。

 沖縄でひどいことがおこったのは、沖縄の人に対する差別も原因にあったと思います。
 私は現地の人には親切にしてもらったし、沖縄で食べているものも大好きでした。
 芋やタピオカ、豆腐などを一緒に食べました。
 とくに沖縄の豆腐はおいしかったのを覚えています。沖縄の人たちはとても純朴で親切でした。
 しかし、私の隊にも、そのように親切な沖縄の人を馬鹿にしている人がいました。
 食習慣が違うことや、言葉が違うこと、お宮さん(神社)がないことなどを取り上げて、馬鹿にする人は確かにいました。
 私たちは、中国戦線では中国人は殺しても良い、劣等な民族だ、ということを教え込まされてきたし、実際にそのように殺してきました。
 実際に中国人を殺す訓練をしたりして、平然と殺したり犯したりすることに、私も、まったく疑問をもっていませんでした。

 私達は沖縄では、中国のときのように、沖縄の人たちを殺したりという訓練は受けていませんし、守るために来ているのだと聞かされていました。
 ですが、沖縄の人達が本土の日本人と習慣が違うことを理由に、一段低いものと見て差別している人は沢山いたし、沖縄を日本ではないと思っている人も大勢いたと思います。
 これは当時の日本の教育に問題があったからです。

Q:戦争が長引いた場合、沖縄戦のようなことは、各地でおこったと思いますか?

 起こったと思います。
 当時の軍隊は降伏などは考えていなかったので、沖縄戦のあとは九州や四国、本州でも同じことがおきたと思います。
 兵隊たちは、本当は戦いたくないと思っていても、当時の軍隊の命令は絶対ですから、日本各地が沖縄戦のような戦場になってしまったと思います。
 アメリカ軍との戦力差は、数も質も圧倒的ですから、日本軍は、とても勝てないわけですが、上から戦えと命令されたら、戦います。
 兵隊は、最後は自分がしたように、隠れる場所もなくなって、勝ち目がなくても万歳突撃をしたと思います。
 そのようにするしかないと教えられていました。
 そのような教育を子供のころから、ずっとされていたのです。

Q:初めてアメリカ兵と遭遇したときには、なにを感じましたか?

 私が初めてアメリカ兵をみたのは、アメリカ兵が隊の司令官のいる山のほうへ上陸したので、奪還するために攻撃したときのことです。
 とても大きく『雲をつくような大男』だという印象がありました。
 山の上のほうにアメリカの兵士がいて、みな大きくて、とても怖いのですが、命令だし、私は沖縄では経験の長い兵士ですから皆の模範となるように、がんばって戦いました。
 戦闘の結果、アメリカ兵の何人かが倒れて、上のほうで『ママ』という声が聞こえて、やっぱり同じ人間なんだと分かりました。
 初めてアメリカ人を見たのもこのときで、とても怖かったのを覚えています。

 アメリカ軍は、海からやってくるのですが、本当に海が見えないほどの艦艇で海が埋め尽くされています。
 そして、水陸両用の戦車で上陸してくる。
 日本にはそんなものはありません。これをみてびっくりしました。アメリカはなとんという国だろうと思いました。
 そしてアメリカ軍が上陸してみると、装備がまったく違うことがわかりました。
 鉄砲も自動小銃で、日本の一発ごとに弾をつめる38式歩兵とは違います。
 戦車は大きくて二階建てのようになっているし、火炎放射器は何十mも火を噴きます、まったく装備が違うので、普通に撃ち合いをすると圧倒されてしまいます。
 これほどアメリカ軍が強いとは、現場の兵士は、まったく聞いていませんでした。
 中国戦線では、日本軍よりもはるかに貧弱な装備の中国軍と、日本軍はやっとで対等に戦っていたのです。

Q:沖縄戦で戦ったのは、どんな兵隊達だったのですか?

 私たちのように、中国戦線からやってきた兵士もいましたが、この頃になると、兵隊が足りなくなって徴用されてきた30過ぎの人たちも沢山いました。
 子供や奥さんのような、家族のいる人たちです。
 みんな家族の写真をもっていました。
 私のように、大人になってすぐに兵士になって、ずっと戦ってきたものは、家族といっても親くらいしかいないので、気楽なものですが、本土に家族のいる人たちは可愛そうでした。
 そのような戦闘の経験がない人も多かったので、私たちのような、何年か兵士をしていたものが見本となるように戦いました。
 本当は怖いと思っていても、それを口に出せない空気がありました。

Q:中国戦線と沖縄戦の違いをおしえてください。

 中国戦線では、とにかくたくさん人を殺しました。
 中国人は劣った民族だからそうしても良いと教えられていました。
 八路軍は日本軍よりもずいぶん劣った装備だったのですが、日本軍と互角に戦っていました。

 沖縄戦では自分の隊はずっと前線にいたので、後方で何が起こっているのかは、まったくわかりませんでした。
 後退してゆく途中で、村落を通ったときに、沖縄の人たちが沢山死んでいるのをみて、中国で自分達がしたのと同じ事を起こってしまっていることがわかりました。

 中国では討伐の時に住民から食料などを集めていたのですが、食料が不足になるときがありました。
 一方、沖縄では食べるものが無くて困る、という覚えはあまりありませんでした。
 食料がなくなると、沢山死んでいる兵士や住民のところから集めてきて食べました。
 畑などにも芋が沢山あったので、それを生で食べたりしましたが、おなかを壊すことも無く大丈夫でした。

Q:捕虜になった時には、どう思いまたか?

 私が捕虜になったときは、友軍に豪に入れてもらえず、もうどうしようもないので、最後に万歳突撃をしようとして捕まったのです。
 当時は『戦陣釧』というものがあり、捕虜になってはいけない、なるくらいなら死ね、と教えられていました。
 みんな本当は死にたくないと思っていましたが、そうするしかなかったのです。
 軍隊だけでなく、小学校などでも、そのように教えられていたので、嫌でもそうするとかないと思っていました。

 私の隊で生き残った兵隊2人で最後に突撃しようとしていたら、その場にいた海軍の兵士も一緒に連れて行ってくれ、というので3人で行くことにしました。
 アメリカ軍が休憩をしている所に、鉄砲を抱えて3人で突撃しました。
 海軍の人は最初にやられてしまいましたが、私たち2人は、何十人というアメリカの兵隊に囲まれて鉄砲をつきつけられて、捕まってしまいました。

 私たちは、中国では捕虜を捕まえたときに、尋問をして用済みになったら、みんな殺していました。
 だから、すぐに殺されるだろうと思っていました。
 どうせすぐに殺されるのだから、せめて水がほしいと思いました。
 何日も水を飲んでおらず、とてものどが渇いていました。
 ダメだろうなと思いながら、アメリカ軍の兵士が腰につけている水筒を指さして『ウォーターウォーター』と言うと、水をくれました。
 そのときに、おや、アメリカ兵はなにかが違うぞ、と思いました。
 私たちは、中国人の捕虜が水をほしがっても、あげるようなことはしなかったからです。
 ほかにもタバコをもらったりしました。
 どうらや殺されることは無く、しばらくして捕虜の収容所に連れて行かれて、とても驚きました。
 捕虜の収容施設として、ちゃんと立派な建物が作ってあるのです。
 私たちは捕虜のために建物を作るようなことはしていませんでした。

 そこで年明けまで過ごします。
 その間、収容所では、このあと自分達は『アラスカの炭鉱に連れて行かれて一生強制労働をさせられる』という噂が広まっていました。
 そして船に乗せられて、これからアラスカに連れて行かれるのか…思っていたところ、船から富士山が見えました。
 日本に帰れたのです。

 浦賀についてからは、何日か施設にいて、出るときには500円をもらいました。
 当時の兵士の月給は20円でした。
 東京に行ってみると、みんな焼け野原になっていて、遠くのものがよく見えました。
 当時は、小学校などから、ずっと『捕虜になるのは一番恥ずかしいこと』という教育を受けていて、兵隊だけでなく、村でもそのようなことをみんな話をしていました。

 捕虜になった兵士の親や家族は、その村に住めなくなったのです。
 そんな事情があったので、焼け野原の東京に沢山いたホームレスの仲間になって、住もうと考えていました。
 そうすると、一緒に捕虜になった仲間が『いまでは天皇も捕虜になったようなものなんだから、一度故郷に帰ってみたほうがいい』と言ってくれました。
 しかし故郷に帰る自信が無いので、まずは桑名にある、兵隊になる前に奉公をしていた所に顔を出してみました。
 てっきり『なぜ生きて帰った』と怒られるかと思っていましたが『よう生きてたな』と言って喜んでくれました。
 そこで一晩世話になって、実家に帰ることができました。

Q:体験を話すときに気をつけていることはなんですか。

 まず話を聞きにくる人達にあわせて話をします。
 子供さんが多い場合はかんたんな言葉で、あまり長くならないようにします。
 八路軍といって説明していたら「八郎軍」だと思われて、八郎さんの軍隊だと思われたこともありました。
 ご遺族の参加している会合もあります。
 そのようなときには、みなさん、どんな亡くなり方したのかが気になるでしょうから、戦場でどのように兵士は亡くなったのか、ということを詳しく説明します。
 呼んでくれる主催者によっては、天皇批判をできない場合もあるので、それも気をつけます。

Q:体験を話すことを通じて、みなさんに伝えたいことはなんですか?

 あの戦争は間違っていたと思います。
 現場の兵士にしわ寄せをして、自分達は安全な所にいて、無茶な作戦を立てていた司令官や軍令部は許せません。
 その上にいた天皇にも戦争責任があると思います。
 軍隊だけでなくて政治も間違っていました。
 中国人は劣った民族だとか、捕虜になるなとか、おかしな教育をしていたのは軍隊だけではありません。
 当時は学校もみんなそのようなことを教えていました。
 戦争でみんな負けてしまってからは、捕虜になって帰っても何も言われませんでしたが、戦争をしている当時は、そんなことをしたら大変なことになりました。
 みんな内心では死にたくないな、戦いたくないなと思っていたのだと思いますが、決して口に出せなかったのです。
 そのような空気を作っていたのは政治や教育の問題です。
 さいきん政権が変わって、少しは戦争から遠のいたのかな、と思いたいのですが、心配でなりません。

 私は、沖縄で日本兵が残虐行為をして、悪い兵隊だった、という話を20年ほど前に聞いて、そうではない兵士達もいた、ということを理解してもらいたくて、一人でも多くの人に、沖縄で起こったことを知ってもらいたいと思って、自分の体験を話しはじめました。
 でもそのような話をしているうちに、自分が中国でやっていたことは、なんだったのだろうと思い始めて、それも話すことにしました。
 沖縄の人達や、戦って死んでいった兵隊達のためにも、一人でも多くの人にこの話を知ってもらいたいです。


 近藤さんは、沖縄で戦って死んでいった仲間の話をされる際には、涙ながらに話をされていました。
 筆者は年寄りの話を聞くことも割りとあるので、元兵士の話はいくつか聞いたことがあるのですが、中国戦線、沖縄戦と最前線を戦って、1/100の確立で生き残った人の話を聞いたのは初めてでした。

 近藤さんは、今年で数えで90歳になるそうです。

ご意見板

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[51918] 明石晶さん
名前:平田修
日時:2009/10/07 14:38
貴殿のことは、最近、ご意見板でお見受けしております。
最近まで盛んにご意見板での議論に参加されていた
鮎川真琴さんと言う方がいらっしゃいますが、
その方が、貴殿ととてもよく似た語り口、文体、主張内容なのですが、
筆名を変えられた鮎川真琴さんでしょうか?
鮎川さんとは、何度か意見交換させていただいておりますので、
参考までにお聞きしました。

もしよろしければでけっこうですので。
[返信する]
[51913] まったく異論はありません
名前:藤重典子
日時:2009/10/07 13:43
私が私の持つ「状況」に縛られていること、それを常に自覚するように努めたい、とでも答えましょう。
それにしても、差別・逆差別構造の憎悪の連鎖はどこかで切りたいけど、まずは強者が譲るべきですね。それを弱者が「寛容」することでしょうか。
[返信する]
[51896] 使い古された言い回し
名前:明石晶
日時:2009/10/07 11:56
>大切なのは、具体的な命令や強制があったか否か、ではなくて、
>『逃れがたい空気を日本政府が教育によって醸成していたこと』
>『日本兵の存在がそれを強化していたこと』が問題です。


=========================
この部分は、ご意見板利用規定3に基づき削除しました(編集部)
=========================
[返信する]
[51888] 落ち着いて整理してから投稿してください
名前:Esaman
日時:2009/10/07 10:25
藤重典子さんの投稿には、前後の脈絡のない部分、記事とは無関係の話が、いくつかあるように思います。


今回の投稿では、沖縄出身の学生にあって話をした、といお話のあとに、下記のような話が続きました。


>沖縄の人々の暖かな心、一つだけお返しいたします。
>私は高速バスであるコンピュータ技師、それも監督と話していました。彼は言いました。「僕はもし自殺するとすれば、沖縄の米軍基地の前で焼身自殺をする」。この言葉だけです。


ここで『コンピュータ技師、それも監督』が出てくる必然性がないので、私は、それは沖縄での話か、前段のように沖縄出身者の話を拾っているのか、と思いました。
まさか、前段で沖縄出身の学生と問答した時の話をした後で、ただのコンピュータ技師が高速バスの中でした話を『沖縄の人へのお返し』として語っているとは、思わなかったからです。

大切なのは人の言葉で云々するのではなく、自分の言葉で語ることです。
人の言葉を伝えても、あなたが返答したことにはなりません。

こんご、沖縄出身の学生の問いかけが行われた場合、あなたは、これから、どうお答えになるのでしょうか?


ご自身でお気づきになっているとおり、あなたが行ったという返答は、問いかけを『沖縄人が反感を持つべきだ』という、沖縄に閉じた問題として摩り替えることで、ごまかしています。
[返信する]
[51808] ちょっと誤解が一つ
名前:藤重典子
日時:2009/10/06 11:57
さいごの言葉「焼身自殺」云々を言ったのは、「東京で仕事」「京都の大学出身」の人で、沖縄の人ではありません。
[返信する]
[51801] 御投稿の後半、おもいっきり『ナイチャーとしての利害』が出ていますね。
名前:Esaman
日時:2009/10/06 10:35
>>藤重典子さん
ご投稿、ありがとうございます。


>日本兵士が発する最後の言葉が「おかあさん」など肉親の名であったことは知りませんでした。


今回の話を聞いた、一兵士の近藤さんがみた範囲では、ということです。
少なくとも『天皇陛下うんぬん』ということは、一度も聞かなかったそうです。
士官や将校だと、また違うかもしれませんが、一般兵士の体験談のほうが、意味があると思います。


>自分たちが南京の女性たちにした「聞くに堪えない」行為を得意そうに話し、
>「それを米軍にされるから、それよりも死になさい」と沖縄の女性たちに手榴弾を配ったそうです。


この話で、割と有名なのは、沖縄のガマ(洞窟)、チビチリガマの話で、その話では
『中国戦線に従軍した従軍看護士(女性)』が、中国戦線での捕虜がどんな目に会うのか、ということを話して、
そうなるくらいなら自決したほうがよい、ということを喧伝した、という話です。

この話で注目しなければならないのは、まず、日本軍の残虐行為を元に、
『そうなるなら死んだほうが良い』という話になっている点です。

また『集団で自決すること』が選択肢に入るような、戦前の教育にも問題があったことを忘れてはなりません。
近藤さんも語っているように、みんな内心は『嫌だなあ』と思っていても
『生きて虜囚の辱めを受けず』という教育は、軍隊内だけでなく、日本の津々浦々に浸透していました。

近藤さんや多くの元兵士達は、敗戦後、生きて帰って歓迎されたわけですが、
戦時中にそのようなことをした場合『住めなくなる』ようなことになるわけです。
まずは、そのような土壌があったことが『集団自決(集団強制死)』が発生した土壌にあった、ということを理解しなければなりません。

大切なのは、具体的な命令や強制があったか否か、ではなくて、
『逃れがたい空気を日本政府が教育によって醸成していたこと』『日本兵の存在がそれを強化していたこと』が問題です。

近藤さんも語っていますが、沖縄と同じようなことは、本土でも発生したと思います。
それは、そのような教育が日本全土に浸透していたからです。

しかしながら、近藤さんも証言していたように、沖縄の人たちに対して差別的な感情を持っていた日本軍兵士も結構おり、
そのことが、沖縄戦をより悲惨なものにしていた、という側面もあったと思います。


>沖縄出身という学生に今年出会ったので、「沖縄人の日本本土人に対する反感は残っていますか」と聞いてみました。


どのような状況だったのか、というこがわからないので、なんともいえませんが、
単に沖縄出身というだけで、そのようなことを質問されるのは、なんとも『疲れる話だ』と思います。
さらにいえば、単に人の話を聞いただけで『沖縄の世論』がわかるわけでもないと思いますし、
単に沖縄出身の人である、という相手に『思いや議論をぶつけても』現実の解決にはつながらないと思います。


もっと根本的な問題は
『反感は残っていますか』という問いです。


まるで、かつては反感がなかった時代があったり、今現在、反感を醸成するものがなくなっている、かのような質問です。

沖縄は、もともとは日本とは違う国であり、近代国家による世界分割戦の中で、たんに日本の領域、とされただけの島国です。
もちろん、日本帝国は、自らの支配の都合により、沖縄のインフラや教育を整備して日本化しました。
その際には目に見える形での抵抗もなかったわけですが、それは『もともと沖縄が日本がたら』ではなくて、もっと以前に、島津藩が武力制圧した後だったからです。
そして先の戦争では悲惨な地上戦が戦われて、その過程で住民はたくさん死にました。
生き残れた沖縄の人でも、日本帝国の教育に従ったものの多くは死にました。
ですが、そのような『決戦』が行われたのは、なぜか沖縄だけでした。
当初は解放者のようにやってきた米軍は、沖縄に居座り続けました。
沖縄がアメリカ領から日本領に『返還』されたあとも、
米軍関係者自身が『沖縄でなくても良い』と言っている日米同盟の結果の基地は、そのほとんどが、ずっと沖縄にありつづけました。
沖縄に基地を押し付けた日本人は、時々やってきて基地に反対しますが、本土に基地を持ち帰って痛みを分かち合おう、という人は皆無のままです。


「あなたはどう思いますか」という沖縄出身の学生の問いは、
『本当に、それでいいんですか?』という問いを、あなたが、されたのではないか、と思うのですが、いかがでしょうか?


>沖縄の人々の暖かな心、一つだけお返しいたします。
>「僕はもし自殺するとすれば、沖縄の米軍基地の前で焼身自殺をする」。この言葉だけです。


その言葉を『暖かな言葉』と捉えられる感性は、私には理解不能です。
基地の前で焼身自殺しなければならないのは、本当に、沖縄の人なのでしょうか?

『代わりに犠牲になってくれている(つまりは犠牲を強いている)』ことを、暖かなことだと思えるほど、私は、図々しくはないつもりです。
[返信する]
[51654] 貴重な証言ですね
名前:藤重典子
日時:2009/10/02 02:44
日本兵士が発する最後の言葉が「おかあさん」など肉親の名であったことは知りませんでした。まあ考えると当然です。もっとも愛する人を守るための戦いとされたのだから。
最近、沖縄の「集団自決」の本を読みました。もっとも悪質なのは、南京から沖縄に移動した軍隊のようです。自分たちが南京の女性たちにした「聞くに堪えない」行為を得意そうに話し、「それを米軍にされるから、それよりも死になさい」と沖縄の女性たちに手榴弾を配ったそうです。
しかし、日中戦争は八年に及ぶ長期戦だったこと、それは証言者には関係ないことでしょうが、初期に戦ったのは蒋介石軍です。武漢占領のときに和平交渉があったようですが、日本側の要求があまりに大きかったようで、継続になったという経過らしい。
その間、八路軍はゲリラ戦で戦力温存、日本側の敗戦色が濃くなった頃に総攻撃あたりです。
沖縄出身という学生に今年出会ったので、「沖縄人の日本本土人に対する反感は残っていますか」と聞いてみました。すると逆質問をされました。「あなたはどう思いますか」と。私は「あるべきだと、思います」と答えましたが、続けて「でもそれは沖縄に限ったことではない。サイパン島でも戦争に邪魔だから死ね、というのはありましたね」と加えました。だけど後者の言葉は、どこかごまかしがあったように今になって思います。
沖縄の人々の暖かな心、一つだけお返しいたします。
私は高速バスであるコンピュータ技師、それも監督と話していました。彼は言いました。「僕はもし自殺するとすれば、沖縄の米軍基地の前で焼身自殺をする」。この言葉だけです。
[返信する]

9月28日〜10月3日 

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