近藤一(はじめ)さん。自作の地図の前で。
かなり興味深い話だったので、講演後、直接お話を聞きました。
Q:沖縄戦で日本兵が残虐行為をしたという話があります。 何故そのようなことが起こったと思いますか?
残虐行為はあったと思います。
私の隊ではありませんでしたが、それは最後まで指揮系統がしっかりしていたからです。
沖縄にいた部隊の中には、追い詰められてゆく中で、上官が戦死したり逃げ出したりして、指揮系統がなくなってしまった部隊や、逃げ出してしまった兵士が相当数あったと聞いています。
そのような部隊が住民に虐殺行為をしたり酷いことをしたりということは、あったのだろうと思います。
ですが、沖縄戦を戦った日本兵は、そのような人ばかりではなく、私の部隊のように、本当に真面目に最後まで戦って死んだ人達もいることを忘れないでください。
沖縄戦は、当時、沖縄を守るために戦うのだと聞いていましたが、結果として中国戦線で私たちが住民にしてしまったのと同じような被害を出してしまいました。
『まじめに戦って死んだ人もいる』といっても、私は、あの戦争を肯定しているわけではありません。
いろいろな意味で、間違った戦争だったと思っています。
それなのに、現場の兵隊は命令どおりに無茶な戦闘をして死んでゆきました。
数も装備も違い、勝ち目の無い戦いを命令されて、毎日沢山の兵士が死んでゆきました。
内心はいやだなと思っていても口には出せず死んでゆきました。
そうやて前線の兵士が戦っている間、上官たちは安全な所にいて、最後には逃げ出してしまいました。
そんな兵隊達が、一部の兵隊の行為によって、全部沖縄の人たちにひどいことをした悪い兵士だといわれるのは、あまりにも浮かばれません。
私の中隊200人のうち、生き残ったのは11人ですが、士官などの前線にいない人を除くと生き残ったのは2人です。
みんな死んでしまいましたが、すくなくとも私の隊では、住民の人を殺したりはしていません。
沖縄でひどいことがおこったのは、沖縄の人に対する差別も原因にあったと思います。
私は現地の人には親切にしてもらったし、沖縄で食べているものも大好きでした。
芋やタピオカ、豆腐などを一緒に食べました。
とくに沖縄の豆腐はおいしかったのを覚えています。沖縄の人たちはとても純朴で親切でした。
しかし、私の隊にも、そのように親切な沖縄の人を馬鹿にしている人がいました。
食習慣が違うことや、言葉が違うこと、お宮さん(神社)がないことなどを取り上げて、馬鹿にする人は確かにいました。
私たちは、中国戦線では中国人は殺しても良い、劣等な民族だ、ということを教え込まされてきたし、実際にそのように殺してきました。
実際に中国人を殺す訓練をしたりして、平然と殺したり犯したりすることに、私も、まったく疑問をもっていませんでした。
私達は沖縄では、中国のときのように、沖縄の人たちを殺したりという訓練は受けていませんし、守るために来ているのだと聞かされていました。
ですが、沖縄の人達が本土の日本人と習慣が違うことを理由に、一段低いものと見て差別している人は沢山いたし、沖縄を日本ではないと思っている人も大勢いたと思います。
これは当時の日本の教育に問題があったからです。
Q:戦争が長引いた場合、沖縄戦のようなことは、各地でおこったと思いますか?
起こったと思います。
当時の軍隊は降伏などは考えていなかったので、沖縄戦のあとは九州や四国、本州でも同じことがおきたと思います。
兵隊たちは、本当は戦いたくないと思っていても、当時の軍隊の命令は絶対ですから、日本各地が沖縄戦のような戦場になってしまったと思います。
アメリカ軍との戦力差は、数も質も圧倒的ですから、日本軍は、とても勝てないわけですが、上から戦えと命令されたら、戦います。
兵隊は、最後は自分がしたように、隠れる場所もなくなって、勝ち目がなくても万歳突撃をしたと思います。
そのようにするしかないと教えられていました。
そのような教育を子供のころから、ずっとされていたのです。
Q:初めてアメリカ兵と遭遇したときには、なにを感じましたか?
私が初めてアメリカ兵をみたのは、アメリカ兵が隊の司令官のいる山のほうへ上陸したので、奪還するために攻撃したときのことです。
とても大きく『雲をつくような大男』だという印象がありました。
山の上のほうにアメリカの兵士がいて、みな大きくて、とても怖いのですが、命令だし、私は沖縄では経験の長い兵士ですから皆の模範となるように、がんばって戦いました。
戦闘の結果、アメリカ兵の何人かが倒れて、上のほうで『ママ』という声が聞こえて、やっぱり同じ人間なんだと分かりました。
初めてアメリカ人を見たのもこのときで、とても怖かったのを覚えています。
アメリカ軍は、海からやってくるのですが、本当に海が見えないほどの艦艇で海が埋め尽くされています。
そして、水陸両用の戦車で上陸してくる。
日本にはそんなものはありません。これをみてびっくりしました。アメリカはなとんという国だろうと思いました。
そしてアメリカ軍が上陸してみると、装備がまったく違うことがわかりました。
鉄砲も自動小銃で、日本の一発ごとに弾をつめる38式歩兵とは違います。
戦車は大きくて二階建てのようになっているし、火炎放射器は何十mも火を噴きます、まったく装備が違うので、普通に撃ち合いをすると圧倒されてしまいます。
これほどアメリカ軍が強いとは、現場の兵士は、まったく聞いていませんでした。
中国戦線では、日本軍よりもはるかに貧弱な装備の中国軍と、日本軍はやっとで対等に戦っていたのです。
Q:沖縄戦で戦ったのは、どんな兵隊達だったのですか?
私たちのように、中国戦線からやってきた兵士もいましたが、この頃になると、兵隊が足りなくなって徴用されてきた30過ぎの人たちも沢山いました。
子供や奥さんのような、家族のいる人たちです。
みんな家族の写真をもっていました。
私のように、大人になってすぐに兵士になって、ずっと戦ってきたものは、家族といっても親くらいしかいないので、気楽なものですが、本土に家族のいる人たちは可愛そうでした。
そのような戦闘の経験がない人も多かったので、私たちのような、何年か兵士をしていたものが見本となるように戦いました。
本当は怖いと思っていても、それを口に出せない空気がありました。
Q:中国戦線と沖縄戦の違いをおしえてください。
中国戦線では、とにかくたくさん人を殺しました。
中国人は劣った民族だからそうしても良いと教えられていました。
八路軍は日本軍よりもずいぶん劣った装備だったのですが、日本軍と互角に戦っていました。
沖縄戦では自分の隊はずっと前線にいたので、後方で何が起こっているのかは、まったくわかりませんでした。
後退してゆく途中で、村落を通ったときに、沖縄の人たちが沢山死んでいるのをみて、中国で自分達がしたのと同じ事を起こってしまっていることがわかりました。
中国では討伐の時に住民から食料などを集めていたのですが、食料が不足になるときがありました。
一方、沖縄では食べるものが無くて困る、という覚えはあまりありませんでした。
食料がなくなると、沢山死んでいる兵士や住民のところから集めてきて食べました。
畑などにも芋が沢山あったので、それを生で食べたりしましたが、おなかを壊すことも無く大丈夫でした。
Q:捕虜になった時には、どう思いまたか?
私が捕虜になったときは、友軍に豪に入れてもらえず、もうどうしようもないので、最後に万歳突撃をしようとして捕まったのです。
当時は『戦陣釧』というものがあり、捕虜になってはいけない、なるくらいなら死ね、と教えられていました。
みんな本当は死にたくないと思っていましたが、そうするしかなかったのです。
軍隊だけでなく、小学校などでも、そのように教えられていたので、嫌でもそうするとかないと思っていました。
私の隊で生き残った兵隊2人で最後に突撃しようとしていたら、その場にいた海軍の兵士も一緒に連れて行ってくれ、というので3人で行くことにしました。
アメリカ軍が休憩をしている所に、鉄砲を抱えて3人で突撃しました。
海軍の人は最初にやられてしまいましたが、私たち2人は、何十人というアメリカの兵隊に囲まれて鉄砲をつきつけられて、捕まってしまいました。
私たちは、中国では捕虜を捕まえたときに、尋問をして用済みになったら、みんな殺していました。
だから、すぐに殺されるだろうと思っていました。
どうせすぐに殺されるのだから、せめて水がほしいと思いました。
何日も水を飲んでおらず、とてものどが渇いていました。
ダメだろうなと思いながら、アメリカ軍の兵士が腰につけている水筒を指さして『ウォーターウォーター』と言うと、水をくれました。
そのときに、おや、アメリカ兵はなにかが違うぞ、と思いました。
私たちは、中国人の捕虜が水をほしがっても、あげるようなことはしなかったからです。
ほかにもタバコをもらったりしました。
どうらや殺されることは無く、しばらくして捕虜の収容所に連れて行かれて、とても驚きました。
捕虜の収容施設として、ちゃんと立派な建物が作ってあるのです。
私たちは捕虜のために建物を作るようなことはしていませんでした。
そこで年明けまで過ごします。
その間、収容所では、このあと自分達は『アラスカの炭鉱に連れて行かれて一生強制労働をさせられる』という噂が広まっていました。
そして船に乗せられて、これからアラスカに連れて行かれるのか…思っていたところ、船から富士山が見えました。
日本に帰れたのです。
浦賀についてからは、何日か施設にいて、出るときには500円をもらいました。
当時の兵士の月給は20円でした。
東京に行ってみると、みんな焼け野原になっていて、遠くのものがよく見えました。
当時は、小学校などから、ずっと『捕虜になるのは一番恥ずかしいこと』という教育を受けていて、兵隊だけでなく、村でもそのようなことをみんな話をしていました。
捕虜になった兵士の親や家族は、その村に住めなくなったのです。
そんな事情があったので、焼け野原の東京に沢山いたホームレスの仲間になって、住もうと考えていました。
そうすると、一緒に捕虜になった仲間が『いまでは天皇も捕虜になったようなものなんだから、一度故郷に帰ってみたほうがいい』と言ってくれました。
しかし故郷に帰る自信が無いので、まずは桑名にある、兵隊になる前に奉公をしていた所に顔を出してみました。
てっきり『なぜ生きて帰った』と怒られるかと思っていましたが『よう生きてたな』と言って喜んでくれました。
そこで一晩世話になって、実家に帰ることができました。
Q:体験を話すときに気をつけていることはなんですか。
まず話を聞きにくる人達にあわせて話をします。
子供さんが多い場合はかんたんな言葉で、あまり長くならないようにします。
八路軍といって説明していたら「八郎軍」だと思われて、八郎さんの軍隊だと思われたこともありました。
ご遺族の参加している会合もあります。
そのようなときには、みなさん、どんな亡くなり方したのかが気になるでしょうから、戦場でどのように兵士は亡くなったのか、ということを詳しく説明します。
呼んでくれる主催者によっては、天皇批判をできない場合もあるので、それも気をつけます。
Q:体験を話すことを通じて、みなさんに伝えたいことはなんですか?
あの戦争は間違っていたと思います。
現場の兵士にしわ寄せをして、自分達は安全な所にいて、無茶な作戦を立てていた司令官や軍令部は許せません。
その上にいた天皇にも戦争責任があると思います。
軍隊だけでなくて政治も間違っていました。
中国人は劣った民族だとか、捕虜になるなとか、おかしな教育をしていたのは軍隊だけではありません。
当時は学校もみんなそのようなことを教えていました。
戦争でみんな負けてしまってからは、捕虜になって帰っても何も言われませんでしたが、戦争をしている当時は、そんなことをしたら大変なことになりました。
みんな内心では死にたくないな、戦いたくないなと思っていたのだと思いますが、決して口に出せなかったのです。
そのような空気を作っていたのは政治や教育の問題です。
さいきん政権が変わって、少しは戦争から遠のいたのかな、と思いたいのですが、心配でなりません。
私は、沖縄で日本兵が残虐行為をして、悪い兵隊だった、という話を20年ほど前に聞いて、そうではない兵士達もいた、ということを理解してもらいたくて、一人でも多くの人に、沖縄で起こったことを知ってもらいたいと思って、自分の体験を話しはじめました。
でもそのような話をしているうちに、自分が中国でやっていたことは、なんだったのだろうと思い始めて、それも話すことにしました。
沖縄の人達や、戦って死んでいった兵隊達のためにも、一人でも多くの人にこの話を知ってもらいたいです。
近藤さんは、沖縄で戦って死んでいった仲間の話をされる際には、涙ながらに話をされていました。
筆者は年寄りの話を聞くことも割りとあるので、元兵士の話はいくつか聞いたことがあるのですが、中国戦線、沖縄戦と最前線を戦って、1/100の確立で生き残った人の話を聞いたのは初めてでした。
近藤さんは、今年で数えで90歳になるそうです。