翻訳と露伴 |
栗田香子 |
ヘーゲルは『歴史哲学講義』の中でアメリカを未来の国と定義した.それは欧州に未来がなく,アメリカに未来があるというよりも,欧州の未来が過去の歴史なしに語れないのに対し,アメリカが世界と交わった歴史が空白であるゆえに,未来も空白であるということを意味する.もちろん実際には旧世界の要素が新大陸に持ち込まれて「未来」が構築されたわけだが,明治維新を迎えた日本人は,江戸だった昨日と何の代りばえもしない東亰にいながらも,過去にしばられない未来が訪れる夢をしばしみたのではないだろうか. |
そんな未来の夢を,若き露伴は『露団々』に遊ばせている.舞台はニューヨーク,登場するのは米中日をはじめとする世界各国人,無国籍風など何でもござれ.中心人物の名前も,ブンセイム(文世武),ルビナ(るびな),シンジア(信日亜)というように和洋折衷で,多/無国籍である.そして世界各国からの花婿候補が選考過程を経るのに,言葉の違いは全く問題とならない.あたかもそれは米国の人気テレビ番組『スタートレック』に登場する,地球人はじめ宇宙の様々な種族の生き物達が,みな英語を話すのと似ている. |
『西洋事情』(福沢諭吉著,慶応二年─明治三年刊),『輿地志略』(内田正男・西村茂樹纂輯,明治三年─十年刊)を初め,明治初中期の書物が世界の異なる地理,歴史,文化を紹介し,世界の多様性を訴えんとしたのに対し,露伴の未来世界には一つの言語しか存在しない.それは露伴が海外経験を持たず,英語の知識が十分でなかったからなのか.また多言語が必要となる婿候補の審査過程を設定しておきながら,それが実際に通訳,翻訳を必要とすることを想像できなかったからなのか. |
無論そうではない.露伴は東京英学校で,文学歴史のみならず地理科学の英書を読むだけの語学力をつけたというし,余市での電信技手時代,アイヌとの接触もあった.また,『露団々』にワーズワース詩集さえ登場するのである.露伴がどの詩を読んでいたか,物的証拠はないものの,露伴はワーズワース理解を,ルビナを通して表現しており,テクスト上の証拠は確として存在する.夢よ,夢よ,あはれの夢よ,汝は何処より来りしや,汝は感覚といへる鋭き風の力弱き時,思想といへる柔らかき土の潤ひ多き所より,幽に咲出し花なれや.あら美し,あらいたいけなり.さもあらばあれ,情なき風また吹かば,果敢なかるべき幻の如き香をのみ,人の胸にのこして,其色は白雲の上にや吹入れらるゝならんか.其俤は,青海の底にや吹沈めらるゝならし(『露団々』第十一回)という一節は,The Preludeの一節を読み,露伴がその感懐をこのように表現したのである. |
しかし,これに一字一句あてはまる部分はThe Preludeだけでなく,どの詩にも登場しないではないか,という反論があるだろう.しかし,これが逐語訳でないこと自体に価値があるのである.露伴のデビュー以前にも,シェイクスピアをはじめとする欧米の文学は多く訳され,抄され,翻案されている.どれも様々な工夫を凝したものに違いない.しかしこの露伴の「訳」ほど詩人ワーズワースの詩の心を正確に訳しているものは少ない.それは,露伴が文学作品の翻訳という作業を,直訳,逐語訳とは捉えず,比喩による捉え直しと考えていたことによる.これは翻案や,豪傑訳,意訳というのとも異なり,比喩訳とでもいうべき方法であろう(translationのラテン語根とmetaphorのギリシア語根は同義).この方法は外国文学に限らない.芭蕉の俳句を章頭に掲げ,違った意味を醸し出したのも,また一つの比喩訳の例である. |
比喩はその用法によって多種に分類されるが,その一つ,隠喩と訳されるmetaphorには,tenor(趣意)とvehicle(伝達手段)との二つの要素があるということを英米の高校,大学生は習うだろう.『新體詩抄』(明治十五年)の外山正一による序を見ると,「抑も詩と云ふものは其意味も固より大切なれども,其音調の良否も,又甚だ大切なり」と,同じことを述べている.掲載されている訳詩はどれも七五調で,次のように上下二段に組まれている. |
山々かすみいりあひの 鐘はなりつゝ野の牛は 徐に歩み帰り行く 耕へす人もうちつかれ やうやく去りて余ひとり たそがれ時に残りけり |
矢田部良吉による訳「グレー氏墳上感懐の詩」の冒頭である.『新體詩抄』には,ごくわずかな部分以外振り仮名がないので,七五調になるように,訳者の意図した漢字の読みを,読者は発見しながら読む必要がある.このような難はあるものの,『新體詩抄』は漢詩や和歌とは異なる「長歌流新体」を用いて,英詩のリズムの代用とし,vehicleを重視した訳だと言うことができる.これに比べ,露伴の「夢よ,夢よ……」は,七五調を用いるでもなく,改行するでもなく,ルビナの独言の中に登場している.にもかかわらず,徳田秋声がこれを口ずさんだと回想しているように,そのtenorは確かに読者の詩心をつかんだのである. |
これと対照的に,『風流仏』で珠運がお辰の像につけた花の部分を削り取る場面,『五重塔』の嵐の場面など,有名な一節は,リズム感,スピード感のある漢文体で書かれている.視覚的には漢字が多く用いられるために,目で字を追う速度は緩まるのが普通だが,これらの漢字は聴覚的効果を出すために用いられているので,視線は,先へ先へと追い立てられるように進んで行く.まさにvehicleが重視された部分である.しかし露伴文学のtenorの表現は,異次元に迷い込んだかのようなシーンにある.そこでは,言葉の字面や読みのような視覚的,聴覚的媒体として言葉が使われるのでなく,その意味,趣意が,言語では伝達しがたい嗅覚的体験として表現されているのである. |
野分の吹く頃,二,三か月の避暑から戻ったルビナは,ずっと会えずにいるシンジアに思いを馳せている.そこに「ひウと,清み渡る音」が聞こえて来て,鏡花ならここで危なくなってくるのだろうが,ここではシンジアが登場し,二人は再会を果たす.しかしこれはルビナの夢中の出来事であった.聞こえたと思った音も,見たと思ったシンジアの姿も,実は非現実だったのだが,「果敢なかるべき幻の如き香」が,ルビナにない音を聞かせ,ない像を見せるのである.それは露伴の創作に対する態度そのものであったはずである.ルビナがシンジアを恋う心,見えずとも,聞こえずとも,何よりも確たる存在,tenorがあるからこそvehicleは生まれるのである.そのvehicleはどのような言語であれ,形態であれ,tenorは人から人へと通じる. 「払暁」(明治四十五年)という小品に,露伴は同じ事を野薔薇の香に喩えて詩的に表現している. |
苫船の 苫の露 滴る, 初夏の 川のあかつき. 舟舷に 夢を洗へば, 水面 這ふ 靄の 下より, 花の香の そと流れ来て, 掬掌の に ほのめく!. 枸杞まじり 拔契まじり, むらむらと 岸に生ひたる 野薔薇 あゝ 野薔薇 咲けるか, 人も見ず 吾も見ざりし. |
漂って来る香が野薔薇の香である事に気付くには,既に野薔薇の花を見,その香を嗅いだ経験がなければならない.このような経験は,直感的に野薔薇であると分かるように,理性と感覚の統一した知識となっている必要がある.イギリスに行ったこともなければ,西欧世界の知識が豊富にあるわけでもない若き露伴に,一体このようなワーズワースの感興を理解する力があったのか. |
なかったかもしれない.いかに露伴をしても,湖畔地帯の空気を吸った事もなく,アルプスの屹立した山の傾斜に息をきらせたこともなかったから,ワーズワースの詩興を完全には理解できなかったかもしれない.しかし,誰が完全に理解できるだろう.ワーズワース自身,より完全に近い自己理解を追求して,The Preludeを何度も書き変えているではないか.井伏鱒二は,既に名作として名高かった『山椒魚』を,晩年に書き直してしまった. |
自分でさえ常に「普請中」で不可解な存在なら,ましてや他人を,他言語を理解するというのはどういうことを意味するのか.英語が達者であった内田魯庵は,ハロルド・ボルスなる日本通が,日本の当時の文壇を評し,西洋文学の翻訳が日本で盛んに行われているが,日本化されてしまうことを嘆いていることを紹介し,揶揄している. |
……一番初めに翻訳されたのがリットンの『アーネスト,マルツラバース』で“ASpringStoryofFlowerandWillow”(『花柳春話』)と外題を改められて了つたと書いてある.「花及び柳の春の話し」とは面白いぢやないか.西洋人が見たら何のことだか解るまいテ.(「楼上雑話」明治三十五─三十八年) |
このような逐語訳を重ねれば,意味はいよいよ核心から離れていく.しかしワーズワースのimaginationと露伴の「夢」とは,異なる意味や連想の領域を持つから,意訳もボルス訳と大して差はないと批評する人もあるだろう. されど人は読み,批評し,解釈し,訳さずにはいられない.また不完全な理解を通して,人は友を作り,敵を作る.双生児であっても,クローン人間であろうとも,一人の人間のある思考感懐は,完全な形でもう一人の人間に伝達されることはないように,完全な訳などというものは存在しない.ある漱石を研究する女子学生が,四十代の男性であったことがなければ漱石は理解できないと老教授に言われたと嘆いていたが,それでも彼女は漱石を二十三歳の女性の言葉に「訳」さずにいられない.それだけの魅力を彼女は漱石に感じるからである.私達は一人として同じ思考感懐を持たないからこそ,ものを書き,読み,想像し,訳すのである. |
あらゆる文学作品は,過去の文学の引用,比喩訳であり,誤読の産物であり,オイディプス的存在であるかもしれない.ワーズワースの研究でも有名な批評家,ハロルド・ブルームは,trope(言葉の比喩的用法)という言葉を次のように説明する. |
……a trope is a willing error, a turn from literal meaning in which a word or phrase is used in an improper sense, wandering from its rightful place. A trope is therefore a kind of falsification, because every trope (like every defense, which is similarly a falsification) is necessarily an interpretation, and so a mistaking.(Harold Bloom, The Map of Misreading, 1975) |
比喩を基本とする詩的表現は,その詩人の解釈を通して意図的に行われる誤用,歪曲だというのである.このように考えれば,露伴はワーズワースのtropeをtropeとして表現したのだと言う事もできる.つまり,露伴は創作に読む行為と書く行為とを合体させていることになる. 既に古典的存在となったこのブルームの批評は今でも学ぶことが多いが,文字どおり,字義どおり(literal)などという,文字と意味の完全に密着した関係を前提とするこの発言には,書き言葉(中国語)と話し言葉(和語)と二つの歴史的起原を持つ言語をあやつる文学の世界との隔たりを感じざるを得ない.物事の理解そのものが比喩で成り立つという考え方もあるし,また明治期には西欧の言葉に仮名,漢字の振り仮名をつけ,またその逆をし,和語,漢語,西欧語の三本立ての理解が日常茶飯事であった.さらに,日本は,維新以前は主に中国韓国,以後は西欧諸国の事情を鑑とし,そこから日本の過去を見直し,将来のあるべき姿をさぐったのであり,またこれからもそうであろう.従って日本の文化そのものをある意味でtropeとして考えることもできる.そこにはブルームの言うような不安(anxiety)があるであろうと同時に,野薔薇の香と出会った時の喜びもあるはずである. |
野薔薇が見えずともどこかに咲いていることは,その香を嗅いだ舟人にしかわからない.この発見の叫びはいかに大きくとも,舟人,つまり読者自身にしか聞こえない.理解とはこのように個人的な体験である.この何とも曖昧な,あやふやな,幻のような理解を基にして,私は『風流仏』を英訳(JamesLipsonとの共訳)した.原文と英訳文との深い溝は,どちらの淵に立って見ても恐ろしい.しかし力足らずとも,それを飛び越えんとする勇気だけは,原文が限り無く与えてくれる.英訳を読んだ読者が,その溝の深さを感じれば,この英訳の使命は幾分果たされるであろう. 二〇〇一年九月十一日の事件で,世界に大きな亀裂が走った.お互いを敵視し,暴力に訴える限り,野薔薇の香に出会う事はないだろう.しかし露伴は言うだろう.野薔薇は必ずどこかに咲いているのだ,と.アフガニスタンにも,アメリカにも. |
(くりた きょうこ・ポモナ大学準教授) |