このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。
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唐沢俊一のファンであるという方の、memorandumというblogの中で、わたしが6月18日に書いた文書に関しての意見が書かれていた。ツタヤで買ってきたCDを、CD会社や演奏者に断わりもなく有料イベントに使うのは、著作権(著作隣接権)に違反するというわたしの主張に対し、「実演家とレコード製作者には、著作者のような演奏権は与えられていないのです。したがって、CDを用いて音楽を流す場合には著作隣接権は及ばないということになります」という、著作権情報センターのHPのコピーを示して反論してきたのである。
事実関係を調べ直して、わたしの主張が誤りだったことが分かった。本人のblogに直接コメントしたかったが、はてなユーザーでないために書き込めないので、ここに書く。
以下、わたしの過去のエントリ(打ち消してあります)、並びに謝罪文である。
何度も何度も同じことを書くのには、飽き飽きしてしまうけど、そうまでしても未だに犯罪を繰り返す奴がいるのだから呆れてしまう。 唐沢俊一の後出し裏モノ日記にこんな記述がある。 ここで大ポカ露呈、家から持ってくるはずの『威風堂々』のCDと開封用ハサミを忘れてきてしまった。家に電話して、オノにとってきてもらおうとするが、母が私の部屋の鍵を以前無くしたままであることがわかりダメ。マドに、近くのHMVでCDを買ってきてもらうことにする。 頼光くんは、やはりリハには来られない模様。 まあ、これくらいの緊張感あった方がみんなひきしまるかも。 自分のポカで忘れ物をして、その穴埋めに取巻きをパシリに使う。なにが「緊張感」だろ。緊張感が欠けてるから、そんなミスをするんだろうに。「この馬鹿禿野郎」と周囲の連中は殺意にも似た感情を抱いているんだろうな。盗作問題、バーバラ問題で、散々「と学会」にも迷惑をかけているってのに。 いや、問題はそこではない。 マドに、近くのHMVでCDを買ってきてもらうことにする 当然ながら、そのCDの使用許可は取っているんだろうね。『威風堂々』は作曲者エドワード・エルガーの著作権こそ消失しているが、CD制作会社に使用許可を得ること、演奏者等の著作隣接権をクリアすることなしに使用したら、知的財産権侵害で有罪になる。大の大人が、有料のイベントを開催しながら、未だにこうした犯罪を繰り返している。自己の著作を持つ人間が、ここまで杜撰な態度をとることは信じ難い。 「仕事術」なる本を上梓されるらしいが、ビジネスの基本には遵法精神も含まれる。いや、ひょっとしてパクリビジネスの解説書なのか知らん。ちゃんとして欲しい 何度も何度も同じことを書くのには、飽き飽きしてしまうけど、そうまでしても未だに犯罪を繰り返す奴がいるのだから呆れてしまう。 唐沢俊一の後出し裏モノ日記にこんな記述がある。 ここで大ポカ露呈、家から持ってくるはずの『威風堂々』のCDと開封用ハサミを忘れてきてしまった。家に電話して、オノにとってきてもらおうとするが、母が私の部屋の鍵を以前無くしたままであることがわかりダメ。マドに、近くのHMVでCDを買ってきてもらうことにする。 頼光くんは、やはりリハには来られない模様。 まあ、これくらいの緊張感あった方がみんなひきしまるかも。 自分のポカで忘れ物をして、その穴埋めに取巻きをパシリに使う。なにが「緊張感」だろ。緊張感が欠けてるから、そんなミスをするんだろうに。「この馬鹿禿野郎」と周囲の連中は殺意にも似た感情を抱いているんだろうな。盗作問題、バーバラ問題で、散々「と学会」にも迷惑をかけているってのに。 いや、問題はそこではない。 マドに、近くのHMVでCDを買ってきてもらうことにする 当然ながら、そのCDの使用許可は取っているんだろうね。『威風堂々』は作曲者エドワード・エルガーの著作権こそ消失しているが、CD制作会社に使用許可を得ること、演奏者等の著作隣接権をクリアすることなしに使用したら、知的財産権侵害で有罪になる。大の大人が、有料のイベントを開催しながら、未だにこうした犯罪を繰り返している。自己の著作を持つ人間が、ここまで杜撰な態度をとることは信じ難い。 「仕事術」なる本を上梓されるらしいが、ビジネスの基本には遵法精神も含まれる。いや、ひょっとしてパクリビジネスの解説書なのか知らん。
上に書きました「著作隣接権」の解釈は、あやまりです。テープ起こし等の作業、放送、有線放送以外に使用する二次使用に関しては、演奏家、レコード制作者には著作権は及びません。
したがって、このような使用法に関しては、唐沢俊一氏にはなんの落ち度もなく、無礼な文言を用いて誹謗してしまったことをお詫びいたします。
なお、上記blogに書かれている、「レシピの著作権」に関しては、主宰者の勘違いなので、もう一度勉強し直すことをお勧めします。
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唐沢俊一検証blogの9月24日のコメント欄に、こんなことを書き込んだ人がいた。
現在唐沢俊一に代表される「サブカル畑のインチキおじさん」の系譜を辿ってゆくと植草甚一にぶち当たるのですが。
各務三郎による植草甚一批判をご存じないですか(<EQ>誌1979年3月号「独断と偏見」)。まるで時を超えて唐沢を批判しているかのような面白いエッセイです。各務は植草の『ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう』をとりあげて、こう語っています。
「これほど独断と偏見にみちた本も珍しい。さらにミステリー専門出版社から刊行されたにもかかわらず、それを指摘する編集者がいなかった事実にショックを受ける(書評以外はミステリー雑誌に連載されたものだから、まずその時点で編集者のチェックがあってしかるべきだった)。」
これに対してわたしは、こう返した。
死後何年もたってから、植草甚一の一般的な評価が変わっていった事実は知っています。それを「サブカル畑のインチキおじさん」と総括するのは、あなたの勝手ですが、少なくともその“系譜”の上に唐沢俊一がいないことは確かだと思います。唐沢はただの「インチキおじさん」であって、「サブカル」は勝手に標榜しているからです。
各務氏の悪意のある批判を一方的に受け入れるつもりはありません。『ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう』はリアルタイムで読んでいますし、なによりこの作品に日本推理作家協会賞を与えた審査員の目が、全員節穴だとも思えないからです。それに、わたしの新作『七つ星の首斬人』が収録された東京創元社の叢書「クライムクラブ」は植草氏が創設したものですから。
なにかあなたのご意見は、どさkyさに紛れて、唐沢という馬鹿を植草氏に重ねて、植草氏を貶めようとしているだけにしか見えないんですが、如何に。
これに対する返答は、自己のblogSerpentiNagaの蛇行記録で昨日書かれたのだが、引用は面倒なのでリンク先を見ていただきたい。なんかわたしがCMディレクターであるとかミステリ作家であることが、悪しき権威主義の根源かのようにも読めるんだが、そんなことは本質ではない。この人は、今から30年前に各務三郎が、EQに書いたエッセイを根拠に、植草甚一を「サブカル畑のインチキおじさん」と決め付けている。この人がkensyouhanさんなみに、植草の著作を検証して、ガセ、パクリを数多く発見したなら、植草を糾弾するのもいいだろう(権利はあるからね)。しかし、30年前の雑誌記事の受け売りで、「サブカル畑のインチキおじさん」呼ばわりするのは酷すぎないか。
その根拠というのが、
・スティーヴン・マーカス編のハメット短編集『コンティネンタル・オプ』を読まずに、ニューズウィーク紙の『コンティネンタル・オプ』に関する書評を尤もらしく(しかも意味をとり違えて)紹介。
・文章を読んでいても、どこまでが他人の意見の引き写しでどこからが著者自身の意見なのか判然としない。やっとオリジナルの意見らしき箇所に逢着したとわかるのは、そこが<独断と偏見>まみれだから。
・クリスティーについて述べたくだり。晩年の諸作品における、駄洒落や楽屋落ちや冗長な会話や平凡な謎に今更のように無邪気に感心しているあたり、もしやそれまでクリスティーを読んだことがなかったのではないか?
・クリスティーが表題として使った”Elephant Can Remember”(『象は忘れない』)はエセル・ライナ・ホワイトのサスペンス”Elephant don't Forget”(一九三七年刊)が元ネタだと断定。ホワイトの作品の正しいタイトルは”An Elephant Never Forgets”だし、そもそも<象は忘れない>というのはあちらの慣用句なのだが。
・「オール・ザ・キングズメン」がマザーグースの「ハンプティ・ダンプティ」からの引用句であることに気づいていない。
以上の5点(雑誌の記事だから、そのくらいのものだろう)。しかし、二つ目の<独断と偏見>まみれというのはガセでもパクリでもないし、三つ目のもしやそれまでクリスティーを読んだことがなかったのではないか?というのは単なる類推に過ぎない。そして、”Elephant Can Remember”に関しては、こんな事実が報告されているのだ。
数藤康雄、クリスティー三昧の日々」の中の「第六回 1972年8月10日」という記事である。引用する。
http://www.hayakawa-online.co.jp/christie/sudou/sudou06.html
昨年出版された坪内祐三氏の『一九七二』(文藝春秋)によれば、1972年という年は、1964年に始まった高度成長期の大きな文化変動が終わった年と規定されている。つまり1972年こそは、一つの時代の「はじまりのおわり」であり「おわりのはじまり」で、その年に起きた主な出来事として、連合赤軍浅間山荘事件や沖縄返還、「ぴあ」の創刊、海外旅行者百万人突破などが挙げられている。
そうか、浅間山荘事件はこの年に起きたのか、と記憶を新たにした私だが、実をいえば1972年は私の人生にとって忘れ難い年なのである。初めての海外旅行でイギリスに行き(私も海外旅行者百万人突破に貢献したわけだが)、標題の日にクリスティーの別荘グリーンウェイ・ハウスに一泊して、クリスティーとも直に話すことができたからだ。
しかしクリスティー会見記を書き出すと、それこそ長い話になってしまう。ここでは質問とその回答を一つだけ披露することで勘弁してもらうが、その質問とは、出版予定の新作について聞いたこと。クリスティーの答えは、私の耳には題名は"Elephant Never Forget"と、そして内容は「??★!◎※∴§」と聞こえた。つまり我が貧弱なヒヤリング力では、かろうじて題名が聞き取れただけなのだが、その後出版された新作の原題は"Elephants Can Remember"となっていた。クリスティーの勘違いか(マサカ!)、私の聞き間違いか(当然!!)と思ったが、真相は、どうやら1937年にE・L・ホワイトが"Elephant Never Forgets"という本を同じコリンズ社から出版しているので、最終的に原題を変更したということらしい。
その『象は忘れない』を新版で久しぶりに読んだ。「父親が母親を殺したのか、母親が父親を殺したのか?」という奇妙な謎の設定には興奮するが、読書中にクリスティーをつい思い出して、読書が中断しがちになるのには困った。象ほどの記憶力はないものの、あの日の記憶は今なお私の脳に完璧に焼き付いているからであろう。
ところで単なるファンに過ぎない人間が本当にクリスティーに会えたのか、素朴な疑問を持つ人もいよう。無理もないことである。そこで証拠品というわけで、帰り際にもらった本のサインを公開しておく。よく見れば"To Yasuo Suto from Agatha Christie Aug 11th 1972"と読めるはずだ。新版クリスティー文庫の表紙にあるクリスティーの署名と見比べてほしい。ほら、アリバイ成立!?
数藤康雄(すどう・やすお) 昭和16年生まれ。ミステリ評論家。アガサ・クリスティ・ファンクラブ主宰。
註;正確には各務が指摘している通り、"An Elephant Never Forgets"である。
つまり、クリスティは"An Elephant Never Forgets"というE・l・ホワイトと同じタイトルにする予定だったのだ。それが、その後、"Elephants Can Remember"に変更になったのだから、植草が罵られるほどの話ではない。つまり、論われた5点のうちの3点は難癖のようなものだ。こんな杜撰な検証を有難がって、30年間金科玉条のように奉っていたのだとしたら呆れるしかない。
これを以って、「サブカル畑のインチキおじさん」呼ばわりされる植草甚一は気の毒としかいいようがない。
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馬鹿と議論してはならない。傍から見ている人にはどちらが馬鹿なのか分からないからだ、
今まで酷い奴は沢山いたけど、blogのコメント欄にコメントを入れるなと宣言し、自分は反論を書き続けるという卑怯なやり方はこのmailinglistくらいのものだろう。何度も書くけど、コメント欄に来られるのが怖いのなら、blogなんか止めてしまいな。
しかし、冒頭に書いた通り、無知な野次馬たちはmailinglistのコピペやwikipediaのにわか知識で「著作権」を語り、おれのことを無知だと決め付けようとしている。困ったもんだ。wikipediaで著作権問題を四の五の言えるなら、弁護士も弁理士も知的財産管理技能士も必要ないだろう。
著作者人格権は譲渡することは出来ないし、著作者の死去に伴い消滅し、相続することも出来ない。しかし、「著作者が生きていたら、著作物をそんな扱い方をされることは望まなかったろう」という考えが正統と看做された場合は効力を発揮する。
ここで問題です。
夏目金之助(漱石)の著作物は、既に著作財産権も著作者人格権も消滅している。そこに目をつけて『あたしは猫女』という小説をコピペをもとに作成したとする。捨てられていた若い女を拾ってきて愛人にするという話だが、体裁はほとんど『吾輩は猫である』と同じものだ。
この本の出版の差し止めの訴えは、第三者にも出来るのか。それが認められる可能性はあるのか。
おれが言っているのはこうした問題に関してなんでね。
wikipediaのコピーを嬉々として貼り付けて「藤岡も無知だ」「謝罪の必要はありません」なんて書いている連中を相手にしている(一から教育しなおさなければならないんだから)暇はないよ。
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「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」というblogに、植草甚一に関するおれの意見(検証blogのコメント)が取り上げられて叩かれている。おれは、唐沢の酷い文章に対して、池波正太郎や植草甚一くらいの達人ならともかくと書いたのだが、コメント欄でこう指摘されたのだ。
>藤岡先生
現在唐沢俊一に代表される「サブカル畑のインチキおじさん」の系譜を辿ってゆくと植草甚一にぶち当たるのですが。
各務三郎による植草甚一批判をご存じないですか(<EQ>誌1979年3月号「独断と偏見」)。まるで時を超えて唐沢を批判しているかのような面白いエッセイです。各務は植草の『ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう』をとりあげて、こう語っています。
「これほど独断と偏見にみちた本も珍しい。さらにミステリー専門出版社から刊行されたにもかかわらず、それを指摘する編集者がいなかった事実にショックを受ける(書評以外はミステリー雑誌に連載されたものだから、まずその時点で編集者のチェックがあってしかるべきだった)。」
この話の内容がどうこう言う前に、唐沢俊一を検証するblogでこんな議論を吹っかけてくるのが、そもそもお門違いかとも思うのだが(植草という名前が気に入らないなら出久根達郎だって一向に構わない)、どうもわたしの応え方が不満のようで、上のblogに色々書かれていた。
ま、どうでもいいようなことなんで、議論するつもりもないが、上記のblogにコメントを入れたら、本当に藤岡真かどうか分からんから、あーせーこーせいと指示して来て面倒だからここに書いたまで。
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mailinglistの日記を見たら、更新していたので、おや、なかなか根性があるではないかとのぞいてみた。そうしたら、おやまあ、おれに突っ込んでもらいたいのかと勘ぐるぐらい出鱈目なことが書いてあった。
■著作物の名称についてCommentsAdd Star
著作権の本を借りて読んでいるが、面白い。勉強になる。それで、ふと疑問が浮かんだ。まったくの思いつきなのだが…。著作権が切れて、駅や書店で旧作映画のDVDが売られている。これをこころよく思わない元著作権者(以下A)もいるわけだ。だったら、Aはパブリックドメイン作品DVD製作販売者(以下B)に対し、「映画の作品名と監督名をパッケージに記載するな」という訴えを起こせばいいのではないか。 建前上、BはAの権利が切れた著作物を「自分のものとして」売っているわけだ(製作ロゴや配給ロゴは切られている)。 Bは自分のものである映像作品に、自分でタイトルをつける権利と義務があるのではなかろうか。ここは私の無知からくる間違いかもしれないが、Aが過去に決めた作品のタイトルもまた著作権に含まれて、期間が過ぎればそれも勝手につかわれ放題になるのであろうか。 漱石や芥川の作品などは、出版慣行はどうだか知らないが、法律上は遺族に無断で勝手に出せる(違った?)。この場合は、出版社が勝手にタイトルを変えないのは、慣行だからとしか言えない。文庫のカバーを、あんな漫画家(失礼)に書かせるくらいだもの、もっと売れそうなタイトルに変えちまいたいな、と思っている編集者はいるだろう。当然ながら本文の表記は、以前から、変え放題なわけである。おととい新潮文庫の乱歩短編集をみたら字の並びが馬鹿っぽくてくらくらした。しかし、著作権の権利が切れるというのは、そもそもその著作物を他人が当人に断らずに勝手につかっていいことであるはずだ(そこで著作人格権なのかな?)。ここらへんが、ちょっと面白いな、と思うのでした。昭和ガメラなんかも、いまや角川映画だしな。
酷えな、こりゃ。「著作権の本」のどこを読んでいるのだろうか。直接コメントを書き入れた。
藤岡真 2009/10/04 22:37
ここまで滅茶苦茶なことを書くのは。
*わたしに“突っ込んで”欲しいから
*自虐
*馬鹿
の三つが考えられます。著作権の本、借りずに買って、熟読しなさい。人格権は著作者が死亡した時点で消滅するんだよ。そんなこと本の頭に書いてないかな。それとも表紙を見ただけで、「面白い」とか「勉強になる」とか書いているのかな。そこまで、唐沢の真似なんかしないでいいのに。
これに対する、お答えがコレ。
mailinglist 2009/10/04 23:04
あのですね~、申し訳ないんですが、あなたとは会話したくないんですよ。 ご自分のサイトで私を罵倒されるのは構いませんから(私も見ませんから)、ここに書き込まないでくださいますかね。 藤岡さんの書き込みは、以降、見つけたら消します(上の書き込みは一日残します)
あー。
なんたるヘタレ。コメント欄で馬鹿を指摘されたって痛くもなんともないだろうに。この程度のことでビビるなら、blogなんかやるなっての。あんたの、罵声を冷静に受け止めていた、トンデモない一行知識の世界さんと比べてみれば、あんたがいかに餓鬼かが分かるというもの。
CPを捨てよ、街に出よう。
嗚呼……。
※ご自分のサイトで私を罵倒されるのは構いませんから(私も見ませんから)
しっかり、見てるじゃん(笑
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mailinglistの日記をチクチク検証しようと思ったのだが、思った通り小心者のようで、ピタと更新をやめてしまった。おまけに、昨日紹介した9月23日のエントリのコメント欄に、安岡先生が辛辣な(でも至極真っ当な)コメントを書いているので、うむ、このまま引き篭もってしまうかも知れない(挑発ですよ)。
というわけで、本家唐沢俊一について、ちょっと検証ネタ(不正)をみつけたので、それを書いてみよう。
この件に関しては、ある程度の基礎知識がいるのだが、そこは検証blogさんにおんぶにだっこということで。
まず、2008年、大阪岸和田逃亡事件。
DAICONに大根役者あらわる
一連タクシー
裏亭さんのことを知りてい、大阪でのがれた男
「裏亭」さん事件に多くの反響
うーん。こんなに沢山あったか。念のため要約しよう。
2008年8月23日、唐沢は「DAICON7」でのイベント「大阪国際児童文学館の収蔵物を語る」でパネラーを務めた。唐沢はイベントが終了する14時30分の15分前、会場を出る。このとき、廊下で唐沢と主催者と思しき男性の会話を、おれはすぐ傍で聞いていた。
唐●「本当に申し訳ない。今出ないと、ぎりぎり次のイベントに間に合わないので」
主●「いえいえ、そんなに忙しいのに、今日は本当にありがとうございました」
まず今出ないと、ぎりぎり次のイベントに間に合わないというのが大嘘なのだが、それはしばし措いて、唐沢には事前に、おれも「DAICON7」に参加するのでイベント終了後少し時間をいただけませんかとメールしておいたのだが、この後声をかけると、タクシーを待たせてあるからと、そそくさと逃げ去った。後に裏モノ日記で、ホテルでのネット接続が上手くいかずにメールがチェック出来なかったという言い訳をしている。さて、ここから唐沢はタクシーで難波までいくのだが、一刻を争う人間がなんでそんなコースをとるのか、岸和田出身の京都大学安岡准教授がその矛盾点を指摘しているので、リンク先を読んでいただきたい。要はタクシーで2,3分の岸和田駅に出て、近鉄特急、地下鉄御堂筋線と乗り継げば(15分前に中座しなくても)充分に新幹線に乗れるからだ。
唐沢の許しがたい大嘘は今出ないと、ぎりぎり次のイベントに間に合わないという点である。
唐沢は23日の裏モノ日記にこう記している。
なんばから新大阪まではスムーズに行き、4時発の新幹線、 またN700系。~中略~時間通り無事東京着、山手線で御徒町。上野広小路亭の落語勉強会に15分遅れで駆け込む。
新大阪16時発の「のぞみ34号」は、18時23分に東京着。問題の落語会は、お江戸上野広小路亭で18時会場、18時30分開演。
まともに14時半までイベントに参加し、近鉄、地下鉄と乗り継いで、15時27分発、のぞみ240号に乗ったところで、18時3分には東京駅に着き、らくらく間に合ったはずなのだ。
つまり、
落語会は最初から遅刻するようにスケジュールが組まれていた上に、イベントはわたしから逃げるためだけに、15分もはやく終了した。
ということなのだ。落語会はリンク先を見ていただければ分かるように、
【出 演】唐沢俊一 【ゲスト】坂本頼光(サザザさん上映!)
日時:平成20年8月23日(土) 18:00開場 18:30開演 料金:¥1,500(当日券のみ)
というもの。自分の独演会に最初から遅刻するスケジュールを組むとは、入場料を払った客に対しなんたる、不正。いや、詐欺でしょう。
しかも、その芸がこのありさまだ。
「あのー」「あのー」でつないでダラダラしゃべるだけの話術。客は苦笑、嘲笑、哄笑。なめるのも大概にしろ。
さて、このイベント逃亡、落語会のパターンって、どこかで聞いたことありませんか。
そう。今年の夏コミだよね。
「コミックマーケット76」レポート(前編)
「コミックマーケット76」レポート(中篇)
「コミックマーケット76」レポート(後編)
そして、コミケを抜け出して大阪の、快楽亭ブラックの会に。8月16日の裏モノ日記によれば。
何か私の出がトリになってしまったというので、それで ハズしたら大変、と変えてもらいたくスタッフに頼むが、どうも 上映設備の関係上それは無理らしい。
なにが、トリになってしまっただよ。トリでしか間に合わないように、スケジュールを組んだんじゃないか。
そして、その出来たるや。裏モノ日記では自画自賛している。
その後が私で、トンデモ本大賞でもやったネタの拡大バージョン。 いやあ、心配していたが受けた受けた。お客さん、いちいち解説のたびに大爆笑。マイミクえべーさん、ブルちゃんさん。えふてぃーえるさん、ピカード艦長さんなどがいたが、この濃いメンツの出演者のトリに出るという大役にちょっとドキドキしていたのだが、無事、務められてホッとする。~中略~ブルちゃんさんら、お客さんたちもみな“いや、凄いネタだった”と言ってくれ、嬉しかった。もっとも、他の会じゃ出来ない。
しかし、当事者である快楽亭ブラックは、快楽亭ブラックの出直しブログでこう描写している。
トリは唐沢俊一先生のオナニーの噺。前回のカルト寄席に比べるとまるで盛り上がらず、おまけに赤字で持ち出しなのが腹立たしい。お客さんが満足してくれれば赤字でも良いのだが…
大嘘つきのコンコンチキ。ギャラを貰っている芸人が、出演時刻を守るという最低のことすら出来ない。
今度からは唐沢の寄席で、本人が遅れてきた場合は、入場料を返すよう交渉すべきだと思う。ちゃんとした理由なんかないんだから。
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てなわけで、mailinglistの日記 をチクチクと検証してまいろうか。
2009/09/30
■プラクティカルジョークと乱歩と唐沢俊一(空気男は誰のこと?)
プラクティカル・ジョークという表現も、どうも違和感がある。こなれた日本語がないものか。「どっきり」ともちょっと違うのだ(乱歩の時代には間に合わないが)。(そういえば、どっきりも、おたくのように平仮名から片仮名になった…。「どっきり」と書くと日テレのあの番組のパクリになると無知な業界人が思いこんでいる?)
こなれた日本語もなにも、プラクティカル・ジョークは日本語では悪戯ではないのか。「どっきり」なんて訳したら、ただの「どっきり」ではどきりの強調に過ぎないし、「どっきりカメラ」(悪戯を隠し撮りして、引っかかった被害者を笑いものにするという糞のような番組)のつもりなら、プラクティカル・ジョーク=どっきりカメラってことになってしまう。片仮名とか無知な業界人とか、唐沢の夢日記なんじゃないんだから、最低限日本語で書かれた文章として、意味の通るものにしていただきたいなあ。
2009/09/24
■怪獣映画。とくに怒り(おこり)もしない
まえから個人的に吹聴している説なんだが、怪獣は獅子舞なのだということ。第一作のゴジラが怖かったのは、いたとしても当時の子供だけだろう。戦時中の天皇を本当に神と思っていたのは、当時と現在の右翼と当時の子供だけだったように。
当時の大人は、ゴジラのことをどうも思わないか、面白がるかだけで、とくに眉をひそめることはなかっただろう。キンゴジあたりまでは親子そろって普通にみていたわけだ。
獅子舞? 子供が泣くから? だったら雷でもお化けでもなんでもいいじゃん。「第一作のゴジラが怖かったのは、いたとしても当時の子供だけだろう」これは日本語かね。律儀に唐沢を見習って推敲を放棄するんじゃないよ。だらだら書いてるが、怪獣映画の怪獣を怖がるのは子供だけだと言いたいのね。はあ。「当時の大人は、ゴジラのことをどうも思わないか、面白がるかだけで、とくに眉をひそめることはなかっただろう」眉をひそめる? 眉をひそめるとは「心配なことがあったり、また、他人の嫌な行為に不快を感じて顔をしかめる」ことだぞ(大辞泉)。当時の大人は、ゴジラを見ても「どうも思わないか、面白がるかで、顔をしかめはしなかった」だから何? そもそも、1976年に生まれたくせに、よくそんなこと知っているね。
2009/09/23
■ダメですか?
KoichiYasuoka 2009/08/09 23:49 うーむ、このぐらいの話に追いついてこれないとすると、正直mailinglistさんも「ケツの穴が小さい」と言わざるを得ませんけど。私だって、1974年にDEMOS-Eを叩いて以来、たかだか35年かそこらの話です。でも、こういうのが「国益」のバックなんですよ。 http://d.hatena.ne.jp/mailinglist/20090809/p7#c1249829375
「ケツの穴が小さい」と言われた。つまり、「細かいこと気にすんな」って言われた、つまり、公然も公開も関係ないという私の指摘を安岡さんはしぶしぶ認めたということだ。違うか? 意味盲はお前らだよ。私は小谷野さんじゃないから、死ね、とまではいわない。
だめだ、こりゃ(爆。「ケツの穴が小さい」が誉め言葉になるのは「オカマ」だけなんだよぉ。わたしは小谷野さんじゃないけど、死ね、と言ってやろう。
2009/09/16
■平手打ちは「張る」
「叩く(はたく)」もある。「殴る」というのは、少なくとも私の周囲では聞かない。文章に書く時は「頬を張る」が無難な気がするが、「顔を張る」と言うこともある。「殴る」という誤用?は「叩く(たたく)」あたりからの連想から発生した?
「平手」打ちだろ。
2009/09/14
■「役不足」について
「役」というのはもともとは武器をとって周囲を巡回することなのだそうだ。役不足をむりに開くと役足らず(やくたらず)になる。役が足りないのだから意味は誤解しようにない。ここで気になるのが「役立たず」という表現があることだ。役不立なんて表現はあまり聞かない。しかし「足らず」と「立たず」で音が近くて混同しやすかったのではなかろうか。昔の人の一部が「役不足」を役立たずの意味であると誤解したのではないか。
「役が足らない」から「役不足」。それだけのことなんだが、なにを悩んでおるのか。
「役立たず」というのは「役に立たないこと(人)」を示す言葉だから、「役不足」と混同なんかしっこないの。「役不足」を間違った意味で使っているのは、「役者不足」との混同だよ。
こりゃ、唐沢以上だな。
今日はこのくらいにしておこう。
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前のエントリで「権利」はあるが、「資格」はないと言わせてもらった、某氏――という言い方ももはや意味がなさそうなので、mailinglistと具体的な書き方をさせてもらうが、この方が、自分は本当に無資格者であるということを、またぞろ「トンデモない一行知識の世界」で証明してくださった。
星新一編訳;アイザック・アシモフ『アシモフの雑学コレクション』の中の文章を引いてこう評している。
■輪廻する指揮者たち
バーンスタインの急病で、チェロ奏者だったトスカニーニは、指揮者としてのチャンスに恵まれた。そのバーンスタインも、ブルーノ・ワルターの急病のため、補助指揮者から昇格することができたのだ。(星新一編訳『アシモフの雑学コレクション』より)
んなわきゃない。んなわけなさすぎるので誰もが笑って、星一流のジョークだろうとおもって、つっこみをいれずに幾星霜。二十二刷である。そういえば、中学生の私はここが気になって星を信用できないと思ったのだった。
このくだり、すっかり忘れていたが、原書を繰っていて思い出した。なつかしー。原文をかかげておく。
Both Alturo Toscanini and Leonard Bernstein got their big opportunities as conductors when they were called upon to substitute. Toscanini, a cellist at the time, took the podium at the opera house in Rio de janeiro and conducted Verdi's Aida from memory. Bernstein substituted for an ailing Bruno Walter in Carnegie Hall, and his performance as conductor made the front page of newspapers in new york the next morning. He had been, under walter, an assistant conductor of the New York Philharmonic.("ISAAC ASIMOV'S Book Of Facts")
上の引用が原書のままだとすると、なんでアシモフは“new york”を小文字で書いたのだろうか(「新しいゲロ」だぜ、これじゃあ)なんて思うのだがそれは、措いといて。この方、「トンデモない一行知識の世界」のコメント欄で、同じ星新一の文章を、こう決め付けている。
星新一は『雑学コレクション』で確実に一件はガセをかましていたことが確定したようですが、どう思われますか? 星を激怒して許しませんか?
これ、どう考えても誤訳じゃないですよね。面白がってガセのままで残したと考える方がより自然です。
どうしてどう考えても誤訳じゃないですよね。面白がってガセのままで残したと考える方がより自然です。と考えたのだろうか。わたしは星の一文は、星の無知からきた誤訳だと思う。これは、むろん推測に過ぎないが、星があえてガセを書くなら、もっとずっと面白いことを書くと思うからだ。唐沢じゃないんだからね。
アシモフの文章を試訳すると。
アルトーロ・トスカニーニとレナード・バーンスタインは共に、代役を要請されたとき、指揮者としての大きなチャンスを得た。トスカニーニ(当時はチェロ奏者)は、リオ・デ・ジャネイロのオペラハウスの指揮台について、暗譜でヴェルディのアイーダを指揮した。バーンスタインはカーネギーホールで病気のブルーノ・ワルターの代役を務め、その演奏は翌朝、ニュー・ヨークの新聞の一面を飾った。彼は、ワルターの下で、ニューヨーク・フィルハーモニーの指揮者助手だった。
バーンスタインは1918年生まれ。トスカニーニがリオで喝采を浴びたのは1886年のことだから、バーンスタインの代役のはずはない。クラシックファンなら誰でも分かるミスだ。星がそうと知りながら、そんなすぐばれるようなガセを書いたとは思えない。二人の関係を知らずに、「代役で出世した」ことを強調するためか、“Both”という単語に惑わされたのか、ワルター → バーンスタイン → トスカニーニという「輪廻」を作ってしまったのだろう。
星新一だって故意かついか、ガセを書いてるじゃん。星を激怒して許しませんか?って論旨なのか。こんなことで激怒なんかしないよ。
毎ページにこのくらいのガセがいくつも掲載されていれば、激怒するけどね。
唐沢の本とか、kensyouhanさんの真似をして検証ごっこしてるあんたのblogとかさ。
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昨日、道場で師範代から、妙な話を聞いた。
本部道場に、いきなり電話(公衆電話から)してきて、名乗りもせずに「会長を出せ」と言った奴(男)がいたそうだ。師範代が不在と答えると、お前は誰だと訊いてきた。師範代が無作法ぶりを咎めると、「そこに藤岡真という奴がいるだろう。そいつはおれの悪口をネットで書き捲くっている。会長から、そういう卑劣なことは止める様に言ってやってくれ」と返してきた。さらに、道場には子供なんかも習いに来ているんだろう、子供たちの前で、自分はこんな卑怯なことをしてきましたと謝罪させろとまで指示したそうだ。さすがに師範代も怒って、なにか頼みたいのなら、直接道場まできて頭を下げて頼めと答えたら、電話は切れたという。
こんな形で拳道会に迷惑をかけるようなことになるとは思わなかった。おれはその旨を師範代に詫びた。師範代はきっぱりと、全く気にする必要はありませんと答えてくれたが、電話の主に対してかなり憤慨していた様子で「誰だか心当たりはありませんか」と訊かれたので、「さあ、わたしは敵が多いですから」とだけ答えた。
悪戯電話でうさを晴らすというのは、誠に餓鬼染みたやり方である。電話でのやりとりを、そいつは脳内変換して、
「拳道会の会長に直接言ってやった。お前の弟子は卑劣だから、教育し直せってな」
という武勇伝になるのだろうな。
電話の主の心当たりに関して、おれは道場では一言も口にしていない。
「あ。ひょっとしたら――」
なんて個人名を口にしたら、本気で諌めに(殴りにじゃないよ)いきかねない人間が、何人もいるからだ。拳道会とはそうした団体であるということを、一言申し添えておく。
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※午前中、同様のエントリを書いたのですが、以前に書いたときは個人を(直接は)特定していなかったことを忘れていたので、書き変えます。あしからず。
いやはや、トンデモない一行知識の世界のコメント欄に乱入してきて、ネチネチと愚説を開陳しているお方がいる。2ちゃんでも話題になっているから、皆様ご存知だろう。このお方、よそ様の家には土足で踏み込む癖に、わたしや京都大学の安岡先生がご自宅(blogのことね)をお訪ねしたら、パニック状態になったことは以前も書いた。だから、本人のコメント欄には書かず(トンデモない一行知識さんのblogもこれ以上汚したくないので)、気を遣ってここに書く。
このお方、コメント欄に書かれた、
「あの『百年の孤独』のマルケスさん
というフレーズに異常に反応し、鬼の首でもとったかのように、
う~ん、マルケスではなく、ガルシア=マルケスなんですが。
と書き込んだのだ。これに対し、マルケスという書き方だって不都合ではないと言った指摘が返されたら、
英語版ウィキペディアでは「ガルシア=マルケス」か「彼」に統一されています。
松岡正剛や素人なんかの怪しい表現なんか典拠に値しない
ガルシア=マルケスを日本で有名にしたのは安部公房あたりで、それを筒井が追いかけたのだと思いますが、どちらもマルケスと呼んでいて、それが伝播しただけでしょう。スペインに関する無知の問題でしょう。
とむちゃくちゃな反論をする。だいたい英語版wikipediaでは"García Márquez"と表記されているのだから、「ガルシア=マルケス」の根拠にも何にもなっちゃいない。おまけに、松岡正剛、安部公房、筒井康隆を「怪しい」「無知」と切って捨てるのだから、お前は何様のつもりだよと言ってやりたくなる。
ま、このお方の日記、毎回と言っていいほど無知をさらしている。そんな中で一丁前に唐沢検証なんかもやっていて、8月26日には、こんなことを書いている。
■フライングソーサーは「飛ぶ皿」である、そして、円盤投げの円盤が飛ぶのは当然だ
唐沢俊一は空飛ぶ円盤という言葉の語感を愛でていたが、フライングソーサーの訳語としては問題がある。アメリカ人が読み込んだ、間抜けな印象がふきとんでいるからだ。ケネス・アーノルドは「飛ぶ皿」の提唱者としてバカにされて(本人の責任ではないが)、「十階建てのビルが空を飛んでるといわれても驚かないよ」と、しょげるような、あるいは強がるような冗談をいったらしい。
円盤投げは英語ではディスカススルーというらしい。飛ぶ皿はないだろうとおもった日本人記者(この人は誰なんだ? こっちの人こそ取材してよ唐沢俊一!)が、円盤投げから表現をいただいたことは想像しやすい。もちろん、それが真実と決まったわけではない。
なにを寝ぼけたことを書いているのかね。ケネス・アーノルドがフライング・ソーサーと表現したのは、彼が目撃した未確認飛行物体が「水切りで飛んでいく皿」のような動きをしていたことについてであり、物体そのものの形状は"crescent"=「三日月」と表現しているのだ。
フライング・ソーサーが形状と勘違いされたせいで、この後の目撃例の形状が総て「皿型」「円盤型」というのが何を示唆しているのかを考えれば、自ずとUFO問題の本質は見えてくる。円盤投げがどうのと能天気な空想をして、本質をスルーするあたりもまさに本家唐沢の劣化コピー。
まあ、こんな方でも唐沢を批判する権利は当然ながらある。でも資格があるとは到底思えない。