−経緯− 昭和58年1月9日早朝、自民党の大物政治家・中川一郎(当時57歳)が宿泊先の札幌パークホテルの浴室で死んでいるのを夫人の貞子さんが発見した。当初、死因は「急性心筋梗塞」ということだった。ところが、2日後の11日になって、死因は「首吊り自殺」であったことが発表された。 中川の首吊り自殺は不審な点が多く、いまでも「他殺か自殺」か論議が分かれている。まず、自殺方法に疑問を呈する声がある。中川は、浴槽に座ったまま浴衣の紐で自分の首とタオル台の留め金を結んで自殺していた。警察の検証では確かにこの方法でも「死ぬことは可能」であるようだ。だが、この方法は《最後の瞬間まで自身の強い意志で死に向かっていかなければならない》。このようなことが人間として可能なのだろうか、という点が挙げられる。 さらに、死亡してから僅か2日後に荼毘に付されており遺体の検証も十分でなかったと指摘する声もあった。一般に、大物政治家であれば遺族は党との相談で葬儀をする事情から死亡してから数日間はそのままの状態で置かれる場合が多い。中川の場合、あまりにも荼毘に付すのが早いと思われた。 また、中川は遺書らしいものは何も残していなかった点である。これも自殺する場合、通常では考えられないことであり、よって他殺説が今でも根強く指摘されている。 −政治的背景− 中川一郎は北海道広尾町で出生。九州大学農学部を卒業後、北海道庁に入った。その後、昭和38年に北海道5区から出馬して初当選。昭和48年に故・渡辺美智雄、石原慎太郎(現、東京都知事)らと「青嵐会」を結成し昭和54年に中川派を旗揚げした。中川は「熊のような体躯で涙もろく、愚直なまでに純朴な男」と言われ、国民には人気の政治家だった。 怪死する前年の昭和57年11月、中川は自民党総裁選に出馬し中曽根康弘、河本敏夫、安倍晋太郎の3氏と戦い、最下位で落選した。この頃から、中川は思い悩み衰弱していく。中川の年齢からみて次のチャンスはいくらでもあったのだが、落選という結果は中川にとって様々な人間模様が浮き彫りになり将来に向けて望みが絶たれたようであった。 @三塚博代議士との確執 三塚は総裁選で中川に票を入れることを確約していたが、実際には安倍氏に票を入れた。また、三塚の地元仙台での選挙演説では100人に満たない聴衆者しか集まらず積極的に動員しなかった。 A鈴木宗男代議士との確執 当時、中川の秘書であった鈴木は中川事務所の金庫番であり権限は絶大であった。総裁選で必要な資金の調達に鈴木の手腕が発揮されたことも事実であろうが、逆に中川に対して自分の参議院出馬を要請するなど確執は相当あったと言われている。 Bソ連エージェントの疑惑 昭和57年7月にソ連のスパイで米国に亡命していたスタニスラフ・レフチェンコ元駐日KGB少佐が米下院情報特別委員会で「日本人エージェント・リスト」を暴露した(自民党総裁選のこの時期に突然暴露するのも怪しいのであるが)。このリストに中川の名前は入っていなかったようだが、リストに入っているテレビ会社重役の某氏を仲介にソ連のエージェントが中川と頻繁に接触していた。中川は知らずに間接的なエージェントになっていた可能性があり、中川自身が相当悩んでいた様子であった。 −謎の人物− 尚、これ以外に今でも謎を指摘する部分がある。それは、死亡推定時刻のわずか1時間前に中川は中川事務所の幹部に電話をかけた。色々な相談事を幹部に話していたが、その途中「やぁ、やぁ」と誰かに呼びかける様子で突然電話を切ってしまったという。突然、中川の部屋に入ってきた人物が誰だったのか、いまだに解明されていない。ソ連寄りの中川を煙たがった米国CIAが暗殺したのではとの噂もあったが、いずれも憶測の域を出ない。
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