五輪は4年おきに欧州、南米北米、アフリカ、アジア、オセアニア(大洋州=オーストラリア、ニュージーランド、マレイ諸島を含む)大陸の国の1都市で開催することを理念としている。いわば全世界へ向けられた“平和の使者”だった。
その視点で言えば、国際オリンピック委員会(IOC)総会(2日、コペンハーゲン)は、IOC委員による“電子投票”(無記名)で“16年五輪”の開催都市に南米大陸の1都市、リオデジャネイロ(ブラジル)を理念どおりに健全かつ迅速にえり分けた。
ただ、小欄は8月のIOC理事会(13日、ベルリン)が野球とソフトボールを競技種目から除外したことにより、以来、復活の手立てはないものか、あるとすれば、“野球王国”の1都市であるシカゴと東京の五輪開催しかない、と思いつめていた。東京に決まれば、五輪開催と併せて公開競技に日米共同の野球を登場させ、サッカーやラグビーとは異色の面白さ、痛快さ、さらには一打逆転のスリルを外国の関係者、観客に見てもらい、今は、かすかにしか見えない“野球の灯”を手元に引き寄せ、明るく大きくさせたかった。
驚いたことに、総会の電子投票は1回目で真っ先にシカゴを落とし、2回目に東京を落とした。用意ドン! で、野球は両足を“骨折”したのである。投票は獲得票が過半数(48票)を超えると当選確定、超えずに最少得票になると落選する。1回目はリオデジャネイロ26、マドリード28、東京22、シカゴ18でシカゴが落ちた。2回目はリオデジャネイロ46、マドリード29、東京は2票減って20、最下位で落ちた。
3回目はリオデジャネイロ66、マドリード32でリオデジャネイロが“当選”した。得票数“66”は、2回目の46に、落ちた東京の“20”がそっくり上乗せされた数字になっていた。
敗残のいま、東京が再立候補して仮に当選しても、舞台は今から11年後の“20年五輪”になる。その間に首尾よく野球が復活しても、登場するのは同じ11年後の“20年五輪”だ。
たぐり寄せるはずの“野球の灯”は粉々になって飛び散った。あと11年、日本の野球は“五輪の野球”とどう戦うのか。プロもアマも、性根(しょうね)を据えてかからないと、とんでもないことになる。
小欄の腹案は、プロは11年も待てないから五輪から離れ、プロ同士団結して“真のワールドシリーズ”の道を探り、アマはなんとしても野球の復活を目指し、高校野球、大学野球、社会人野球が一体となる全日本で世界の強豪と戦うことである。雨降って地固まるのである。(渋沢良一 前セ・リーグ事務局長)