志や発願は、堅・誠・恒の「堅」にあたり、非常に大切です。
ある書からの抜粋で長いですが、日蓮上人を例にとった文章です。
こうするんだと発願する。発願したら、どんなことがあってもやり遂げるんだと実際の行動を重ね、努力をする。そして、一生懸命になって絶叫するまでやり続ける。つまり、堅忍不抜の「堅」なのである。
別の言葉でいうなら「立志」。志を立てること堅固なり、という「堅」である。
私たちの堅忍不抜のよい手本となるのが、日蓮上人だ。
仏教にはいろいろな宗門、宗派がある。南無阿弥陀仏の浄土宗・浄土真宗があったり、真言密教や天台密教も、南都六宗もある。仏教の最初はお釈迦様お一人なのに、なぜこんなにいろんな宗門、宗派があるのだろうか。それらの膨大な教えの中で、真実の教えはどれなんだ。そう思った日蓮上人は、千葉県小湊誕生寺で、
「本当の仏様の教えというのは、どんなものか、教え給え。そのための知恵を与え給え。日本第一の知恵者ならしめ給え」
と虚空蔵菩薩に発願をする。そのときに日蓮上人は虚空蔵菩薩から、宝珠を与えられたという。日本で一番賢い人間にしてくれと発願した日蓮上人は、その後比叡山で十二年間勉強して、天台密教はもとより、真言密教はじめありとあらゆる経典を読破した。その結果、法華経こそが真実なるお釈迦様の教えだという結論に達したのである。
これは日蓮上人の堅が素晴らしかったからこそ、できたことといえるだろう。すなわち、日本一の知恵者ならしめ給え、という志が揺るぎないものであったからである。
日蓮上人の例を見ても、道を成就するためには「堅」がいかに大切かわかる。最初の志、これがフニャフニャした人間はだめである。まず、自分の志をはっきりとさせることなのである。そして、さらに何が何でもやり抜くのだという覚悟をもつこと。この覚悟こそが、志を揺るぎないものへと高めてくれる基なのだ。
「これに対して、堅なんかなくてもよいと説く人がいる。曹洞宗の開祖となった道元禅師がその人である。
道元禅師は、堅なんかなくてもいい、慈悲心なんかなくてもいい、悟りも精進努力もなくてもいいと言うのである。そして、ならばどうすればいいのか言えば、ただひたすらに学問をしなさいと説くのだ。
「とにかく、本をたくさん読んで学問をしていきなさい。そうすれば、その中には素晴らしい人生を送った人のことが書いてあるのだから、自分もこうなりたいと「堅」が出てくる。また、別の書を読み、御仏というものは、このように慈悲深いんだということがわかれば、自分の生きざまは、なんとちっぽけなものかということに気がつく。そうすれば、慈悲の心も自然と涌いてくるものなのだから」
というのが道元禅師の論理である。
人間誰しも最初は菩提心も、立派な志も持っているものではない。まあ、中にはそういったものを、もともと生まれ持っている人もいるにはいるが、それはあくまで特別なケースでしかない。ほとんどの人は、育ってきた環境の中で、学んで身につけるのである。
オギャーと生まれたときから、堅・誠・恒を備えている人などいないのだ。いくら人間だって、ゴリラに育てられたらゴリラのようになってしまう。昔、狼に育てられた姉妹が発見されたことがあったが、人間社会に連れ戻されても、完全に人の生活には戻れず、やはり狼の生活から抜けきれなかったという。
つまり人間は、父親や母親、祖父や祖母といった、身近な人からの影響を受けながら、環境の中で必要なものを学んでいくのである。そういう意味で道元禅師は、最初は堅も慈悲もいらないといっているんだ。
勉強をしなさい。学問をしなさい。学問をしていれば、精進も努力も慈悲も悟りも、すべて自然と身についてくるものなのだからと。
素晴らしい「堅」を持ち、一つの道を成し遂げた日蓮上人でさえ、最初から「堅」を持って生まれてきたわけではない。日蓮上人がまだ蓮長という名前だったころ、それなりの師匠について出家し、勉強をした。勉強していくうちに疑問が生まれたからこそ、あのような発願をしたのである。
だから、今の自分がたとえ軟弱で、とてもじゃないが発願や堅忍不抜などできそうにない性格だとしても、何も悲観することはない。それはまだ勉強が足りないだけなのである。過去にも現在にも、世の中には素晴らしい人が一杯いる。学問を通して、その素晴らしさがわかれば、「堅」は自然と出てくるのです。
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