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ブント・ワークショップ
ブント・ワークショップには多くのアクティヴィストが集い、
21世紀にむけた様々な課題をめぐって
刺激的な学習・討論が行われています。

§『SENKI』1000号アピール採択にあたっての討論から
          フォーラム型の討論は「大衆の反逆」的様相に?
 形式論者の間ではフォーラム型の討論がもてはやされている。ハーバーマスのコミュニケーション的行為の価値化などの影響もあるだろう。しかしトコトンそれを実践している人達は実は少ない。ブント・ワークショップは時としてそれを実践する。

アラ(コーディネーター)
 「環境革命派の社会変革運動をつくろう 『SENKI』1000号記念アピール」の討論をしたいと思います。『SENKI』発刊1000号にあたって何らかの宣言をしたいという意見があって、急きょこのアピール案が用意されました。不十分なところもまだあると思うので、フォーラム形式での討論をやりたいと思います。まず原文を読みます。
  (なおこの討論は前日の学習会で10時間ディスカッションした後に行われている)


■ブントは何故転回(ケーレ)したのか

アラ
 97年3月に「ブントのマニフェスト」を出して、そこからブントは脱共産主義の社会変革運動を作ってきました。このアピール案については、その延長にあるものですが、文言が急遽作っているので多少エグめであったりします(笑)。たとえば「キリスト教的なハルマゲドン後の千年王国の到来の訴えと何らかわらないものになっている」とかは問題あるかもしれません。
 内容についてのだいたいの説明をすると、91年12月にソ連邦が崩壊し、89年東欧事態もありました。1917年に成立したロシア革命以降の流れにあっては、労働者国家のスターリン主義的な変節はあったとしても、少なくとも20世紀の後半までは、いわゆる「労働者国家」が存続した。それが資本主義に対するオルタナティヴであったという歴史的現実があります。その歴史的な現実に対して、われわれはより改革されたマルクス主義・共産主義を提起し、それを社会変革の方途にすべきだと言ってきた。それ自体は、別に誤りだったわけでも超時空的であったわけでもない。しかし東ヨーロッパにつづいてソ連邦が崩壊し、88年中国が憲法を改定し私営経済を認めたときに、全世界で計画経済を実践する国家はついえていってしまったわけです。
 その歴史的現実の下にわれわれがいる以上、ソ連・東欧で結局成立しなかった計画経済の社会をわれわれが実践できる、それで社会の矛盾はなくなると主張しても、何の根拠も実践的方途もないのであって、それを言い続けることは誠実ではないと思うのです。マルクス主義の生産力思想では地球環境破壊に抗することもできない。だからそれをずっと墨守し、教義として守り続けるという旧来の「新左翼運動」からはわれわれはテイクオフするしかない。それがまずあることだと思います。

 そこから90年代に入って、ブントは新しい社会変革運動の内容をずっと模索してきた。しかし、資本主義のオルタナティヴとしての計画経済社会の建設が実践的に無理であるということを認めても、社会には矛盾がたくさんある。当然たたかいを継続していくべきです。その場合、当該社会に矛盾がなくなったといっているのではないことが、押さえられるべきだと思います。

 それに対して日本の新左翼の中には、われわれは反スタだから違うという立場がある。でも反スタの社会主義、反スタの計画経済といっても、何らかの内容があるわけではない。これについては『自由と市場への遠近法』という本が理論戦線の別冊で出ていますが、その第1論文と第2論文で山風征路、山根克也の2つの論文が論じている。山風論文ではオスカー・ランゲは計画経済が可能だと言っていたが、その内容は需要と供給の完全な一致、「パレート最適性」などローザンヌ学派の近代経済学に依拠して言おうとした。それに対してフォン・ミーゼスやハイエクは市場を媒介しない経済は無理だと論じたが、1920年代に行われたその論争に立ち返って考えると、やっぱり過度の設計主義に基づく計画経済は無理だったということを認めるべきだ。市場的淘汰を経ない経済は成立しないと論じています。
 山根論文はそれを承ける形で複雑系の経済学などから言っても無理だという。最新のコンピューターを使っても経済計算はできないことを示しています。これらは画期的な論文だったと思う。『ゴータ綱領批判』でマルクスが言ったような共産主義の実現は不可能であるという認識から、われわれは考える以外ないのだと言ってるわけだから。

 それをおいた上で、しかし今の社会が良いのかといったときに、地球人口が60億人いるうちに肥満が12億で、絶対的貧困も12億人とかなっている。そういう点でも社会主義的な観点から矛盾の解決を訴えていく立場はもちろんある。スーザン・ジョージなどが問題にしていることです。そうした現実下で、ぼくらがどうしていくかが問題になる。一方で社会に矛盾はある。しかしその答えが共産主義にはならない。その現実認識でのアピールになるわけですが、文言を含めて意見を出して欲しいと思います。



■共産主義と社会主義をわけるべき

クロキ(編集部)
 1番最初に「ブントへと名称を変え(97年3月)」とありますね。次に「97年3月にブントは」とまたありますね。さらに「97年3月に発表された」とあるじゃないですか。とりあえず最後の「97年3月に発表された」はとっていいと思います。「組織名称変更にあたって」だけで意味は通るので。

クマガヤ(ナチュラリスト京都)
 「知ってのとおり、今世紀資本主義のもたらす矛盾とたたかってきた運動の多くは、社会主義・共産主義を価値とするものでした」とありますが、社会主義と共産主義というのは、第2次世界大戦以降、社会民主主義の方が社会主義の大きな流れになって、共産主義は違うんじゃないかという議論があったと思うんです。それで社会主義に対してはここでは内容的批判はしていないわけですし、だから「社会主義」はとってしまってもいいんじゃないかと思います。「運動の大きな潮流のひとつに共産主義を価値とするものがありました」とかでどうでしょうか。

アラ
 そこの文言を変えると。この方がいいかも知れない。他は?

クマガヤ
 あと、今すぐ代案が思いつかないんですけど、政治闘争がけっこう軽くなってしまっている印象が。政治闘争への取り組みというのはこのかん討論してきたわけで、環境だけではないわけですから。

アラ
 それはそうだね。で、どうしよう?

クマガヤ
 具体的な文言というふうには今すぐにはならないので、この場ではなくても、そういう趣旨をふまえて、もう少しこの辺を膨らませてもらえれば。

アラ
 どこを膨らませればいいの?

クマガヤ
 政治闘争の内容というか。

アラ
 「反戦・反軍事大国化をかかげた政治闘争に加え」のところに中味を羅列するってこと。

クマガヤ
 われわれがやってきたし、これからもやっていこうとしている真の共和制を目指す運動とか、そういうことはわれわれは放棄していないわけですし。そこにもう少し重点を置くとか。

アラ
 つまりこれだと、なんだか環境にシフトしているような感じがすると。クマガヤ君は政治闘争派ですね(笑)。

クマガヤ
 僕は、環境にはかなり「あれ」なんですけど。

アラ
 「あれ」って何ですか。

クマガヤ
 やっぱり環境問題にしても、例えば中国で全然環境保護運動が起きないというのも、中国には民主主義がないから環境運動が起きないということを、環境社会学なんかを研究している人は言っています。そういうのを活性化していくためにも、民主主義を求めるたたかいというのは必要で……。

アラ
 それで具体的な文言とかはないの? 文言ではどうすればいいのか。

マツザワ(ナチュラリスト京都)
 
主旨としてはクマガヤ君のいうことに賛成なので、具体的にやってきたこの間の運動として、周辺事態法反対とか、沖縄の基地反対を入れるのは?

アラ
 沖縄の基地反対というのは、反戦・反軍事大国化の運動の中に入るんじゃないの。

マツザワ
 環境破壊の方には具体的な環境破壊の中身が書いてあるわけですから、それと同じように、反戦・反軍事大国化にも中身があっていいんじゃないですか。

アラ
 そうすると「これまでの」の後につけるということだね。「これまでの沖縄の米軍基地撤去闘争や」、あとなんだ?。 マツザワ 周辺事態法とか。具体的にやってきたことを入れるというのが。

クロダ(上福岡市民連合)
 僕はこの修正意見には賛成しかねます。そもそもこの節の題名が「持続可能な社会を実現する運動の創出を」ということなので。いってみればわれわれが共産主義からのテイクオフを実現していない時点で、これまでの反戦運動だけでは苦しくなって環境派にシフトした。政治闘争の具体的内容がないことが、政治闘争から後退していることの表現だという見方も成立するかもしれないけれども、こういうアピールの宣言文などは、流れとか主旨とかで論じていかないとしょうがないと思います。

アラ
 それでは折衷案ということでどうですか。例を挙げなきゃいけないから「沖縄の米軍基地撤去闘争などの」は入れると。後はクロダさんが言っている主旨で。

ホシナ(かながわきれいな水と空気をとりもどす会)
 「今なお『限界を超えて』で警鐘を乱打されている」というのは文法的におかしいので、「乱打している」に変えた方がいいと思います。

アラ
 
そりゃそうですね。


ホシナ
 それから「破局の日は遠くないでしょう」というのはそうだと思うんですけれど、前の方でハルマゲドンとか言っておいてどうかなと思うんで、「破局の日はこのままではいずれ訪れてしまうでしょう」というふうに改めたほうがいいと思うんです。このままだとそういうふうになってしまうが、そういう限界を突破していく必要があるんだと言ったほうが良いと思います。

フユキ(神奈川労働者講座)
 「このままでは」だけを入れればいいんじゃないの。 ホシナ 「破局の日は遠くないでしょう」と言ってしまうのは危機アジリになってしまうので。あと「現実の矛盾とたたかい続ける現実的な運動」というのはひとつの引用なので、マルクスの言っていることを生かすという意味でカギカッコでくくる方が良いと思います。さっきマルクスの……。

アラ
 はいはい、わかりました(苦笑)。もうないですか。文章を作るというのはこういうことの連続なんだよな。


■寝た子をおこす必要はない!


サワダ(ワークショップ沖縄)
 「キリスト教的なハルマゲドン」というと、クリスチャンはかなり怒ると思うんで、「カルト的」とか「黙示録的」とかにしたらどうですか。クリスチャンでも黙示録をいうのは原理主義的な人たちだけだから。

アラ
 わかった。その方がいいや。でもかえって意味が強くなるよ(笑)。カルト的だっていうと。黙示録的にしようか。文学的に。

ヤマネ(エコ・アクション )
 イヤあの基本的にこういう表現はやめた方がいいと思うんですが。

アラ
 具体的に言って下さい。
ヤマネ
 取っちゃえばいいと僕は思うんですけれど。こういう「ハルマゲドン後の千年王国の到来」とか、わりとサワダさん自身がよくこういうこと書くんだけれど(爆笑)。実際そんな風に社会主義を考えている人は全然社会的に影響力もないし、むしろクマガヤ君とか言っている ようなこととも重ねれば、社会民主主義とかとどう問題点をつき合わせていくのかとか、対話していくのかと いう方がリアルな課題だと思うんですよ。
 こういう「キリスト教的なハルマゲドン後の千年王国の到来」とかいうのはかつて、右翼や保守派の政治論客とかが共産主義を罵倒したり揶揄したりとかというときに使っていた言葉だと思うので、もしそういう勢力が今でもけっこう大きな力をもっているのなら言う意味もあるかもしれないけれど、あえてこういう風な形で保守派の、反動の言葉で、それも政治的な言葉というよりは結構センセーショナルな表現で共産主義を罵倒したりするのは、あんまりメリットもないし品も良くないから、取る。

アラ
 「歴史的事実として示されています」にして、次のセンテンスは取る 。

ヤマネ
 それでいいんじゃないかと。ぜひこういう風に宗教者を揶揄したいという意見があれば別ですけれども。

アラ
 しかし君の書いた『ラジカリズムの新世紀』という本の中には「宗教者は」とかあるじゃない。何ですか、あれは?(笑)

ヤマネ

 
だから反省して。

アラ
 じゃそういう反省もあるので、いたずらな刺激はしないということで。そうかもしれないよ。こういうアピールでなにもね。寝た子を起こす必要はないと。それから?
 意見を言うのもいいけどちゃんと意味が通じるようにしてくれよ。


■「企み」と「企て」と「試み」の違い

フユキ
 最初に「全国の労働者、学生」とあって、後の方も「闘う労働者」ってなっているけれど、こういうふうにわざわざ羅列するというのは、わりと今までの左翼の人とかがいう言い方かなという気がちょっとするんですけれども。だから最初は「社会の変革を願うすべての皆さん」にしちゃって、後ろは「今や現代に生きる私たちの使命です」にする。

ウエスギ(グリーンアクション大阪)
 「今や」と「現代」が続くと変だよ。

フユキ
 じゃ「今や」をとって。

ウエスギ
 「今を生きる」というのは? 「現代に生きる」とは言わないんじゃないの。

アラ
 人間は全部自分の思い通りにはならないんだよ。若ければ若いほど自分の思い通りにしたいっていうふうになるんだけどさ。どうしますか、「今を生きる」にしますか?

フユキ
 私はどれでもいいんですけれど、今や私たちの使命です、だけでもいいんですけど。

アラ
 分かったけども、具体的にはどうすんの?

フユキ
 現代っていうふうに限定したほうがいいんじゃないかと思います。 アラ はい、じゃあ「現代に生きる」で。それとも現在? 現在を生きる?(笑)

フユキ
 それはどちらでもいいです。

アラ
 現在に、だな。現在を、か。現在を生きるっていわないよな。エーと、今を生きる。現代を生きるというのはあるよな。わかった、「現代を生きる私たちの使命です」だな。

オダ(CIVIC・ACTION千葉)

 「計画経済の社会を建設する企み」ってなってるんですけど、たくらみって言うと最初から悪意があって計画経済を建設しようとしたみたいなので。

アラ

 「試み」にするってことだろ?

オダ
 「企て」でいいんじゃないですか?(爆笑)

アラ
 
それじゃ字が同じだからさ、「試み」にしておきましょう。それから? あとは?

ソウ(CIVIC・ACTION千葉)
 最後の方に「当然その運動は真理を独占する〜」という文章があるんですけど、これが少しくどいんじゃないかと。前に運動の内容が説明してあるんで。これと次の、「しかし」までを取ったらどうか。


アラ 「当然その運動は〜」というのがややエグいということだな。だけどちょっと、これ取っちゃうと、意味がつながらないんじゃないの。文章として変だよ。

キタ(編集部)
 いまのところなんですけれど、この種のアピールをどう考えるかにもよると思うんですけれど、一応世の中にいろいろな政党とか社会団体があって、それとブントを区別するためのものでもあるんで。そうすると旧来の前衛党にあたる運動とぼくたちがやろうとしていることがどう違うかというのをある種きわだたせる必要がある。それをどうエグくなくやるかというのがもちろん問題だと思うんですけれど、この部分は区別立てにかかわるところなので、残した方がいいと思います。

フユキ
 ちょっと細かいことなんですが、「真の共産主義社会」というところの「搾取なき」をとっちゃってもいいんじゃないですか。搾取を問題にしないわけではないので。

アラ
 わかった。「搾取なき」をわざわざ入れなくてもいいということね。そこはとる。それから? まだありますか?

サクラ(学生ピースアクション)
 「かつてローマ・クラブが」というところの「その限界を突破し」というところが、『限界を超えて』という題名とわざと重複させていると思うんですけど、そうすると「突破」しちゃっていいのか。その字だけをみた場合、定常状態の社会とイメージにギャップがあると思うんですね。むしろもっと限界に至らないような持続可能な社会をつくるという意味で、「破局を回避し」とかというふうに変えた方がいいと思うんですが。


アラ
 「突破し」というのが一点突破・全面展開みたいだから言わないと(笑)。ただ突破するというのは自分たちの主体的な営為を言っているわけだからさ。回避するだとどうなんですかね。ニュートラルにしていくのが必ずしも良いわけじゃないということもある。

タケヨシ(森と平和の会・仙台)
 
今のところなんですけれど、限界があるというのは、生産力主義というパラダイムでは限界があるということで、突破するだと科学技術の進歩で突破する意味にもとれると思うので、「破局を回避する定常状態の社会を」と。

アラ
 なるほど。それはあるでしょう。  しかしちょっと待って下さいよ。みんななんか無限に一言でも言わなきゃと思ってないか?
 無限にやってもいいんですけど、全然違う主旨にだんだん少しずつ……。

サクラ
 さっきのところなんですけど。

アラ
 えーまだだめなの?
 そんな執着しなくってもいいんじゃないの。どうもだんだんトリビアルな話になってきてるぞ。

ホシノ(反戦行動さいたま)
 「警鐘を乱打し」というと、やたらと鳴らしているというかんじです。意味がある警鐘なので、「警鐘を鳴らし」でいいのでは。

アラ
 大衆民主主義というのは衆愚政治に変わっていくと、オルテガ・イ・ガセッティが言っていた通りのことになってるような。まあ細かいニュアンスは全部個人によって違うんだからさ。多少は目をつぶって下さい。警鐘を乱打するか鳴らすかなんてことでは、僕は乱打だと思うけどね。だって人類は滅びてしまうといっているんだからさ。……あとは?

オカダ(核と戦争を許さない市川市民の会)
 「知ってのとおり」以下のところでだいぶ変わってますよね。今のところは結局「共産主義を価値とするものがありました」ってなっていますよね。そうすると、ちょっと客観的な感じがする。


■そして話は元にもどった

アラ
 おいおい、話が戻っちゃったよ(笑)。

オカダ
 「カルト的」をとったりとか「搾取なき」を取ったりとかはいいんですけど。例えば「知ってのとおり今世紀資本主義の矛盾ともっとも対決した運動は共産主義を価値とする運動でした」というのは……。

アラ
 「もっともたたかってきた」って言いたいってことですか。

オカダ
 自分達がそれをやってきたという雰囲気を付けた方が。

アラ
 どうやって? 「私たちがやってきたとおり」とか付ける? だんだん滑稽になってきたな(爆笑)。

ゴミ(グリーンアクション埼玉)
 ブントが党名変更してきて、私たちのたたかいの方途を大きく捉え返すことを考えると言っているわけだから、岡田さんがいうようなことはもう含まれているんじゃないですか。

アラ
 そういうことでお願いします。じゃあね、いいですか。現在までのところというか、もうあんまりやりたくないんですけれど、「環境革命派の社会変革運動をつくろう 『SENKI』1000号記念アピール」を読み上げますよ。 (直されたもの再読)
 「知ってのとおり、今世紀資本主義のもたらす矛盾とたたかってきた運動の大きな潮流の一つに、共産主義を価値とするものがありました。しかし真の共産主義社会実現の中に、人間的自由と連帯を求めよと主張しても、その方途が実践的にないことが歴史的事実として示されています。その現実認識において、私たちは闘いの方向も大きく捉え返すべきと考えます。組織名称変更にあたっての『ブントのマニフェスト』には、次のような一節があります」。
 うーん。だんだんいじりすぎて、というか、だんだん価値のないものになってきているな。いろいろなものをとってできあがったものはですね、換骨奪胎されて、なんか客観的になったかもしれない(笑)。  やっぱり「大きな潮流の一つに〜ありました」じゃつながらないんだよ。この前で「私たちが」って主体的に言っているわけだから。外側から、「大きな潮流に、〜ありました」というとね、前の節で私たちが判断したというのとつながらないんだよ。そうでしょ? 私たちは判断したということが次の節にかかってくるわけだからさ。

 なんで判断したかというと、知ってのとおり共産主義がオルタナティヴだったんだけれども、しかしそれが実践的歴史的にないことが示されたと。その認識において私たちは、ということを説明しているわけだな。自分達がなぜ名称変更し、それでは無理だと言ったのかということを説明しているわけだよ。そこをみんながトレトレと言ったもんで、全然つながらなくなっちゃった。
 もっともとに戻さないとだめだ(笑)。ハルマゲドンを取っちゃうと、現実認識が客観的な話になっちゃうんだよ。共産主義がなくなったからやめたんだっていうさ。そうじゃなくて、僕らはそう主張してきたんだけれど、それは無理だっていうことを自分達は認識したというニュアンスの文言だったわけだよ。元はね。それを言い続けることはすごくカルト的だということだったんだよ。

ノヒラ(みと市民講座)
 「しかし真の共産主義社会実現の中に、人間的自由と連帯を求めよと主張しても〜〜〜」くらいで意味は通るし、おかしくないですよ。

アラ
 意味が通ると思うの。 会場 笑い。「何だか変だな」の声。

フユキ
 僕は基本的には最初のような言い方をしたほうが内容的には合うと思うんですよ(笑)。だから直すとすれば、おおまかには最初のものにして、「運動の多くは共産主義を志向するものでした。」とかにして、社会主義を入れたくなければ、共産主義を志向するものでした、とかにして、あとはハルマゲドンとかは軽く……。

アラ
 えーとだから、討論をしたということでさ。実際は誰かがもう一回責任をもって直さないと無理でしょう。みんなが断片的に言ったことをまとめて宣言文にしても、宣言文にならない可能性がある。このような主旨で一応話はしたわけだから。話をしたことに価値があったとしてだよ(笑)。最終的なものは別に作るしかないんじゃないの。みんながいろいろ思いついてくれて大変ありがたかったんだけどね(爆笑)。
 そういうことで、一応このアピールの作成にみんなも意見を述べたということでね、民主主義の手続きをとったということにして(笑)、あとはもう一回戻して作り直すということにしたいと思います。フォーラム型組織というのはオルテガが言ったことみたいになるな。大衆の反逆か。

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