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2007年08月21日

グローバリゼーションに抗する新しい社会運動の創造を

現実に立脚しながら未来の夢を語ろう

                                     水澤努(編集部)

 1997年ブレア率いるイギリス労働党は、アンソニー・ギデンズの提唱する「第3の道」を掲げ、ニュー・レイバーとして政権についた。

 あれから10年、ブレアはイラク戦争に参戦し信頼を失墜。ついに党首はゴードン・ブラウンに代わった。労働党の路線も、「第3の道」から「新進歩主義」に変わって久しい。だが「新進歩主義」は、あくまで「第3の道」の継承発展として位置づけられている。

 「第3の道」に関する評価は様々だが、イギリス・ガーディアン紙のコラムニスト、ポリー・トインビーは次のように語っている。

 「ブレアは英国をずっと住みよい国へと改革した。仮に保守党政権が10年続いた場合と比べれば、この国は想像を絶するほどましな国になった」(『東洋経済』7月28日号)

 あらためて「第3の道」の可能性について検証してみよう。

<コミュニテイが破壊される日本社会>

 「第3の道」は国家か市場かという2分法を否定し、両者の中間にある様々な団体、集団の意義を認めた。

 そのことにより、ヨーロッパで大きな影響力をもっていた左派の福祉国家論や、その対極に生み出されたサッチャリズム=市場原理主義を批判する独自の政策を展開したのだ。

 ギデンズが唱えた「民主主義の民主化」とは、制度としての民主主義を超える参加型民主主義だった。

 「社会運動家、シングルイッシュー団体、NGO等の市民団体は、自治体から世界に至るまでの広い範囲で、一定の役割を果たし続けるだろう。政府は市民団体から学び、それらが提起する問題に答え、それらと協議する用意がなくてはならない。企業やその他の事業体も同様である」(『第3の道』)

 社会を構成するファクターにNGOの活動や人々の自主的な社会参加を積極的に組み込み、そのことによって「アクティブな市民社会」(同)を目指したのである。

 ニューレイバーのこうした戦略のもとで、分断されていた人々の社会的連帯は回復し、サッチャーの市場原理主義によって疲弊していた市民社会は活気を取り戻した。制度としてのデモクラシーだけではない、文字通りのデモス(民衆)のクラチア(権力)が機能したのである。

 振り返って現在の日本では、まったく逆の現象が起きている。中間団体やコミュニティは国家と市場に挟撃されて押し潰されようとしている。デモスはクラチアから引き離され、デモクラシーは危機に立たされているのだ。

 安倍政権は7月参院選で歴史的な大敗北を喫した。敗因の一つは、かつて自民党の票田として機能したムラ的なコミュニティが、地方から都市にいたるまでことごとく壊滅状態になったことだ。小泉政権が強力に推し進め、安倍によって引き継がれた市場原理主義的な改革路線は、文字通り自民党の足元を「ぶっこわす」結果となったのだ。

 だがこのことは、自民党にとってのみの問題ではない。国家と市場の間に存在してきた日本の伝統的な中間団体やコミュニティは、今や死滅の危機に追い込まれている。

 そもそも市民社会は決して一枚岩的なものではない。隣人同士のコミュニティにおける自治と連帯が市民社会を支えている。つまり中間団体の危機は、市民社会の危機を意味するのだ。

 ゆえに現在の日本で問われていることは、中間団体やコミュニティの再活性化を作り出すことだ。ただしかつての自民党の票田として機能したような、ムラ的(閉鎖的)な関係の再生では意味がない。かといって伝統的なものを全否定する設計主義も誤っている。

 民主的なルールに基く自発的なコミュニティを再建し、今こそ日本における「民主主義の民主化」を実現すべきときだ。

<ローカルに考えグローバルに行動>

 世界的にも同様な脈絡でローカルな価値の見直しが行われている。

 かつて「グローバルに思考し、ローカルに行動しよう」がスローガンとして叫ばれた時期があった。確かに国境を越えたグローバルな活動は、世界中の民主化や環境保護などに寄与した。グローバルな価値のローカルな場への持ち込みがポジティブに評価されたのだ。

 だが今日では、グローバリゼーションの負の側面ばかりが目立つようになった。グローバリゼーションは世界中で競争を煽り、人々を分断し、伝統的なコミュニティや文化を破壊している。貧富の格差は拡大し、環境破壊もグローバルな規模で深刻化した。

 こうしたなかで、グローバリゼーションと対抗するローカルな価値の見直しが始まっている。ローカルがグローバルを逆規定する関係が始まっているのだ。例えば地産地消運動やスローフード運動など、ローカルな伝統的価値や生活様式の復権がグローバルなトレンドになり、企業活動もこうした傾向を無視できなくなっている。

 ギデンズは「伝統は・・・連帯性の一般化できる源泉となる限り、救済されたり、再生される必要がある」(『左派右派を超えて』)と指摘している。伝統の保守が右派であり、反伝統主義が左派であるかのようなステレオタイプを否定しているのだ。

 ただし、闇雲に「伝統を遵守せよ」とする全体主義的な主張は受けつけない。民主主義の洗礼を受けるなかで、反民主的な伝統は淘汰され、作り変えられるべきことは言うまでもない。

 ネオリベラリズムと大量消費社会の進展にともない、地域的なコミュニティや自然はいたるところで破壊されている。日本の地方都市では、駅前商店街はシャッター通りとなり、かわって郊外に巨大なショッピングモールが誕生している。過疎化は深刻化し、農林水産業は衰退する一方だ。

 同じ地域に住む人々が直接触れあえる人間関係や自然との共生関係を回復することは切実な課題だ。その鍵はローカルな価値の見直しのなかにある。日本でも昔から人々は鎮守の森に集い、祭りなどの四季の行事を通じてつながり合い、郷土の自然を守る営みを続けてきた。こうした伝統的な営みのなかには、人々が自然を破壊せず、相互扶助で生きていくための知恵が隠されている。

 その知恵に学びつつ、同時に閉鎖的なコミュニティに閉じこもるのではなく、世界に開かれていくことが必要だ。地域から自然をまもり、自治と共生を育む運動を立ち上げつつ、それが世界的なネットワークにつながり、南北格差をなくし、国際平和を築き、地球環境を守るグローバルな運動へつながっていくことを目指すのだ。

 ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックはかつてのスローガンを言い換え、新しい社会運動を次のように表現する。

 「ローカルに思考し、グローバルに行動する」(『グローバル化の社会学』)

 ブントはまさにこうした運動を目指している。

<真の現実主義者はユートピアを忘れない>

 新しい社会運動の担い手は、自らが生活するローカルな価値に根を張りながら、同時にグローバルな視点と行動を併せ持つことが問われる。現実主義的であると同時に、ユートピアを忘れてはならないのだ。

 ギデンズは、左右の理念的な主張を現実主義によって批判すると同時に、現実主義に裏打ちされたユートピアの大切さを訴える両面性をもっている。それがギデンズの提唱する「ユートピア的現実主義」であり、「第3の道」から「新進歩主義」へといたる路線の背景となっている。

 ギデンズによる理念主義的な考え方への批判は、ブントが一貫して行ってきたプラトン主義批判と重なる。プラトン主義とは、現実の背後に現実を超越した「真理」が存在すると考える思考方法だ。理想主義、ゾレン主義とも言えるだろう。われわれは「真理」の高みから現実を批判し、セントラルドグマを現実変革の指針とするような従来の左翼のあり方を超えようとしてきた。

 だが左翼理想主義に批判的になる余り、裏返しのリアリズムに陥ってしまってはならない。なにかしら理想を語ること自体にシニカルになり、理想を抱くことは間違いであるかのような考え方では、そもそも社会運動など存立しようがない。

 こうした傾向は極端な場合、悪無限的な現状肯定に行き着いてしまう。「世の中はこうなっているんだ」「人間とはこうしたものだ」などと語って変革の芽を摘むアクティビストなど論理矛盾だ。ギデンズはこうした誤りに陥らないためにこそ、「ユートピア的現実主義」を提唱しているのだ。

 日本では戦後長らく左翼勢力の影響が強く、その弊害も目立ったことから、左翼理想主義に対しては様々な批判が存在する。

 典型的なのは、伝統を振りかざして理想主義を批判する人たちだ。左翼=「アカ」とレッテル貼りをする古いタイプの左翼批判だ。彼らは、人間は伝統的な価値から逃れられない、あるいは逃れるべきでないと考えている。最近の若者にも、「護憲」「非武装・中立」などの理想主義的な言説をとらえて「反日」のレッテルを貼りまくるネットウヨクが存在する。

 他方では、弱肉強食・優勝劣敗のエゴイズムこそが人間の本来の姿だとする市場原理主義者も存在する。彼らにとっては理想を語ること自体、ナイーブな世間知らずのたわ言にしか映らない。

 復古的伝統主義者も市場原理主義者も、意外なことに左翼からの転向者が多い。左翼世界での自虐のあまり、完全に裏返しになってしまったのかもしれない。しかし、実は彼らは従来の左翼と同様のゾレン主義者なのだ。結局自らの思い描く「あるべき」社会を語っているに過ぎないのである。

 しかし現実の社会では、伝統がそのままの姿で存在するわけではないし、かといって市場原理が全社会をあまねく覆いつくしているわけでもない。伝統や市場メカニズムなどの様々な要素が複雑に絡み合っているのが現実社会だ。

 ギデンズは、従来の左翼理想主義と同様に伝統主義や市場原理主義もまた理念的であり非現実的だと批判する。さらに彼は、これらに単純な現実主義を対置するわけではない。

 グローバリゼーションが進展し流動性が過度に高まった現代では、「現実」とは定まった状態ではありえず、常に変容している。人々は単純に市場原理主義に収斂されるわけではなく、むしろ対極に民族的・宗教的な原理主義を生み出しているし、ローカルな価値の見直しも盛んだ(こうした観点は、本紙1249号鈴木謙介氏インタビューを参考にして欲しい)。

 つまり社会が急速に変貌を遂げる現代にあっては、真の現実主義者は、今ある現実だけでなく後に続く現実(=未来)をも見据えないわけにはいかない。最早現状固定化を主張するだけの古い形の「現実主義」は役に立たない。未来を指向しない「現実主義者」は、左右を問わず守旧派となるのみだ。

<リニアな未来予測は不可能だ>

 ただしギデンズは、社会の未来がリニア(単線的)に予測できると考えているわけではない。歴史は共産主義に向かっていると考えるマルクス主義は、リニアな歴史観の典型だ。こうした考えで社会変革を目指せば多様な可能性に向かって開かれている人類の未来を閉ざすだけだ。ギデンズにとって、未来が不確実であり、多様性に満ちているのは前提的命題だ。

 そもそも近代社会は、宗教的権威から法律、政治、経済などが解放されることによって成立した。だからニクラス・ルーマンは、「機能的システム分化」が近代の特徴だと指摘した。

 つまり近代社会では、宗教システムから社会的機能ごとにシステムが完全に分化し、独立した。その結果、かつては中心(=神)をもっていた世界が多中心的な世界へと変貌し、歴史は宗教によって動機づけられた目的論的な方向性を失う。ニーチェが「神は死んだ」と語った理由だ。

 例えば時速80キロで走行する長距離トラック。この運転が合法なのか違法なのかを決定するのは法システム以外では不可能だ。経済システムから判断した場合には、経済効率のため搬送先にどれだけ早く到着するか、あるいは燃費などが問題となる。工学システムから見れば、80キロでは走行能力の限界は超えておらず、より速いスピードでも十分安定走行は可能だ。しかし生理システムから見れば、運転手は過労死寸前かも知れない。宗教システムから見た場合、例えば運転手がクエーカー教徒ならトラックに乗っていること自体が罪だ。

 まさにトラック1台を運転する行為にしてからが、こうした代替不可能なすべての独立したシステム同士の「諸関係の総体」なのだ。つまりあらゆる人間の行為には、一義的な必然性や決定要因などは存在しない。同様に、社会の動向が一元的に決定されることもあり得ない。そうである以上、社会変革の論理は、マルクス主義のような一元的な論理では不可能なのである。

 歴史の向かう先は、分化し独立した数多くのシステム同士の相互作用によって決まる。力学における「合力」のベクトルとなる他ないのだが、いかんせん社会は数多くのシステムを内包する以上、答えは簡単ではない。それは重力における「三体問題(多体問題)」同様の「複雑系」の世界であり、決して単純な未来予測を許さないものとなる。

 では、すべては不確実性に支配され、人間の意志や実践の介在はもはや不可能なのか?ギデンズは「再帰的近代化」論において、人間の実践を通じたシステム変容の可能性を提起している。

<より良き未来へ向けて不断の実践を>

 ギデンズはルーマンのオートポイエシス(自己組織化)論を発展させ、人間の関心や実践の側からシステムが変容する可能性を説いた。「再帰性はシステムの再生産の基盤そのものに入り込む」(『近代とはいかなる時代か』)

 近代においては既成の価値や権威は不断にその根拠を突き動かされ、検証される。とりわけ近代になって宗教に代わって大きな権威を獲得した科学信仰は今や大きく揺らいでいる。万能に思えたテクノロジーもまた必然的にリスクを生み出すことは常識となった。すべての事柄が懐疑の対象となっているのだ。

 人々は様々な決定をシステムを担う科学者や専門家に任せることが出来なくなってしまった。医療現場でもインフォームド・コンセントが常識であるように、生活世界において自己決定の占める割合が決定的に大きくなってきた。

 またグローバリゼーションは人々や物事の流動性を飛躍的に高め、人々の行為の基準やアイデンティティーを日々変化させている。ナショナルな価値基準が行為の基準ではなくなってきた。ギデンズは、こうした人々の価値観やアイデンティティーの変化がシステムにまで入り込み、システムそのものを変容させていく可能性に注目している。

 もちろん、こうした変化は良い方向にだけ向かうとは限らない。より悪い方向に向かう場合も大いにあり得る。だからこそ人々は「より良き未来」に向かって共同的な投企を続け、社会の舵を良い方向に切る努力を続けることが問われている。

 様々な矛盾をはらむ現代社会の内部からは、変革へ向けた様々な思いや理想(ユートピア)が生み出されてくる。これらと向き合い、対話し、変革の可能性、現実性を探っていくことがわれわれに求められているのだ。

 「ユートピア的現実主義」は、グローバリゼーションの時代における、より良き未来へ向けた現実変革の指針だ。様々な地域でローカルな価値と結びつき、人々と繋がり、自然と繋がりながら取り組んでいる平和、人権、エコロジーのための様々な試みを、さらに発展させていこう。

(1250号 2007年8月25日発行)