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2008年01月01日

社会の多様性と対話するネットワーク型組織をめざそう

ローカルなコミュニティに立脚しグローバルな挑戦を

      水澤努(編集部)

 グローバリゼーションの荒波にさらされる現代社会。ほとんどの企業はこの荒波に棹さして事業拡張を目指す。

 一方、グローバリゼーションのもたらす貧困や環境破壊に抗し、公正と正義を求めて活動するNGO。

 両者は一見すると対極の位置にある。しかし組織の発展にとって問われることは同じだ。いずれも環境変化にいかに有効に対応するか、それを可能とするシステムをいかに創造するのかが核心となる。

 社会学ではタルコット・パーソンズ以降システム論が取り入れられてきたが、経営学でもシステム論は企業活動を分析するツールだ。例えば、企業活動の核心となるマーケティング活動。日本マーケティング協会は、「企業および他の組織がグローバルな視野に立ち、顧客との相互理解を得ながら、公正な競争を通じて行う市場創造のための総合活動である」と定義する。これをシステム論的に一般化すると「マーケティングとは、組織が社会的な環境に適応する仕組みを作る行為である」(津波古透WEBサイト「マーケティング論」)と再定義できる。

 システム論では、世界を「システム」と「環境」に2分し、システムの環境への適応活動を考察する。あるシステムにとり自身以外の要素(他のシステムを含めて)は全て「環境」と定義される。つまりシステム論的に定式化すれば、企業のマーケティングで求められる環境適応のための総合活動は、現代のあらゆる組織の発展にとっても核心命題なのだ。

 こうしたシステム論的アプローチは、複雑化する政治的・社会的状況のなかで、様々な運動や組織と連携し競合する社会運動体やNGOの発展にとっても欠かせない。新しい社会運動のさらなる飛躍のために考察してみたい。

<ピラミッド型組織は近代合理主義の申し子>

社会学者ニクラス・ルーマンによれば、前近代と近代を区別する指標は諸システムの分化と独立にある。

 前近代社会では、宗教的な原理(世界宗教であれ自然宗教であれ)が世俗的な諸システム(政治・経済・法律・科学など)の根底に存在していた。つまり諸システムは宗教システムから独立しておらず、そのため社会は神秘主義的な非合理性に満ちていた。これに対して近代社会は宗教的呪縛から諸システムを分離し、相互に独立させた。近代民主主義の原則である政教分離や三権分立はその典型だ。

 マックス・ウェーバーは、近代社会が立ち上がった原動力は「非合理」を「合理化」していく力だとし、このプロセスを「脱呪術化」と呼んだ。この「合理化の力」は、呪術や神秘主義などの非合理的な慣習の支配をうち破り、効率的で計算可能なルールや生活慣行を生み出した。その結果近代合理主義に立脚する社会が誕生したとウェーバーは考えた。テンニエスはこれを、ゲマインシャフト(共同社会)からゲゼルシャフト(利益社会)への転換と表現した。

 近代化の歴史的プロセスは、当然人間の内面世界を変革するプロセスでもあった。人々の心から迷信やタブーが追い払われ、代わって合理主義的、個人主義的パラダイムが「常識」として埋め込まれた。それによりゲゼルシャフトで生き抜く能力が形成されたわけだが、もちろん自然と身に付いたわけではない。まさにミッシェル・フーコーが指摘したように、近代におけるディシプリン権力の強力な訓練と規律の下で初めて可能となった。廣松哲学で言えば、権力によるサンクションを通じた通用的真理の形成だ。

 こうしたプロセスを通じて、目的合理性は近代社会を支配していく。様々な目的をできるだけ無駄なく効率的、合理的に実現することが社会の重要な尺度となり、それに合わせて社会的関係は形成されていく。当然あらゆる組織には、徹底的に目的合理性の論理が貫かれることとなる。

 ある特定の目的を設定し、それをもっとも効率的に実現しようとすれば、組織形態は自ずと専門化・中央集権化を遂げていく。近代社会がピラミッド型組織を必然化させる所以だ。だからこそウェーバーは、官僚制を近代の不可避的な産物であると喝破していた。

 かってソ連邦は、ノーメンクラトゥーラと呼ばれた巨大な官僚機構によって支配されていた。その頂点にあった共産党一党独裁は、ロシア革命を導いたボルシェヴィズム=レーニン主義的中央集権性の帰結だ。ソ連共産党は、あらゆる需要と供給を目的合理的に統制する計画経済に固執し、その結果経済的破綻に追い込まれて自壊した。共産主義もまた、近代合理主義のパラダイムを超えることはできなかったのだ。

<中央集権的な組織は限界に直面した>

 ソ連邦の崩壊は端的な例だが、資本主義社会でも社会(組織)の悪無限的合理化は行き詰った。合理化、ピラミッド化のプロセスは途中で転回を遂げざるをえなかったのである。

 戦後経済を牽引した重厚長大産業がオイル・ショックを経て失速しつつあった80年代初期、ビジネス書『エクセレントカンパニー』がベストセラーになった。コンサルティング会社マッキンゼー出身のトム・ピーターズ、ロバート・ウォーターマンが、当時の優良企業を分析したレポートだ。

 日本の経営学者野中郁次郎はこの本に触れながら、『企業進化論』を著した。野中は、当時アメリカで支配的だった経営戦略は、「まず環境要因を徹底的に分析し、自社の資源展開をそれにあわせて論理的に行い、その後に戦略実行の用具としての組織を戦略にあわせて設計するという基本性格を持つ」と分析している。これは文字通り、目的合理的な組織運営だ。

『企業進化論』

 野中にとって『エクセレントカンパニー』が刺激的なのは、こうした「分析的戦略論」は「平均的な米国企業では、必ずしもうまくいかなかった」と指摘しているからだ。

 「ピーターズ&ウォーターマンは、米国の好業績企業は分析的戦略に基づく経営というよりは、企業内の組織単位が自立的な試行錯誤の実験を通じて、実践的な戦略が生み出せるような行動志向の組織や文化をつくりあげていることを発見した」

 トップがミッションを決定し、これを細分化された専門部署で実行に移すトップダウン型の中央集権的な組織は限界に突き当たった。逆に各セクションが自立し、自由にボトムアップ可能な組織こそがエクセレントカンパニー(優良企業)へ飛躍した。

 戦後の共産主義体制瓦解プロセスと並行しながら、西側の民間企業でも中央集権的な組織の没落は進んでいた。特に70年代から80年代にかけて「重厚長大」産業から「短小軽薄」産業への転換が叫ばれるなか、ピラミッド型組織の限界は徐々に認識されていく。

 こうした産業構造転換の兆しのなか、60年代から70年代にかけて登場した経営理論がコンティンジェンシー理論だ。バーンズ=ストーカーやローレンス=ロッシュなどが、主に次代を担うエレクトロニクス産業などを研究し、提唱した。

 キーワードである「コンティンジェンシー(contingency)」は、最近の社会理論では重要な位置を持つ。〝contingent upon〜〟は〝〜に条件付けられる〟を意味する。つまりコンティンジェンシーは、あらゆることは相互に条件付け合っていることを示唆している。唯一の原理=セントラル・ドグマは存在しないのだ。

 それゆえこの概念は、ポスト・モダン系やプラグマティズム系の思想と相性がいい。例えばリチャード・ローティーの代表作『偶然性・アイロニー・連帯』における「偶然性」は「コンティンジェンシー」の訳語だ。アンソニー・ギデンズの著作でも「不確実性」と邦訳されて度々登場し、ルーマンの著作では偶然性とも不確実性とも訳されている。

『偶然性・アイロニー・連帯』

 経営論で使われる場合には次のような意味になる。

 「いかなる環境下でもつねに有効である組織化の方法というものは存在せず、組織が有効であるか否かは、組織化の方法と環境とがフィットしているかどうかに依存している」(『企業進化論』)

 核心は、組織のあり方はあくまでも環境(市場)に条件付けられていることだ。プラグマティズムを徹底化させた組織論である。

<環境に柔軟に対応できるネットワーク型組織>

 「コンティンジェンシー理論」が興隆し、『エクセレントカンパニー』が注目された背景は、一元的な市場が崩壊し、均一な需要が消失したことにある。

 それを端的に物語るのは、1985年に大手広告代理店博報堂生活総合研究所によって編集され、日本経済新聞社から発行された『分衆の誕生』だ。当時一世を風靡した同書は、次のように時代状況を分析した。

 「均質的な大衆社会は次第に崩壊し、個性的、多様的な価値観を尊ぶ個別な集団が生まれつつあった。『分衆』の出現である」

 「分衆」は博報堂の造語だが、当時の流行語となった。高度経済成長を牽引した3C(カー、クーラー、カラーテレビ)の「3種の神器」は消失し、国民は消費生活における「大きな物語」を喪失した。生活必需品をベースにした「ほんとうの」需要は後景化し、需要は相対的差異の時代に突入した。商品の基本性能だけでなく、ニーズに応じた、あるいは新たなニーズを創り出す多様な付加価値が重要な要素となったのである。

 当時ソ連東欧圏は相変わらずの計画経済を続け、画一化・均一化された供給しか行えず、しかもエレクトロニクス産業などの知的集約産業は決定的に立ち遅れてしまう。「重厚長大」産業の競い合いではなんとか資本主義に対抗していた共産主義体制は、一気に失速した。

 そもそも計画経済は、「差異の戯れ」の中で増殖する人々の欲求に対応する術を持たない。市場淘汰にさらされない商品は、国営企業に品質重視のインセンティブを生み出すことはなく、西側との競争力の差は拡大する一途だった。ソニーがトリニトロン技術を開発している時、ソ連の国営企業は火を噴くカラーテレビしか造れなかったのだ。

 「分衆」の欲求に対応するには、企業は人々の多様性に密着しなければならない。マーケティングの現場からのフィードバックが決定的に重要なのだ。だから『分衆の誕生』は次のように指摘した。

 「大多数の人々が似たようなものを欲しがり買い求めた大衆の時代には、ヒエラルヒーのしっかりした大組織が効率よく、大量生産品を作り出すことが必要であった」「その大組織自身が『次に生産すべきもの』を探り出す必要に迫られている。創造性を押しつぶしがちなヒエラルヒーの重みを軽減するために『社内アドベンチャー』のようなネットワーキングの思想を取り込まざるをえなくなっている」「マスの解体は、ピラミッド型組織にも改編を迫っている」

 変革を迫られたのは共産主義的計画経済だけではなかった。資本主義においてもピラミッド型企業組織の抜本的な見直しが迫られ、これに対応できた企業はエクセレントカンパニーへと発展したのだ。

 こうした時代状況の変化は、社会運動に何を問いかけていたのか? 資本主義が多様化し人々のニーズも多様化している以上、社会的矛盾も多様化する。しかしこの時代にあっても、日本の共産主義勢力はあくまでもマルクス主義の理念にしがみついていた。

 労働者階級を均質で画一的なものとして措定し、その究極のニーズは共産主義社会の実現だと手前勝手に解釈して「大きな物語」を追い続けたのだ。しかしそんなニーズはカルト的にしか存在しないから、先細りは不可避だった。

 1世紀半前の理論と20世紀初頭ロシア革命時の組織論からすべてを語り続けるなど、知的怠慢以外のなにものでもない。見直しを拒み続けるのは、カルト的思い込みでしかないだろう。

<組織構造のパラダイムチェンジが必要だ>
 
 89年以降のソ連・東欧共産圏の歴史的消滅は、共産主義の「大きな物語」の終焉を意味した。そうしたなかでブントは、左翼運動の行き詰まりを打開すべく「左翼思想のパラダイムチェンジ」を提起し、マルクス・レーニン主義からの完全なテイクオフを目指した。

 廣松哲学や現代思想から学びつつ、プラトン的な真理の実体化を退け、イズムをセントラル・ドグマに措定することのない新しい社会運動を模索してきた。

 その帰結として97年、綱領的内容から共産主義理論を完全に放棄し、組織名もブントと改変したのだ。それから10年を経た今日、いよいよ組織構造の変革でも大きな飛躍をすべき時だ。「パラダイム・チェンジ」以降進めてきたレーニン主義(=中央集権主義)からの脱却を最後的に実現しなければならない。

 2007年5月のブント総会では、「レーニン主義の未克服」が突き出され、組織のネットワーク化に向けた改革の方向が次のように提起された。

 「無理やり〈地区党〉―〈支部〉構造を維持しようとしたセクションはますます苦しくなり、組織運営を現実の運動に合わせて柔軟に行ったセクションでは、少なくとも運動の実体化に成功している。われわれはブントの維持それ自体を自己目的化しているのではなく、社会運動ミッションのためにブントに集っているのであるから、運動的な要求に合わせて組織構造を転換するのは自然なことだ」(総会討議資料より)

 「組織運営を現実の運動に合わせて柔軟に行ったセクション」の一例は、圏央道建設に反対し高尾山の自然保護に取り組んでいる会員たちだ。彼らは地元の「虔十の会」に参加し、旧来の〈地区党〉―〈支部〉構造にとらわれない組織と運動を創造してきた。あくまでも自分たちが立脚する地域的な課題の実現にそって組織を運営し、ユニークな運動を立ち上げてきたのである。彼らの経験は、今やわれわれの新しい運動の方向性を示唆している。

 党は普遍的なものを体現し、地域的な課題は1ランクレベルが低いなどという「唯一の前衛」的な視点は、「左翼思想のパラダイムチェンジ」とは相容れない。歴史にも社会にもすべてを見渡す特権的な視点や立場は存在しないと考えたからこそ、ブントは自らを「環境と人権をテーマに行動するNGO」と規定したのだ。

 ゆえにわれわれの組織の実体は、あくまでも地域的な課題、あるいはシングルイシューに立脚した各セクションやプロジェクトであり、それらのネットワークの総体なのだ。

 言うまでもなく、われわれが目指すのは「前衛」を中心として同心円的に、あるいはツリー状に拡大を志向する党ではない。様々な運動の現場からのフィードバックがネットワーク全体を活性化し、そのなかで各セクションやプロジェクトがさらに自立していくネットワーク型組織こそが目標だ。

<組織の創発的な発展をつくりだすために>

 博報堂が「分衆」や「ネットワーキング」を提起してから20年以上経過した今日、企業経営において「組織のネットワーク化」は流行にさえなっている。そこで頻繁に問題とされることは、「創発」的な発展を可能とする組織構造の創出だ。

 ルーマン理論でもキー概念である「創発(Emergence)」は「21世紀の時代状況を表現するキーワードとして社会に登場してきている」(『創発する社会』國領二郎)とまで評価されているが、Wikipediaでは次のように解説している。

 「部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される」

 つまり個別の要素間の相互関係の変化は、場合によって全体のゲシュタルトチェンジ(形態変化)を引き起こすことを意味する。気象学者のエドワード・ローレンツが「ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか」と比喩的に提唱したバタフライ効果にも似ている。

 組織に引きつけてみれば、トップによる指令ではなく、組織の様々な部署の実践が組織全体を巻き込む予期せぬ大きな変動を生み出す可能性を示唆している。であるならば、創発的な動きが活性化する組織設計こそが望まれるわけだ。

 今日のユビキタス社会では、ネットワーキングによって自由な討論はますます加速され、それが社会そのものを大きく変容させようとしている。組織がこの流れに対応するためには、多様なアンテナを張り巡らせ、変化のスピードに乗り遅れないよう心がける必要がある。この時代のなかで、十年一日のごとくドグマにしがみつくことは自滅に等しい。

 同様の事態についてギデンズは、後期近代において「再帰性」は一層加速されると指摘した。どのような権力や権威も、再帰性からは免れない。人々の自発的な承認のない権威はすぐに失墜する。「民主主義」でさえ制度(ルール)が整っていれば承認されるわけではなく、不断に人々の自発的参加と承認が求められる。

 ギデンズの提起した「民主主義の民主化」は、あらゆる組織、とりわけ社会運動を担う組織においては必須なのだ。指導―被指導の関係を固定化しない創発的なシステムは、オートポイエシスないしは自己組織化(セルフ・オーガナイジング)と呼ばれる。

 「セルフ・オーガナイジング・システムの最も重要なことは、秩序が上からの命令でつくられるのではなく、構成要素の協同作業によって下から生み出す、つまり自ら情報を〝創造する〟ことなのである」(『企業進化論』)

 勿論、スターリン主義を内在的に克服しようと苦闘してきたブントの歴史では、「個と全体の弁証法的な関係」は常に問題にされてきた。共産主義批判は、全体主義批判であり設計主義批判としても展開してきた。

 しかし理論上の批判だけでは現実は変わらない。具体的・現実的に創発的組織に転換することが問われている。今こそすべての会員は、能動的、自発的、創造的に日々の実践に取り組んで欲しい。

<現場から生まれるサブ政治が世界を変える>

 政治の場面でも、同様の事態が進行している。従来の「大きな物語」は終焉し、政治は従来のシステムから離脱して、様々なジャンルの中に転移し、増殖し始めている。

 例えば農民作家山下惣一氏の次の指摘は的を得ている。

 「産消提携も有機農業も減農薬も地産地消も直売所も農業加工も田んぼの学校も棚田サミットも、みんな現場から生み出されたものだ。時代をリードしてきたのは、政治ではなく実は現場だったのである。共通しているのは、みんな一緒に生きていこうという『共生』の思想である。私たちが希求しているのはそういう世の中である」(『脱グローバリゼーション(現代農業11月増刊)』農文協)

 かつて政治的世界とは無縁だと思われた領域で、政治は非政治的言語を通じて機能し始めている。エコロジーはもちろん、ジェンダーや人々のアイデンティティ、生き方をめぐる論議は、今や政治的な論議とクロスオーバーしている。政治と文化とは渾然一体化しつつあるのだ。

 ウルリッヒ・ベックはこの事態を、「一方で、制度の政治的空洞化が、他方で、政治的なものの、制度に依存しない復活が進行しはじめている」と表現し、これを「サブ政治」と規定した。

 「サブ政治の活発化によって、政治が次第に消滅していく」「政治的なものが、公的権威や公のヒエラルヒーを超えたところに、突如姿を現し、噴出していくのである」(『再帰的近代化』ギデンズ=ベック=ラッシュ共著)

 これはあたかもサブカルチャーの興隆によりメインカルチャーが相対化され、没落していくのと似ている。年輩者は「今時の若者は政治に関心がない」と嘆く。それほどまでに既存の政治システムは神話性を喪失し、権威は失墜した。

 しかし若者は、旧来の政治的言語に関心が無いだけで、非政治的言語によって近代社会の諸矛盾に悩み、異議申し立てを行っている。それは今や権威を喪失した従来の政治的世界よりも時に政治的であり、ラジカルとなる可能性さえある。現代世界が抱える環境や貧困問題への関心は、年輩者よりも若者の方がはるかにも強い。

 「したがって、われわれは、政治的なものを、見当違いの場所で、見当違いの階で、新聞の見当違いの紙面に捜そうとしているのである。…たとえば、私生活やビジネス、科学、都市共同体、日常生活等――が再帰的モダニティ段階になると、政治的対立の嵐に飲み込まれるようになる」「政治的なものの終焉が証明された後での政治的なものの〈(再)創造〉の可能性こそ、われわれが切りひらき、光を当てていかなければならないものなのである」(同上)。

 シングルイッシューに立脚し、あるいはローカルなコミュニティを拠点として新しい社会運動を展開していくことは、「サブ政治」による「政治の再創造」をめざす実践なのである。

<世界に開かれたしなやかな絆を広げよう>

 サブ政治は、コミュニティや個人生活の領域においてのみ広がっているのではない。

 ベックは『リスク社会論』において、「『サブ政治』という概念は、国民国家の政治システムという代議制度の彼方にある政治を志向」すると指摘した。

 例えば地球規模の環境問題は、個人の健康問題に影響を与え、コミュニティの保全を左右し、子供達の未来を規定する。地域やコミュニティでより健康的で文化的な生活を送るためには、ますますグローバルな環境問題を無視できなくなる。

 「世界は、グローバルな危険の挑戦によって、ナショナルなものを超えた再モラル化、行動、抵抗の形式やフォーラムやヒステリーのための新たな源泉を有することになる」「身分意識や階級意識、進歩信仰や没落信仰、共産主義という敵対像の代わりに、世界(環境)救済という人類のプロジェクトが登場しうる」(同書)

 ローカルな矛盾は一直線にグローバルな危機とつながっており、関心や活動をローカルに留めれば足元の問題すら解決できない。だからこそ、国境を超えた人々の連帯や連携がかつてなく広がり、強化されている。

 毎年開催されるG8サミットには、ローカルな運動を取り組む数多くのNGOや市民グループが全世界から集結し声を上げているではないか。世界の指導者達は、こうした声を無視できなくなりつつある。2007年のドイツ・ハイリゲンダムサミットでは、市民の要求により気候変動問題が焦点化された。

 ローカルなコミュニティを拠点にしながらグローバルな世界への連なりを志向する社会運動は、今や世界のトレンドなのだ。

 地域やシングルイシューの現場からわき上がる近代社会への批判、環境破壊への危機感、貧困の拡大への怒りを結びつけ、グローバリズムに抵抗する世界的なネットワークに参加しよう。

 世界の人々と絆を結びつつ、新しい社会運動を発展させよう。

(1259号 2008年1月10日発行)