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「戦場のピアニスト」DVD
 


ポーランド未だ滅びず

 

奪われた祖国ポーランド―ミコワイチク回顧録
 

 

黄色い星―ヨーロッパのユダヤ人迫害 1933‐1945

 


ハンナのかばん―
アウシュビッツからのメッセージ

 

ワルシャワ蜂起1944
近代ヨーロッパと東欧―ポーランド/西洋史ライブラリ  (7)
ヨーロッパ史研究の新地平―ポーランドからのまなざし
キュリー夫人の末裔―ポーランドの女性
戦争と占領―あるポーランド家族の体験

 

第二次大戦のポーランド人戦闘機エース


歴史家と民族意識―ポーランドの民族的伝統についての省察
ポーランド・ウクライナ・バルト史
ポーランド現代史世界現代史
ポーランド革命史研究
異郷と故郷―ドイツ帝国主義...新しい世界史

ドイツ侵攻とポーランド農民ドゥジマーワ

アウシュヴィッツの悲劇
ガラスの盾/ナチスからワルシャワ王宮を守った人たちの物語
生きのびる―クラクフとユダヤ人
わがユダヤ・ドイツ・ポーランド―マルセル・ライヒ=ラニツキ自伝
母への手紙―アウシュヴィツの聖者コルベ神父
収容所・駐日ポーランド大使亡命記
戦争と子ども・1939〜1945


天の涯(はて)まで―コミック版
ポーランドの農業と農民
―グシトエフ村の研究
「夜と霧」をこえて/ポーランド・強制収容所の生還者たち

 

ドイツの長い一九世紀―ドイツ人・ポーランド人・ユダヤ人・シリーズ民族を問う

 

 第二次世界大戦 ・ ワルシャワ蜂起記念碑 ・ 少年蜂起兵の像 ・ モンテカジノ戦記念碑


1939-1945年の第二次世界大戦で、ポーランドは未曾有の被害をこうむりました。特に首都ワルシャワでは、市民蜂起軍とナチス・ドイツ軍の徹底抗戦の末、見渡すかぎり 一面焦土とかし、20万人以上の戦死者を出しました。

この市民蜂起は、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻から5年が経過した1944年8月1日に起こりました。ドイツ軍 に各地で連勝していたソ連軍がついにヴィスワ川右岸に達したことを見計らい、ソ連軍という強力な後ろ盾を支えに、ワルシャワ各地で市民が武器を手に一斉蜂起 したのです。

最初優勢だったのは蜂起軍の方でした。蜂起軍のあまりの勢いに驚いたナチス・ドイツ軍は、火炎放射器で建物をことごとく焼はらう全滅作戦にでます。その結果時間が経つにつれ蜂起軍は次第に力を失っていき、期待していたソ連軍からの援軍もなく、1944年10月10月12日、ついに降伏 しました。



1944. ワルシャワ蜂起記念碑 Pomnik Powstania Warszawskiego 1944r.

   

 蜂起軍はポーランド国歌「ポーランド未だ滅びず」を歌いながら最後まで武器を手に列を作って行進し、ナチス・ドイツ軍も蜂起軍の勇気をたたえ、それを認めたと言われています。

1988年、ワルシャワ市民蜂起45周年を記念し、クラシンスキ広場(pl. Krasiński) にワルシャワ蜂起記念碑が建てられました。旧市街広場から徒歩5分、まさに45年前に蜂起軍が武器を捨て投降した場所です。参考:『ポーランド未だ滅びず』
   



バルバカン外壁にたつ少年蜂起兵の像
 Pomnik Małego Powstańca

 

ところで後ろの青い柱とガラス張りの建物は、ワルシャワ最高裁判所です。青い柱は広場正面からBonifraterska 通りを横切って、通りの向こうまで続いており、はっきりいってワルシャワ蜂起記念碑よりも最高裁の建物のほうが目立っています。

ワルシャワ市民蜂起では、10代以下の少年・少女も、手に手に武器を取り、ドイツ軍に立ち向かいました。 体の大きさに見合わない大きな銃を下げている姿が涙を誘います。。

ワルシャワ市民蜂起の様子は、アンジェイ・ワイダ監督の映画「地下水道」に詳しく描かれています。

右:クラシンスキ公園
モンテ・カジノでのイタリア軍との戦いを
記念したモニュメント






 ワルシャワゲットー・ムラヌフ地区 ・ ゲットー蜂起記念碑 ・ ザメンホフ通り



ワルシャワ ゲットー記念碑 ムラヌフ地区

ムラヌフ地区はもともと戦前にユダヤ人が多く住んでいた地区で、1939年ワルシャワがナチス・ドイツ軍に占領されると、このムラヌフ地区にユダヤ人居住区(ゲットーgetto)が設けられました。 ユダヤ人は腕に青いユダヤの星をつけることを義務付けられ、ゲットーに強制移住となりました。一方、ゲットーに設定された地区に住んでいたポーランド人も、逆にゲットーの外に強制移住になりました。

ゲットー記念碑は、観光客が大勢集まる旧市街広場・王宮前広場から歩いて10分ほどのところ 、ザメンホフ通り(ul. Zamenhofa)の一角にあります。碑の表側には1943年のゲットー蜂起の様子が彫刻されています。ここはうってかわって観光客の姿はまばらです。



   

パネル展にて当時のゲットーの様子を紹介していました。

左:パネル展より、かつてのゲットーの位置を示す地図

地図をみると、Jan Pawel II 通り、Polski Express のバス停付近、文化科学宮殿(北側半分)など現在のワルシャワ中心部のかなりの部分が元ゲットーであったことがわかります。

黒線:初期のゲットーの壁(1940年11月から1941年10月にかけて建設)
赤線:1942年9月以降のゲットー
  :1942年9月から1943年4月にかけてのユダヤ人居住区


中:大ゲットーと小ゲットーをつなぐ歩道橋

ゲットーが設立された当初、ゲットー内には30万人以上のユダヤ人がひしめき合って住んでいました。ゲットーは大ゲット ーと小ゲットーからなり、2つの区画は歩道橋で結ばれていました。しかし飢えや衛生状態の悪化からゲットーの人口はどんどん減っていき、更に1942年夏にゲットーから収容所へのユダヤ人輸送が開始されると、まずは小ゲットーが解体され、1942年9月にはついに大ゲットーも解体され、残っていた人々はザメンホフ通り東側の閉鎖された居住区に追い立てられました。


 



 

右:ゲットー内・ムラヌフ地区を走る路面電車。ユダヤの星をつけています。

ゲットーは狭いといっても徒歩で移動できるほどではなく、通りには路面電車が走り、また喫茶店や映画館もありました。ナチス・ドイツ軍は 「ゲットー設置は優秀なユダヤ人を一箇所にまとめて野蛮なポーランド人から保護する為」と嘘のプロパガンダを行っていたため、 ゲットーのユダヤ人は、影で身の毛もよだつ「ユダヤ人絶滅計画」が進められていることに気付きませんでした。

写真:パネル展より、トレブリンカ収容所の写真

トレブリンカ収容所はワルシャワとビヤリストックの中間に建設されました。一度連れてこられたら生きて出ることができない絶滅収容所といわれ、孤児院の院長をしていた 教育学者のヤヌシュ・コルチャック先生、映画「戦場のピアニスト」で有名なピアニストのシュピルマン一家 をはじめ、30万人を越えるユダヤ人がトレブリンカ絶滅収容所に運ばれたきり、戻ってきませんでした。





ゲットー蜂起英雄の碑

ザメンホフ通りとミワ通りの交差点に、ゲットー蜂起の指導者らを追悼するモニュメントが建っています。イスラエルからの修学旅行生が必ず立ち寄る場所で、いつもたえることなくお花が飾れれていますが、他の観光客の姿はほとんどありません。





(逆光なのでわかりにくいですが、
塚の上に左の記念碑が立っています。)

 

 ウムシュラークプラッツ (UMSCHLAGPLATZ)


死の待合室ーウムシュラークプラッツ 
UMSCHLAGPLATZ

ウムシュラークプラッツは、もともとはグダニスク方面へ向かう貨物列車の荷物詰め替え場所でした。しかしワルシャワがナチス・ドイツ軍に占領され、ゲットー にいたユダヤ人の収容所への輸送が開始されると、この広場が、絶滅収容所行き列車の待合室となりました。


生きてウムシュラークプラッツを出たものはいない
 −出られるのは死人だけなのである−

ウムシュラークプラッツへ行ったら最後、もはや生きて帰ることは出来ず、列車に乗せられ、行く先にはトレブリンカ絶滅収容所が待っていました。

一方長時間列車を待たされているうちに飢えや疲れから死んでしまう人も多く、死体は大八車で近くのユダヤ人墓地へと運ばれました。もはや亡くなった人のみが死の待合室を出られたのです。

現在この場所は、芝に覆われた空き地になっています。空き地の南東の一角に は、貨物列車一両分の大きさをかたどったモニュメントが建ち、英語・ポーランド語・ヘブライ語で追悼文が刻まれています。

 



当時の様子(パネル展から )



映画「戦場のピアニスト」でもウムシュラークプラッツの様子が詳しく描かれています。主人公ヴワデック・シュピルマンの一家は、ゲットーからウムシュラークプラッツへと追い立てられ 、収容所行きの列車に乗る列にならばされました。その時運良く、ユダヤ人自衛警察となっていた友人ヘス がヴワデック・シュピルマンの姿を見つけ、彼を列から引きずり出しました。こうしてヘスに助けられ、トレブリンカ行きを逃れたシュピルマンは 、その後ゲットーからも脱走し戦争を生き延びることができました。しかし彼の家族はそのまま列車でトレブリンカ収容所に運ばれ、助かりませんでした。