2009-10-04
■名作商売(著作物の名称について)
それで、ふと疑問が浮かんだ。まったくの思いつきなのだが…。
これをこころよく思わない元著作権者(以下A)もいるわけだ。
だったら、Aはパブリックドメイン作品DVD製作販売者(以下B)に対し、
「映画の作品名と監督名をパッケージに記載するな」という訴えを起こせばいいのではないか。
建前上、BはAの権利が切れた著作物を「自分のものとして」売っているわけだ(製作ロゴや配給ロゴは切られている)。
Bは自分のものである映像作品に、自分でタイトルをつける権利と義務があるのではなかろうか。
ここは私の無知からくる間違いかもしれないが、Aが過去に決めた作品のタイトルもまた著作権に含まれて、期間が過ぎればそれも勝手につかわれ放題になるのであろうか。
漱石や芥川の作品などは、出版慣行はどうだか知らないが、法律上は遺族に無断で勝手に出せる(違った?)。
この場合は、出版社が勝手にタイトルを変えないのは、慣行だからとしか言えない。文庫のカバーを、あんな漫画家(失礼)に書かせるくらいだもの、もっと売れそうなタイトルに変えちまいたいな、と思っている編集者はいるだろう。当然ながら本文の表記は、以前から、変え放題なわけである。おととい新潮文庫の乱歩短編集をみたら字の並びが馬鹿っぽくてくらくらした。
つまり、変わってないのは、タイトルと著者名と本文の音(というのも苦しいが)だけ、ということになる。これは、法律的には何と呼ぶのだろう。実はこれを知りたいのだ。コピーライトではなくて、オーサーライトというべきようなもの(自分で口走ってたら、ウィキペディアにあった。しかしなんで日本語ページがないんだ…)。
あと、校閲者というのは、業界内では名が知られるということもあるのかもしれないが、一般読者まではなかなか伝わらない。私が知っているのは倉阪鬼一郎くらい。こういう人の存在は、やはり出版社の財産ということになるのだろうか。校閲にも権利があるような気がするのだが。テレビ番組のテロップみたいに名は出てしかるべきではないか(青空文庫はやってる)。
しかし、著作権の権利が切れるというのは、そもそもその著作物を他人が当人に断らずに勝手につかっていいことであるはずだ(そこで著作人格権なのかな?)。ズタズタにしたっていいだろう。劇映画を編集(部分削除とはっきり言った方がいい気がするが…)するテレビ局が、その内容をいちいち映画会社に報告しているはずもなく…。
もしそれをブロックする法があるのなら、それはどんな考え方を根拠にしているのだろう。
ここらへんが、ちょっと面白いな、と思うのでした。昭和ガメラなんかも、いまや角川映画だしな。歴史の改竄だって怒ってるファンが知り合いにいるのだ。
だんだん、自分の中で整理されてきた。
ようするに、私は名作商売というのが気に入らないのだ。
古い映画にあたらしい音楽を挿入したり、字幕パネルを付け足して物語を明確に伝えたり、冗漫なシーンを省略してしまえばいいではないかと思うのだ。
そうやって作ったものに、そんなに安くない値段をつければ、それで結構なことではないかと思うのだ。
キートンの映画をレストアして音楽を付け、活弁を入れ、画面を着色したバージョンを放送で見たが、ああいうの。
出版物、おっと、著述ならば、出版社と独立無関係に著者が書きためることもあるだろう。
しかし、映画作品は、大体が映画会社がつくるものであって、資本もないのに映画監督だけがぽつんといてもしょうがない。
(暗いスタジオにスポットライトが垂直におろされ、そこにはディレクターズチェアにすわって沈思黙考する斎藤清六が。