98,1/24AM2:30

 昌宏の言葉

 あのなあお母さん、次の説明文を付けてほしい。

 生前ゴジラマニアだった昌宏は平成9年7月24日に18才で急な事故でなくなったが母親に霊界通信を送ってきている。霊界の菩薩界の芸術の塔のところで映画をやっているところがあって、そしてゴジラの映画も記録されていて、生前、映画に携わっていた霊人の円谷英二特技監督に会った。 

 円谷英二特技監督は芸術関係の指導霊になっていて昌宏を通じて通信を送ってきた。この「ゴジラの霊」は霊界通信で母親の元へ送られてきて作られたストーリーです。                                                            98,2/17PM6:48

   ゴジラの霊           特技監督   円谷英二

                     特技監督助手  中田昌宏

                     脚本     円谷英二

                             中田昌宏

                             中田富美子 

1997年、7月のある日18歳のゴジラマニア少年昌宏は毎晩うなされていた。1995年の12月9日の自分の誕生日に大阪の梅田劇場で見たゴジラ対デストロイア(ゴジラ死す)のゴジラが自ら爆発して死んでいく姿が夢に出てきてうなされていた。そして夢遊病者のようにふらふらと二階のリビングルームの外のベランダへ出ていた。

「うわあ、助けてくれ」と叫んだので、隣の和室の部屋で寝ていた母親と父親は驚いて飛び起きてベランダの方へ走り寄った。

 昌宏は誤ってベランダの下へ落ちようとしていたので父親と母親は必死で昌宏を引っ張りあげた。それから両親は昌宏を抱き抱えて部屋へ連れていった。そして布団へ寝かせて手を合わせて祈って落ち着かせた。

 昌宏は少し落ち着いて親二人に話した。「毎晩ゴジラ死すで見たゴジラが爆発して倒れて死んでいく姿が浮かぶ、夢に見るんだ。

 母親は心配そうに言った。「ねえ、貴方このままだったら昌宏はノィローゼがひどくなるわ。どうしましょう。」

 父親もどうしたらいいか呆然としていた。

 母親がその時思い出して言った。「丹沢博士の心霊研究に関する本をよんだことがあるの。そこの心霊研究所に相談してみたらどうかしら明日そこへ電話してみるわ。」

 そして次の日、母親はそこの丹沢心霊研究所に電話した。

「息子がノィローゼなんです。」と母親は言った。

「今日すぐに連れてこられますか。来て下さい。」と電話に出た博士は言った。親子三人は午前10時半頃に丹沢心霊研究所に向った。

 丹沢心霊研究所は中国自動車道の滝野社インターから入って高速道路を車で走って一時間位のところで兵庫県多可郡の東播磨日時計の丘公園の近くの静かな温泉の湧き出る別荘地でログハウスで作られた三階建ての建物だった。 心霊研究所の所長丹沢博士が前もって電話してたので出迎えてくれてた。 丹沢博士は50歳代位で白髪交りの髪をオールバックにしていて、銀縁の眼鏡をかけた老紳士風であった。

 中田親子三人は丹沢博士のカウンセリング室で昌宏のノィローゼノことで相談した。

「これはですね、どうもその毎晩現れるゴジラの霊が昌宏君にすがってきているのだと思います。それで成仏させるためにどこかにゴジラの像を作って墓か石碑を建てなければならない。」と丹沢博士は説明した。

 それからしばらく親子三人は博士の話を色々聞かされた。

「私の心霊研究所では神経科と違って薬物療法は行っていない。薬は副作用があり良くない。霊的現象が人の心に何らかの影響を与えているということは見逃せなく心霊研究はこれからの重要な研究課題になり、そう意味で心霊治療の記録は研究に必要な資料になるので、こういう分野はこれから発展していくと私は思います。好きでないと出来ない仕事ですが、私は精神医学を選考していますが心霊学の勉強は独自でやってるんです。」

 それから親子三人は午後一時前に心霊研究所を出たが帰りに丹沢博士は親子に言った。「今度次の日曜日にこの心霊研究所の三階の多目的ホールで心霊研究講演会がありますので来て下さい。」

 博士はそういうと親子に招待状を渡した。この講演会には一般の人から学者クラスも出席していると話した。

 それから親子は心霊研究所の隣の棟続きの建物の「ろぐはうす」というレストランで昼食をした。親子三人とも「ログハウス」お勧めの焼き肉定食を注文した。飲み水は地元の湧き水で美味しかった。

 そこのレストランのオーナーは丹沢博士らしく店の者が話していた。

 レストランを出た親子は帰りに日時計の丘公園に30分位寄って休憩してそれから親子は又高速道路を車で走って家路にたどり着いた。

 昌宏は次の日から家の屋上にゴジラの像を作る作業をしだした。木と針金で骨組みを作り特殊粘土で肉付けをしていく過程で作っていった。

 昌宏はゴジラの像を作りながら幼少のころからゴジラや恐竜に興味があってそのことを思い出しながら作っていった。又そういうユニークさは母親の影響もあった。母親の富美子は詩を書くのが好きで時々書いていたし昌宏の幼少の頃に絵をよく描いてやった。それに母親の父方にもう亡くなっているが芸大を出て東京に住んでいたが、絵描きをしていた高瀬勤という大叔父さんがいてそういう血筋のせいか昌宏は幼少の頃から絵を描きはじめ芸術的感性が育っていった。

てそのことを思い出しながら作っていった。又そういうユニークさは母親の影響もあった。母親の富美子は詩を書くのが好きで時々書いていたし昌宏の幼少の頃に絵をよく描いてやった。それに母親の父方にもう亡くなっているが芸大を出て東京に住んでいたが、絵描きをしていた高瀬勤という大叔父さんがいてそういう血筋のせいか昌宏は幼少の頃から絵を描きはじめ芸術的感性が育っていった。

 昌宏は六歳位のときに母親がキッチンで仕事をしているところへゴジラの写真の載っている本を持ってきて「お母さん、このゴジラの絵を描いて描いて」と熱心にせがんできた。

 母親は忙しい中でもコタツの台の上で描いてやった。 

 昌宏はそれを見て真似してゴジラの絵を描けるようになった。

 そして又同じ頃、両親と一緒に東宝の復活ゴジラを映画館へ見に行った。 この時、昌宏は熱心にくいいるようにゴジラを見ていた。

 それから又、ビデオで白黒の初代ゴジラを見てゴジラがオキシデントデストロイアで骨になって海に沈んでいくときに悲しみのあまり母親にしがみついた。ゴジラが可愛想だったのだろう。そしてゴジラシリーズをビデオで見ていた。それから小学生の低学年のときに親子で恐竜の化石博物館に恐竜の化石の骨が組み立てられているのを見学に行った。

 昌宏は幼い日を思い出しながらゴジラの像を作っていった。同時にゴジラと一緒に登場したアンギラス、キングキドラも記憶によみがえって浮かんできた。そして色も塗って目を入れて完成した。幅60センチ、高さ2メートルのゴジラの像で、立っている台は幅1メートル、高さ50センチの石材で出来ていた。近くの石材屋に頼んで家の屋上まで運んでもらったのだ。   丹沢博士の心霊研究所の多目的ホールで心霊研究発表会と講演会がある日曜日がきた。その日親子は三人でその講演会に出席した。

 その講演会にはある新発明の研究材料の機械の発表もあるということで心霊学会の学者に一般人もきていた。

 講演会の時間は午前10時から昼をはさんで午後3時までだが午前中は丹沢博士の心霊研究についての講演と午後からは新発明の機械の発表があるということだった。もらった講演会のプログラムに書いてあった。

 中田親子三人は午前10時30分頃に会場に着いたが、丹沢博士の講演の途中で200人位は来ていた。

 丹沢博士の講演は続いていた。

 「原始より人間はこの世が仮の世だということを知っていたのです。そして又再びこの世に生まれ変わるということも知っていたのでしょう。

 私達は科学の発展と共に霊的なものへの関心が薄れていくと同時に本来持っている霊的な存在を次第に忘れていったのです。

 人間は目に見えるものだけで生きてない。意識というもので生きているのでありまして、肉体は亡くなっても死後の生命は存続するということを魂があるということを知らなければなりません。

 そういう霊の存在があるということを皆さんに知らせ広め、そのために日々研究に努力している我々ですが、未だ霊のことが分からないという人がいますが、この世の物質は霊的なもので作られているとは科学者でもいっているし、要するに霊的なものとは目に見えないものなのです。この見えないものが実にすべての物に影響を及ぼしているのです。そのことを研究し証明するために心霊学の研究は益々必要になってくるでしょう。」

 丹沢博士の午前の講演が招待客の拍手喝采で終わってから昼食の休憩になり建物の棟続きの「ろぐはうす」で親子は昼食をした。

 今日のメニューは、ろぐはうす特製弁当だった。招待客のために特別に作られたものでおがずは地鳥の照り焼きに野菜の天麩羅だった。

 親子が食事をしているときに丹沢博士が友人の博士と一緒にレストランに来ていた。そして中田親子を見つけて近寄ってきた。

 丹沢博士はいった。「昌宏君の具合はどうですか。」

 母親と父親は昌宏は今屋上でゴジラの像を作り上げたところだといった。 「そりゃあすごいなあ、よかった。私も一度そのゴジラ像を見てみたい」 昌宏は博士にいった。「博士のいったとおりゴジラの像にゴジラの霊が乗り移って成仏すればいいんですけど、うなされるのは前より良くなったようですけど。このゴジラの像のことも心霊学の研究材料になるんですか」

 丹沢博士は昌宏の質問に考えながら答えた。

「うん、そうだなあ。それについてはもし仮に君のノィローゼがゴジラの像を作ったことで治ったとしたら、そのことを証明することも不可能ではない。 午後から、ある新発明の研究材料の機械の発表があるがそのことで今ここにおられる私の友人の左記酉博士だが紹介しょう。」

 左記酉博士は丹沢博士に紹介されて中田親子と挨拶を交わした。

 左記酉博士は丹沢博士と同年代位で目の大きなバッグツザフィーチヤという外国の映画に出てきた発明好きな博士によく似てた。それで昌宏は急におかしくなったが顔に出さないように努力したがなるべくわからないように下を向いた。そして丹沢博士は話を続けた。

 「つまり、その新発明の機械はテレパシーを受信して解読するというものでゴジラの像に乗り移ったゴジラの霊の言葉をキヤッチすることが出来るということでそれが証明されればそのことを私は論文に書いて学会で発表することが出来る。」

 それから午後の部の講演は例の新発明の機械の発表会だった。

 丹沢博士の話から始まった。

 「人類は歴史始まって以来、伝達手段として色々と発明をしてきました。 例えば古代は狼煙というものがあり、近代に至っては電報電話などですがもしも一個の精神が遠距離にある別個の精神に直接的に作用することが有り得るとすればこれは、この宇宙に私達が理解している物質とは全く異質のエネルギーが存在する事になります。

 物質主義者にとっては物は消えたら存在しないという一般常識では考えられない現象的に見ても信じられないことですが、物理学的にはマッチの炎はマッチが無くなれば消えてしまうという事実を根拠ににしていたところがテレパシーの事実はマッチから遠く離れた場所で炎だけが活動することが有り得ることを物語っています。唯物論的には考えられないことです。

 精神、霊、知性が肉体から遠く離れたところで活動出来るとすればそれはもともと肉体とは別の存在であることになります。となると肉体が滅んだあとにそれが存続しても不思議ではないことになります。

 今から皆さんに紹介します新発明のテレパシー受信機ですが私と後で紹介します友人の博士との10数年来の研究で今まで世に発表してなかったのですが、今日ここで発表するにいたりましてまだ実験段階ですが、生物から発せられますところの生体エネルギーをキヤッチしましてその意図するところの通信を解読するものです。

 このテレパシー受信機の発明に協力を得ました私の古くからの友人であります左記酉徳実博士を紹介します。左記酉博士は機械制御工学を専攻しております。紹介された左記酉博士は中田親子が昼食の時レストラン「ろぐはうす」で丹沢博士に紹介された友人の博士であった。

 テレパシー受信機は電話機の形をしていてアンテナが付いていた。そして左側の下の部分からテレパシーの内容の言葉を書いた文字が紙巻きテープに書かれて出てくる様になっている。

 左記酉博士はテレパシー受信機について説明した。

「要するにテレパシーというものが実在し意識は肉体を離れて存在することができるし霊的波動が大気を伝わり肉体崩壊後も霊能力は存続するのです。 そしてテレパシーは生きてる者同士だけでなく死者と生者との間にも可能であります。このテレパシー受信機はまだ実験段階でありまして、私共の研究では脳波がアルファ波の時の意識状態が生体エネルギーをコントロールして超常現象が出現するということでそのアルファ波を受信する装置を研究して作ったのですが、実験段階ですのでその研究はこれからです。。」

 丹沢博士は続いて喋った。

 「このテレパシー受信機の名称は左記酉博士の名前がつけられまして『さきどり』といいます。皆さん、よくご記憶のほどをお願いします。」

 午後3時頃には研究発表講演会は終わった。

 中田親子は中国自動車道の高速道路を車で走り家に帰った。

 それから数日して突然に中田家の屋上のコジラの像が無くなったのだ。

 何者かがあのゴジラ像を持って行ったことは考えられなく親子は動揺したが昌宏はこのことを丹沢博士に電話して話した。

 「丹沢博士、不思議なことです。2メートルの高さがあるのにそれにあれは特殊粘土でとても重たいのに、一体誰が何の目的で僕には分かりません。 それに、あの像を作ってせっかく僕はノィローゼが治りかけていたのに、どうすればいいんですか、博士。」

 丹沢博士は同じく興奮して喋った。

 「わからん、一体誰が何の目的であんなでっかいものを…人間技ではないとすると昌宏君、これは不思議なことだ。しかし、思い当たることが、又後で電話しょう。」

 昌宏は博士の言葉が気になった。「思い当たることとは何なんだ?]

 母親はこのことで不安になり誰が犯人なのか調べてもらうために警察に電話した。警察は家にパトカーで来て家の周りや屋上を色々と調べたがこの事件に関して何も発見されなかった。

 それから数日して又、新聞記者が一人中田家にきた。

 インターホンを押したので母親の富美子が出た。

「お宅の屋上のゴジラの像がなくなったとかで、ちょっと調べにきたのですが。」と新聞記者は言った。

「今、警察で調べてもらっているのですが。」と母親は言った。

「お宅の坊っちゃんがゴジラの像を作ったそうですが何か話は聞けますか」 新米の駆け出しの新聞記者は熱心だった。

「昌宏はゴジラの像がなくなって家の周囲を捜しに行ってています。」と母親は言った。                             新聞記者は「じゃあ、私は待たせてもらっていいですか。」といったので、母親は仕方無く新聞記者に家のリビングルームで待ってもらった。     暫くしてから昌宏は帰ってきた。

 新聞記者は待っていたように昌宏に話しかけてきた。

「昌宏君、コジラの像がなくなったことで何かわかりましたか。」

「いいえ、今のところ何もわからないんです。」と昌宏は不満そうに答えた。「それは残念だ。ところで君はゴジラの絵をよく描いてるそうだね。ちょっと見せてくれないか。」と新聞記者は励ます様に昌宏に言った。

「わかりました。」と昌宏は新聞記者のその言葉に少し気を良くして、部屋からコジラや怪獣の絵を持ってきた。

 新聞記者は昌宏の持ってきた数枚のゴジラや怪獣の絵を見て興奮ぎみに言った。「これは素晴らしい。この絵は強烈な個性を持っている。この絵をこのままにしておくには勿体ない。どうだろう昌宏君、展覧会をしたらどうだろう。もし展覧会をするときは教えてくれたら又取材に来させてもらおう」 それから新聞記者はゴジラの像の事件のことできたが絵の話で満足して帰っていった。

 しかし、この異変は他の場所でも起こっていた。

 ここ明石港で、ある朝に漁師が一人船を出して漁に出かていた。

 そして数十メートル先に何か黒いものが見えるので、漁師は船の上で望遠鏡で見ていた。そしたらその大きな黒い怪物のような顔は目がギロッとして大きな口を開けてガオーッとほえた。その声はそこらじゅうに大きくこだました。漁師はびっくりして腰を抜かしたが、命からがらにエンジン付の船で港まで帰って家までたどり着き急いで110番に電話して通報した。

「たっ大変だ、怪物だ黒い大きな目をして大きな口を開けてものすごい声でほえたんだ。」と漁師は必死で喋った。

 漁師の通報でパトカーが数十台も明石港に到着して警察官がパトカーから外へ出て辺りを見回したが何も発見できなかった。

 次の日にこの事件は新聞記事に載ったが、同時にもう一つの事件中田家の屋上のゴジラの像がなくなったことも一緒に載った。

 明石港に現れた怪物はゴジラではないかと書かれていて、中田家の屋上のゴジラの像がなくなったことと何か関係があるのではないかということで、買読新聞はビッグにニュースにしていた。

 丹沢博士からの電話があり、中田親子は丹沢心霊研究所へ高速道路に車を走らせ向っていた。後から数台の新聞記者の車が追っかけてきた。

 中田親子は丹沢心霊研究所へやっと着いた。そして親子3人は車から降りて研究所の中に走り込んだ。そして又後ろから追っかけてきた数台の新聞記者の車も到着して車から人が何人も降りてきて心霊研究所へ押しかけて来た。 そして丹沢心霊研究所で緊急記者会見が行われた。

 丹沢博士の友人の左記酉博士も来ていた。

「今回の件についてゴジラがなぜ明石港に現れたのかそして中田さんところの屋上のゴジラの像がなくなったことと何か関係があるのですか。丹沢博士が中田さんところの息子さんにゴジラの像を作るように勧めたそうですが丹沢博士、何かゴジラについて研究しているのですか。」と一人の新聞記者が質問をした。

 丹沢博士は答えた。

「私は何もゴジラについては研究はしてないが、テレパシーとゴジラの霊についての研究を始めたばかりで、今回のことは不可思議だ。

 中田さんの息子さんの昌宏君がノィローゼで毎晩うなされているといって私のところへ相談に来たが、昌宏君はゴジラマニアでゴジラ死すの映画のゴジラ対デストロイアを見て、ゴジラが自ら爆発して死んでいくのを見てショックを受けていて毎晩そのシーンが夢に出てきてうなされていたので心霊現象として、コジラの霊が昌宏君に何か訴えたくすがってきているのではと思いゴジラの像を作ったらその像にゴジラの霊が乗り移って成仏すると思い、昌宏君にそう勧めた。そして昌宏君はそのとおりに自宅の屋上に自分でゴジラの像を作った。そして何日かしてそのゴジラの像がなくなって、又数日して明石港に怪物のようなつまりゴジラが現われた。それはですねえ、つまりこれは私としては推測ですが屋上のゴジラ像に、ゴジラの霊が乗り移って明石港にテレポーテーション物質移動したのではないかと思います。」 

「何だって物質移動だって、博士、説明をお願いします。」と参加新聞の記者が問い詰めるように言った。

 その質問に丹沢博士の代わりに左記酉博士が説明した。

「つまりですねえ、その物質移動、テレポーテーションというのは四次元の他に異次元の空間があり、この異次元の空間は霊的な空間とも言えます。それで四次元にある物体がこの異次元を通って別の場所へ移動するということで異次元移動とも物質移動とも言えます。だから昌宏君の自宅の屋上のゴジラの像にゴジラの霊が乗り移って、そのゴジラの像は明石港へテレポーテーションしたのであると思われます。次に買読新聞の記者が尋ねた。

「それでつまり、そのゴジラの霊の乗り移ったゴジラの像はこれからどうなるんですか、明石港のゴジラはどうなるんですか。」

 丹沢博士は質問の答えを考えていたが、その時昌宏少年が喋った。

「博士、その答えは僕に言わせて下さい。」と言って続けて喋った。

「ゴジラの霊がゴジラの像に乗り移ったということは何か訴えたいことがあるからで、これからそのことを人間に伝えたく行動するのではないかと思います。ゴジラが上陸してきたら、ゴジラが移動を始めたら当然、物の破壊があると思います。」

 この緊急記者会見の後、この心霊研究所にゴジラ緊急対策部が設置された。 学者クラスからゴジラマニアに一般人など多くの人達が参加することになった。それに自衛隊にも参加が要請された。

 そして数日後、昼過ぎの午後1時頃にゴジラは大阪湾に現れた。そして大阪港から上陸し移動し始めた。

 そして新大阪駅に向っていた新型の新幹線のぞみ500系が新大阪の駅のホームに丁度到着した時、ゴジラの大きな足が新型の新幹線を踏みつぶした。 その時、乗客は入り口に集中的に押し寄せていてその衝撃で多数の怪我人が出て新大阪駅は大パニックになり救急車が次々に到着して救急隊員は乗客の怪我人を次々に病院へ運んだ。

 大阪市内周辺は大騒ぎになり住民の避難命令がでたので交通麻痺がおこり大変なさわぎとなった。

 人々は大阪市内から周辺や遠くへ避難しだした。仕事場や学校から人々は家に足早に帰りそれから又家族で遠くへ避難しだした。公共の交通機関も止まり皆、車で逃げ出した。

 ゴジラは大阪城公園に来て、大阪城に放射火炎を放ったので大阪城は燃えだした。そして京都の方へ移動しだした。

 自衛隊が出動し戦車でゴジラの後を追った。上空を自衛隊のヘリコプターも飛んだ。何十台も飛んでゴジラの進行を食い止めようと後を追っていたがゴジラは平気で前方へ進んで行った。自衛隊の後をテレビ局の車が追った。 そして上空もテレビ局のヘリコプターも飛んでいた。

 各テレビ局ではゴジラの進行を生中継で放送した。

 丹沢心霊研究所ではゴジラ緊急対策部の人々がテレビの画面を見ていた。 そして中田親子も3人来ていた。

 ゴジラマニアは言った。「ゴジラはとにかく大きな建物とかに放射火炎を吐きつけるから京都に向ったら文化財が危ない。」

「ゴジラを傷つけないで目的地まで行かせてUターンをさせて海に戻って行かせたらいいんだ。」と別のマニアが言った。

「ゴジラが目的地まで行ってUターンして海に戻って行く間に出る被害はどうなる。建物は壊されたり焼かれたり人に対する被害はどうなる怪我をしたり死んだらどうなる。」と一般人が言った。

 ゴジラマニアの昌宏少年は言った。

「ゴジラを暴れさせているのは人間が悪いのだ。核兵器を作ったという愚かな人間に対してゴジラは怒っているのだ。ゴジラはゴッドなのだ。

 ゴジラは何かを訴えたいんだ。人類に対して目的があって現れたんだから何かテレパシーを送ってくるはずだ。このテレパシー受信機をさきどりを使用して下さい。」

 丹沢博士と18歳の少年ゴジラマニアの昌宏と父親も母親も一緒に心霊研究所の車に乗って助手が運転してゴジラの移動して行く後を追って向った。 その後をコジラ緊急対策部の人々も車で後を追った。

 高速道路は車で渋滞してなかなか走れなかったのでゴジラのところまでに行くには何時間もかかった。

 コジラは京都市内に入り京都タワーを尻っ尾で叩き付けた。

 次は金閣寺のところでゴジラは放射火炎を吹き付けたので金閣寺は燃えてしまった。そして自衛隊の戦車の大砲の爆撃も跳ね返し上空からのヘリコプターの爆撃もものともしなかった。

 それからゴジラは北野天満宮の前を通って次に向うは東寺の五重の塔だ。 この塔は世界ユネスコ文化遺産だ。放射火炎で燃やされたら大変だ。

 丹沢博士の一行は車のラジオのニュースでゴジラが東寺の五重の塔へ向うと聞いて車を急いで走らせた。

 ゴジラが五重の塔へ着く手前で車は東寺へ到着した。

 丹沢博士とゴジラマニアの昌宏と父親と母親と助手と全員が車から急いで降りて五重の塔へ向った。

 ゴジラは五重の塔の塀の前まで丁度来ていた。

 五重の塔の周りには自衛隊や戦車や消防車が何十台も来ていた。その上空には自衛隊のヘリコプターや新聞社のヘリコプターが何十台も飛んでいた。 ゴジラは五重の塔の塀に放射火炎を吐きかけた。

 塀は燃えだしたので消防隊員がホースで一斉に消化を始めた。

 丹沢博士と助手はテレパシー受信機さきどりをセットしてスイッチを入れアンテナをゴジラの方へ向けた。この時、各テレビ局のレポーターがマイクを集中的に昌宏少年に向けた。そしてこの生中継は全国に放送されいてて衛星放送で海外に向けてニュースで流された。

 そしてゴジラマニアの少年昌宏はゴジラに向って喋った。

「五重の塔は壊しては駄目だ。この塔はユネスコ世界文化遺産に登録された日本の重要文化財だ。」

 その時、ゴジラは昌宏に向って何かを訴えているように見つめた。

 昌宏はゴジラが何か言っているのがわかった。

そしてゴジラの代わりに喋った。

「地球上に核兵器が有る限り私は成仏しない。

 私は核の恐怖を訴えるために長崎広島で亡くなった人々の霊が私の霊になって暴れてるんだ。私が霊界へ行って成仏するためには地球上の核兵器をすべて撤去せよ。この世の中に平和がくるように。地球が核兵器で汚染されて破滅しないように地球上の人類に警告する。」

 この言葉に周りにいた人々は皆、シーンと静まり返った。

 そして昌宏少年をはじめ父親と母親、丹沢博士に助手にそこにいる自衛隊に消防隊、ゴジラ緊急対策部の人達に報道関係者にその他の人々は皆、全員ゴジラの霊に祈りをささげた。

 そしてゴジラの霊に通じてコジラはテレパシーでメッセージを送った。

「私は時々地球上に必ず現れて、核の恐怖を警告しにやって来る。」

 ゴジラはそう言い残して又再び大阪湾へ夕日をあびながら帰って行った。 それからゴジラマニアの昌宏少年の家の屋上に元どおりにゴジラの像が戻っていた。昌宏少年はそれからうなされなくなりノィローゼは治った。

 それから数日後、丹沢博士が助手をともなって中田家を訪れた。

 今日は日曜日で昌宏少年と母親と父親も皆な、リビングルームでコタツの台を囲んで博士と助手を迎えた。

 そして丹沢博士は昌宏少年に喋りかけた。

「いやあ昌宏君、君は素晴らしい霊感の持ち主しだ。君がゴジラの言葉をテレパシーで感じて喋った言葉は、テレパシー受信機『さきどり』の記録装置に記録されたゴジラのテレパシーの言葉と全く同じだった。

 いやあ、このテレパシー受信機『さきどり』の性能が評価されたんだ。

 友人の左記酉博士もとても喜んでいた。

 今回、ゴジラの霊も成仏し君の家の屋上のゴジラも元に戻って良かった。 それに君もノィローゼが治ってうなされなくなったし、又いつでもお父さんとお母さんと一緒心霊研究所に遊びに来てくれ。

 今回のことは私は心霊研究学会で発表しようと思う。」

 それから皆、屋上のゴジラの像を見に行った。

「こりゃあすばらしい作品だ。今にもゴジラの霊が乗り移って動き出しそうだ。」と丹沢博士は感動して言った。

「そうですね。丹沢博士、今度左記酉博士も見にくるでしょう。」

と助手が言った。
それからその屋上のゴジラの像を見にくるゴジラマニアや人々が中田家を訪れるようになってG映画会社のゴジラ映画制作者がそのゴジラの像を見物に来て、このゴジラとそっくりのゴジラを作らせてくれといってきた。そして今回の出来事を東宝ではゴジラ映画にするつもりだといった。

 そして、そのタイトルも「ゴジラの霊」とされた。

 そしてゴジラマニアの雑誌を作っている出版者からこのゴジラの霊のストーリーが出版されることになりゴジラマニアの18歳の少年昌宏は、東宝の「ゴジラの霊」の映画に出演依頼を頼まれて出演することになった。

                            END

「ゴジラの霊」の映画に対する円谷英二特技監督のメッセージ

1/23PM9:43

「君のお母さんもしばらくの間は色々と忙しくなるが体を壊さないように頑張ってくれ。そしてこの霊界通信も霊界からの手助けでできてるから君達の現世における何らかの使命だと思うから頑張ってくれ。私も二人を応援させてもらうから。その『ゴジラの霊』のストーリーは私達3人の合作だからなかなかストーリーがよくできて映画になったらきっと傑作になるだろう。

 素晴らしい出来栄えで世の人々もびっくりするくらい感動するだろう。

 ところで、この作品は東宝の映画制作部門のスタッフにちやんと作ってくれるように頼むといってくれ。特撮のことは私が霊界から指導するから何か聞きたかったら制作の者がお母さんと昌宏君を通じて私に聞くように言ってくれ。この映画ができたらこちらの芸術の建物の映画のところでスクリーンに記録されるだろう。前代未門のこの霊界と現世を通じての作品は歴史に残るだろう。素晴らしいことだ。」

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