2000/6/20 AM 11:57

昌宏に聞く

(途中から)それで昌宏、医療ミスについて昌宏の生前、亡くなるまでの平成9年の6月から724日 までの経過を又、色々と教えてください。

 

2000/ 6/20 PM 12:03

昌宏の言葉

あのなあお母さん、それについては生前の僕の亡くなるまでの 平成9年の6月から724日までの経過について覚えていることをいおう。

 それで610日前後に近くの清水内科にかかり、精神安定剤をもらったが、清水内科の医者が川西市のE診療所に行くようにと住所と地図を書いた紙を渡したのだ、お母さんに。

 そして623日にE診療所にお父さんとお母さんと一緒に行ったのだ。3時間位長く待ったのだ。

 待合室はとても多かったのだ。人で。

 それでお父さんとお母さんとE診療所の同じビルの一階のレストランで昼食をしたのだ。

 スパゲティか何か食べたと思うのだ。

 そして色々と検査や診察をして薬をもらい家にお父さんとお母さんと車で帰ったのだ。

 そしてその薬を飲んでいたが、家の前の建築工事や又、家の裏の建築工事で音がうるさく、僕は空耳が聞こえていて悩んでいたのでお母さんとタクシーでE診療所に行って又、他の薬をもらったのだ。精神安定剤と睡眠薬を。それを飲んだが、寒気がしたり食欲がなくなり又、気分が悪くなり、お母さんと一緒にE診療所へ行って他の薬に変えてもらったのだ。

 それでそれを飲んでいて医者が診療の時に少しぐらいの副作用は我慢したらいいといつたので、薬を飲んで数日して気分が悪かったが、我慢していたが10日間位して僕は亡くなる前にはお母さんに僕は東京のアニメーションスクールに行くといったはずだ。

それで10日間位して僕はとても苦しみ出して死ぬくらい苦しくなったのだ。精神的にとても不安で怖くなり意志が弱くなっていたのだ。とても気力が低下していて気分が悪くからだの具合も悪くなり、眠れなく又、食欲がなくとても苦しかったのだ。あの時は。

 そして723日の午後はお母さんと一緒に気分が悪いので近くの戸隠し神社に車で行ったのだ。そしてそこへ行って神社の建物のところへいたが、お母さんは足を蚊に刺されて蚊取り線香を持ってくるといつて車で家に帰ったのだ。そして30分以上位待たされて僕は何か不安になり神社の外へ出で待っていたら、お母さんは近所のYさんと一緒に車で来たのだ。そして僕は一緒に車に乗って家に帰ったら、留守番電話にイズミヤの本屋に注文していたガォガィガーの本が入りましたので取りに来てください。と入っていたので又、すぐにお母さんと一緒に車に乗ってイズミヤに行ったのだ。 

 イズミヤに行って2階の駐車場の窓側に車を止めて、二人でイズミヤの店内に行き僕は本屋に行って本を受け取り又、車で待ってるといったのだ。

 そしてお母さんは食料品のところへ行ったのだ。お母さんはその時にスイカを買っていたのだ。

 そして僕が車の中で待っていると、お母さんが来て又、一緒に車で帰ったのだ。

 そしてその日の晩御飯はお母さんはカレーライスを作ったのが、僕は具合が悪く食べれなくて、後でお腹がすいても食欲がなく力が出なかったが、お母さんがスイカを買っていたので、僕はそのスイカを食べて助かったのだ。その時は。

 それで夜になつても僕は苦しくて眠れずにお母さんに夜の12時近くに何か絵の描き方をいっておくとか変なことをいったのだ。

 それでお母さんは眠そうで寝たがお父さんも。僕は苦しくて眠れず朝方の2時か3時頃にお父さんとお母さんを起こして外へくるまで連れていくようにいって大和のひらきばる公園のとこまでつれていってもらって三人で公園のベンチに座って何か話したがお父さんとお母さんはとても眠そうで疲れているみたいで、僕は親に迷惑をかけて悪いと思ったのだ。

 そして家に帰って朝の6時頃に僕がとても苦しんでいたのでお母さんは市民病院とかに電話して川西の協立病院に電話して聞くようにいわれて、協立病院に電話してお父さんとお母さんと僕は車で一緒に行ったのだ。

 そして着いてから受付に行って当直の医師が僕に点滴をして1時間位して終わったが、このときはだいぶ症状は収まっていたのだ。

 当直の医師が又。かかっている病院に聞いてくださいといったのだ。

 それから帰って、9時頃に僕はE診療所に電話したら出た看護婦が昼間の薬は飲んでいいといったのだ。そして又、来てくださいといったので、僕は昼間の薬を飲んだのだ。お母さんは飲まない方がいいといったようだ。僕はそれを聞かずに飲んだのだ。そして又、お父さんとお母さんと一緒に車に乗ってE診療所に行ったのだ。そして待合所で待っていたが僕は又、苦しくなってきたので受付に気分が悪くなりましたと言ったのだ。

 それで先に別の部屋で見てもらい、僕は苦しんでいて、お母さんがこれは薬の副作用ですといっていたのだ。

 担当の医者がいなく女医がいて、何かピンクの注射液の注射をされたのだ。

 そして僕はその薬でた゜だんだん意識が朦朧としてきたのだ。周りのことが分からなくなったような神経が感じなくなり無神経状態にされていたのだ。

痛みや苦しみを感じなくなっていたようだ。

 そして車で家に帰る途中に僕は最後にお母さんと話したのは「お母さん、あの薬はどうなった」といって、お母さんが「あの薬は副作用があるので又、最初の薬に変えてもらつた」といったので、それで僕は今の注射が切れたら又、前のように苦しくなったらどうしようと思っていたのだ。

 それでE診療所に行く前に家から診療所に電話したときに出た看護婦が「昼に飲む薬は副作用を押さえる薬で飲んでもいいです。」といったのだ。

 僕はそれを飲んだけど朝に飲む薬を飲んでいないのに食事も出来なく、それで昼間の薬を飲むのはおかしいと後で考えたのだ。

 それで家に着いてお父さんは疲れていて寝転んでいたのだ。

 そして僕は家に着いてトイレに入りいつものように長く入らずにすぐに出で来たのだ。それで家に着いた時間は午前11時ころだったのだ。

 それでトイレから出てサウナ室があったので、それで居間の方にくるのがそこでとどまってしまい、何しろあの時は僕は全ての判断力が鈍くなっていて意識がぼおっとしていたのだ。

 それで玄関の靴をはき外へすぐに出ていったのだ。

 それでお母さんは、何か変な気がしてお父さんに「精神状態がおかしいのでおっかけた方がいいんやないか」といったが、お父さんは疲れて寝ていて僕が注射の薬でもう治っていると安心していたのか、「散歩に行ったからすぐに帰ってくるから大丈夫」といったので、お母さんは不安に思いながら僕の後ろ姿を見送ったのだ。

 そして1時間以上経っても帰ってこなくお母さんは警察に電話した方がいいかもしれないと思ったが、お父さんは警察に電話しなくてもいいやろうといって、お父さんとお母さんは車で僕を捜しに行ったのだ。戸隠し神社まで行ったのだ。

 そしてそこには僕はいなくお父さんとお母さんは又、家に戻っていったのだ。 

 そしてお父さんは昼食後に昨日のカレーライスを食べて又、バイクで僕を捜しに出て行ったのだ。

 お母さんは不安で昼食は何も食べられなかったのだ。胸が詰まって。

 それで午後の130分頃に警察から電話があり「中田昌宏君の家ですか、マンションの五階から下に落ちて足を骨折していて今、ベリタス病院にいます。」と連絡が入ったのだ。

 お母さんはお父さんがバイクでまだ帰ってこなく警察に「昌宏は11時頃、外へ出て行って捜しにいったけど見つからずに今、お父さんがバイクで捜しに行ってるといって昨日から薬の副作用で苦しんでいて、朝から協立病院とE診療所に連れて行きました。」と話したのだ。

 それで僕は家を出たときに、前の日にお母さんが何か水泳の先生が明日来るかもしれなく1万円札しかなく2000円払うのに僕に貸してくれといって、財布を出させていたので、僕は財布の中に学生証が入っていて財布を持ってなく身元がすぐにわからずに捜していて、6月か7月に僕はお父さんに夜遅く外へ車で連れていってくれといって外へ出かけたのだ。

 日生中央駅の近くのとこで、僕は自動販売機のとこへジュースを買いに行って30分以上経っても帰らないのでお父さんは心配してお母さんに電話したので、お母さんは110番しに電話した方がいいといったのだ。

 それでお父さんは110番に電話したので警察はパトカーで周辺を捜したら、どこかの建物の近くにいたので僕は見つかったのだ。それでパトカーに保護されたのだ。あの時は僕は医者の薬を飲んでいて意識がぼおっとしていてその辺を歩きまわっていたのだ。

 それからその時は僕は無事に家に帰ったのだ。それで僕の捜索の記録が警察に残っていて僕の身元がわかったのだ。

 それで僕の事故の通報を警察の電話で知らせを受けて、お母さんはまだお父さんが帰ってこなく、階下に住んでいる父方の祖父と一緒にベリタス病院に行ったのだ。

 

(続き)2000/ 6/21 AM 9:55

 昌宏の言葉

 あのなあお母さん、それからお母さんはおじいさんとベリタス病院に着いてから受付に外科に救急で運ばれた中田昌宏のことを聞いてから外科の診察室に行って聞いたら、「ちょっと、待ってください。」と看護婦に言われて、しばらくの間待合所に待たされたのでお母さんは不安になっていたのだ。そしてしばらくしてから外科に呼ばれて診察室に入っていったら僕はベットに寝かされていて、目 を開けた状態ですでに意識はなく、酸素吸入をされて左の胸のところに穴を開けられて

そこから管が通されて血が流れていて医者が何人も周りにいて心臓マッサージをしていたのだ。その前にお母さんは診察室に入ったときに僕の肺のレントゲンの説明を医者からされて肋骨が折れて左の、そして骨が左の肺の動脈に突き刺さっていて生死をさまよっているといわれてお母さんは何度か倒れそうになりながらベットに寝かされている僕のところに案内されてきたのだ。

 お母さんは一時して診察室を出て、直方のばあちゃんに電話をしにいったのだ。

僕が事故に会い生死をさまよっているということで助かるように祈ってくれといったのだ。そして又、診療室のベットに戻ってきたら、もう酸素吸入は取り外され左の足の骨折の当て木も取られていたのだ。

 僕は頭の後ろも打つて血が流れていたのだ。

 頭のCTも取ったらしいが、肺の動脈に肋骨が折れて突き刺さっているのが致命傷だったのだ。

 お母さんは医者に「酸素吸入を外さないで下さい。輸血をしてください。」といったが、医者は「輸血をしても血がまわらない。私達も努力した。」といったのだ。

 このときの様子など前の通信文で伝えているのだ。

 お母さんは僕の耳元で昌宏、昌宏と言って生き返れと言っていたのを覚えていて、僕はお母さんが、僕が心臓が停止しても生き返れと言ってくれたのが一番うれしかったのだ。

 そして、僕の鼻の穴に綿をつめたのを息が出来ないといって、お母さんは外して顔に白い布をかぶせなかったのだ。

 お母さんは僕がまだ意識を失っているが生き返ると思っていたのだ。体がまだ暖かかったので。

 それからお母さんが家に電話して、お父さんも病院に来たのだ。

 お父さんも僕のことが突然のことで信じられない様子だったのだ。

 後から警察が来てお父さんに色々と聞いていたのだ。

 それでお母さんは何も話しが聞けなくまた、話せない状態だったのだ。

 それから僕は病院の車で家に運ばれて戻ってきて、和室の床の間の方に北向きに寝かされたのだ。僕は家に帰ってきて安心したのか、顔色が良くなって薄目を開けていて左側の頬のところを少し怪我をしていて、口元は少し開いて笑ったような表情をしていて、お母さんはまだ息を吹き返すと思っていたのだ。 

 それで直方のばあちゃんや美智子おばさんに電話して祈ってくれるように生き返るかもしれないのでといったのだ。

 そしてお母さんが僕に付き添っていて僕はお母さんにテレパシーで色々と話したのだ。

 そのときの様子などは前の通信で書いているが、僕はマンションの五階に空耳だと知らずにお母さんの声で昌宏、昌宏と呼んでいるのでそこまで行ってそして又、誰かがこっちに来いといったので、そっちに行って下を見たときに注射の薬のせいか意識がぼおっとしていて高さの感覚が分からずに低い感覚がして下に下りても大丈夫のような気がして、ちょっと下に下りてみようと思ったら落ちて死ぬような事故に遭ったのだ。

 だから僕の死は医者の薬の副作用による医療ミス事故なのだ。このことを医療ミス相談機関に聞いてくれ頼む。

 僕が亡くなる前の日曜日にお父さんとお母さんと一緒に最後のドライブになってしまったが、高速道路で行った播磨日時計の丘公園でも昼食の後に医者の薬を飲んでいて副作用で気分が悪く、僕はお父さんとお母さんに気分が悪いと言って早く帰るようにいったのだ。

 それから次の日か協立病院の検査の予約でお母さんと一緒に行ったのだ。脳波と脳のCT検査は異常がなかったのだ。この検査はE診療所の依頼によるものなので検査結果E診療所に渡しているのだ。

 それで、僕は霊界入りしてからのことも今まで通信で伝えているが、閻魔の審判で僕は現世の母親と通信ができるので菩薩界の応援で、それで親子の通信から世紀末の地球人類への核の警告のメッセージを送ることができるので、菩薩界もそれに期待しているといったのだ。それで僕は現世で仕事ができるといわれたので現世で一周忌の僕の中田昌宏遺作展とゴジラの霊の記念出版とインターネットにゴジラの霊のホームページも載せるように通信でお母さんに知らせたのだ。

 それでその医療ミスについては後回しになったのだ。

 閻魔の審判で僕の現世の事故は医者の薬の副作用で苦しんでいて、そのために楽になる薬の注射をされて意識がぼおっとしていて何か空耳が聞こえて五階のマンションまで登っていき「こっちにこい」という声でそこに行って、下を見て正常ならこんな高いとこから下に降りることは出来なく、その注射の薬で判断力が鈍って下に落ちたので事故になるといわれたのだ。

 それから菩薩界でも親より先に亡くなった霊人の塔の霊人達で医療ミス事故で亡くなった霊人達の頼みもあるのでこのことをゴジラの霊のホームページに載せてくれ頼む。

ありがとう昌宏

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