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「李成桂の家系はモンゴル軍閥」

【新刊】バタル・内モンゴル大教授著『パックス・モンゴリカと高麗』(ヘアン刊)

 「モンゴル軍が江華島に遷都した高麗を攻略できなかったのは主力部隊ではなかったからだ」

 「元は高麗で経済的な略奪は行わなかった」

 「李成桂(イ・ソンゲ)は100年にわたり元の官吏として勢力を伸ばした家門の力を基に朝鮮を建国できた」

 中国内モンゴル大学のボルジギダイ・エルデニ・バタル教授(モンゴル史)は、電話取材に対し、ややたどたどしくもはっきりとした韓国語でそう話した。バタル教授は最近韓国で出版した『パックス・モンゴリカと高麗』(ヘアン刊)で13世紀の元と高麗の関係について、韓国学界の通説とは異なる観点を提示した。1998年に韓国に留学し、2006年に江原大史学科で博士号を取得したバタル教授は、自分はチンギス・ハンの弟、ジョチ・カサルの子孫だと自己紹介した。

■高麗に侵入したモンゴル軍は主力部隊ではなかった 

 バタル教授は「(高麗に侵攻した)モンゴル軍が江華島を征服できなかった主因は水上戦に弱かったからではなく、当時の主な攻撃対象が金と南宋だったからだ」と主張した。モンゴルの水軍は西夏や金などの国を相手とする戦いで数多くの川を渡り、作戦を展開した経験があり、船の数が1万隻に達する強い戦力を誇っていたという。モンゴル軍は1221年に金との水上戦に大勝し、1236年にも南宋との大規模な水上戦で敵の船舶300隻を捕らえる戦功を収めた。

■元は高麗から経済的な略奪を行わなかった 

 バタル教授は「モンゴルと高麗の戦争期間には略奪があったが、フビライ・ハンが即位して以降、元は高麗で略奪は行わなかった」と主張した。元と王室同士の婚姻関係を結び、娘婿となった高麗国王はモンゴルのどの貴族よりも高い待遇を受け、元は高麗に飢饉(ききん)や自然災害が起きるたびに大量の食糧を提供するなど、経済的支援を惜しまなかったという。高麗が「パックス・モンゴリカ」体制(モンゴル帝国の覇権による平和安定体制)で唯一国号を維持し、独自の租税権、徴兵権を持っていたことについて、バタル教授は「高麗が先に元に婚姻関係を求め、それを実現させたものであり、高麗の外交的勝利だ」と評した。

■元がなければ李成桂の朝鮮建国は不可能だった

 1392年に朝鮮を建国した李成桂は、何代かかけて成長した高麗系モンゴル軍閥の出身で、元の直轄統治機構である双城総管府でほぼ100年間にわたりモンゴルの官職を務め、勢力を伸ばしたために、朝鮮を建国することができた、とバタル教授は主張する。バタル教授は李成桂の家系が直系4代の祖までモンゴル名を持っており、李成桂自身もモンゴル名があったと推定している。李成桂の家系は元滅亡後に高麗北東部の大半を統治するようになり、元の支配で軍事力を弱めた高麗王室を倒し、朝鮮を建国することができたとの説明だ。

李漢洙(イ・ハンス)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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