今日は、'06年10月17日です。ウルちゃんの逝去を衷心からお見舞い申し上げます。【承前】
戦後が生んだ市民運動の大思想家「久野収(くの・おさむ)」によれば、また聞きですが、「仕事」とは、文字通り「事に仕える」ことだ、と言っています。この「こと」に仕えているような気持ちでWORKをしている者は、どのくらい居るのでしょうか? 日本の「ジャーナリズムや言論人・学者」の中で「真実を暴く」仕事をしているものは、「副島隆彦」などしか、ほとんどいないのが、日本のマスコミや学問の現状ではないでしょうか?
得丸九文さんの「レポート」は、「アンナ・ポリトスカヤを追悼する集会」への参加した実感の中から、「仕事」の意味を、鋭く指摘されていると思います。
得丸さんの名前は『国際戦略コラム』のメルマガで知っていて、得丸さんの投稿を特に関心をもって読んでいました。私は最近「国際戦略コラム」を読まなくなりました。このたび久しぶりにHPを覗いてみましたら、最近のコラムで、得丸さんが下記の論文を投稿されているのを発見しました。
『国際戦略コラム』2479.中国儒教文化で発展した大乗仏教
http://fuku41.hp.infoseek.co.jp/181005.htm
「中国儒教文化の中で独自に発展した大乗仏教」2006.10.05得丸From: Kumon Tokumaru
(本文略)
☆
この論文は、来る11/4の副島隆彦・講演会の題目『歴史に学ぶ智恵』で恐らく語られるだろう、神・仏・儒から富永仲基の「誠の道」へにも繋がるものとして、会員読者におかれましては、事前に読まれることをおすすめします。
メールマガジン「PUBLICITY」から、「言論の自由」を守る闘いについての記事を紹介します。
(転載貼り付け始め)
■■メールマガジン「PUBLICITY」No.1475 2006/10/09月■■
http://www.emaga.com/info/7777.html
http://takeyama.jugem.cc/
アンナ・ポリトコフスカヤが殺された。
10月8日付朝刊、讀賣、朝日、毎日、産経、日経、東京のうち、最も大きく扱っていたのは東京新聞。
(引用はじめ)
10月8日付 東京新聞
「著名女性記者を射殺 チェチェン紛争取材 プーチン強権批判」
【モスクワ=常盤伸】インタファクス通信などによると、批判的なチェチェン紛争報道で知られるロシアの女性ジャーナリストで、独立系「ノーバヤ・ガゼータ」紙政治評論員のアンナ・ポリトコフスカヤさんが七日夕方、モスクワ市中心部の自宅アパートのエレベーター内で射殺されているのが見つかった。
遺体には複数の銃撃を受けたあとがあった。警察当局は殺人事件として捜査を開始した。遺体から現金などの所持品は奪われておらず、現場には拳銃と弾丸が残されていたという。
政治的な背後関係は不明だが、プーチン政権の強権体質を批判していたポリトコフスカヤさんの殺害は、メディア統制に抵抗しているロシアの独立系メディアに大きな痛手になるとみられる。
ポリトコフスカヤさんは一九五八年生まれ。イズベスチヤ紙などを経て九九年に「ノーバヤ・ガゼータ」紙に移り、同年に始まった第二次チェチェン紛争の実態を、ロシア軍による厳しい報道統制のなか現地取材。ロシア軍による腐敗やチェチェン市民への弾圧の実態を次々に発表、国際社会に衝撃を与えた。一〇〇一年には国際人権団体アムネスティ・インターナショナル英国支部の世界人権報道賞を受賞している。
また、〇二年のモスクワ劇場占拠事件では、チェチェン独立派武装勢力とロシア政府の仲介者として人質解放交渉にも深く関与。さらに〇四年九月の北オセチア共和国での学校占拠事件では現地に向かう旅客機内で出された紅茶を飲んだ直後に倒れ重体となった。不可解な状況から毒殺未遂との見方も強い。
ロシアではジャーナリストの殺害が相次いでおり、ポリトコフスカヤさんも今年四月、本紙に対し、本人や家族への脅迫が続いていると語っていた。
(引用終わり)
▼『プーチニズム 報道されないロシアの現実』(鍛原多惠子訳/2005年6月)、『チェチェン やめられない戦争』(三浦みどり訳/2004年8月)が邦訳されている(いずれもNHK出版)。
▼彼女が殺された10月7日は、プーチンの誕生日である。彼女の体には4発の銃弾のあとがあったという。
▼現時点で、最も多く情報が載っているのは「チェチェン総合情報」
http://chechennews.org/
▼生前の彼女の写真、殺されたアパート前の写真など。
(Anna Politkovskaya, assassinata la voce critica della Russia)
http://www.repubblica.it/2006/05/gallerie/esteri/fiori-politkovskaya/fiori-politkovskaya.html
http://www.repubblica.it/
▼「バイナフ自由通信」
http://d.hatena.ne.jp/ootomi/
には、プーチン大統領に宛ててメールを送る方法が載っている(10月9日更新分)。モスクワではデモが起きているそうだ。
▼最初、新聞で知ったとき、あっと声が出て、それきりだった。読者からは、竹山くん、もう知ってると思うけど、アンナさんが殺された!」等とメールをいただいた。悔しい。なんだ、この悔しさは。感情を抑えて書いているが、これ以上書いたら抑えきれない。新聞を読んで涙が出たのは、子どもが親に殺された記事以来だ。体も、心も、痛かったろう。どれほど無念だったろうか! しかし。彼女は殺されたが、断じて【負けたのではない】。そして、【彼女を勝たさねばならない】。
何十、何百のアンナ・ポリトコフスカヤが、今までもいたし、今もいるし、今からも生まれるだろう。この「自由な言論」の流れに目を瞑って論じられる「愛国」は畢竟、「売国」に通じるに違いない。
本気で喧嘩する時は、結局、殺されるように書くしかないのだろうか。未来のわが身に事寄せて考える以外、いまは、感情を抑える手立てが見つからない。その情況で、その立場で、その能力で、その感情で、何に事寄せて・言寄せて書くべきか──海の彼方から、チェチェンの地から、言論の根本基準を教えてくれた彼女に、ぼくは、ぼくの果てのない感謝を捧げる。そして彼女の親族と、彼女の恩恵を受けた人々の、そしてこれから恩恵を受ける人々の、幸福と幸運を祈る。
■■メールマガジン「PUBLICITY」No.1480 2006/10/13金■■
▼12日の追悼集会、どなたか行かれました? 170人が参加されたそうで。誰か、これ読んでるかなあ。いずれ主催者が詳報を出してくれるかなあ。
▼TUP速報638〜9号が、連続してアンナ・ポリトコフスカヤ射殺関連の発信だった。
いつもお世話になってる萩谷さんに快諾をいただき転載する。1通めは、国際ジャーナリスト連盟(IFJ)の声明。
ここ数号を読んでいる読者にとっては既知の話だが、10月7日に発表している。
(引用はじめ)
[TUP-Bulletin] 速報638号
アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺事件に関するIFJ声明
2006年10月7日、チェチェン問題に深く切り込んだ報道で知られるジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤさんが暗殺された、と報道されました。
チェチェンは、1994年以来、ロシアとの間で「紛争」状態にあります。その間、人口わずか60〜100万人のチェチェン人のうち、死者の数は、20万人を超える、と伝えられます。世界最悪の紛争地帯の一つです。かつてはロシアのチェチェン侵攻に批判が盛んだった西側諸国も、9−11以降の「対テロ戦争」の雰囲気の中、爾来、及び腰の模様です。
チェチェンでは、国際機構による選挙監視のもとで民主的に選出されたチェチェン大統領マスハドフまでも、2005年3月に暗殺され、混乱に拍車がかかりました。
そんな状況を報道するはずのジャーナリストも、ロシアでは、殺害の例が枚挙に暇がありません。そんな中、アンナ・ポリトコフスカヤさんは文字通り決死の覚悟でチェチェン報道を繰り返す、同問題ではおそらく世界で最も有名な優れたジャーナリストでした。
そんなポリトコフスカヤさんが遂に倒れたと聞き、悲しみと怒りに耐えません……。実際、チェチェン報道で知られるジャーナリスト常岡浩介氏は、日記で「ポリトコフスカヤ暗殺―そして誰もいなくなった」と表現しました。
この件に関し、TUPからは、二編速報します。本稿では、国際ジャーナリスト連盟(IFJ)が、この事件後に出した声明を邦訳しました。
(邦訳: 坂野正明/TUP)
ポリトコフスカヤの殺害は「世界の報道界を茫然とさせる蛮行」だ――国際ジャーナリスト連盟
2006年10月7日
国際ジャーナリスト連盟(以下、IFJ)は、チェチェンでのロシアの戦争に対する激しい批判で知られるロシア人報道記者アンナ・ポリトコフスカヤのモスクワでの殺害について、「世界中のジャーナリストを茫然とさせる衝撃的な蛮行だ」と表明した。
同女史の殺害はロシアのジャーナリズムを脅かす無法状態を反映したものだ、とIFJは言う。IFJは、ウラジーミル・プーチン大統領の政府に対し、即刻、殺人犯を逮捕し法の裁きを受けさせるよう、求めた。
ポリトコフスカヤは、土曜日[訳注:2006年10月7日]に射殺された。報道によれば、遺体は、女史の自宅[訳注:集合住宅]の建物のエレベーターで発見されたという。
IFJ事務総長のエイダン・ホワイトは、「ロシア当局は、緊急かつ集中的な捜査を行なわなくてはならない。誰が我々の仲間を殺したのか、そして事件のそもそもの黒幕は誰なのか、我々は知る必要がある」と述べた。
ポリトコフスカヤはノーヴァヤ・ガゼータ紙に勤務し、無法地帯のチェチェンで、山賊や、ロシア政府あるいはチェチェン政府の繰り出す暗殺隊の脅威に直面しながら挑戦的なジャーナリズムを生み出すという驚くべき勇気を見せ、チェチェンにおけるロシア軍の人権侵害という、論争の元となるような報道を続ける中で名声を確立した。
女史の名声と痛烈な報道は、ロシア政府にはまさに目の上のたんこぶだった。だから、2004年に女史がベスラン学校占拠事件[訳注: ロシア連邦・北オセチア共和国で起きた事件。500名
以
上の死者を出す惨事となった。いまだに全容は不明のまま]報道のため当地に向かう際、機中で食中毒を起こして重態に陥ったとき、多くの人々は、彼女が暗殺されかけたと信じたのだった。
「ソビエト連邦が瓦解しつつある時代、勇敢な記者の一群が新たに出現したが、その中でも女史は最高に勇敢な人だった。」ホワイトは続ける。「女史は、あらゆる方面からの脅威に毅然と立ち向かい、国内外を問わずジャーナリストを鼓舞する存在だった。彼女の殺害は、世界の報道界を茫然とさせる衝撃的な蛮行だ。」
国際ジャーナリスト連盟は、来年の世界総会をモスクワで開く予定であり、その際、アンナ・ポリトコフスカヤは招待講演者の一人だった。
「女史の勇気とプロ魂はジャーナリストや人権活動家の間で賛嘆の的で、女史は英雄だった。」
ホワイトはさらに続ける。「女史の死は、年若い遺族と、彼女を知るすべての人々にとって悲劇だ。しかし一方でその死は、現代ロシアの絶望的で脆い民主主義の現状を浮き彫りにしている。」
ポリトコフスカヤは1958年にニューヨークで生まれた。両親は(旧)ソビエトのウクナイナ人で、国連外交官として当地で働いていた。国立モスクワ大学ジャーナリズム学科卒業。
さらなる情報については、IFJまで御連絡下さい(電話番号:――略)。IFJは、100カ国以上の50万人を超えるジャーナリストを代表しているものです。
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原文: IFJ Says Killing of Politkovskaya an "Outrage That
Will Stun World Journalism"
URI: http://www.ifj.org/default.asp?Index=4280&Language=EN
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(引用終わり)
■■メールマガジン「PUBLICITY」No.1484 2006/10/15日■■
▼12日の緊急追悼集会に参加した読者数人から感想をいただいた。ありがたいことである。と同時に反省も。まず、「よかった」という人と、「物足りなかった」という人と、それぞれ一人ずつ、要約して紹介しよう。
竹山さん こんばんわ
昨夜の文京区民センターでの追悼集会に行ってきました。
長く取材してきて、アンナさんとも交流のあったジャーナリスト、林克明さん、稲垣収さんからのロシア、チェチェンの生々しい報告がありました。会場資料にはロシアの「暗殺年表」が記され、モスクワ劇場占拠事件や、ベスランの小学校占拠事件の話に、記憶を新たにしました。
ロシア政府はテレビを押さえることで人々をコントロールできると、主な3つのTV局を支配下におき、ベスラン事件の時にはあれほどの事件にもかかわらず通常番組の合間で少ししか報道しなかったそうです。
イズベスチアの編集長が、それをもって「ロシアの報道は死んだ」と書いたところ、翌日に解雇されたそうです。プーチンの強権政治はそこまでいっているのだといいます。
▼「物足りなかった」という人。
【↓の「388」の得丸さんの投稿につき省略】
この読者からは、ロシア滞在歴もある友人の感想も追記していただいた。
私個人としてはこういう事件は珍しくないので、さほど関心はありませんでした。日本で追悼集会が開かれるということは、それだけロシア(ソ連)という国の本質に気づきはじめた人が増えたということですね。
私がソ連で暮らしていた当時も、マフィアの取材に出かけた若い女性ジャーナリストが行方不明になり、その後遺体で発見されたとか、斬新な意見を述べて人気が出てきた政治家が次々と「自宅を出たところで射殺」、「不慮の交通事故で死亡」というケースが何度もありました。
その裏にはニュースとして表沙汰にはならないケースが数限りなくあります。真実を知ることと報道することの恐ろしさがどれほどのものかに気づく人が世界中に増えていけば、状況も少しは変わるのでは、と思うのですが。
今回の追悼集会は、ロシアに詳しい友人さんの書いているが、開かれたこと自体にまず価値がある。たくさんの団体が集まったこともよいことだろう。同時に、何かにつけて託(かこつ)けて、自分たちの運動の宣伝場にしてしまうというのは実によくあることで、イベントの本題で、突っ込んだ実のあるものが差し出されていれば、それでいいのではないかと思う。
▼上で紹介した、物足りなかったという読者が、集会に参加して春秋左氏伝の崔(さいちょ)の話を連想した、と書いていた。
覚えている読者もおられると思うが、本誌読者数が1500人超えた時(2003年5月)、623号で武田泰淳の「司馬遷伝」を引用した。それを、再録しておきたい。
史官は記録者である。唯一の記録者である。彼が筆を取らねば、こ の世の記録は残らない。そのかわり、書けば、万代までも、事実とし て、残るのである。
書くべきことと、書かなくても良いことを、定めるのが、彼の役目 である。書くべしと思い定めたことは、いかなる事があろうとも、書 かねばならぬ。天に代わり、人間を代表して記録するのであるから、 なまやさしき業ではない。
たとえば、「史記」の「斉太公世家」に記載された実例は、この業 のきびしさを、最もよくあらわしている。斉の崔杼(さいちょ)とい う権力者は、その君、荘公を殺した人である。それゆえ、斉の太史 は、「崔杼、荘公を弑(しい)す」と記録したのである。
そこで崔杼は、「けしからぬ奴かな」とこの太史を殺してしまっ た。すると、太史の弟が、また同一のことを記録したのである。そこ で崔杼は、この弟も殺してしまった。すると、その弟の弟が、また同 一のことを記録したのである。三度目には、さすがに崔杼も、記録者 を殺すことはしなかった、と伝えられている。三人の兄弟が、つぎつ ぎと、死をもって記録を守ったのである。
「記録」のきびしさは、つきつめればここに至る。
しかし、斉の太史によって示された、歴史家のきびしさは、いわば外に対するものであった。 書かせまいとする外の勢力に対して、争ってこれを書く場合であった。何を争うべきか、すでに定まっている、それを外に対して守ったのである。
しかし歴史家のきびしさは、もっとほかの点にもある。つまり内に対して、量り知れぬ、きびしさが必要なのである。内に対するきびしさとは、思慮の深さ、思索の広さである。記録はもとより守らねばならぬ。しかしその前に外に対して守るべきもの、死をもって記録すべきも
の、それをまず決定せねばならぬ。深き思慮と、広き思索とによって、内に対して、きびしく、これを求めなければならない。
武田泰淳「司馬遷伝」
『武田泰淳 ちくま日本文学全集』P420-1
1992/10/28第一刷
「内に対するきびしさ」=思慮の深さ、思索の広さを鍛える視点って、忘れやすい。
▼武田泰淳は「内に対して、量り知れぬ、きびしさが必要なのである」と書いた。そのきびしさによって「何を争うべきか、すでに定まっ」たものを、外に対して守るのみである、と。
■■メールマガジン「PUBLICITY」No.1485 2006/10/16月■■
▼12日の追悼集会で配られた「暗殺年表」を添付してくれた読者がいる(前号の1番目の方)。 こういうその場でしか配られない資料ってのがけっこう貴重なんですよ。ものによってはウェブなどで引っかけられる場合もあるが、手許にある、ってのが断然重要だ。
正式な表題は「プーチン以後のロシア 暗殺年表」。その一部を抜粋する。プーチン大統領が誕生してから殺されたジャーナリストの一覧だ。
暗殺された記者のリスト
イゴール・ドムニコフ(42)
自宅アパートの建物の入口でハンマーで殴られ、2000年7月16日モスクワの病院で死亡。ノーヴァヤ・ガゼータ紙で文化・教育欄を担当。同紙の他の記者が石油産業の汚職を取材して脅迫を受けていたので、同じ棟に住むその記者と間違って襲われたのでは、と同僚は語っている。
セルゲイ・ノヴィコフ(36)
スモレンスクの独立系ラジオ局、ヴェスナのオーナー。2000年7月26日、自宅アパートのビルの入口で射殺される。ヴェスナは同地方行政部の汚職を非難する放送を数回していた。
イスカンダル・ハトロニ(46)
自由ヨーロッパ放送/ラジオ・リバティのモスクワ支局員でタジク語担当。2000年9月21日、アパートで何者かに斧で頭を叩き割られ、その夜、モスクワの病院で死亡。殺された時、彼はチェチェンにおけるロシア軍の人権弾圧についての記事を執筆していた。
セルゲイ・イヴァノフ(30)
ラダTVのディレクター。2000年10月3日、ボルガ川沿岸のトリャッティ市にある自宅アパートの中庭で複数の男たちに射殺される。ラダTVは同市で最大の独立系テレビで、同地域の政治に大きな影響力を持っていた。
アダム・テプスルガイエフ(24)
2000年11月21日、チェチェン語を話す男たちに太股と股間を銃で撃たれ、出血多量で死亡。チェチェンの首都グロズヌイに近いアルハン・カラ村で、隣人の家でテレビを見ていた。彼は第1次チェチェン戦争の間、外国人ジャーナリストの運転手、コーディネーターとして活動しており、その後、フリーランスとしてロイター通信社に寄稿していた。
エドアルド・マルケヴィッチ(29)
スヴェルドロフスク州レフチンスキー市の地方紙、ノーヴィ・レフトの編集・発行人。2001年9月18日に死体を発見された。同紙はしばしば地元の役人を批判しており、マルケヴィッチは脅迫電話を受けていた。1998年には謎の襲撃者たちが彼のアパートを強襲し、妊娠中の妻の前で彼を殴打するなどの暴行を加えていた。
ナタリヤ・スクリル(29)
ポリトコフスカヤ以外の唯一の女性。ロシア南西部の都市、ロストフ・ナ・ドンのナシャ・ヴレーミヤ紙の経済記者。冶金工場の権力闘争を取材していて、重い物によって何回も殴られ、翌日の2000年3月9日死亡。
ヴァレリー・イワーノフ(32)
2002年4月29日、頭部に8発の銃弾を撃ち込まれて死亡。トリャッティ市のトリャッティンスコエ・オボズレーニェ紙編集長(同市議会議員)。同紙は犯罪や政府の汚職に関する調査記事で有名だった。
アレクセイ・シドロフ(31)
イワーノフの友人で、同紙の後継者。2003年10月9日、アイスピックで胸を刺され死亡。イワーノフの殺人を調査していた。
ドミトリー・シュヴェツ(37)
ムルマンスク市のTV局、TV21の総ディレクター。2003年8月18日にTV局のビルの外で射殺。市長選など有力政治家についての報道について同局の記者たちは脅迫を受けていた。
ポール・クレブニコフ(41)
ロシア版フォーブス誌編集長。2004年7月9日、モスクワのオフィスの外で、走る車から銃撃され死亡。ロシア系アメリカ人の彼は、ロシアの新興財閥(オリガルヒ)に関する詳細な記事を掲載していた。
マゴメッドザギッド・ヴァリソフ
週刊ノーヴァヤ・ジェラの著名なジャーナリストで政治学者。2005年6月28日にダゲスタンの首都マハチカラで殺害。妻と運転手とともに帰宅途中の彼の車を襲撃者たちが自動小銃で銃撃。ヴァリソフは即死。彼は政敵を紙面でしばしば攻撃しており、脅迫電話を受けていた。
▼他にも、アンナ・ポリトコフスカヤの元上司で国会議員(野党のヤブコロ)だったユーリ・シチェコチヒンは、2003年7月3日に謎の食中毒で死亡。殺人事件としての捜査は全く行われなかったそうだ。
彼は第2次チェチェン戦争のきっかけとなったモスクワ連続アパート爆破事件に、治安機関が関与していたのではないか、という疑いを持って調査を進めていた。
(転載貼り付け終わり)
土井敏喜